marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第五章(3)

《そのとき、家の裏側からいろいろな種類のものがぶつかる音がした。椅子が後ろに倒れたような音、勢いあまって引き抜かれた机の抽斗が床に落ちる音。何かを手探りし、物と物がぶつかり合い、何事かぼそぼそと呟くだみ声がした。やがて、鍵の開く鈍い音がし、トランクの蓋が持ち上がる軋み音が聞こえた。さらに何かを探し回る音とどすんばたんという音。トレイが床に落ちた。私はダヴェンポートから身を起こし、食堂に忍び込み、短い廊下に出た。そして開いたドアの隙間から中を見回した。
 女はふらつきながらトランクの前にいた。中に入っていた何かをひっつかもうとして、額にかかった髪を煩わしそうに後ろへかき上げた。自分で思った以上に酔っていた。身をかがめ、トランクの上で体を支え、咳払いをしてため息をついた。そして太い膝を折り、両手をトランクの中に突っ込んで手探りした。
 おぼつかない手つきで上げられた両手には何か握られていた。色褪せたピンクのテープで括られた分厚い紙の束だ。女はのろのろと不器用な手つきでテープを解いた。束の中から一通の封筒を抜き出すと、もう一度前にかがみ込み、トランクの右手の見えないところに封筒を突っこんだ。そして、ぎこちない手つきでテープを縛り直した。
 私はこっそりと引き返し、ダヴェンポートに腰をおろした。ぜいぜいと荒い息をして、居間に戻った女は、ふらつきながら出入り口に立った。手にはテープで括られた束があった。
 女は勝ち誇ったように私に白い歯を見せると、束を投げてよこした。それは私の足下近くに落ちた。女はよたよたと揺り椅子に戻って腰をおろし、ウィスキーに手を伸ばした。
 私は床の上から束をつまみ上げ、色褪せたピンクのテープを解いた。
「それに目を通すことだね」女はうなるように言った。「写真、新聞用のスティル写真さ。あの手の渡り者は警察の厄介にでもならなけりゃ、写真は載らないけどね。そこにいるのが酒場にいた連中だよ。あの厄介者が残していったのはそれだけ。後は古着くらいのものさ」
 私は光沢のある写真の束をぱらぱらとめくった。男と女が職業的なポーズを決めている。男たちは鋭く抜け目のない顔をして競馬場用の服装か、さもなければ風変わりな道化めいた扮装をしていた。ドサ回りのタップ・ダンサーやコメディアンだ。メイン・ストリートの西側で稼いだ者は少ないだろう。この連中を見物できるのは、しがない町のミュージック・ホールが通り相場、でなきゃ場末の安っぽいストリップ小屋の取り締まりすれすれの卑猥なショーだ。時にやり過ぎて警察の手入れを受け、派手な裁判沙汰になることもあるが、すぐにショーに戻って来る。薄ら笑いを浮かべ、怖気を震わせるほど不潔で、ひどく饐えた汗の臭いをさせながら。美しい脚を持つ女たちは、映画では許されないほど大胆に内股の曲線美を見せびらかしていた。しかし、顔ときたら簿記係の事務服同様くたびれている。金髪、黒髪、その中には、田舎の鈍い雌牛のような大きな眼、食い意地の張ったハリネズミのような小さな鋭い眼もいる。ひとつふたつの顔は明らかに性悪だった。赤毛のように見えるのも多少あったが、白黒写真でははっきりしたことは言えない。私はとくに興味も持たずにひととおり目を通すと、もとのようにテープで括った。
「どれも知らない顔ばかりだ」私は言った。「どうして、私にこんな物を見せるんだ?」
 女は右手で揺れる瓶と格闘しながら、私に横目をくれた。「ヴェルマを探してるんじゃないのかい?」
「この中にいるのか?」
女の顔に色濃く出ていた狡猾さが、興味を失ったのか、どこかへ行ってしまった。「あの娘の写真をもらわなかったのかい?──親戚から」
 女が引っかかっていたのはそれだった。どんな娘でも家のどこかに写真の一枚くらい残しているものだ。たとえそれが短いドレスを着て、髪にリボンを結んだものであっても。私としたことが、それに思い及ばなかったとは。
「あんたのことが、また好きでなくなってきたよ」女はほとんど静かな口調で言った。
 私はグラスを手に立ち上がり、女の傍に行き、テーブルの端に置いた。
「瓶を空にする前に、私にも一杯注いでくれ」
 女がグラスを手に取るや、私は身をひるがえし、速足で方形のアーチを抜けて台所に入った。廊下を通り、散らかった寝室に入ると、トランクの蓋が開けっ放しになり、トレイが放り出されていた。私の後ろで声がした。私はトランクの右側に手を突っ込むと、封筒を探し出し、素早く引っ張り出した。
 私が居間に戻ったとき、女は椅子から立ち上がっていたが、二、三歩しか足を進めていなかった。狂人のように虚ろな目つきだった。人を殺しかねない虚ろさだった。》

「女はふらつきながらトランクの前にいた」は<She was in there swaying in front of the trunk,>。どこにも座ったとは書いていない。ところが、清水氏は「彼女はトランクの前に坐って」と、女を座らせてしまっている。後になって膝をつくところで「坐り込むと」と、描き分けているが、ちと苦しい。村上氏は「彼女はトランクの前で身体をゆすりながら」と訳している。

