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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

答志島温泉に行ってきました。

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今日は長男の仕事が休みということで、趣味の離島行きに誘われた。島のいきのいい寿司を食べ、温泉につかるという。妻が乗り気だというので慌てて支度をした。といっても、たかが知れている。替えの下着、靴下とタオルを用意するだけのことだ。船の出る時間が迫っているので、息子の車で鳥羽の佐田浜まで走ることにした。免許は持たなかった。運転しないときはビールくらいは飲みたい。

市営駐車場に車を停めた。船着き場が、ひと昔前とは全く様子がちがっている。以前は海だったところが埋め立てられ、桟橋が新しくなり、まるでしゃれたハーバーのようだ。市営定期船もずいぶんおしゃれになって、まるで観光船のようである。十一時五十分佐田浜発。乗船時間約二十分で、目的地である答志和具に着く。

まずは、島に一軒だけという寿司屋さんへ。長男は何度か来ているので顔見知りになっていた。妻と私は海鮮丼、息子は握りとトロ鰆を別に注文。話に聞いてはいたが、本当に海老が鮨桶の中で跳ねるので驚いた。活きがいいなどという範疇を超えている。車海老は頭だけになっても頭をもたげてくる。頭の部分は後で別に焼いてくれた。噛むと口中に濃厚な海老味噌が溢れ出し、舌を火傷しそうになった。

海鮮丼というが、シャリは酢飯なので握り用のネタを細かく切らずにそのまま放り込んだちらし寿司みたいだった。ビールと一緒にいただいて、すっかり満足した。カウンターに椅子五脚、四人掛けのテーブル席が三つというこぢんまりした店だったが、船が着くのと同時にほぼ満席状態になっていた。もっとも、それから新しく客が来ることはなく、ちょうどいい塩梅になっているのに感心した。次の船の時間にはまた新しい客が入るのだろう。

海岸沿いの道を歩いて、答志島温泉へ向かう。何年か前に掘り当てた温泉らしい。小高い丘の上に立つ旅館で日帰り温泉に入らせてもらう。浴場は二階だが、高台に建っているので、眺めは抜群(写真)。真正面に菅島が眺望できる展望露天風呂は、ぬるめの湯でいつまででも浸かっていられる温度だった。眼下には砂浜が広がり、その横におそらく海水だろう、プールもあった。高い椰子の木が植えられ、ちょっとしたリゾート地の雰囲気を漂わせている。

左手には神島が手が届きそうに見えている。すぐそこにあるように見えているが、鳥羽からは約一時間船に乗らなければたどり着けない。答志や桃取までは、島が風よけになってくれるが、そこを越えると伊良湖水道の真っただ中を行くので、急に波風が高くなる。夏場はまだしも、冬ともなれば定期船は大きく揺れる。波の荒い日には、船は波の上まで揺り上げられ、窓から空が見えたかと思うと、一気に波の底まで滑り落ち、生きた心地がしない。

とはいえ、今は波も静かで、船もたいして揺れはしない。午後二時二十八分発の船で帰途についた。帰りの船はかつて巡行していたのと同様の鳥羽丸。先に行っていた妻が「気持ちいいよ」というので甲板に上がってみた。波はおだやかで、手すりに凭れていても、潮風が髪をなぶるばかり。積み雲が湧きあがり、空港へと行き来するジェット機の飛行機雲が青空に白い線を引いている。日はまだ高い。いい気分だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第17章(2)

【訳文】

《寝具の下で女のからだは木像のように硬直した。目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で。息は止まった。
「信託証書が高額すぎてね」私は言った。「この辺りの物件の価格からいうとだが。リンゼイ・マリオットなる人物の所有になる債権だ」
 女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた。
「あの人のところで働いていたことがある」彼女はやっと言った。「あの家の使用人だったんだよ。それで、ちっとばかし面倒を見てくれてる」
 私は火のついていない煙草を口からとり、あてもなく眺め、また口に突っ込んだ。
「昨日の午後、あんたに会った数時間後、ミスタ・マリオットがオフィスに電話してきた。仕事の依頼だった」
「どんな仕事の?」声はひどく嗄れてきていた。
 私は肩をすくめた。「それは言えない。守秘義務がある。それで昨夜、会いに行った」
「如才ない男だよ、あんたは」彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした。
 私は彼女を見つめ、黙っていた。
「ずる賢いお巡りだ」彼女は嘲笑った。
 私はドア枠に置いた手を上下に動かした。ぬるぬるしていた。触るだけで風呂に入りたくなった。
「それだけだ」私は如才なく言った。「ちょっと気になった。多分何でもない。偶然の一致だろうけど。何か意味がありそうに思えてね」
「小癪なお巡りだ」彼女は虚ろな声で言った。「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」
「仰せのとおり」私は言った。「邪魔したね、ミセス・フロリアン。それはそうと、明日の朝、待ってても書留は来ないと思うよ」
 彼女は布団をはねのけ、起き上がった。眼がぎらついていた。右手で何か光った。小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ。
「吐きな」彼女は吠えた。「さっさと吐くんだ」
 私は銃の方を見た。銃も私を見ていた。構えはしっかりしていない。銃を握った手が震えはじめた。しかし、眼はまだぎらつき、唾液が口角で泡立っていた。
「あんたとなら組んで仕事ができそうだ」私は言った。
 銃と彼女の顎が同時に下がった。私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた。
「考えておいてくれ」私は後ろに呼びかけた。
 返事はなかった。何の音もしなかった。
 私は急いで廊下と食堂を通って家を出た。歩いている間も背中が落ち着かなかった。筋肉がむずむずした。
 何も起こりはしなかった。通りを歩いて自分の車に乗り込み、そこを離れた。
 三月最後の日だというのに真夏のように暑かった。運転中、上着を脱ぎたくなった。七十七丁目警察署の前で、パトロール警官が二人、曲がったフロント・フェンダーを睨んでいた。スイングドアから入ると、制服姿の警部補が手すりの後ろで事件簿を見ていた。ナルティは上にいるか訊いた。いるはずだが、知り合いか、と聞いたので、そうだと答えた。彼は、分かった、上がれ、と言い、私は古ぼけた階段を上って廊下伝いに進み、ドアをノックした。怒鳴り声が聞こえたので中に入った。
 ナルティは歯の掃除中だった。椅子に座り、足は別の椅子に預けていた。目の前に腕を伸ばして左手の親指を見ているところだった。親指は何ともなさそうに見えたが、ナルティは陰気に見つめていた、まるで治らないとでも思っているかのように。
 その手を腿まで下げ、足を振って床に下ろし、親指でなく私を見た。ダークグレーのスーツを着ていた。端に噛み跡の残る葉巻が机の上で歯の掃除が済むのを待っていた。
 椅子に結んでいないフェルトのシートカバーを裏返して座り、煙草をくわえた。
「君か」ナルティは言い、爪楊枝が充分噛まれたか検分した。
「うまくいってるか?」
「マロイのことか? もうそれに興味はない」
「どうなってるんだ?」
「どうもこうもない。あいつは逃げた。我々はテレタイプで奴の情報を送り、向こうはそれを受信した。今頃はとっくにメキシコだろうさ」
「そうだな、たかだか黒人一人殺しただけだ」私は言った。「微罪といえるだろう」
「まだ引っかかってるのか? 自分の仕事があるはずだろう?」薄青い眼がじっとりと私の顔を睨め回した。
「昨夜の仕事は長続きしなかった。あのピエロの写真、まだ持ってるか?」
 彼はデスクマットの下を探り、差し出した。相変わらずきれいだった。私はその顔に見入った。
「これは本当は私のものだ」私は言った。「ファイルする必要がないなら、自分で持っていたい」
「ファイルに入れるべきだが」ナルティは言った。「詳しいことは忘れた。オーケイ、ここだけの話だ。そういうことにしておく」
 写真を胸のポケットに入れ、立ち上がった。「じゃあな、用はそれだけだ」言い方が少しはしゃぎ過ぎだった。
「何だか匂うな」ナルティが冷たく言った。
 私は机の端に置かれた一本のロープに目をやった。ナルティは私の視線を追った。そして爪楊枝を床に投げ捨て、噛み跡のある葉巻を口にくわえた。
「これでもないな」彼は言った。
「まだはっきりしない。固まってきたら、君のことを忘れないようにするよ」
「いろいろ大変でね。チャンスが欲しいんだ」
「君のような働き者にこそ与えられてしかるべきだ」私は言った。
 ナルティは、親指の爪で擦ったマッチが一度でついたのが嬉しかったのだろう、葉巻の煙を吸い始めた。
 「笑わせてくれるよ」ナルティは悲しげに言った。私は外に出た。
 廊下は静かだった。建物全体が静まり返っていた。玄関の前ではパトロール警官がまだ曲がったフェンダーをのぞき込んでいた。私は車を走らせてハリウッドに帰った。
 オフィスに足を踏み入れると、電話のベルが鳴っていた。私は机に身を乗り出して言った。「もしもし」
フィリップ・マーロウ様でしょうか?」
「はい、マーロウですが」
「こちらはミセス・グレイルの家の者です。ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイル。ご都合がつき次第、ミセス・グレイルがここでお目にかかりたいそうです」
「お住まいはどちらですか?」
「住所は、ベイ・シティ、アスター・ドライヴ八六二です。一時間以内にお出でになれますか?」
「あなたはミスタ・グレイルですか?」
「そうではありません。執事です」
「ドアの呼び鈴が鳴ったら、それが私だ」私は言った。》

