marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第二十一章(2)

拳は握りしめられたのか、それとも解かれたのか?

【訳文】

 私は言った。「私はロスアンジェルスのある実業家のために働いている。自分が噂の種になりたくなくて、私を雇ったわけだ。ひと月ほど前、彼の妻が家出した。そのあと、レイヴァリーと駆け落ちしたという電報が届いた。しかし、依頼人は二日前に街で偶然レイヴァリーと出くわし、彼は駆け落ちを否認した。依頼人は彼の話を信じ、妻の身を案じた。かなり見境のない女らしい。悪い連中と掛かり合いになって面倒に巻き込まれているんじゃないか。私はレイヴァリーに会いに行ったが、彼は駆け落ちを否定した。私も半ば信じかけたが、あとになって彼がサン・バーナディーノのホテルで彼女と一緒にいたという確かな証拠をつかんだ。彼女がそれまで滞在していた山小屋を出たと思われる夜のことだ。証拠が手に入ったので、今度こそレイヴァリーを締め上げてやろうとここにやってきた。ところが、呼鈴に返事がない。ドアが少し開いていた。で、私は中に入り、あちこち見て回るうちに銃を見つけ、家の中を捜索した。私が発見したとき、彼は今と同じ状態だった」
「君には家を捜索する権限などない」ウェバーは冷ややかに言った。
「もちろんない」私は同意した。「が、こんな機会を見逃すという手もない」
「君を雇った人物の名前は?」
「キングズリー」私は彼のベヴァリ・ヒルズの住所を教えた。「彼はオリーヴ・ストリートのトレロア・ビルディングにある化粧品会社を経営している。ギラ―レイン社だ」
 ウェバーはデガーモを見た。デガーモは気怠そうに封筒の上に書きとめた。ウェバーは私の方を振り返って言った。
「ほかには?」
「私は夫人が滞在していた山小屋に行った。リトル・フォーン湖といって、ピューマ・ポイントの近くにある。サン・バーナディーノから四十六マイルほど山の中に入ったところだ」
 私はデガーモを見た。彼はゆっくりと書いていた。その手が一瞬止まり、ぎごちなく宙に浮き、それから封筒の上に落ち、また書き出した。私は続けた。
「ひと月ほど前、キングズリーの山荘の管理人の女房が亭主と喧嘩をして家を出て行った。みんながそう思っていた。昨日、その女が湖で溺死しているのが見つかった」
 ウェバーはほとんど目を瞑り、踵に体重をかけて体を揺すっていた。彼は穏やかといってもいいような声で訊いた。「なぜ、そんな話をする?  この件と関係があるとでも?」
「時間的にはつながりがある。当時、レイヴァリーもそこにいた。他の関係については知らないが、一応耳に入れておこうと思ってね」
 デガーモは身じろぎもせず椅子に座って、目の前の床を見ていた。表情は硬く、いつも以上に獰猛な印象を受けた。ウェバーは言った。
「その溺れたとかいう女だが 自殺だったのか?」
「自殺か他殺か。彼女は遺書がわりのメモを残していた。だが、女の亭主が容疑者として逮捕された。名前はチェスだ。ビル・チェス。妻はミュリエル・チェス」
「そんなことはどうでもいい」ウェバーはつっけんどんに言った。「ここで起きたことだけに話を絞ろう」
「ここでは何も起きちゃいない」私は、デガーモを見やりながら言った。「ここへ来るのはこれで二度になる。一度目はレイヴァリーと話をしたが、尻尾をつかめなかった。二度目は話すこともできず、骨折り損だった」
 ウェバーがゆっくり言った。「ひとつ君に質問しようと思うが、正直に答えてほしい。話したくはないだろうが、後で話すより今話しておいた方がいい。知っての通り、結局は私に話すことになるんだからな。質問というのはこうだ。君は家の中を徹底的に調べたと思うが、そのキングズリーの妻がここにいたと思わせるものを何か見たか?」
「それは公正な質問とは言えない」私は言った。「証人に推論を求めている」
「質問に答えるんだ」彼はむっつりと言った。「ここは法廷ではない」
「答えはイエスだ」私は言った。「階下のクローゼットに、女物の服がぶら下がってる。ミセス・キングズリーがレイヴァリーと会った夜にサン・バーナディーノで着ていた、と私が聞いた証言と特徴が一致する。ざっくりとした説明だった。白黒のスーツ、白が主だ。それに白黒のバンドが巻かれたパナマ帽」
