marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す。第一章(2)

<rear back>は「後退り」ではなく「後ろ脚で立つ」ことだ。

【訳文】

 半時間がたち、煙草を三、四本吸い終わった頃、ミス・フロムセットの背後のドアが開き、二人の男が笑いながら後ろ向きに出てきた。三人目の男がドアを抑え、二人に調子を合わせていた。彼らは熱心に握手を交わし、二人はオフィスを横切って出て行った。三人目の男の顔から笑顔が消え、まるで生まれてから一度も笑ったことなどないような顔になった。グレイのスーツを着た長身の男には、無意味なことをする気は微塵もなかった。
「電話はなかったか?」彼は親分風を吹かせ、切り口上で訊いた。
 ミス・フロムセットは低い声で言った。「ミスタ・マーロウという方がお見えです。マッギー警部補の紹介で、個人的な要件とのことです」
「聞いたこともない男だ」背の高い男は大声で言った。そして、名刺を手に、こちらには目もくれずオフィスに戻った。ドアが圧縮空気の力で閉まり、ふーん、とでもいうような音を立てた。ミス・フロムセットは私に誠にお気の毒と言いたげな微笑をくれ、私はいやらしい流し目で返した。新しい煙草を口にすると、また時間がよろよろと過ぎて行った。私はギラ―レイン社のことが大好きになりかけていた。
 十分後、再び同じドアが開き、帽子を被った大物が出てきて、人を小馬鹿にするように、散髪に行くと言った。中国段通を軽快な運動選手の大股で横切りかけ、ドアまで半分ほど行ったところで、急に折り返し、私が座っているところまで来た。
「私に会いたいって?」彼は怒鳴った。
 身長は六フィート二インチほどで、やわな体つきではない。鈍色の瞳は燐光の斑入り。細いチョーク・ストライプの入った滑らかなグレイ・フランネルに大きな体を詰め込んでおり、着こなしも上品だった。見るからに、つきあい難い相手だった。
 私は立ち上がった。「もし、あなたがドレイス・キングズリーさんでしたら」
「一体誰だと思ってたんだ?」
 言いたいように言わせておいて別の名刺を取り出した。商売用のやつだ。彼は大きな手で鷲づかみし、見下ろして顔をしかめた。
「マッギーというのは誰かね?」彼はいきなり言った。
「ただの知り合いですよ」
「そそられる話だ」彼は言った。そして、ちらっとミス・フロムセットを振り返った。それは彼女にうけた。大いにうけた。
「その男について他に聞かせてもらえるかな?」
「ヴァイオレッツ・マッギーと呼ばれています」私は言った。「菫の香りのする小さな喉薬をいつも噛んでるのでね。柔らかな銀髪の大男で赤ん坊でもキスしたくなるかわいい唇をしている。この前見たときはこざっぱりしたブルーのスーツを着て、爪先の広い茶色の靴を履き、グレイのホンブルグ帽を被って、短いブライアーのパイプで阿片を吸ってました」
「その態度は気に入らない」キングズリーはブラジル・ナッツでも割れそうな声で言った。
「構いませんよ」私は言った。「別に態度が売りってわけじゃない」
 まるで鼻先に一週間経った鯖をぶら下げられたみたいに彼はいきり立った。しばらくすると、くるりと私に背中を向け、肩越しに言った。
「きっかり三分間だけくれてやる。さっぱり訳がわからん」
 彼は焦げよとばかり絨毯を踏みつけてミス・フロムセットの机を通り過ぎ、自分の部屋のドアをぐいと開け、私の鼻先で閉まりかけるのも無視して部屋に入った。これもミス・フロムセットにうけたが、今ではその両眼の奥に少しばかり冷笑が隠されているように思えた。

【解説】

「無意味なことをする気は微塵もなかった」は<he didn't want any nonsense>。田中訳は「ふざけたりするのはぜったいにゆるさん、といった顔をしていた」。村上訳は「なめた真似は許さないと心に決めた人物のように見えた」。清水訳は「いかにもとっつき(傍点四字)にくい顔つきだった」。<nonsense>は文字通り「無意味」という意味だ。相手が見えなくなったら、それ以上作り笑いをしているのは無意味なことだ。彼はそう考えるタイプの男なんだろう。文脈上、そう考えるのが自然だ。

「ドアが圧縮空気の力で閉まり、ふーん、とでもいうような音を立てた」は<His door closed on the pneumatic closer and made a sound like “phooey.”>。<phooey>は軽蔑や不信、失意などを表す間投詞で「そんなばかな、ふーん、ちぇっ」といった意味。無視された格好のマーロウの耳には、ドアの閉まる音がそう聞こえたということだろう。

