marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『私の名は紅』 オルハン・パムク

わたしの名は「紅」
『わたしの名は紅』って題名に「ゴレンジャーかい」とつっこみたくなった。章が変わるたびに、話者が交代し、話者の一人称視点で物語が語り継がれてゆく。表題の「紅」というのは、色の赤のことである。主題を担っている細密画に使われる塗料の色であることはもちろん、血の色でもあり、その他諸々のこの世にあるすべての赤を代表している。色が語り手?といいたい気持ちは分かる。しかし、色だけではない。金貨も犬も語り手になるし、悪魔だって一章を担当している。だいたい、死んでゆく人物が、今まさに死につつある状態を実況中継する。いわば何でもあり、なのだ。

かといって、これは寓話ではない。殺人者を追うミステリだし、子連れの寡婦をめぐる三角関係を描いた恋愛小説でもある。いやそれ以上に、ほとんど変化というものを知らなかったトルコの細密画というジャンルが、遠近法や肖像画という未知の技法や主題を有する西洋絵画と出会うことで起きたアイデンティティ・クライシスについての葛藤を、細密画師の口を借りて元画家志望の作家が詳細に論じた美術批評でもある。さらには、隣接する諸国家との絶えざる争いにより、最も強大な時には遠くヨーロッパまで版図を広げていったトルコという国の戦乱の歴史の概説であり、『千夜一夜物語』をなぞるように入れ子状に配された、細密画の挿絵の素材となる美男美女の悲恋やスルタンと寵姫の愛の物語でもある。

すっきりと、こんな小説と言い切ることが難しいのにはわけがある。ミステリを例に取れば、通常、視点は探偵側にある。読者は、視点人物である探偵の視点にそって語られる物語を読むことで、探偵側に感情移入しつつ物語の中に入ってゆく。近代絵画を例にとるなら、フーコーが『言葉と物』の冒頭、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を引いて論じているように、その絵が誰の目から見られたものなのかが問われなければならない。なぜなら、神が死んで以来、世界は人間の目で捉えられるものとしてわれわれの前に存在しているからだ。

イスラム教を奉じる16世紀のトルコでは、世界はアラーの目から見たように描かれねばならなかった。当時のトルコ人にとって、西洋絵画が発見した遠近法は、いわば犬の目の位置に視点を置いた画法であり、到底受け入れることのできない不遜な画法とされていた。そのトルコにあって、ヴェネツィア肖像画を見てきた高官エニシテにスルタンがひそかに命じ、新たな技法を駆使した細密画を描かせていることが、宗教的な過激派の間で問題になっていた。実際にその絵画制作に携わる細密画師が絵師仲間に不安を打ち明けたことが殺人を引き起こす発端となったのだ。

宗教的な異端審問に発する殺人事件を扱ったミステリとしては、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が有名だ。山間の修道院を舞台に、フランシスコ派の修道士とその弟子が連続殺人事件の謎を解くように、パムクの小説では、王宮の奥深くにある収蔵庫に籠もって、古写本の山のなかから手がかりとなる馬の絵を探すのは、細密画の名人オスマンと義父エニシテを殺されたカラの二人。トルコの細密画が、蒙古やペルシアの影響を受けながら今に至る変遷を様々な資料を挙げながら解説を加えるオスマンの話は、名人によるトルコ細密画史ともいうべきもので、圧巻である。

一方で、十二年前に結婚を申し込んで断られ、諸国を放浪し、様々な仕事に従事しながらもイスタンブルに戻ったカラと、エニシテの一人娘シェキュレとの結婚にいたるまでの経緯を描くサイド・ストーリーの方は、露骨な性愛描写を避けることなく、とことん通俗的に描かれる。というのも、章が変わるたびに視点が転換されることで、女の利己的な思惑がさらされてしまい、恋する男の視点から描かれる美しい恋人の像は、二人の子を持つ母の立場で結婚相手を誰にしようかと考える女の打算や二人の男から求愛されることへの快感をそのまま見せることにより、相対化される。

しかも、その間に、事件の犯人と疑われる秘密の細密画を描く絵師三人それぞれの細密画に対する考え方が、三つの挿話という形式で語られる。実は犯人は「人殺しと呼ぶだろう、俺のことを」というタイトルを冠した章において、何度も殺人のあらましについて語っている。読者は、名を明かしていない細密画師である犯人を、それぞれの考え方や論じ方を手がかりに、探しあてなければならない。これは、そういう論理パズルの側面も持つミステリなのだ。

それだけではない。手がかりとなる絵に描かれた馬だけでなく、犬やら死やら悪魔まで、一章を任された話者の御託に読者はつきあわねばならない。なぜなら、この小説自体が一枚の絵の中に人物だけでなく動物や小鳥、天使といった画像を稠密に配した細密画をなぞっているからだ。一人の人物の視点から世界を透視してゆくような、近代西欧的理知による見通しのいいパースペクティブを、この小説は付与されていない。近代西欧の発見による人間を主とするイデオロギーが主流になる以前のトルコを舞台にとるかぎり、それは当然のことである、と作者は考えたのだろう。アラーの前においては、馬も犬も人間も悪魔も何のかわりもない。すべては相対化されてしまう。

ふつうだったら主人公であるはずのカラをふくめて主たる登場人物に精彩がなく、かえってシェキュレと義弟ハッサン、カラの仲を取り持つ小間物屋の太ったユダヤエステルの方が生き生きと描かれているのは、彼女だけがイスラム世界から自由に生きているからかもしれない。少なくとも、作者はそう感じているだろうことは、読んでいてはっきり伝わってくる。このユダヤ女は、細密画の窮屈な世界にちんまりとおさまるには近代人的過ぎる。

オルハン・パムクを日本に紹介するに当たって訳者の果たした役割の大きさは評価されるべきだろう。ただし、読んでいる途中でくびをかしげたところは少なくない。おそらく原文に忠実な訳を意識されたのだろうが、日本語として読み辛い。幸い今は他の出版社から新訳が出ている。これから読む読者は、そちらを選択することも可能である。