marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第七章(4)

《私は彼女を見るのをやめてガイガーを見た。彼は中国緞通の縁の向こうに、仰向けに倒れていた。トーテムポールのような物の前だ。鷲のような横顔の、大きな丸い眼がカメラのレンズになっていた。レンズは椅子の上の裸の娘に向けられていた。トーテムポールの横には、黒くなった閃光電球がクリップで留められていた。ガイガーは厚いフェルト底の中国のスリッパを履き、黒い繻子のパジャマのズボンの上に中国刺繍のついた上着を羽織っていた。その前面の大部分が血に染まっていた。ガラスの義眼が明るく輝いて私を見上げていた。彼のなかで飛び切り生き生きしているところだ。一目見て、私が聞いた三発の銃声に外れがないのが分かった。彼は完全に死んでいた。》

このパラグラフは易しい。両氏の訳にもほとんどちがいはない。日本語の文章としての表現に差があるだけだ。解釈にちがいがあるのは一つだけだ。<beyond the fringe of the Chinese rug>の<fringe>を、双葉氏は「飾り房の向こう」の意味にとっているが、村上氏は「敷物の外側に」と、「外辺」の意味を採用している。我が家に敷いてあるラグには長い房飾りがついているが、ガイガーのラグはどうなのだろう。どうも、このラグには苦労させられる。「縁の向こう」という曖昧な訳で逃げることにした。これなら、どちらの意味でも通用するだろう。

「閃光電球」と訳したところ、原文は<flash bulb>。双葉氏はそのまま「フラッシュ・バルブ」。村上氏は「フラッシュ・ライト」としている。片仮名を使用するなら「フラッシュ・バルブ」で問題ないと思うのになぜだろうか、と疑問に思い、試しに検索をかけてみた。すると、面白いことが分かった。片仮名にすると同じでも、英語では別のスペルを持つ「フラッシュ・バルブ」<Flush valve>があったのだ。それも、何と写真付きで。写真に写っているのは水洗便器。取っ手を押すと一定時間水が流れて自動で止まる、あの装置のことを「フラッシュ・バルブ」と呼ぶらしい。

なるほど、これは具合が悪い。そこで「フラッシュ・ライト」の出番となったわけだ。ところが、この「フラッシュ・ライト」という言葉、もともと「懐中電灯」を指す言葉で、日本では、特に強い明るさを持つ、棒状の懐中電灯のことをそう呼んでいるらしい。せっかくの言い換えが、また別の物を指す言葉になってしまっては何の意味もない。分かりやすさからいうと、あまり分かりやすいとはいえないが、辞書にある「閃光電球」をそのまま使うことにした。

<His glass eye shone brightly up at me and was by far the most life-like thing about him.>。双葉氏は、「ガラスの目玉は、ぴかぴかと私を見上げていた。それだけが生きている感じだった」と訳している。村上氏は「ガラスの義眼はきらきら光りながら私を見上げていたが、今となってはそれが、彼の中では最も生命を感じさせる部分になっていた」だ。意味としてはどちらも似たようなものだが、<by far>の扱いが忘れられているように思う。最上級をより強調して「遥かに」とか、くだけて言うなら「断トツに」とか訳せる強意が込められているはずなのに、どちらの訳も無視しているように思える。生命がそこから抜け出てしまったガイガーの身体の中で唯一生前と変わらぬ姿をとどめているガラスの義眼。「彼のなかで飛び切り生き生きしているところ」と訳してみた。

「一目見て、私が聞いた三発の銃声に外れがないのが分かった」は、原文は<At a glance none of the three shots I heard had missed.>。ここを双葉氏は「一目見て、私が聞いた三発の銃声は、みんな命中しているのがわかった」。村上氏は「一見したところ、私が銃声を聞いた三発の弾は、どれも的を外さなかったようだ」だ。両氏とも同じことを言っているようだが、微妙にちがう。<none of〜 missed>で、「一つのミスもなかった」という意味になる。意味としては同じでも、「命中した」と訳すとニュアンスが変わってくる。村上氏は「外す」という否定的な意味のある語を使って、それを再度否定する。そうすることで肯定的な意味が強まるからだ。

ただ、<At a glance>を「一見したところ」と訳したことで、「ようだ」という婉曲な断定を意味する助動詞を引き出してしまった。せっかくの強めを割り引いているのが惜しい。なぜなら、その後に続くのが、<He was very dead.>という文だからだ。「彼は完全に死んでいた」という訳は双葉氏と同じ。村上氏も「彼は見事なまでに死んでいた」という最大級の表現を使ってガイガーの死に様を称揚している。そこまでいうなら、語尾に曖昧さを感じさせる「ようだ」は不要だろう。