marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女を訳す』第十七章(2)

香水についても詳しくないと、私立探偵はつとまらない。

【訳文】

「ろくでなしめ」彼は声を低くした。「あいつはあれを見限ったんだろう」
「そいつはどうかな」私は言った。「あなたにとっては動機が不充分だったんじゃ、文明人だからという理由でね。でも、彼女にとってはそれが充分な動機になるんですか」
「同じ動機という訳じゃない」彼は噛みつくように言った。「それに、女は男より衝動的だ」
「猫が犬より衝動的なのと同じようにね」
「どういう意味だ?」
「ある種の女は、ある種の男より衝動的である。ただそれだけのことです。もし奥さんの仕業にしたいのなら、もっとしっかりした動機がなくちゃいけない」
 彼は私をじっと見つめられるところまで顔を振り向けたが、そこに面白がっている様子はなかった。白い三日月形が口の両端に刻み込まれていた。
「どうやら、手際よく済ませるという訳にはいかんようだな」彼は言った。「警察に銃を渡すわけにはいかん。クリスタルは許可証を持っていて、銃は登録されている。私が番号を知らなくても、警察にはすぐに知れる。彼らに銃を渡すことはできん」
「私が銃を持ってることはミセス・フローリアンが知ってますよ」
 彼は頑なにかぶりを振った。「チャンスに賭けようじゃないか。君が危険を冒しているのはよく分かっている。それ相当の対価を払うつもりだ。もし自殺したように見せかけられるなら、銃を返してもいいが、君の話じゃ難しそうだな?」
「無理ですね。自分自身を撃とうとする者が最初の三発を外すなんてあり得ない。たとえボーナスを十ドルもらっても、殺人を誤魔化すことなどできない相談だ。銃は戻すべきだ」
「もっと高額を考えていたんだが」彼は静かに言った。「五百ドルならどうだ」
「いったい何を買うつもりですか?」
 彼は私に身をすり寄せた。その目は真剣で殺伐としていたが、非情ではなかった。「銃のことは別にして、レイヴァリーの家には、クリスタルが最近そこにいたことを示すものがあるのか?」
「黒と白のドレスと、バーナディーノのベルボーイが彼女がかぶってたと言った帽子が。他にも私の知らないものがいくつもあるでしょう。指紋はほぼ確実に残っている。おっしゃる通り、彼女が指紋をとられていなくても、警察が指紋を手に入れるすべはいくらでもある。お宅の彼女の寝室は指紋だらけだ。リトル・フォーン湖の山小屋や彼女の車にも」
「車を取って来なくては――」彼がそう言いかけたが、私が止めた。
「無駄です。他にも山ほどあります。 彼女はどんな香水を使っていますか?」
 彼は一瞬ぽかんとした。「ああ――ギラ―レイン・リーガル、香水のシャンパン」彼は木で鼻をくくったように言った。「たまにはシャネル・ナンバーを使うこともある」
「あなたのそれは例えばどういう代物なんです?」
「シプレーに近い。サンダルウッドを効かせたシプレーだ」
「寝室にはそいつがぷんぷん臭っていた」私は言った。「いかにも安物臭かった。まあ、私は鑑定士じゃないが」
「安物だと?」彼は聞きとがめた。「なんてことを。安物だ? 一オンス三十ドルもするんだぞ」
「どっちかといえば、一ガロンあたり三ドルがやっと、という代物でした」
 彼は両手を膝に叩きつけるように置き、首を振った。「金の話をしてるんだ」彼は言った。「五百ドル。今すぐ小切手を書く」
 私はその言葉を汚れた羽が渦を巻いて落ちるように地に落ちるに任せた。我々の後ろにいた年寄りの一人がよろめきながら立ち上がって、部屋から出て行った。
 キングズリーは重々しく言った。「私はスキャンダルから身を守るために君を雇った。いうまでもないことだが、必要があれば妻を守るためでもある。君のせいではないが、スキャンダルを避けるチャンスはかなり失われている。今では妻の生死に関わる問題になっている。妻がレイヴァリーを撃ったとは信じられない。私にはそう信じる理由がない。全くないのだ。彼女が仮に昨夜そこにいて、この銃が彼女のものだったとしても。彼女が彼を撃った証しにはならない。彼女は他の物と同じように、銃についても無頓着だった。誰にでも持ち出せただろう」
「ここらあたりの警官はそんなことを信じるほど暇じゃありません」私は言った。「私が出会ったのがまずまずの代物だとしたら、彼らは最初に見た頭を選び、ブラックジャックを振り回し始める。そして、状況を見渡したとき、まず最初に見た頭になるのは彼女でしょう」
 彼は両手のつけ根をこすりあわせた。彼の不幸は、現実の不幸がそうであるように、芝居がかった味わいがあった。
「ある程度まではあなたの意見に賛成です」私は言った。「一目見て、お膳立てが整いすぎている。彼女は着ているところを見られた服を残しているが、たいていそこから身元が割れる。銃は階段に置いたままだ。彼女がそこまで馬鹿だとは考えにくい」
「少し生きた心地がしてきたよ」キングズリーは疲れた様子で言った。