【解説】

「寝具の下で女のからだは木像のように硬直した」は<She was rigid under the bedclothes, like a wooden woman>。村上訳は「布団の中で彼女はさっと身をこわばらせた」だが、清水氏は「彼女は蒲団の上で体を硬ばらせた」と訳している。「蒲団の上」だと、次に女のとる行動に齟齬をきたす。

「目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で」は<Even her eyelids were frozen half down over the clogged iris of her eyes>。清水氏は「半ば眼蓋(まぶた)を閉じ」と短くまとめている。村上氏は「まつげまで凍りついた。それはどんよりした虹彩の上に半分降りかけたまま、固定されてしまった」と訳している。<eyelids>は「まぶた」のはずだが、村上氏はなぜ「まつげ」と訳したのかが分からない。単なるまちがいだろうか。

「女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた」は<Her eyes blinked rapidly, but nothing else moved. She stared>。清水氏は「彼女はからだを緊張させたままだった」と眼については一切触れていない。村上訳は「彼女の目は素ばやくしばたたかれた。しかしそれ以外の部分は微動だにしなかった。彼女はじっと前を睨んでいた」と、ほぼ直訳に近い。

「彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした」は<she said thickly and moved a hand under the bedclothes>。からだを「蒲団の上」に出したままにしている清水氏は「と、彼女はいまいましそうにいって、蒲団の下に手を入れた」と、ここで手だけを蒲団の下にもぐり込ませている。少し分かりやす過ぎるだろう。村上訳だと「と彼女は野太い声で言って、布団の中でもぞもぞと片手を動かした」になる。村上訳は修飾語が増える傾向にある。

「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」は<Not a real copper at that. Just a cheap shamus>。清水氏はここをカットして、前の台詞と併せて「だから嫌いだというんだよ、探偵は」と訳している。村上氏は「それも本物のお巡りですらない。ただのぺらぺらの私立探偵じゃないか」と訳している。

「小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ」は<A small revolver, a Banker's Special. It was old and worn, but looked business-like>。清水氏は「小さなピストルだった。古めかしい、汚れたピストルだった」と、拳銃の種類を明らかにしない。村上訳は「小型のリヴォルヴァーだった。バンカーズ・スペシャル、年代物でくたびれていた。しかし、用は足せそうだ」。バンカーズ・スペシャルは、有名なディテクティブ・スペシャルより銃身が短く軽いコルト社製の小型拳銃だ。

「私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた」は<I was inches from the door. While the gun was still dropping, I slid through it and beyond the opening>。清水氏は「私は少しずつドアからはなれた」と訳している。<I was inches from the door>を<by inches>(少しずつ)と読んだのだろう。村上訳は「私はドアから数センチのところにいた。銃が下に向けられているあいだに、私はドアの外に出て、弾丸の届かぬところに逃れた」だ。

「彼はデスクマットの下を探り、差し出した」は<He reached around and pawed under his blotter>。またしても<blotter>の登場である。清水氏は「彼は吸取紙の下を探って、写真を取り出した」と「吸取紙」説をとる。村上氏は「彼は手を伸ばして、下敷きの下を探った。それを掲げた」と「下敷き」説をとっている。写真を下に挟んでおくのに、何が一番ふさわしいだろう。

「言い方が少しはしゃぎ過ぎだった」は<I said, a little too airily>。清水氏はここをカットしている。村上訳では「と私は言った。私の声はいささか軽やかすぎたのだろう」となっている。

