石ノ森章太郎が「COM」に連載していた『ジュン』をはじめとして、画面上に異様に大きな月を掲げる映像表現は多々ある。ルナティックとは狂気のことで、月の大きさはファンタジー色の濃さに比例する。だが、これはその比ではない。なにしろ、比喩でなく手を伸ばせば月に手が届くのだ。月の引力で潮が満ちた満月の夜、人は船を出す。脚榻(きゃたつ)に乗り、思いっきり手を伸ばして月にしがみつくと、月の引力圏に入って月の上に降り立つことができる。月が地球からこんなにも遠く離れる遥か以前の物語である。
巻頭の「月の距離」には、その昔、月に一度満月の夜に月に渡ってミルクを採取する人々の物語が語られる。月と地球が近かったころ、その引力に引かれて地球から月に引きつけられた物質が月上で醗酵し、チーズのようなものになる。それを掬い取るために人は月に降り立った。そんな話を語るのはQfwfqという名の語り手である。見てきたように嘘をつくという言葉があるが、Qfwfqは本当にその場にいたという。
それだけではない。船長夫人に愛される耳の聞こえない従弟を嫉妬した。月に魅せられた男と、その男を慕う女。そしてその女を恋い慕うもう一人の男が織りなす、一人の女を巡る二人の男の三角関係を描いたありふれたメロドラマ、のはずなのだが、何しろ舞台が月の上だ。一度月に行ってしまって、タイミングを逃すと次の満月まで地上に帰れない。しかも、その間にも月と地上は離れつつあった。
ありえない世界をさもありそうに子細にリアルに描くのはイタロ・カルヴィーノの最も得意とするところ。『見えない都市』で見せたハイパー・リアルな情景描写が思い起こされる。これで一気に引き込まれ、期待に胸をわくわくさせながら次の作品に移る。というのもこれは連作短篇小説集なのだ。舞台は、ミクロコスモスからマクロコスモスまで、望遠鏡や顕微鏡のつまみを回すように、一作ごと自在に変化する。
各章の巻頭にはエピグラフが付される。科学書から引用した科学的な事実の断片である。それを受けて語り出すのがQfwfqという名の爺さん。太陽系がその姿を現すずっと以前から、宇宙のどこかに何らかの形で存在していた不可知な実体。ある時は恐竜、またある時は両棲類。それくらいなら感情移入も可能だが、感情など持たない「もの」に寄り添って、この世界が生成変化する場面を目撃し証言する。要は『ほら吹き男爵の冒険』の宇宙版。
普通ならありえない設定で、まことしやかに飄々と物語世界を闊歩するのがカルヴィーノの作品世界の住人だ。『まっぷたつの子爵』しかり、『不在の騎士』しかり。今度はスケールが違う。宇宙の創世期から理論物理学が想定するミクロコスモスの世界まで縦横無尽に語り尽す。マーカス・デュ・ソートイ著『知の果てへの旅』の愛読者なら喜びそうな、科学的知識の啓蒙書の雰囲気も併せ持つ、物語調で書かれた宇宙の創世記である。
とはいえ、科学に疎い読者には、そうそうは易々と中に入り込めないものもあり、紹介するのは、こちらの好みに合ったものに限らせてもらう。読者によって好みの異なることはあらかじめ言っておきたい。全十二篇中、ここで取り上げるのは巻頭の「月の距離」を含む「水に生きる叔父」、「恐竜族」、「空間の形」の四篇。共通するのは、濃密な情景描写、物語性、男女の三角関係、失われたものへの哀惜感といったところだろうか。
進化の過程で水辺から離れたところで暮らすQfwfqには変わり者の大叔父がいて、いまだに水中から出ることを拒み続けている。一年に一度は叔父を訪ねるのがこの家族のならいで、Qfwfqはご機嫌伺いに出かけるが、大叔父の態度はいつもと変わらず素っ気ない。Qfwfqはこの変わり者の大叔父に許嫁を紹介することをためらうが、案に相違して二人は意気投合。最後には許嫁はQfwfqのもとを離れ、水中で大叔父と暮らすことを選ぶ。時代の推移に取り残されながら、それを肯んじ得ない者を描く「水に生きる叔父」は、次の「恐竜族」とも主題を共有する。
「恐竜族」は、すでに恐竜の時代を過ぎ、新世代の生物は恐竜という存在を忘れ果てている。Qfwfqはその忘れられた恐竜の最後の生き残り。ひょんなことから新世代の生物と暮らし始めるが、いつ自分が恐竜であることを知られるか不安で仕方がない。そんな時、一人の女を好きになり、付き合い始めるが、新しい女との出会いが話者の心をゆすぶる。時代に適応できない人物の心の揺れを恐竜に託して語る物語である。
「空間の形」は話者がQfwfqであると明記されない。実際、これは誰なんだろう。なぞなぞめいた話で、ヒントばかりがたくさん書かれるが、解答は明示されない。他の物語群とは一線を画し、宇宙とも時間とも距離を置いている。どうやら、文字を紙の上に記す過程を主題にしていることは分かるのだが、主人公である私と、その恋するウルスラH’xと、ライヴァルであるフェニモア中尉が何を意味しているのかがまったく分からない。
私見では万年筆のような筆記具が関連しているように思えるのだが、今のところ絶対ではない。そもそも寓話を意図していないという意味で、何が何を表すというような読解は不要なのだ。ではあるが、微妙に官能的な描写を読む読者には、これが何を描いているのか知りたくなるのは作者はすでに承知。であれば、それを読み解こうと再読はおろか、何度でも読み返し、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。読書の喜びこれにつきるものなし。
宇宙を舞台に、現実にはあり得ない世界を描いているという点ではSFのジャンルに入るのだろうが、どことなく収まりが悪い。騎士道小説の枠を借りながら、そのジャンルそのものを批判しているセルバンテスの『ドン・キホーテ』さながら、作家と自らが描いている世界との距離感が遠いのだ。先端的な科学知識も無限大に引き伸ばされた時間軸の上では、先史時代のそれと何ら変わりがない。そういう冷めた知性がどこかほの見える。それでいて、対象への愛も強く感じられるのは、喪われたものへ向けられた哀惜ゆえだろうか。