「しかし、そんなことに何の意味もない」私は言った。「なぜなら、私たちはそれを計画的犯行という観点で見ているからです。一時的にかっとなったり、むかついたりして犯罪を行う者は、 ただそれをやって出て行くだけです。これまで聞いてきたすべてが、彼女が向こう見ずで分別を欠いた女であることを示している。あの現場には、計画性が全く感じられない。計画性が全くないことを示すあらゆる兆候がある。たとえ、奥さんを指さすものがなくても、警察は奥さんをレイヴァリーに結び付けるでしょう。警察は彼の前歴を調べる。友人、女出入り等。彼女の名前はきっとどこかで出てくる。もし出てきたら、彼女がひと月の間、姿を消しているという事実は、彼らを身構えさせ、喜びのあまりむらむらして揉み手をさせることになる。もちろん、銃についても調べる。そして、もしその銃が彼女の――」
 彼の手が椅子の横にある銃に飛びついた。
「いけません」私は言った。「銃は警察に渡すしかない。マーロウは気の利く男で、個人的にはあなたのことが大好きかも知れない、それでも、人を殺した銃のような重要な証拠を隠蔽する危険を冒すことはできません。私が何をするにせよ、奥さんが明白な容疑者であるということを前提にする必要があります。ただ、その明白さが誤っていることもあり得ます」
 彼は唸り声を上げ、銃を持ったまま、大きな手を差し出した。私は銃をとって仕舞った。それからもう一度取り出して言った。「あなたのハンカチを貸してください。自分のを使いたくない。調べられるかもしれないんでね」
 彼は糊のきいた白いハンカチを取り出し、私はそれで銃全体を注意深く拭い、ポケットに落とし込んだ。私はハンカチを彼に返した。
「私の指紋はどうでもいい」私は言った。「が、あなたのはいらない。これが私にできる精一杯です。現場に戻って銃をもとの位置に置き、それから警察に電話する。後は相手の出方次第で成り行き任せです。遅かれ早かれ、そこで私は何をしていたのか、そしてその理由は、という話が出てくるはずです。一番まずいのは、警察が彼女を見つけ、彼を殺したことを立証することです。一番いいのは、警察が私よりずっと早く彼女を見つけ、私が全力を挙げて彼女が彼を殺していないこと、つまり、他の誰かの犯行であることを立証できるようにしてくれることです。あなたは、その話に乗りますか?」
 彼はゆっくりうなずいた。彼は言った。「それで行こう――それと、五百ドルはまだ生きてる。クリスタルが彼を殺していないことを証明してくれ」
「その報酬はあてにしてません」私は言った。「あなたも、それくらいお分かりのはずだ。ところで、ミス・フロムセットは、レイヴァリーとどれくらい親しかったんです? 勤務時間外で」
 彼の顔は痙攣でもしたかのようにこわばった。両の拳は太腿の横で固く握りしめられた。彼は何も言わなかった。
「昨日の朝、レイヴァリーの住所を尋ねた時、彼女の様子が妙だった」私は言った。
 彼はゆっくり息を吐いた。
「後口が悪そうな」私は言った。「不首尾に終わったロマンスのような。あからさまに過ぎますか?」
 彼の鼻孔が少し震え、その中で息が少しのあいだ音を立てた。やがて、力を抜いて静かに言った。
「彼女は、彼とかなり親しかった――いっときのことだ。 彼女はそんなふうに自分の好きなことをする女の子だ。 レイヴァリーは魅力的なやつだったのだろう――女には」
「彼女と話す必要がありそうだ」私は言った。
「なぜだ?」彼は短く言った。頬に赤みが差した。
「気にしないことです。いろんな人にいろんな質問をするのが私の仕事です」
「じゃあ、話したらよかろう」彼はきっぱり言った。「実は、彼女はアルモア家と心やすい。自殺した奥さんを知っている。レイヴァリーも懇意だった。この件に何か関係があるだろうか?」
「分かりません。あなたは彼女と恋愛中なんじゃないですか?」
「できれば明日にでも一緒になりたいところだ」彼は鯱張って言った。
 私はうなずいて立ち上がった。部屋を振り返ると、今ではほとんど空っぽだった。一番奥では一組の古強者が、まだ鼻提灯を膨らませていた。残りの安楽椅子の常連客は、何であれ、意識がある時していたことに、よろめきながら戻っていた。
「もう一つだけ」私はキングズリーを見下ろしながら言った。「殺人事件の後、警察に電話するのが遅れると、警察は非常に敵対的になる。すでに遅れが出ていますが、まだしばらくかかります。私がそこに行くのは今日が初めてといった顔をしたい。フォールブルックという女のことさえ無視すれば、うまくやれるでしょう」
「フォールブルック?」彼は私が何のことを言っているのか分からないようだった。「誰のことだ?――待てよ、思い出した」
「いやいや、思い出さないでください。おそらく警察は彼女の声を耳にすることはないでしょう。自分から進んで警察に何かを話すような女じゃない」
「よく分かったよ」彼は言った。
「うまくやってください。尋問は、レイヴァリーが死んだと聞かされる前に行われます。私があなたと連絡を取ることを許可される前に――警察が私たちが連絡を取り合っていることを知らない限りね。どんな罠にもひっかからないでください。もし、そうなったら、何も見つけられないうちに、私は豚箱行きです」
「警察を呼ぶ前に、その家から電話することもできるだろう」彼は当然のように言った。
「分かってます。でも、そうしないことが私には有利に働く。彼らが最初にやることは電話をチェックすることです。もし他の場所から電話したりしたら、あなたに会うためにここに来たと認めたも同然です」
「よく分かった」彼はまた言った。「心配いらない。うまくやってみせる」
 我々は握手し、私は立ったままの彼を残して出て行った。