「これでもないな」は<Not this either>。この台詞は、その前の「何だか匂うな」を受けてつぶやかれている。マーロウの行動に不信感を抱き、それとなしに隠し事があるだろう、とほのめかしているのだ。マーロウの目がロープを見たのは、その言葉を文字通りとってみせたからで、ナルティも形式的にそれに追従している。<this>は、匂いのもとのことだ。清水氏も「これでもない」と訳している。

ところが、村上訳を見ると「こっちも手詰まりだ」となっている。<this>はナルティ自身を指している。では何が<not either>なのだろう? その前のマーロウの言った「昨夜の仕事は長続きしなかった」<I had a job last night, but it didn't last>を受けていると読んだのだろう。ナルティの置かれている状況を考えると、こう訳すことで話のつながりはよくなる。しかし、そうすると、その前のロープに関するやりとりが意味を持たなくなる。チャンドラーが、必要もない物を描写するとは思えない。

「笑わせてくれるよ」は<I’m laughing>。清水氏は「俺は笑ってるよ」と訳している。いかにも唐突に見えるが、第六章の「はあ? そいつは愉快だ。非番の日に思い出して笑うことにするよ」を受けての台詞であることは言うまでもない。村上氏は「笑わせるのがうまい男だ」と訳している。マロイの担当がはずれて暇を持て余しているナルティの自嘲だ。非番ではないが、何もできない今の私はせめて笑うしかない、というわけだ。

GWでも混雑とは無縁のドライブコース

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十連休も折り返しに入った。退職後は、毎日が連休みたいなものだから、連休が何日続こうが別にどこへ出かける予定もない。それよりも、なまじ観光地に住んでいるので無駄に道が混むのに閉口する。

それにしても、朝からいい天気だ。妻もどこかに出かけたそうにしている。妻のTwingoGTに乗れるなら、ドライブも悪くない。問題は混雑必至の中でどこを走るのか、ということだ。

時は新緑の真っ最中である。緑の中を爽やかに走りつつ、前の車を気にせず走ることのできる空いた道。ありました。「日本の道百選」にも選ばれている「賢島~長島線」。志摩地方はけっこう人気の観光地なのでそちらは避け、途中から入って紀北を目指す。

目的地は錦町にある「錦向井ヶ浜トロピカルガーデン」(写真)。桜のころによく走る道だ。左手にリアス式海岸を臨む風光明媚な国道260号線。南伊勢を通り途中から入る。地元の人くらいしか走らない道は予想通りガラガラ。

気持よく走りぬける。県道22号線の能見坂も、リアエンジン・リアドライブのTwingoはきびきび走りぬける。ステアリングを握るのが嬉しく感じられる車である。カーブに差し掛かってステアリングを切ると、文字通りくいっと曲がってくれる。シャープなハンドリングが持ち味の車は、こういう道路を走るためにある。

山懐に抱かれるようにひっそりと遠浅の砂浜が続くトロピカルガーデンは、休日に小さな子を連れてくるには最適だ。残念ながら自分たちの子どもが小さい頃にはなかったようだが、孫のできた今なら、連れてきてやれる。

まだ五月が始まったばかりだというのに、ビーチには水着姿で肌をやいている人もいたが、十連休にしては人の出はまばらだ。正午になったので、どこかで食事をと思い、紀伊長島まで足を伸ばした。

道の駅、紀伊長島マンボウは、コペンに乗っていた頃よくオフ会で訪れた。ここの真鯛のあぶり丼は最高だったが、いつのころからかメニューから消えた。それであまり行かなくなったのだが、久しぶりに行ってみることにした。

予想通りの賑わいだったが、どうにか空きを見つけて車を停め道の駅へ。メニューはまた変わって、ラーメンなどが中心になっており、席もなかったのでさんま寿司と握りのパックを買って外で食べた。甘めの味に仕上げたさんま寿司も握りも美味しかった。

帰路は荷坂峠を越えて42号線で帰ってきた。ログハウスを作っていた頃、よく走った道だが、すっかりご無沙汰していた。こちらの道も混雑とは無縁で気持ちよく走ることができた。宮川を越えるところで少し渋滞に捕まったがそれ以外はマイぺースで走り通した。渋滞は嫌いだが、連休中に出かけたいという人におすすめのコースである。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第17章(1)

17

【訳文】(1)

