marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(1)

18-1

【訳文】

《海に近く、大気中に海の気配が感じられるのに、目の前に海は見えなかった。アスター・ドライブはその辺りに長くなだらかなカーブを描いていた。内陸側の家もそこそこ立派な建物だったが、渓谷側には巨大な物言わぬ邸宅が建ち並んでいた。高さ十二フィートの壁、彫刻が施された錬鉄製の門扉、観賞用生垣。そして、もし中に入ることができたなら、上流階級だけのために、防音コンテナに詰められて荷揚げされた、とても静かな特別の銘柄の陽光が待っている。
 濃紺のロシア風チュニックに身を包み、フレアの入った膝丈のズボンに黒光りする革脚絆をつけた男が、半開きの門の後ろに立っていた。浅黒い顔の美青年だった。広い肩幅、輝く艶やかな髪、粋な帽子の鍔が眼の上に柔らかな影を作っていた。口の端に煙草を咥え、首を少し傾げていた。まるで煙から鼻を守るかのように。片手に滑らかな黒革の長手袋をはめ、もう一方はむき出しだった。重そうな指輪が中指に嵌められていた。
 見たところ表示はなかったが、ここが八六二番地にちがいない。車を停め、身を乗り出して男に尋ねた。返事がかえってくるのにかなり時間がかかった。相手は私を子細に検分する必要があった。それから私が運転する車も。こちらにやってくるとき、手袋をしてない手をさりげなく尻の方にまわした。注意を引きたいのが見え見えのさりげなさだった。
 車から二歩ばかり離れたところに立ち止まって、もう一度こちらを眺めまわした。
「グレイル家を探しているんだが」私は言った。
「ここがそうだ。今は留守だが」
「呼ばれているんだ」
 男はうなずいた。眼が水のようにきらめいた。
「名前は?」
フィリップ・マーロウ
「そこで待て」彼は急ぐこともなくぶらぶら門まで歩き、がっしりした柱についた鉄の門扉の鍵をあけた。中に電話があった。一言二言それに話しかけ、扉をばたんと閉め、戻ってきた。
「身分を証明するものがいる」
 ステアリング・ポストに付けた車検証を見せた。
「そんな物は何の証明にもならない」彼は言った。「これがあんたの車だとどうして分かる?」
 私はイグニッション・キーを抜き、ドアをさっと開けて外に出た。そうすることで男との距離が縮まった。その息はいい匂いがした。安く見積もってもヘイグ&ヘイグだ。
「また一杯ひっかけたな」 
 彼は微笑んだ。眼が私を値踏みしていた。私は言った。
「どうだろう、電話で執事と話をさせてくれないか? 私の声を覚えているはずだ。そこを通してくれるかな、それとも君が音を上げるまでやり合わなければいけないのか?」
「俺はただ仕事をしてるだけだ」彼はおだやかに言った。「もし、そうじゃなかったら―」後の言葉は宙に浮いたままにして、微笑み続けた。
「いい子だ」私はそう言って相手の肩を叩いた。「ダートマス出身、それともダンネモーラかな?」
「何なんだ」彼は言った。「どうして警官だって言わないんだ?」
 顔を見合わせてにやりとした。彼は手を振り、私は半分開いた門から入った。屋敷への道はカーブを描き、高い暗緑色の刈り込まれた生垣で、通りからも屋敷からも完全に遮断されていた。緑の門を抜けると日本人庭師が広い芝生で雑草をとっていた。広大な天鵞絨の中から一つかみの雑草を引き抜いていた。いかにも日本人庭師らしい薄ら笑いを浮かべながら。それから再び丈高い生け垣が視界を妨げ、百フィート以上何も見えなくなってしまった。生け垣が尽きるところは広いロータリーになっていて、車が六台停まっていた。
 うち一台は小さなクーペだった。とても素敵な最新型のツートンのビュイックが二台。郵便物を取りに行くのにお誂え向きだ。鈍いニッケル製のルーバーと自転車の車輪ほどの大きさのハブキャップがついた黒いリムジンが一台。幌を下ろした長いフェートン型スポーツもいた。短く幅の広いコンクリートでできた全天候型の車寄せが、そこから屋敷の通用口に通じていた。
 左手、駐車スペースの向こうは半地下庭園になっていて、四隅に噴水が設けられている。入り口は錬鉄製の門扉で閉ざされ、その中央にキューピッドが宙を舞っていた。細い柱の上に胸像が載り、石の椅子の両脇にグリフィンがうずくまっていた。楕円形をした石造りのプールの中にある水連の一葉に大きな石の牛蛙が座っていた。さらに遠くに薔薇の柱廊が祭壇のようなものに続いていた。祭壇の階段に沿って両側の生垣から漏れた太陽がまばらな唐草模様を描いていた。そして、左手はるか向こうは風景式庭園になっていた。さして広いものではない。廃墟を模して建てられた壁の一隅に日時計があった。そこに花が咲いていた。無数の花々が。
 屋敷そのものはそれほどでもなかった。バッキンガム宮殿よりは小さく、カリフォルニアにしては地味過ぎ、そして多分窓の数はクライスラー・ビルディングより少なかった。
 私は通用口からこっそり入り、呼び鈴を押した。どこかで一組の鐘が教会の鐘のように深く揺蕩うような響きをたてた。》