【解説】

「彼は私をじっと見つめられるところまで顔を振り向けたが、そこに面白がっている様子はなかった」は<He turned his head enough to give me a level stare in which there was no amusement>。清水訳は「彼は私に顔を向けてじっと見つめた。眉にしわ(傍点二字)をよせていた」。田中訳は「キングズリイは、おれをまともににらみつけることができる程度に、顔をまわした」。村上訳は「彼はぐいとこちらに顔を向け、我々はまっすぐ互いに睨み合うことになった。そこには冗談ごとの入り込む余地はなかった」。

清水氏は<in which there was no amusement>を「眉にしわを寄せる」という不機嫌さを表す表現に置き換えている。田中氏はそこをカットしている。村上訳では両者は対等に睨み合っている。しかし、ここはキングズリーの顔に、どんな感情が浮かんでいるのかをマーロウが判断している場面だ。両者の関係は対等ではない。マーロウの感情などは雇用者であるキングズリーにとって何の意味もない。

「白い三日月形が口の両端に刻み込まれていた」は<White crescents were bitten into the corners of his mouth>。清水訳は「固く結ばれた口の端がかすかに震えた」。田中訳は「きつくかみしめた口のはしが、三日月形に白くなつている」。村上訳は「歯をぎゅっと噛みしめた口の両端は、白い半月形になっていた」。

