marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『死を忘れるな』 ミュリエル・スパーク

死を忘れるな
ほとんどの登場人物が七十歳をこえている。こういう用語があるかどうかは知らないが、いうならば「老人」小説。わが国にも川端康成の『眠れる美女』や谷崎の『瘋癲老人日記』といった立派な老人小説が存在するが、ミュリエル・スパークのそれは、特異な性癖を持つ老人の行動や心理を描くというのではなく、イギリスのアッパー・ミドルに属する男女が、老いてからも続ける社交生活のなかで出合う結婚、恋愛につきものの嫉妬、裏切り、秘密といったあれこれを、お得意の底意地の悪いシニカルな視線であぶりだしてみせたもの。それに加えて、老齢からくる物忘れや神経衰弱、身体の不調、介護施設の扱い、遺産相続の揉め事、信仰心がからむ。英国小説であるから当然のことに階級の差からくる心的葛藤もモチーフの一つとなる。

誰が主人公とはっきりいえないくらい多くの人物が主要な役割を務めているが、中心に君臨するのは作家のチャーミアン。誰もが魅了される女性である。その夫がゴドフリー。妻が注目を集めるたびにプライドが傷つき、妻に意趣返しをしないではいられない俗物である。その妹がディム・レティー。事の起こりは、レティーのところに、不審な電話がかかってくることだ。その男は「死を忘れるな」と、告げる。いったい誰が何の目的でそんな電話をかけてくるのか。妹は兄の家を訪れ不安を漏らす。

一方、チャーミアンの古くからの話し相手兼メイドであったジーン・テイラーは今では老人施設に入所している。そこには昔の恋人で、身分違いゆえに結婚をあきらめたアレックがよく訪ねてくる。彼は「老年」について研究している素人社会学者。友人、知人を訪ねたり、人を雇って探らせた情報をカードに記入し、インデックスを作っている。テイラーは友人のチャーミアンの影響を受けてカトリックに入信した信仰心の厚い女性。レティーもよく彼女を訪ねては相談を持ちかけている。

脅迫めいた電話は、その後複数の関係者に次々とかかってくる。犯人は誰か、という興味で引っぱってゆき、次々と死者の数が増えるのだから、これは連続死を扱ったミステリ小説と見ることもできる。もっとも、何人もの死が続くのは単に登場人物が老人ばかりのせいで、殺されるのはその中のたった一人。しかも、その犯人は電話とは無関係ときている。登場人物の中で、知性もあり、周囲をよく観察しているテイラーとアレックがホームズとワトソン役だろう。テイラーの考えでは電話は神の声であり、アレック説は集団ヒステリーだ。いくらミステリのパロディとしても、この見解はふざけている。

社会階層で上の方に属する人々がもっぱら恋愛遊戯にうつつをぬかし、年老いた今になっても過去の出来事を気にして相手を憾んだり憎んだりしているのに比べ、階層の低い方はもっと露骨に金銭目的で犯罪をたくらむ。死んだライザ・ブルックの家政婦だったミセス・ベティグルーは、レティーに頼まれてチャーミアンの世話をすることになり、屋敷に入り込む。この女は名家の秘密を探り、それをネタに強請りをかけ、自分が相続人になるために遺書の書き換えを強要する悪党だ。

その意図を知ったテイラーは、リウマチで自らは動けない。好奇心の強いアレックを使って、チャーミアンの財産を守ろうとするが、それは親友の過去の罪を明らかにすることとなり、嫉妬による裏切りと見られる行為であった。世俗的には裏切り行為であっても、神の目から見れば友を救う慈悲による自己放棄の行為である。「死を忘れるな」の言葉通り、テイラーはそう遠くない死を前にして最善の行為をなす。しかし、どこまでも皮肉なミュリエル・スパークは、この世に善が行なわれることが、即人々を幸せになどしない、というあくまでも辛口な結末を用意している。

その意地の悪さに辟易しながらも、絶妙のタイミングで繰りだされるヒューモアについにんまりとさせられるのが、この作者ならでは。一つだけ挙げればチャーミアンのかつての恋人で批評家のガイと詩人のパーシーのアーネスト・ダウスンの評価をめぐるやりとりはなんとも微笑ましい。抗議をしにきた相手に抗議文を書く紙をわたしながら、「泊まっていけよ」と誘うところなんぞ「碁敵は憎さも憎し、懐かしし」という古川柳を思い出した。その後、『チャイルド・ハロルド』について話し合うために三週間滞在し続け、果ては『死を忘れるな』と題したシェイクスピア風のソネット一篇をものにした、というオチのつけ方など拍手喝采ものだ。

原題は『メメント・モリ」。いうまでもなくラテン語の警句で「死を忘れるな」の意。芸術作品のモチーフとしてよく使われる。昔の絵には、よく書斎の机の上に頭骸骨が置かれているが、あれがそうだ。もともとは、どうせ死ぬ身なのだから今を楽しめ、という意味で使われていたらしいが、キリスト教によって、生の空しさ、ひいては来世の希求、を表すようになった。アレックやテイラーにとっては後者の意味で、ミセス・ベティグルーにとっては前者の意味で使われているように見える。このダブル・ミーニングもまた、いかにもミュリエル・スパークらしい。