 デガーモは手にしていた封筒を指でパチンとはじいた。
「差し詰め、依頼人に取っちゃ、あんたは大当たりってとこだ」彼は言った。「なんと、殺人が行われた家に女がいて、それが被害者と駆け落ちしたはずの女だったとは。遠くまで犯人捜しに行かずにすみますね、チーフ?」
 ウェバーはほとんど、あるいはまったく表情を変えず、ただ注意深くじっと私を見ていた。そして、デガーモの言ったことにぼんやりとうなずいた。
 私は言った。「君らも馬鹿の集まりってわけじゃない。服は注文仕立てで、すぐに調べがつく。私が話したことで、君らは一時間を節約した。もしかしたら、電話一本で済むかもしれない」
「ほかに何か?」ウェバーは静かに訊いた。
 私が答える前に家の外に車が止まった。続いてまた一台。ウェバーは弾かれたように玄関に行き、ドアを開けた。三人の男が入ってきた。縮れ毛の小男と牡牛みたいな大男だ。二人とも重そうな黒い革鞄を提げていた。その後ろにダークグレイのスーツに黒いネクタイを締めた、長身瘦躯の男がいた。ポーカーフェイスで、目だけ輝かせていた。
 ウェバーは縮れ毛の男に指を突きつけて言った。「階下の浴室だ、ブゾーニ。家じゅうの指紋がありったけほしい。特に女がつけたらしい指紋を。時間のかかる仕事になりそうだ」
「それを全部私がやるわけだ」ブゾーニはぶつぶつ言った。彼と牡牛みたいな男は部屋の奥に行き、階段を降りた。
「死体がお待ちかねだ、ガーランド」ウェバーが三人目の男に言った。「下に降りて、拝んで来よう。ワゴンは呼んだのか?」
 やる気満々の男は軽くうなずき、男とウェバーは二人の男の後を追った。
 デガーモは封筒と鉛筆をうっちゃった。彼は無表情に私を見つめた。
 私は言った。「昨日の我々の会話について、話したものだろうか――それとも、あれは個人的な取引なのか?」
「好きなだけ話しゃいい」彼は言った。「市民を守るのが我々の仕事だ」
「そのことなんだが」私は言った。「アルモアの件についてもっと知りたいんだ」
 彼の顔がじわじわ赤くなり、意地の悪そうな目になった。「アルモアのことは知らないと言ったよな」
「昨日はそうだった。彼について何も知っちゃいなかった。そのあと知ったんだ。レイヴァリーはミセス・アルモアの知り合いで、彼女が自殺したこと、その死体をレイヴァリーが発見したこと、そして、レイヴァリーが少なくとも彼を脅迫したか、あるいは脅迫するネタを握っていたと疑われていたことを。それに、パトロール警官は、二人ともアルモアの家がここから通りを隔てた真向いにあるという事実に興味を持っているようだった。そのうちの一人は、この事件はすっかりもみ消されたと言った、あるいは、そう匂わせた」
 デガーモはゆっくり凄みを利かせて言った。「あのろくでなしめら、胸からバッジを剥ぎとってやる。つまらぬことばかりしゃべりたがる。能なしの口たたきどもめ」
「それじゃ、根も葉もない噂だというんだな」私は言った。
 彼は煙草に目をやった。「根も葉もない噂とは何だ?」
「アルモアが妻を殺し、それを揉み消すだけのコネを持っていた、という噂さ」
 デガーモは立ち上がり、歩いてきて、私の方に身を屈めた。「もう一度言ってみろ」彼は小声で言った。
 私は繰り返した。彼は平手で私の顔を引っぱたいた。頭が大きくぐらついた。顔が熱くなり、腫れ上がるのを感じた。
「もう一度言ってみろ」彼は小声で言った。
 私は繰り返した。彼の手が飛んできて、また私の横っ面を張り倒した。
「もう一度言ってみろ」
「やめとけ。三度目の正直だ。失敗するかもしれない」私は手を上げて頬をこすった。
 彼は私の上に身を乗り出すように立ち、歯を剥き出し、真っ青な眼を獣のようにぎらぎら輝かせた。
「警官にそんなことを言えば、どうなるかわかっただろう。もう一回やってみろ、今度は平手打ちくらいじゃすまないからな」
 私は唇を固く噛んで、頬をさすった。
「俺たちのやることに、そのでかい鼻を突っ込んでみろ、目を覚ますと、どこかの路地で猫が手前の顔を覗き込んでる、なんてことになるぜ」
 私は何も言わなかった。彼は自分の椅子に戻り、肩で息をした。私は顔をさするのをやめて、片手を差し出し、指をゆっくりと動かした。固く握り締めた拳の緊張を解くためだ。
「覚えておくよ」私は言った。「どっちもな」