歯をきつく噛みしめると、本当に口の端に白い半月形ができるのだろうか。試しに自分でもやってみたが何もできなかった。<bite into>は「かじる、(物の表面に)食い込む」という意味で、三氏の訳のように「歯を食いしばる」という意味ではない。キングズリーは、形ばかり口角にしわを寄せることで一応笑顔を作って見せたつもりではないのか。どうしてそれが白く見えたのかは分からないが、

「その目は真剣で殺伐としていたが、非情ではなかった」は<His eyes were serious and bleak, but not hard>。清水訳は「目が真剣で、きびしかったが、険(けわ)しくはなかった」。田中訳は「その目は必死で、なにかわびしかった。けつしてけわしいめつきではない」。村上訳は「彼の目はどこまでも殺伐として真剣だった。しかし厳しくはなかった」。

<serious><bleak><hard>と形容詞が三つ並んでいる。前二つはキングズリーが現状の深刻さを真剣に受け止め、事態が容易でないことを理解していることを示している。<but>と逆接の接続詞で結ばれているのは、マーロウがそれと矛盾する心情を認めたということだろう。事態は差し迫っていて、抜き差しならないが、妻を放ってはおけない。キングズリーは老獪な人物だ。妻の引き起こした醜聞に参ってはいるが、まだ妻を救うチャンスをうかがっている。そういう目をしていたにちがいない。

単語の一つ一つは極めてシンプルなものだが、文章にはコンテクストというものがある。英語の単語を日本語の単語に逐語的に置き換えていけば済むというものではない。この場合なら、キングズリーという男がどんな男で、マーロウは相手にどんな感情を抱いているのかを押さえたうえで、文脈に沿った訳語を選択しなければならない。<hard>だから、「厳しい」と訳しておけば、それでよし、というものではない。

「たまにはシャネル・ナンバーを使うこともある」は<A Chanel number once in a while>。清水訳は「シャネルをときどき」。田中訳は「時々、シャネルの香水もつけてた」。<once in a while>は「時たま、時々」の意味だから、普通はこうなる。ところが、村上氏は「シャネルにも負けない逸品」と訳している。いつも原文に忠実な氏にしては、珍しく逸脱した訳になっている。

「あなたのそれは例えばどういう代物なんです?」は<What's this stuff of yours like?>。.清水訳は「あなたのこれは何です」。まさに直訳。田中訳は「おたくの社のは、どんな香水なんです?」。村上訳は「あなたの会社のそれは、どんな匂いがしますか?」。<one’s like>は「同様の物・人」を意味している。つまり、マーロウは、ギラ―レイン・リーガルが、具体的に何の匂いに似ているのか、自分の分かる言葉で聞きたいのだ。

「シプレーに近い。サンダルウッドを効かせたシプレーだ」は<A kind of chypre. Sandalwood chypre>。清水訳は「チプレの一種だ。白檀(びゃくだん)のチプレだ」。田中訳は「香木からとつたものだよ。びやくだん(傍点五字)の木のものだ」。村上訳は「白檀の一種だ。サンダルウッド種」。「シプレー」はコティ社の発売した香水の名だが、そこから「シプレー」系と呼ばれる香水のタイプを代表する名前になった。

香水には揮発する段階で、最初に匂うトップ・ノート、次いでミドル・ノート、最後に二時間から半日くらい匂う、ラスト・ノートと呼ばれる香りがある。「サンダルウッド」は白檀のことで、ラスト・ノートとして配合されることが多い。つまり、キングズリーの香水はサンダルウッドを使ったシプレー系、ということだ。田中、村上両氏の訳は大事な「シプレー」を抜かしている。清水訳は「シプレー」が「チプレ」になっているのが惜しい。因みに「シプレー」とはフランス語で「キプロス島」のことである。

「彼らを身構えさせ、喜びのあまりむらむらして揉み手をさせることになる」は<will make them sit up and rub their horny palms with glee>。清水訳は「彼らを座り直させ、奮い立たせます」。田中訳は「お巡りたちが手をすりあわせて大よろこびする材料になるだろう」。村上訳は「警官たちはよしこれだ(傍点五字)と膝を叩き、喜びのあまりそのがさつな手をごしごしこすりあわせることでしょう」。