《呼び鈴を鳴らそうが、ノックをしようが、隣のドアから返事はなかった。もう一度試してみた。網戸の掛け金は外れていた。玄関ドアを試してみた。ドアの鍵は開いていた。私は中に入った。
 何も変わっていなかった、ジンの匂いすらも。床にまだ死体はなかった。昨日ミセス・フロリアンが座っていた椅子の傍のテーブルに汚れたグラスが載っていた。ラジオは消してある。ダヴェンポートに行き、クッションの後ろを探った。空き瓶に仲間が増えていた。
 呼んでみたが、返事はない。それから、うめき声のような、長くゆっくりとした惨めな息遣いが聞こえたように思った。アーチを通って小さな廊下に忍び入った。寝室のドアが少し開いていて、その後ろからうめき声が聞こえてきた。首を突っ込んで中をのぞいた。
 ミセス・フロリアンはベッドにいた。仰向けに横になり木綿の掛け布団を顎まで引いていた。掛け布団についた小さな毛玉のひとつが、今にも口の中に入りそうだ。長い黄色い顔は緩みきって、半ば死んでいた。汚れた髪は枕の上で縺れていた。眼がゆっくり開き、何の感情もなく私を見た。部屋は眠りと酒、汚れた服の臭いでむかむかした。六十九セントの目覚まし時計が、灰白色の塗料の剥げかけた衣装箪笥の上で時を刻んでいた。その上で鏡が女の歪んだ顔を映していた。写真を取り出したトランクの蓋は開けっ放しだった。
 私は言った。「こんにちは、ミセス・フロリアン。具合でも悪いのですか?」
 彼女はゆっくりと唇を動かして一方を他方とこすり合わせた。それから舌を出して両唇を湿らせ、顎を動かした。口から洩れてきた声は使い古されたレコードのようだった。その目は私のことを分かったようだが、喜んではいなかった。
「捕まえたのかい?」
「ムースのことかな?」
「そう」
「まだだ。もうすぐだと願ってるよ」
 彼女は両眼を窄め、それからぱっと開いた。まるで目にかかった膜を振り払おうとでもするように。
「家に鍵をかけておく方がいい」私は言った。「あいつが戻ってくるかも知れない」
「私が怖がってると思うのかい、ムースのことを?」
「昨日私と話しているとき、そのように見せていたじゃないか」
 彼女はそれについて考えた。考えることは骨の折れる仕事だった。「酒はあるのかい?」
「いや、今日は持ってきていない、ミセス・フロリアン。現金の持ち合わせがなくてね」
「ジンは安いよ。願ったりさ」
「少ししたら買いに行けるかもしれない。マロイのことは怖くないんだな?」
「どうして怖がらなきゃいけない?」
「分かった。あなたは怖がってなどいない。で、いったい何が怖いんだ?」
 彼女の眼に光が飛び込んできて、しばらくじっとしていたが、やがて消えていった。「帰っとくれ。あんたらお巡りときたら、全く胸くそが悪いよ」
 私は何も言わなかった。ドアの枠に寄りかかって、タバコをくわえ、鼻先につくくらい持ち上げようとした。これは見かけより難しい。
「お巡りなんかに」彼女はゆっくり言った、自分自身に言い聞かせるかのように。「あいつは捕まりっこない。腕が立つし、金もある。仲間だっている。時間の無駄遣いってものさ」
「そういう手順になってるんだ」私は言った。「いずれにしても実質的には正当防衛だ。どこへ行ったと思うね?」
 彼女はくすくす笑い、木綿の羽根布団で口を拭った。
「今度はおべっかをつかうんだ」彼女は言った。「戯言を言うもんじゃない。そんな手が通用すると思ってるのかい?」
「私はムースが好きだ」私は言った。
 彼女の眼が興味で輝いた。「あいつを知ってるのかい?」
「昨日、セントラル街で黒人を殺したとき一緒にいたんだ」
 彼女は口を大きく開け、腹をよじって笑い出した。その声はブレッドスティックを折る音より小さかった。涙が眼から溢れ頬を伝った。
「大きくて強い男」私は言った。「優しい心の持ち主でもある。ヴェルマをとても恋しがっていた」
 眼が陰った。「あの娘を探してるのは親戚だと思ってたけど」彼女は優しく言った。
「そうさ。でも、死んだと言ったじゃないか。もうどこにもいない。どこで死んだんだ?」
「ダルハート、テキサスの。風邪をこじらせて肺をやられ、逝っちまった」
「あんたもそこにいたのか?」
「まさか、聞いただけさ」
「誰に聞いたんだ。ミセス・フロリアン?」
「どこかのタップ・ダンサーさ。名前は忘れちまったよ。一杯飲めば思い出せるかもしれない。デス・ヴァレーみたいに渇き切ってるんでね」
「そして、あんたは死んだ驢馬のように見える」私はそう思ったが、口に出しては言わなかった。「もう一つだけ」私は言った。「そうしたら、ジンを買いに出かけよう。あんたの家の権利がどうなってるか調べてみた。たいした理由はないんだが」》

【解説】

「床にまだ死体はなかった」<There were still no bodies on the floor>。清水氏はここをカットしている。しゃれた文句だが、トバしてもかまわないと踏んだのだろう。村上訳は「床の上にはやはり死体は転がっていなかった」。

「それから、うめき声のような、長くゆっくりとした惨めな息遣いが聞こえたように思った」は<Then I thought I heard a long slow unhappy breathing that was half groaning>。ここを清水氏は「寝室から寝息が聞こえたような気がした」と短くまとめている。村上氏は「それから長く、ゆっくりとした、幸福とは縁遠い呼吸音が聞こえたような気がした。どちらかといえばうめきに近い代物だ」と訳している。

「木綿の掛け布団」と訳したところ、清水氏も「木綿の掛蒲団」だが、村上氏は原文の<a cotton comforter>をそのまま使い「コットンのコンフォーター」としている。たしかに、厳密にいうと「掛布団」と「コンフォーター」の間には区別があるらしい。アメリカでいう「コンフォーター」は、厚手の羽毛布団のことだ。外国暮しの経験のある村上氏にとって「コンフォーター」はなじみがあるのかもしれないが、日本ではまだまだそれほど知られていないのではないだろうか。

「部屋は眠りと酒、汚れた服の臭いでむかむかした」は<The room had a sickening smell of sleep, liquor and dirty clothes>。清水訳は「部屋には異臭が充ちていて」とあっさりしたものだ。村上訳は「部屋には、眠りと酒と不潔な衣服の匂いがこもっていた。気分が悪くなりそうだった」。

「その目は私のことを分かったようだが、喜んではいなかった」は<Her eyes showed recognition now, but not pleasure>。清水氏はここもカットしている。ここはカットするべきところではないと思うのだが。村上訳は「その目は私の姿をようやく認めたようだが、とりたてて嬉しそうには見えなかった」と、意を尽くした訳しぶりだ。

「考えることは骨の折れる仕事だった」は<Thinking was weary work>。清水氏はここもカット。村上訳は「考えるとくたびれるようだった」と、マーロウの目線で訳している。アルコール常用者が目を覚ましたばかりである。昨日と今日の区別もついていないだろう。特に異論はないが、マーロウの、というより話者の言葉と考えて訳してみた。アル中の老婆に限らず、考えることは探偵にとっても骨の折れる仕事にちがいはないからだ。

「ジンは安いよ。願ったりさ」は<Gin's cheap. It hits>。清水氏は「ジンなら、安いよ」。村上氏は「ジンなら安いし、酔いのまわりが早い」と訳している。<hit>を「打つ」と解釈して「酔いのまわりが早い」と訳したのだろう。しかし、<hit>には「目的、好みに合う」という意味もある。拙訳は後者をとった。

「彼女は口を大きく開け、腹をよじって笑い出した。その声はブレッドスティックを折る音より小さかった」は<She opened her mouth wide and laughed her head off without making any more sound than you would make cracking a breadstick>。これでもう何度目だろう、<breadstick>がとうじょうするのは。当然のことに清水氏はそんなことに頓着せず「彼女は口を大きく開いて、ゲラゲラ笑い出した」と訳している。

村上氏は「彼女は口を開け、身体を揺すって笑ったが、実際に出てきた声は棒パンを折った程度の音だった」と律儀に訳している。ブレッドスティックは、食事のときにグラスに差して供される、細い棒状のパン。チャンドラーはこれを使った比喩がお気に入りらしく何度も使っている。「ゲラゲラ」では音が大きすぎるだろう。

「ダルハート、テキサスの」は<Dalhart, Texas>。清水訳は「テキサス州ダルハート」。村上訳は「テキサスのダラートだよ」だ。問題は<Dalhart>の読み方だ。ウィキペディアでは「ダルハ-ト」になっているが、心もとないのでブリタニカ国際地図で調べてみた。「ダルハート」と書かれていた。村上氏は何に拠って「ダラート」にしたのだろう?

