<上下巻併せての評です>
「ファミリー・ヒストリー」というTV番組がある。著名人をスタジオに招き、スタッフが調査してきた何代かにわたる一家の歴史を語ってみせるのが売りだ。たしかに、父や母ならまだしも、祖父母の代以上になると、よほどの名家でもない限り、子孫は詳しくは知らない。よく見かける広告に「家系図作ります」というのがある。本人に代わって一家のルーツを調べ、家系図に書き記すというものだ。だが、一般人が家系などわざわざ調べたくなるものだろうか。
家のルーツなど知らなくても不自由はしない。ただし、自分が誰なのか分からないとしたら、これは別の話だ。もし、小さい頃子供用のトランクを下げて、太平洋航路の大きな客船が着く埠頭に独りでいたのを見つけた。それがあなただと言われたら、あなたは自分の本当の生い立ちを知りたくならないだろうか。名前はおろか生国さえ分からない、となればアイデンティティの危機である。
見つけられた少女は、そのまま発見者ヒューに引き取られ、ネルという名をつけてもらい、幸せな家族に囲まれて育つ。二十一歳の誕生パーティーの夜。ネルは真実を知らされる。今まで家族と思っていた人たちが自分とは血のつながりのない人だったと知り、ネルは少しずつ家族と距離を置きはじめる。やがて婚約者とも別れ、独立して暮らし始める。これが1930年。所はオーストラリアのブリスベン。
ここから話は一気に2005年に飛ぶ。いっしょに暮らしていたネルが死に、孫のカサンドラにコーンウォールの断崖の上に立つコテージが遺贈されたことを知らされる。孤独に暮らしていた祖母が何故英国に家を持っていたのか。それがどうして、自分に贈られるのか。その謎を突きとめるため、カサンドラはネルの遺品のトランクにあったお伽話の本を手に、イギリスに飛ぶ。その本を書いたイザベラ・メイクピースという名前を手掛かりに、ネルの本当の名前を探し出し、その生い立ちを知るために。
お伽話、貴族の大邸宅、迷路、秘密の庭、海賊の洞窟、蔦で覆われた海沿いのコテージ、とケイト・モートン偏愛のアイテムに囲まれて、一族の秘められた歴史を追うファミリー・プロット。祖母とその母に纏わる女たち四代にわたる歴史は、ヴィクトリア朝ロンドンを皮切りに、コーンウォール、オーストラリアと、時代とともに舞台を変え、場所の記憶や遺品への思いを転轍機代わりに、軽々と時空を超え、視点は移り変わり、目まぐるしく話は進んでゆく。
自分の出自や能力、容貌などによる劣等感が人間を捻じ曲げ、いびつなものに変えてゆく。そのために、自分の周りにある、純粋で真正なものを憎悪する。憎悪や悪意が、目に見えない網のように家族をからめ取り、傍目には裕福で優雅極まりない貴族階級の一家がやがて自壊し、没落する様がすさまじい。敵役であるブラックハースト邸の女当主レディ・マウントラチェットは、お伽話に出てくる悪い王妃そのままに謀略の限りをつくし、夫が愛した妹似の姪を苛めぬく。
一方、主人公の女たちは、へこたれない子(サバイバー)として描かれる。たった一人でロンドンからオーストラリア行きの船旅を乗り切ったネル。母がありながら、小さいときに祖母の家に預けられ、孤独に生きることに慣れたカサンドラ。貴族の娘に生まれながら、船乗りと駆け落ちした母のせいでロンドンの貧民窟で育ったイザベラ。誰もが家族との縁を断ち切られ、困難な状況に置かれても、自分の手で環境を切り拓いてゆく。抽象的な意味ではなく、自分の手を使って、庭を造り、家や家具を修理し、そこが自分の居場所(ホーム)だ、といえる場所にしてゆく。
題名が『秘密の花園』と似ている。それだけでなく、父が留守がちであったり、入ることを禁じられた塀で囲われた秘密の庭があったり、と設定の酷似することに怪訝な思いを抱くかもしれない。種明かしをすれば、当時『小公子』を発表したばかりのバーネットがマウントラチェット家で開かれるパーティーに招かれ、この家の庭を見たことが執筆動機となったように書かれている。作家だけでなく同時代の画家ジョン・シンガー・サージェントに、重要な手掛かりとなる肖像画を描かせるなど、工夫がうかがわれる。
イライザ自作のお伽話が、総ルビ付きで飾り枠に囲まれ、本文の間に挿入される。このお伽話がネルの生い立ちについての謎解きの手引きになっている。初読時にはただのお伽話にしか読めないが、すべてが明らかになってから再読すれば、いちいち合点がいく。初版本にあるという画家ナサニエル・ウォーカーによる挿絵のないのが残念だが、そこは想像力で補ってもらうしかない。ミステリ色は薄いが、その分『レベッカ』や『ジェイン・エア』、『嵐が丘』を思わせるゴシック・ロマンス風味がある。テムズ川沿いの貧民窟の場面など、ディケンズそのもの。作中に忍ばせた名作のパスティーシュ探しも文学好きにはたまらない。