【解説】

「観賞用生垣」としたのは<ornamental hedges>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「装飾的に刈り揃えられた生け垣」である。トピアリーの一種だが、厚みのある壁状に仕立てられた生け垣と思われる。

「フレアの入った膝丈のズボン」は<flaring breeches>。清水氏はここもカット。村上訳は「ひだのついたズボン」この時代の運転手の服装らしく、他のチャンドラー作品にも登場している。膝から下に「黒光りする革脚絆」をつけている。原文は<shiny black puttees>である。清水訳は「ピカピカ光る黒い革ゲートル」。ところが、村上訳は「艶やかなブルーの巻きゲートル」となっている。チュニックの色に合わせたのか、それとも単なるまちがいか。以前にも書いたが、わざわざ<shiny>としていることからも分かるように、この<puttees>はバックル止めの革ゲートルではないかと思われる。

「粋な帽子の鍔が眼の上に柔らかな影を作っていた」は<the peak on his rakish cap made a soft shadow over his eyes>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「粋な帽子の先端が両目に柔らかな影をつくっている」だが、「帽子の先端」というのはどの部分を指すのか分かりにくい。<cap>とある以上<peak>は「つば」であることをはっきりさせたい。

「返事がかえってくるのにかなり時間がかかった」は<It took him a long time to answer>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「返事が戻ってくるまでにけっこうな時間がかかった」だ。その後の「相手は私を子細に検分する必要があった。それから私が運転する車も」のところも、清水氏は「彼は私の姿をじろじろ眺めながら」とあっさりまとめてしまっている。村上氏は「彼はその前に私を子細に点検しなくてはならなかった。それからまた私が乗っている車も」と訳している。

「眼が水のようにきらめいた」は<His eyes gleamed like water>。清水氏はここもカット。村上氏は「目が水のようにきらりと光った」と訳している。

「ステアリング・ポストに付けた車検証を見せた」は<I let him look at the license on the steering post>。清水氏は「私は自動車の免許証を見せた」と訳しているが、「免許証」なら身分証明ができそうなものだ。相手が「君の自動車じゃないかもしれない」と言ってるのだから見せたのは「車検証」だろう。村上訳は「ステアリング・コラムについている許可証を見せてやった」だ。「許可証」というのは無難な訳だが、何の許可証なのかが分からない。これなら「ライセンス」とカナ書きにするのと何も変わらない。

「また一杯ひっかけてたな」は<You've been at the sideboy again>。清水氏は「飲んでるね」と訳している。<sideboy>は酒などを入れておくサイドボードのことだ。男が酒の匂いをさせていることに対する軽いジャブだろう。ところが、村上氏は「門番仕事は楽しいかい」と訳している。兵が二列向かい合わせになって上官を迎える儀式があり、その兵のことを<sideboy>という。村上氏はこの訳をとったのかもしれない。しかし、<sideboy>には<drinks cabinet>の意味がある。酒類を入れるロウ・キャビネットのことだ。マーロウは、こちらの意味で言ったと考える方が当を得ている。

「それとも君が音を上げるまでやり合わなければいけないのか」は<do I have to ride on your back>。清水訳は「君を殴りとばしてからでなければ、入れないのかね」と、いささか乱暴な物言いだ。村上氏はといえば「それとも君の背中におぶさって行かなくちゃならないのか」と、<ride on your back>を字義通り「おんぶ」と解釈している。

実は<ride someone’s back>は「何かを達成するために、頻繁に、絶えず嫌がらせをする、悩む、または率直に言うこと」を意味するイディオムである。清水訳は「嫌がらせ」の最大級を採用して「殴りとばす」と訳したのだろう。「船乗りシンドバッドの冒険」の中に出てくる、一度とりついたら絶対背中から下りないで、相手を意のままに操る「海の老人」を思い出すと「おんぶ」の厄介さが理解できるかもしれない。

「いい子だ」は<You're a nice lad>。清水氏はここを「ぼくは探偵なんだ」と作文して、後に続く<Dartmouth or Dannemora?>を訳していない。ダートマスは大学で有名だが、ダンネモーラは凶悪犯罪者ばかりが収監されているクリントン刑務所のあるところだ。訳注なしでは分からないとみて、適当に作文したのだろう。村上氏は「まあそうつっぱるな」と訳している。言い淀んだ言葉の後に何が来ると思ったのだろう。微笑み続けているところから見て、若者が言いたかったのは「仕事でなけりゃさっさと通してるよ」ではないかと思うのだが。村上氏の解釈では「ただじゃ置かない」とでも言いそうに思える。

「郵便物を取りに行くのにお誂え向きだ」は<good enough to go for the mail in>。清水氏はここを「郵便物を入れるのに十分なほど大きい」と訳している。原文をどう読んでみても、郵便物を車の中に入れる、とは読みようがない。それにビュイックは小型車とはいえないので、皮肉にもならない。村上訳は「玄関まで郵便物を取りに行くにはうってつけだ」だ。大邸宅の私道の長さを皮肉っていると考えるべきだろう。