「色褪せたピンクのテープで括られた分厚い紙の束だ」は<A thick package tied with faded pink tape.>。この<package>を清水氏は「写真の束」、村上氏は「分厚い包み」と訳している。この時点で、清水氏のように「写真」とバラしてしまうのは、やりすぎではないだろうか。また、<package>には、確かに「包み」という訳語が辞書にあるが、紐で括られただけのものを「包み」と呼ぶのは、少し抵抗がある。

「この連中を見物できるのは、しがない町のミュージック・ホールが通り相場、でなきゃ場末の安っぽいストリップ小屋の取り締まりすれすれの卑猥なショーだ」は、少し長いが<You would find them in tanktown vaudeville acts, cleaned up, or down in the cheap burlesque houses, as dirty as the law allowed>。

清水氏は「場末の寄席やストリップ劇場に出ている連中ばかりで、そのストリップ劇場も、おそらく、取締りにぎりぎり(傍点四字)のショウで」と訳している。村上氏は「彼らの仕事の場は、しょぼくれた町のヴォードヴィル・ショーや、露天の市や、あるいは場末のストリップ小屋だ。法律が許すすれすれにいかがわしい小屋で」と訳している。気になるのは「露天の市」と訳した<cleaned up>だ。

辞書をいくら引いても<cleaned up>にそういう意味は出てこない。<clean up>を使ったイディオムに「行いを改める」という意味の<clean up one's act>というのがある。カンマの前にある<act>(舞台、ショー)に引っ掛けて、後に出てくる「法律が許すすれすれにいかがわしい小屋」と対比して、<clean up one's act>(行いを改める)を使ったのではないだろうか、と考えたが自信はない。

「映画では許されないほど大胆に」は<more than Will Hays would have liked.>。清水氏は「映画だったら許可にならないほど」。村上氏は「風紀委員会がいきりたちそうなほど」といずれも意訳している。この<Will Hays>という人物が分からないと訳し様がないからだ。このヘイズ氏が、アメリカ映画における検閲制度でいうところの、あのヘイズ・コードの名の由来になった人物である。当時ならまだしも、今の時代に「ウィル・ヘイズが好むであろう以上に」と訳しても多分意味が通じない。

「食い意地の張ったハリネズミのような小さな鋭い眼もいる」は<Small sharp eyes with urchin greed in them.>。清水氏は「雉の眼のようなにぶい瞳」と訳している。<urchin>は「ハリネズミ、ウニ」ではあっても「雉」ではない。村上氏は「小さな鋭い目には、ハリネズミ顔負けの強欲さが宿っている」と訳しているが、いったいどこからハリネズミ強欲説を引っ張り出してきたのだろう。そんな言い伝えでもあるのだろうか。

「女の顔に色濃く出ていた狡猾さが、興味を失ったのか、どこかへ行ってしまった」は<Thick cunning played on her face, had no fun there and went somewhere else.>。清水氏はここを「彼女の瞳がずるそうに光った」と訳している。それでは意味が変わってしまうだろうに。村上氏は「食いつくような狡猾さが彼女の顔に浮かんだ。しかし食い応えがなかったのか、そのままどこかに去っていった」と訳している。

マーロウがヴェルマの顔を知っているのかどうかを、女はずっと計りかねていたのだろう。それが、マーロウの不用意な質問で腑に落ちた、ということではないのか。問題はこの後の「写真はもらっていないのか」という女の問いに、マーロウが「もらってない」と答える場面だ。両氏の訳にはそれがあるのだが、私の参照しているテクストに、マーロウの返事はない。両氏の参照しているテクストと私のそれが異なるのだろうか。

<That troubled her.>を清水氏は、その前の「もらって来ない」に続けて「この答えは彼女の気に入らなかった」と訳している。村上氏は「もらわなかった」に続けて「その答えは彼女の気に入らなかったようだ」と、ほぼ旧訳に忠実な訳になっている。私の場合、マーロウは無言なので「女が引っかかっていたのはそれだった」と訳している。<that>をマーロウの答えと取るのではなく、マーロウが「写真」を持っていないこと、と取ったのだ。これで十分意味は通じる。マーロウは本当に女に答えたのだろうか?

「トランクの蓋が開けっ放しになり、トレイが放り出されていた」は<the open trunk and the spilled tray.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「トランクが開けっ放しになり、トレイに載っていたものが飛び散っていた」と訳しているが、<the spilled tray>を「
トレイに載っていたものが飛び散っていた」と訳すのは無理がある。

「狂人のように虚ろな目つきだった。人を殺しかねない虚ろさだった」は<Her eyes had a peculiar glassiness. A murderous glassiness.>。清水氏は「ガラスのような気味の悪い眼で、私を見つめていた」と訳している。村上氏は「目には妙にどろんとしたよどみがあった。人を殺しかねないようなよどみだ」と訳している。<glassiness>には「ガラスのような」も「どんよりしている(こと)」も「生気のない(こと)」も辞書にあるので、どれを採るかということだが、「人を殺しかねないようなよどみ」というのが、どういうものなのか、よく分からない。