<「そして、あんたは死んだ驢馬のように見える」私はそう思ったが、口に出しては言わなかった>は<“And you look like a dead mule,” I thought, but didn't say it out loud.>。例によって清水氏はここをカットしている。村上訳は<「見かけは死んだラバのようだが」と私は心の中で思ったが、もちろん声には出さなかった>だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第16章

16


【訳文】

《そのブロックは前日に見たのとそっくり同じだった。氷屋のトラックと私道の二台のフォードを除けば通りは空っぽで、角を曲がったところでは砂埃が渦を巻いていた。私は車をゆっくり走らせて一六四四番地の前を通り過ぎ、離れたところに停め、道の両側に並んだ家々に目を配った。歩いて引き返し、その家の前に立ち止まって、繁り放題の椰子の木とひからびて色褪せた芝生の端くれを見た。家は無人のように見えたが、多分ちがう。そういう見かけなのだ。揺り椅子がぽつんと玄関ポーチの昨日と同じところにあった。アプローチの上に新聞が投げ込まれていた。それを拾い上げて足をはたいた。すると、隣家のカーテンが動くのが見えた。玄関近くの窓だ。
 またあのお節介な婆さんだ。私は欠伸をし、帽子をあみだにかぶり直した。尖った鼻が窓ガラスにくっついてほとんどひしゃげて見えた。その上には白髪があって、私の立つところから見る限り、眼はただの眼だった。私は歩道をぶらぶら歩いた。眼は私を追っていた。私は踵を返し、女の家に向かった。木の階段を上り、ベルを鳴らした。
 ドアは発条仕掛けのようにバタンと開いた。兎みたいな頤をした背の高い老婆だった。近くで見る眼は静かな水面に映る光のように鋭かった。私は帽子を脱いだ。
「あなたですね、ミセス・フロリアンの件で警察に電話した女性というのは?」
 女は私を冷静に見つめ、何も見逃さなかった。おそらく私の右肩甲骨上にあるほくろさえ見透かしていたにちがいない。
「そうだとは言わないよ、若いの。そうでないともね。あんた誰なんだい?」鼻にかかった甲高い声だった。八本の共同加入線を通してしゃべるためにできているような声だ。
「探偵です」
「何だって。なぜそう言わないのさ? あの女、何かやったのかい? 何も見てないよ、一分たりとも目を離さなかったけど。ヘンリーが私の代わりに店に買い物に行ってくれるんでね。あそこからは物音ひとつ漏れてこなかった」
 女は音立てて網戸の鉤を外し、私を中に入れた。玄関ホールには家具用オイルの匂いがした。かつては上品だったと思われる暗い色調の家具がたくさん並んでいた。象嵌細工の鏡板仕上げで隅に扇形の縁飾がついている。我々は居間に入った。ピンの打てる物にはすべて綿レースの椅子カバーがピンで止められていた。
「前にも会ったことがあるね?」彼女はいきなり訊いた。声には疑いの響きが蠢いている。「まちがいない。あんたはあの時の男―」
「その通り。そして相も変わらず探偵をやってる。ヘンリーというのは?」
「ああ、私の使い走りをさせてるただの黒人の子さ。それで何がお望みだい、お若いの?」小ざっぱりした赤と白のエプロンを軽くたたくと、私に目を光らせた。そして入れ歯の具合を確かめるように二、三度かちかち鳴らして見せた。
「昨日、ミセス・フロリアンの家に来た後、役人たちはここへ寄りましたか?」
「どんな役人だい?」
「警官の制服を着た役人たちです」私は根気よく言った。
「ああ、ちょっとだけ。連中、何も知っちゃいなかった」
「大男のことを聞かせてください―銃を持った男です。あなたが電話することになった」
 女はその男のことを描写した。申し分なく的確に。マロイにちがいない。
「どんな車に乗っていました?」
「小さな車だよ。乗り込むのに苦労してた」
「他に何か覚えていませんか? その男は殺人犯なんですよ!」
 女は口をぽかんと開けたが、目は喜びに溢れた。
「驚いたね、教えてやれたらいいんだがね、若いの。車についちゃ詳しくないもんでね。殺人犯だって? この街もすっかり物騒になったもんだ。二十二年前に越してきた頃は誰もドアに鍵をかけたりしなかった。それが今じゃギャングと腐ったお廻り、それに政治家がマシンガン片手に殺し合ってるというんだから、人聞きが悪いじゃないか、ええ、若いの」
「まったく。ミセス・フロリアンについて何かご存知ですか?」
 小さな口がすぼまった。「はた迷惑な女さ。夜遅くまでラジオを鳴らしててね。歌うんだ。誰とも話はしなかった」彼女は少し身を乗り出した。「はっきりしたことは言えないけど、私の見るところ、あの女は昼間から酒を飲んでるね」
「客は多い方でしたか?」
「客なんてさっぱり来やしないよ」
「あなたはご存知のはずですよね、当然のことながら、ミセス―」
「ミセス・モリスン。ああ、知ってるよ。何かすることがあるかい、窓の外を見る他に?」
「さぞ愉快でしょうな。ミセス・フロリアンはここは長いんですか?」
「十年くらいになるかね、たしか。以前は亭主持ちだった。ろくでなしみたいに見えたがね。死んだよ」彼女は間をとって考えた。「自然死だと思うね」彼女は付け足した。「何も変わったことは聞かなかった」
「金は遺しましたか?」
 女の眼が後退し、次いで顎が従った。鼻をクンクンさせた。「あんた酒を飲んでるね」彼女は冷たく言った。
「歯を一本抜いたところでして。歯医者がくれたんです」
「賛成しかねるね」
「よくはありませんが、薬代わりですから」私は言った。
「賛成しかねるね、いくら薬だといっても」
「お説ごもっとも」私は言った。「金は遺したんですか? ご亭主は」
「よくは知らない」口の大きさはプルーンみたいで滑らかだった。私は仕損じた。
「警官が帰ったあと、誰か来ませんでしたか?」
「誰も見てないね」
「ありがとうございました、ミセス・モリスン。伺いたかったことは以上です。大変役に立ちました。ご親切に感謝します」
 私は部屋を出て、玄関のドアを開けた。彼女は後からついてきて、咳払いをし、歯をかちかちと鳴らした。
「電話は何番にかけたらいいんだね?」彼女は訊いた。少し不憫に思ったのだろう。
「ユニバーシティ四-五〇〇〇です。ナルティ警部補を呼んでください。彼女はどうやって暮らしてるんでしょう。生活保護ですか?」
「この近所には生活保護世帯はいない」彼女は冷やかに言った。
「その食器戸棚、かつてはスーフォールズ辺りで賞賛の的でしたよね」彫刻された食器棚を眺めながら私は言った。台所に置くには大きすぎてホールに置かれていた。両端が湾曲し、彫刻された細い脚を持ち、至る所に象眼細工が施され、前面に果物籠が描かれていた。
「メイソン・シティ」彼女は優しく言った。「そうなの、以前はあそこに素敵な家を持ってたの。私とジョージのね。あそこは最高だった」
 私は網戸を開けて外に出しな、もう一度礼を言った。彼女は今では微笑んでいた。その微笑みはその眼に負けず劣らず抜け目のないものだった。
「月初めに書留が届く。毎月ね」彼女は不意に言った。
 私は振り返って待った。彼女は身を乗り出した。「郵便配達が玄関のドアまで行って、彼女のサインをもらうのが見える。毎月の初日に。めかし込んでからお出かけさ。一日中帰ってこない。夜は遅くまで歌を歌うの。うるさくて何度警察に電話しようと思ったことか」
 私は痩せた意地の悪い腕を軽く叩いた。
「あなたは千人に一人の逸材だ、ミセス・モリスン」私は言った。私は帽子をかぶり、彼女に少し傾けて、そこを離れた。私道を半分ほど行ったところで思うところがあって引き返した。彼女はまだ網戸の内側に立ってこちらを見ていた。家のドアは彼女の後ろで開いたままだ。私は階段まで戻った。
「明日は一日です」私は言った。「四月一日エイプリル・フールです。書留が届くかどうか気をつけていてもらえませんか。どうでしょう、ミセス・モリスン?」
 その目が輝いてこちらを見た。彼女は笑い出した。甲高い老婦人の笑い声だ。「エイプリル・フール」彼女はくすくす笑った。「待ちぼうけを食わされることになりそうね」
 私は笑い続ける女を後にした。牝鶏がしゃっくりしているみたいな響きだった。》

