marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第七章(3)

《彼女は美しい体をしていた。小さくしなやかで、硬く引き締まり、丸みをおびていた。肌はランプの光を浴び、かすかに真珠色の光沢を浮かべていた。脚はミセス・リーガンのようなけばけばしい優美さにはあと一歩及ばないが、とても素敵だった。私は後ろめたい思いや情欲に駆られることなしに、ざっと彼女に目を通した。そもそも彼女は裸の娘として部屋にいたのではない。ただの麻薬で頭のイカレた女としてだ。初めて会った時から私にとって彼女はイカレた女だった。》

深夜の室内で全裸の娘を前にしたマーロウの独白である。少し言い訳めいて聞こえるのは読者をおもんばかってのことだろうか。両氏の訳にさしたるちがいはない。私が「ランプ」としたところを、双葉氏が「電気スタンド」、村上氏が「フロア・スタンド」としているところに時代というものを感じるくらいか。ただ、双葉氏は三つある照明器具をすべて「電気スタンド」と訳しているのに対し、村上氏の方は、台座に載った物を「フロア・ライト」、床に置かれた一対の物を「フロア・スタンド」と訳している。原文は<the lamplight>だ。特定の照明器具の灯りと決めつけるのは、慎重な村上氏にしてはめずらしい。

娘の脚の美しさをリーガン夫人のそれと比較しているところ、原文は<Her legs didn’t quite have the raffish grace of Mrs. Regan’s legs, but they were very nice.>。双葉氏は「足はリーガン夫人ほど淫蕩的ななまめかしさはなかったが、すこぶる結構だった」、村上氏は「彼女の脚にはリーガン夫人のようなくだけた優雅さはなかったが、それなりに素敵だった」と訳している。<the raffish grace>だが、<raffish>には「いかがわしい、低俗な」という否定的な語義が、<grace>には「上品な、優雅な、しとやかさ」といった誉め言葉が並んでいる。

両極端に相反する言葉を強引にくっつけたところに、マーロウがリーガン夫人に抱く感情がほのめかされているのだろう。それを「淫蕩的ななまめかしさ」ととるか「くだけた優雅さ」ととるかでは、かなりの差が生じる。双葉氏のマーロウには、いかにも当時のハードボイルド探偵小説に登場する私立探偵の男っぽさが感じられるし、村上氏のマーロウには、折り目正しさのようなものが漂う。それは「すこぶる結構」と「それなりに素敵」にも表れている。私のマーロウは、その中間あたりの線をねらっているようだ。

最後の「麻薬で頭のイカレた女」と訳したところも、結構考えさせられた。ここは注意を要するところである。例によって原文を引く。<She was just a dope. To me she was always just a dope.>。<just a dope>が二度繰り返されている。双葉氏の訳「ただ麻薬中毒者として存在しているのだ。もっとも私にとって、彼女は、はじめて会ったときから麻薬みたいなものにすぎなかったが」。村上氏「そこにいるのは、麻薬で頭がどこかに飛んでいる一人の女に過ぎない。私にとって彼女は常に、頭がどこかに飛んでいる娘でしかなかった」。

原文のシンプルさに対して、両氏とも歯切れの悪い訳しぶりに思えるのには理由がある。実は<dope>には、一般的な「麻薬常用者」の意味の他に俗語表現として「愚か者」に類する人を貶めて言う類語が並ぶ。つまり、チャンドラーは、はじめの<just a dope>に通常の意味の「麻薬常用者」を、二度目のそれに俗語の「愚か者」の意味をあてて書いたのだ。わざと同じ表現が繰り返されたなら、その二つの間にはズレがあると考えるのは常識だ。しかし、日本語で、二つの意味を兼ね備える単語はなかなか思いつかない。それで、両氏も苦労したのだろう。

双葉氏の方は、あっさりと「麻薬みたいなもの」と逃げているが、「麻薬みたいなもの」では、カーメン嬢のぶっ飛んだキャラクターの説明にはなっていない。律儀な村上氏は「頭がどこかに飛んでいる」という説明を加えることで、二つの言葉に共通する「心神喪失」の語義を表すことに成功している。ただし、いつものことながら回りくどく感じられることは否めない。「頭がどこかに飛んでいる」女という表現は、一般的には使用されない、ここだけの言葉になってしまっている。それでは<dope>という通常日常的に使用されている言葉の訳語としては適当とはいえない。「イカレた」なら、日本語として古くはなっているが、まだ賞味期限は切れていないと思うのだが。