【解説】

「証拠が手に入ったので」は<With that in my pocket>。村上訳は「その証拠をポケットに」と、文字通りポケットに入れたように訳しているが、この証拠というのは、人から聞いた話であって、ポケットに入れられるような「物的証拠」ではない。ちなみに、<in one's pocket>は「所有して」という意味。清水訳は「私はその証拠を懐にして」、田中訳は「そのことがわかつたので」と、そういう意味合いになるように訳している。

「昨日、その女が湖で溺死しているのが見つかった」は、<Yesterday she was found drowned in the lake>。清水訳は「きのう、その女が湖で溺れて死んでるのが発見された」。田中訳は「ところが、昨日、湖のなかにしずんでいるのがわかつたんです」。村上訳は「ところが昨日、彼女が湖の底に沈んでいたのが発見された」。大差ないように思えるかもしれない。だが、死体は、村上訳のように「湖の底に沈んで」はいなかった。ダムができたせいで湖中に沈んだ、古い桟橋にひっかかっていたのだ。

旧訳はふたつとも『湖中の女』という表題になっている。すでに書いたように、原題はウォルター・スコットの<The Lady of the Lake>をひねったものと考えられる。その邦訳の表題は『湖上の美人』とするものが多い。旧訳の表題はそれを踏襲したのだろう。村上氏の新訳が『水底の女』になっているのが、はじめから気になっていたのだが、もしかしたら、村上氏の頭の中では、死体は湖底に沈んでいるのかもしれない。そういう思い込みがあって、この表題になったのではないだろうか。

「証人に推論を求めている」は<It calls for a conclusion of the witness>。清水訳は「証人の終結証言になる」。<conclusion>は「終わり、結論」のことだから、こう訳したのだろうが、これでは意味が分からない。田中訳は「証人の考えをきいてるようなものだから」と噛みくだいている。村上訳は「それが求めているのは証人の推断だ」。

殺人事件の犯行現場に最初に足を踏み入れたマーロウは、裁判所に呼ばれたら証人になる。しかし、ここはウェバーの言うように法廷ではない。現場で何を見たか目撃供述を聴取されているのだ。ただ、ウェバーはこう訊いている。<Have you seen anything that suggests to you that this Kingsley woman has been here?>。この<suggest>(暗示する)をマーロウは問題にしている。何がキングズリーの妻を「それとなく示す」のか、の判断は目撃者一人に任されている。法廷では当然そこが追及されることになる。マーロウは、かつて検事局にいたことを、それとなくウェバーに示しているのだ。

「私が話したことで、君らは一時間を節約した。もしかしたら、電話一本で済むかもしれない」は<I've saved you an hour by telling you, perhaps even no more than a phone call>。清水訳は「私が話をしたので、君たちは一時間はとくをしたわけだ。おそらく電話一本ですむだろう」。田中訳は「一時間ぐらい、時間を節約してあげただけだ。いや、電話を一つしないですんだぐらいかな」。村上訳は「私はそちらの手間を一時間ほど省いてあげただけだ。せいぜい一回の電話程度の手間だろうが」。

田中、村上両氏の訳では、一通話程度の時間しか節約していないことになる。果たしてそうだろうか。たしかに、注文服から持ち主の身元を割り出すのは容易だ。しかし、マーロウの話がなかったら、キングズリー夫人と被害者との関係を探り当てるまで、時間がかかるだろう。到底一時間では済まない。マーロウが前もって捜索しておいたおかげで、警察としては格段に手間が省けたわけだ。原文のカンマで切られている二つの節の間に(あなた方に必要とされる時間は)という文句を挿むと、話が通じやすくなる。