<sit up>は、「はっとする、注目する」という意味。<horny>には「(皮膚が)こわばってざらざらした」という意味の他に「性的に興奮した」という俗語表現がある。マーロウが警察に対してわざわざこう言っているところを考えると、その意味合いを無視することもできない。日本語では、喜んだり、悔しがったりする時、両手をこすりあわせることを「揉み手をする」と言う。逮捕という本番を前にしての感情の高ぶりが「揉み手」という身体行動に出ているのだろう。

「一番いいのは、警察が私よりずっと早く彼女を見つけ、私が全力を挙げて彼女が彼を殺していないこと、つまり、他の誰かの犯行であることを立証できるようにしてくれることです」は<At the best they'll find her a lot quicker than I can and let me use my energies proving she didn't kill him, which means, in effect, proving that somebody else did>。

清水訳は「もっともうまくいった場合でも彼らは私よりずっと早く奥さんを見つけて、奥さんが彼を殺したのではないことを私に証明させるでしょう。つまり、誰かほかの人間が殺したことを私が証明するわけです」。<at the best>には「せいぜい」という意味があるので、こう訳したのだろうが、この訳だと、警察が「私」より早く女を見つけると、なぜ「私」が彼女の無罪を証明されられるのか、よく分からない。

田中訳は「反対に、うまくいけば、ぼくよりもうんとはやく、警察が奥さんを見つけ、そして、奥さんがレヴリイを殺したのでないことを、ぼくが納得させることができるかもしれん。つまり、真犯人はほかにいることを立証するのです」。次に、村上訳を見てみよう。「最良のケース、彼らは私なんかより素早く彼女を見つけ出し、彼女がレイヴァリーを殺していないことを、私が力をふるって証明できる機会を与えてくれます。それは言い換えれば、他の誰かが彼を殺したのだと、証明することに他ならないわけですが」。

「機会を与えてくれる」という言葉を補うことにより、女を探す手間が省けるという意味が明らかになる。ただ、惜しむらくは「彼女がレイヴァリーを殺していないこと(proving she didn't kill him)」と「他の誰かが彼を殺したのだと、証明すること( proving that somebody else did)」の間に「を、私が力をふるって証明できる機会を与えてくれます」が入ることで、語の言い換えが分かりにくくなっているのが難点だ。

「彼は鯱張(しゃっちょこば)って言った」は<he said stiffly>。<stiffly>は「ぎこちない態度で、体をこわばらせて」という意味の副詞。キングズリーが柄にもなく緊張して固くなっている様子を表している。清水訳は「と、彼はきっぱりいった」、田中訳は「キングズリイは、やはりかたい調子でいった」と両氏とも「硬い態度」を強調している。ところが、村上訳は「と彼は憮然とした声で言った」としている。

「憮然」は本来「失望や落胆、驚きのために、ぼんやりしたり、呆然としたりする様子」のこと。しかし、最近では「腹を立てている様子」を表す言葉として使われることが多いという。妻の疑惑を晴らそうとしている男が、一方で、明日にでも別の女性と結婚したいと言うのだ。少々ぎこちなくもなろう。この場のキングズリーに、失望や落胆、驚愕という感情は似つかわしくない。村上氏もやはり、彼がマーロウに腹を立てていると思ったのだろうか。

チャンドラーの書く探偵小説の良さは、マーロウの目を通して、他の登場人物の人となりを的確に描写してみせるところにある。ムース・マロイ然り、パットン保安官然り、脇役にせよ、敵役にせよ、他の作家が描くそれとはちがって、格段にキャラクターが立っている。マーロウと副主人公ともいえる男たちの絡み合い、感情のやりとり、それは、時には両者の立場の違いをこえた人間同士の信頼関係にまで至る。そこが一つの読みどころでもあるのだ。そういう意味では、たかが一つの単語でも、あだやおろそかに扱うことはできない。