清水訳は「圧搾空気の開閉装置がついているドアが妙な音を立てて閉まった」。村上訳はドアは自動圧力で閉まり、「ひゅうう」という音しか立てなかった」。田中訳は「圧縮空気仕様の自動開閉ドアが、フーイ、用はないよ、というような音をたてて、閉まった」。「用はないよ」は擬音である<phooey>を意味の分かる言葉に訳したもので、こう書かれると意味がよく分かる。田中小実昌氏のチャンドラーは、ちゃんと日本語の小説になっている。

「人を小馬鹿にするように、散髪に行くと言った」は<sneered that he was going to get a hair-cut>。<sneer>は「嘲笑う、冷笑する、鼻であしらう」。田中訳は「散髪に行くとほざいた」。清水訳は「髪を刈りに行くとぶっきらぼうな口調でいった」。村上訳は「これから散髪に行ってくると、小馬鹿にしたような声で言った」。ここで考えたいのは、いったい誰が「鼻であしらわれ」ているのか、ということだ。いうまでもなく待ちぼうけを食わされているマーロウだ。田中訳、村上訳からはそれが伝わるが、清水訳からは伝わってこない。

「鈍色の瞳は燐光の斑入り」は<His eyes were stone gray with flecks of cold light in them>。田中訳は「石のような灰色の目が、つめたくひかっている」。清水訳は「目は石のように灰色で、冷たく光っていた」。どちらも<flecks>をトバしている。<fleck>は「(光・色などの)斑点」。また<cold light>は燐や蛍のような熱のない光を表す言葉。村上訳は「瞳は険しい灰色で、まだら模様がその中に冷たい明かりとなって見えた」。<stone gray>は「粘板岩または花崗岩の色」を表す言葉で「濃青灰色、鈍色」を指す。

「見るからに、つきあい難い相手だった」は<His manner said he was very tough to get along with>。<to get along with>は「気が合う、馬が合う」の意味だが、田中氏はここをカットしている。清水訳は「そのそぶり(傍点三字)で一筋なわではいかぬ人間であることがわかった」。村上訳は「その素振りからして、相手にするのはずいぶん厄介(やっかい)そうだ」。

「彼はいきり立った」は<He reared back>。清水訳は「後しざリ(傍点三字)した」。田中訳は「うしろにさがった」。村上訳は「後ろにさっと身を引いた」。鼻先に腐った鯖をぶら下げられたら、誰しも身を引きたくなる。それはそうだが、動詞<rear>に「さがる」という意味はない。自動詞<rear>は「後脚で立つ」という意味だ。馬が興奮すると後脚で立つことから<rear back>は「憤慨し始める、抗議を始める」という意味になる。

「さっぱり訳がわからん」は<God knows why>。清水訳では「会う必要はないのだが」。村上訳では「そんな義理もないのだが」。田中訳では「しかし、いつもこんなふうだとおもってもらってはこまる」。<God knows why>を日本風に言えば「(その訳は)神のみぞ知る」だ。三氏とも、後半部分をマーロウに聞かせる台詞だと解釈している。しかし、腹は立てていても、話を聞くのは興味を引かれたからだ。どうしてそんなことをする気になったのか自分でも分からないので、自分に言い聞かせるために言った台詞ではないか。

「自分の部屋のドアをぐいと開け、私の鼻先で閉まりかけるのも無視して部屋に入った」は<his door, yanked it open and let it swing to in my face>。圧縮空気で自動的に閉まるドアについては先に紹介されていた。その伏線の回収である。「ドアを私の鼻先に乱暴にあけた」という清水訳では、それが分からない。村上訳は「ドアを勢いよく開け、そのまま手を離した。ドアはあやうく私の顔にぶつかるところだった」。田中訳は「ドアをあけ、うしろのおれの顔にぶつかるようにドアがしまってくるのをほったらかしたまま、自分のオフィスにはいってしまった」。

「今ではその両眼の奥に少しばかり冷笑が隠されているように思えた」は<but I thought there was a little siy laughter behind her eyes now>。清水訳は「目のうしろで意地わるく笑っていた」。村上訳は「しかし彼女の両目の奥には、見すかした笑いが隠されているようにも感じられた」。田中訳は「だが、こんどはちょっぴり目が笑っていたようだった。ボス面(づら)をしたキングズリイがやりこめられたのが、おかしかったのだろう」。二つ目の文は原文にはない。訳者がここまで介入してもいいものかどうか、意見の分かれるところかもしれない。