【解説】

「繁り放題の椰子」は<the tough palm tree>。第五章で初登場した時は<a tough-looking palm tree>だった。清水氏はそのときも「みすぼらしい棕櫚の樹(木)」と訳している。第五章では「強面の椰子の木」と訳してみたが、<looking>が消えたので、こう訳してみた。村上氏は第五章では「強情そうな椰子の木」だったが、今回は「かたくなな椰子の木」と訳している。

「揺り椅子がぽつんと玄関ポーチの昨日と同じところにあった」は<The lonely rocker on the front porch stood just where it had stood yesterday>。清水氏はここをカットしている。第五章では「安楽椅子」と訳していたが、さすがに安楽椅子がポーチに置きっぱなしになっているのはおかしいと気づいたのだろう。村上訳では「フロントポーチには孤独な揺り椅子がひとつ、前日見かけたとおりのかっこうで置かれていた」になっている。

「帽子をあみだにかぶり直した」は<tilted my hat down>。清水氏は「帽子をかぶりなおした」と訳している。村上訳はというと「帽子をちょっと後ろに傾けた」だ。帽子を後ろに傾けることを、日本語では「あみだ(にする)」というのだが、今では死語だろうか。その前の「お節介な婆さん」<Old nosey>を清水氏が「金棒引き」と訳しているのもそうだが、こういう言葉が日に日に失われてゆくのが惜しい。今の読者に通じるかどうか、という問題はあるが、使える表現は残していきたいものだ。

「その上には白髪があって、私の立つところから見る限り、眼はただの眼だった」は<White hair above it, and eyes that were just eyes from where I stood>。清水氏は「まばたきもせずに、こちらを見つめている」と訳している。村上氏は「その上に白髪がある。こちらから見ると、目だけが浮き上がって見えた」だ。<just>をどう解釈しているのかの違いが訳に現れる。両氏とも興味津々、という解釈のようだ。ここは、マーロウが覗き屋の婆さんをどう見ているのか、ということではないか。鼻はひしゃげるほど変化しているが、見たところ、眼はそれほど変わったところはない。つまり、正常だ、というふうに。

「私は歩道をぶらぶら歩いた。眼は私を追っていた」は<I strolled along the sidewalk and the eyes watched me>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「私が歩道をゆっくり歩いていくのを、その目はじっとうかがっていた」と、訳している。微妙にちがうように思うが、問題にするほどではない。

「ドアは発条仕掛けのようにバタンと開いた」は<The door snapped open as if it had been on a spring>。清水氏は「すぐドアがあいて」と<as if it had been on a spring>をトバしている。村上訳は「ドアはバネ仕掛けみたいに勢いよく開いた」だ。

「八本の共同加入線を通してしゃべるためにできているような声だ」は<made for talking over an eight party line>。清水氏は例によってこの部分をカット。日本語にしても意味が通じるかどうかわからないと考えたのだろう。村上氏ささすがに丁寧だ。「共同加入電話で八つの回線が重なっても、支障なく会話が続けられる声だ」と、うまく説明を加えている。こういうところは村上氏の貢献度の高いところだ。

「声には疑いの響きが蠢いている」は<a note of suspicion crawling around in her voice>。清水氏はここもカット。村上訳は「彼女の声には疑念の響きが潜り込んできた」だ。<crawl>は「這い進む、うじゃうじゃいる」のような意味。

「連中、何も知っちゃいなかった」は<They didn't know nothing>。清水氏は「何も知らなかったわ」と訳している。村上氏の訳では「役立たずのとろい(傍点三字)連中だよ」となっている。ミセス・モリスンは普通なら<They didn't know anything>と言うところを二重否定にしている。一般的には二重否定は肯定の意味になるが、ここはそうではない。となると、ミセス・モリスンが正しい言い方をしなかったことを匂わせているのだろう。村上訳が下卑た口調を使っているのは、そういう意味があるのかもしれない。

「銃を持った男です。あなたが電話することになった」は<the one that had a gun and made you call up>。清水氏は後半をカットして「ピストルを持っていたという男は?」と訳している。村上訳は「銃を持っていた男です。そのことであなたは警察に電話をしたのでしょう」と、「警察」の一語を加えて話のとおりをよくしている。