「それを全部私がやるわけだ」は<I do all the work>。清水訳は「時間がかかるのはなれてますよ」。田中訳は「そいつは、ありがたい」。村上訳は「仰せの通りに」。台詞を受ける<grunted>をどう訳すかで、前の台詞の訳し方が変わってくる。清水氏は「無愛想な口調でいった」。田中氏は「皮肉をいい」。村上氏は「あきらめたように言った」と訳している。<grunt>は「ぶうぶう言う、不平を言う」という意味。辞書によっては「無関心だったり、うるさがったりしているときに漏らす低いうなり声」というのもあるから、文意のとらえ方で変わってくるのだろう。

「ワゴンは呼んだのか?」は<You've ordered the wagon?>。清水訳は「ワゴンを頼んだかい」。前のところで、清水氏の訳文に突然「ワゴン」が出てきたのは、これのことを言っていたのだな、と分かる。田中訳は「霊柩車をよんどいたかね?」。村上訳は「搬送車は呼んだかな?」。正式な検死官がいないベイ・シティでは葬儀屋が週替わりで検死官を兼ねている。この<wagon>は当然「霊柩車」のことだろう。英語では<hearse>だが、<meat wagon>という呼び名もある。「霊柩車」ではぶしつけだし、「搬送車」という語も耳慣れない。<meat>抜きの「ワゴン」でいいのでは?

「やる気満々の男は軽くうなずき」は<The bright-eyed man nodded briefly>。清水訳は「目が輝いている男はかるくうなずき」。田中訳は「目がよくひかる男は、みじかくううなずき」。村上訳は「明るい目の男は短く肯いた」。どうしてそんなに目の明るさにこだわるひつようがあるのか。実は、その前にも<bright eye>が出てくる。「ポーカーフェイスで、目だけ輝かせていた」<He had very bright eyes and a poker face>がそれだ。

<bright-eyed>は「元気はつらつとして、やる気十分で」という意味のイディオム。例によってチャンドラーは<bright eyes>「きらきら輝く目、生き生きとした目」と、ダブルミーニングをねらったのだろう。黒っぽい服に黒ネクタイという葬儀屋の服装で身を固めた男は持ち前のポーカーフェイスの陰で、商売繁盛を喜んでいる。ここは単に明るい目の持ち主というのではなく、やる気が目に出ている、ということを表現しているのだ。

「指をゆっくりと動かした。固く握り締めた拳の緊張を解くためだ」は<worked the fingers slowly, to get the hard clench out of them>。清水訳は「指をゆっくり動かして、かたく握りしめた」。村上訳は「ゆっくりと指を動かした。そしてぎゅっと堅く握りしめた」。両氏とも、「握りしめた」説だ。田中訳は「ついかたくゲンコツのかたちになりそうになる指を、ゆつくりうごかした」。拳骨の形になろうとするのを意志が食い止めている、という解釈だ。

<clench>には「拳を固める」という意味の動詞もあるが、ここは<the hard clench>とあるように「固い握りしめ」を表す名詞扱い。<out of ~>は「~から外へ、~から抜け出して」という意味。では、その<them>とは何か。当然、すぐ前にある<fingers>に決まっている。この後マーロウが口にしたのは「覚えておくよ」という捨て台詞だ。つまり、今は何もしないでおくが、そのうちに決着をつける時が来る、という気持である。とすれば、ここは握りしめていた拳をゆるめた、と考えるのが妥当だろう。

「どっちもな」と訳したのは<Both ways>。清水訳では「(考えておくよ)どっちにするかをね」になっている。<both>なので、どっちか片方ではおかしい。田中訳、村上訳はどちらも「いろんな意味で」という訳になっている。<both ways>は「往復、両方、左右」のように、二つセットで用いるのが普通。「いろんな」では選択肢が多すぎる。マーロウは何と何を「覚えておく」と言ったのか? おそらく、デガーモの「平手打ちじゃすまない」と「路地に転がす」という二つの警告を指すのだろう。そんな脅しに怯んだりするものか、という、マーロウの精一杯の強がりである。