「他に何か覚えていませんか」は<That's all you can say>。清水氏はここもカット。村上訳は「ほかに何かおもいだせませんか」。

「小さな口がすぼまった」は<The small mouth puckered>。会話の途中にはさまれる部分を省略することが多い清水氏はここもカットしているが、老婆の口についての言及は後に出てくるので要注意だ。村上訳は「その小さな口はぎゅっとすぼめられた」。

「女の眼が後退し、次いで顎が従った」は<Her eyes receded and her chin followed them>。清水氏はここを「彼女は顎を突き出して」と訳している。次の「鼻をピクピクさせた」に引きずられたのだろうが、<recede>は「後ろに退く」であって、前に「突き出す」ではない。村上訳は「彼女の両目は後ろに退き、顎もそれに従った」。

「口の大きさはプルーンみたいで滑らかだった。私は仕損じた」は<Her mouth was the size of a prune and as smooth. I had lost out >。清水氏は「彼女の口はすもも(傍点三字)ほどの大きさで、ぶっきらぼうだった」と訳し、その後の<I had lost out>をカットしている。村上氏は「彼女の口はスモモくらいの大きさになった。そしてスモモのようにつるりとしていた。私は信用を失ったようだ」と訳している。<smooth>を「ぶっきらぼう」と訳すのは無理がある。村上氏は形状の比喩だと取ったようだ。先ほどまで口を尖らせていたのが急におさまったことを言っている。形より、口調ではないだろうか。

「その食器戸棚、かつてはスーフォールズ辺りで賞賛の的でしたよね」は<I bet that side piece was the admiration of Sioux Falls once>。清水氏は「立派な食器棚ですね。これは値打ちもんだ」と訳している。スーフォールズはサウスダコタ州最大の都市の名。州の東端にあり、次に出てくるメイソン・シティのあるアイオワ州とは州境をはさんで隣同士。先の地名をカットしたので、清水氏は次もカットしてしまっている。村上氏は「ああいう手の込んだサイドボードは、かつてはスー・フォールズあたりで作られていたと思いますが」と訳している。大きすぎて食堂に入りきらないサイドボードというのがちょっと想像できないのだが。

「そうなの、以前はあそこに素敵な家を持ってたの。私とジョージのね。あそこは最高だった」は<Yessir, we had a nice home once, me and George. Best there was>。清水氏は「これでも、昔は相当な暮しをしていたのさ。自慢じゃないけれど……」と紋切型の台詞に改編している。村上訳は「そうだよ、あたしたちはそこに立派な家を持っていた。私とジョージとでね。町でも最高の家だったよ」だ。

「その微笑みはその眼に負けず劣らず抜け目のないものだった」は<Her smile was as sharp as her eyes>。清水氏はここをカットしている。大事なところだと思うのだが。村上訳は「その微笑みは、目つきに劣らず隙がなかった」。

「私は痩せた意地の悪い腕を軽く叩いた」は<I patted the thin malicious arm>。清水氏は「私は彼女の痩せた腕を叩いて」と<malicious>(悪意のある、意地の悪い)を訳していない。村上訳は「彼女の悪意に満ちた腕を私は軽く叩いた」だが、こちらは<thin>(痩せた、細い)をカットしている。必要のない「彼女の」はわざわざ書いているくせに。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第15章

15


【訳文】

《女の声が答えた。乾いたハスキーな声で外国なまりがあった。「アロー」
「アムサーさんとお話ししたいのだが」
「あのう、残念です。とってもすみません。アムサー電話で話すことありません。わたし秘書です。伝言をお聞きしましょう」
「そこの住所はどうなってる? 会いたいんだが」
「ああ、あなたアムサーに仕事で相談したいですか? 彼とっても喜ぶでしょう。でも、彼とっても忙しい。いつ会いたいですか?」
「今すぐに。今日のうちにでも」
「ああ」残念そうな声だった。「それ無理です。たぶん来週なら。予定表を確かめます」
「いいかい」私は言った。「予定表はいいんだ、鉛筆はあるかい?」
「もちろん鉛筆ならあります、が―」
「書き留めてくれ。名前はフィリップ・マーロウ。住所はハリウッド、カフェンガ・ビルディング六一五。ハリウッド・ブルヴァードのアイヴァー・アヴェニュー付近だ。電話番号はグレンビュー七五三七」難しい綴りを教えて、待った。
「イエス。ミースタ・マーロウ。書き留めました」
「マリオットという男のことで会いたい」これも綴りを教えた。「大至急。人の生き死にがかかっている。急いで彼に会いたい。い―そ―い―で―急いで。言い換えれば、至急。分かったかね?」
「あなたのしゃべり方、とっても変です」外国訛りの声が言った。
「大丈夫」私は電話の架台を握りしめて振った。「調子は上々だ。私はいつもこんなふうにしゃべるんだ。これはちょっと奇妙な一件でね。ミスタ・アムサーはきっと会いたがるはずだ。私は私立探偵なんだが、警察に行く前に彼に会っておきたいんだ」
「ああ」声がカフェテリアの定食のように冷たくなった。
「あなた警察のひと、ちがう」
「あのねえ」私は言った。「私は警察のひと、ちがう。私は私立探偵。内密の話。しかし、急いでるのは同じだ。君は折り返し電話する。いいか? 電話番号、持ってる?」
「シ。電話番号、持ってる。ミースター・マリオットの具合、悪い」
「まあね。ピンピンしてはいない」私は言った。「君は彼を知ってるのか?」
「いいえ。あなた、生き死にがかかっていると言った。アムサー多くの人を助けます」
「今回に限って彼の出番はない」私は言った。「電話を待ってる」
 私は電話を切り、オフィス用のボトルに手を伸ばした。肉ひき機の中を通ったような気分だった。十分が過ぎた。電話が鳴り、その声が言った。
「アムサー、六時にお会いします」
「それはよかった。住所はどこだ?」
「車を回します」
「車は持っている。教えてくれれば―」
「車を回します」声は冷たかった。電話の切れる音がした。
 もう一度時計に目をやった。昼食の時間を過ぎていた。さっきの一杯で胃が焼けていた。腹はすいていなかった。煙草に火をつけた。配管工のハンカチのような味がした。私はオフィス越しにミスタ・レンブラントにうなずき、帽子をとって外に出た。エレベーターまで半分ほど来たところで、あることに思い至った。理由も意味もなく思い浮かんだ。煉瓦が落ちてくるみたいに。私は足をとめ、大理石の壁に凭れ、帽子を引っ被り、いきなり笑い出した。
 エレベーターから降りて、仕事に戻る途中の女の子が前を通り過ぎ、振り返って一瞥をくれた。ひとの背骨をストッキングに走る伝線みたいに感じさせずにおかないその手の視線だった。私は手を振ってこたえ、オフィスに戻り、電話機をつかんだ。不動産の土地台帳を担当している知り合いに電話した。
「住所だけで所有者は見つけられるものかい?」
「もちろん。相互参照というものがあるからな。何が知りたい?」
「西五十四番街一六四四番地。所有者がどうなっているのかちょっと知りたいんだ」
「折り返し電話するよ。何番に掛ければいい?」
 およそ三分後に電話がかかってきた。
「鉛筆を用意しろ」彼は言った。「それは、メイプルウッド第四造成地、キャラディ拡張部、十一区画の八番だ。ある種の条件つきだが、記録上の所有者はジェシー・ピアース・フロリアン、未亡人となっている」
「それで、どんな条件がついてる?」
「税金下半期分、十年間道路改修公債二期分、雨水排水査定公債一期分、これも十年間、これらのどれも延滞している。それに最初の信託証書二千六百ドルも未納だ」
「つまり、通告後十分以内に売却可能ってことか?」
「そうすぐには無理だが、担保物件よりは速いだろうな。金額以外には変わったところはない。近所に比べて高額すぎるんだ。新しい家でもないくせに」
「かなり古い家で、ろくに修理もしていない」私は言った。「買うとしたら千五百ドルくらいだろう」
「これは普通じゃないな、四年前に抵当権が肩代わりされたばかりだ」
「それで、誰が持ってるんだ。どっかの投資会社か?」
「いや、個人だ。男の名前はリンゼイ・マリオット。独身。これでいいか?」
 私は忘れてしまった。何を言ったのか、何と礼を言ったのかを。何か言葉のように聞こえたはずだ。私はそこに座ってただ壁を見つめていた。
 急激に胃の調子が戻った。空腹を覚えた。私は下に降りてマンション・ハウスのコーヒーショップで昼食をとり、うちのビルディングの隣の駐車場から車を出した。
 南西に走り、西五十四番街に向かった。今回は手土産にどんな酒も用意しなかった。》

 【解説】

電話口に出た秘書はきついなまりがある。h音を発音しなかったり、r音を巻き舌風に発音する様子が原文から分かるのだが、清水氏は特にそれを伝えようとはしていない。「アロー」の後の台詞、清水訳は「お気の毒ですけれど、アムサーは電話には出ないのです。私は彼の秘書です。ご用件をお聞きしましょう」と、流暢に話している。

村上訳では「ああ、申し訳ありません。まことにすみません。アムサーは電話では話をしないのです。わたし彼の秘書です。伝言をわたしうけたまわります」と後半少したどたどしい。因みに原文は<Ah no. I regret. I am ver-ry sor-ry. Amthor never speaks upon the telephone. I am hees secretary. Weel I take the message?>。<ver-ry sor-ry>や<hees><weel>が訛りを強調しているところだ。

こういうところをどこまで翻訳で生かすかは訳者の考え次第だろう。ただ、チャンドラーはかなりしつこく、この秘書の口調をまねている。そこは訳文でも伝えたいところだ。たとえば「ああ、あなたアムサーに仕事で相談したいですか? 彼とっても喜ぶでしょう。でも、彼とっても忙しい。いつ会いたいですか?」のところ。

原文は<Ah, you weesh to consult Amthor professionally? He weel be ver-ry pleased. But he ees ver-ry beesy. When you weesh to see him?>。清水訳は「アムサーは喜んでお会いしますけれど、とても忙しいので……。いつお会いになりたいんですの?」。村上訳は「ああ、あなたはアムサーに相談があるのですか、彼の仕事として? それはアムサーの喜びとするところです。しかし彼、とーても忙しいです。あなた、いつがご都合よろしいでしょうか」だ。苦心の作だとは思うが「とーても」は、やり過ぎではないか。

「残念そうな声だった」は<the voice regretted>。清水氏は同じ人物の「が続けて話す場合の会話と会話の間に入る<○○said>を省略することが多い。単に<she said>なら、略してもあまり変わりはないだろうが、そこに話し手の感情なり意志なりが表現されている場合、簡単にカットすべきではないと思う。村上訳は「とその声は残念そうに言った」。

「ハリウッド・ブルヴァードのアイヴァー・アヴェニュー付近だ」は<That's on Hollywood Boulevard near Ivar>。清水氏は「ハリウッド・ブールヴァードだ」と<Ivar>をカットしている。後で、迎えの車を回すという話が出てくるので、ここは詳しく書いておく必要があると思う。村上訳は「ハリウッド・ブールヴァードのアイヴァー通りの近くにある」だ。

「イエス。ミースタ・マーロウ。書き留めました」は<Yes, Meester Marlowe. I 'ave that>。清水訳は「書きましたわ、マーロウさん」と、ふつう。村上訳は「はい、ミースタ・マーロウ。書き留めました」。「イエス」と訳したのはわざと。次に出てくる「シ(スペイン語で「はい」の意味)」との類比のためだ。

「これも綴りを教えた」は<I spelled that too>。清水氏はここをカットしている。氏はその前のマーロウの台詞に続く<I spelled the hard ones and waited>をカットしているので、必然的にここもカットせざるを得ない。こういったどうでもいいような細部を大事にすることで、<Marriott>のスペルをまちがえるとアムサーに通じないだろうという、マーロウの老婆心が伝わらない。村上訳は「私はその綴りも教えた」だ。

「急いで彼に会いたい。い―そ―い―で―急いで。言い換えれば、至急。分かったかね?」は<I want to see him fast. F-a-s-t-fast. Sudden, in other words. Am I clear?>。清水氏はここもカットしている。どうも、こういう部分を煩雑だと感じて切り捨てているようだ。ハードボイルドとはいえ、ミステリなんだから、どうでもいいと思えるような些末な事実が後で効いてくることもある。勝手な省略は避けるべきだ。村上訳は「急いでミスタ・アムサーに会わなくてはならない。い・そ・い・で。わかるね。別の言葉でいえば、すぐさま(傍点四字)だ。話、通じたかな?」と丁寧に訳している。

「あなたのしゃべり方、とっても変です」は<You talk ver-ry strange>。清水氏はここを「妙なことおっしゃるのね」と訳しているが、これは誤訳と言っていいと思う。ここで秘書が変だと感じているのは、話の内容でなくマーロウのしゃべり方の方だ。会話の中でのくだくだしいやり取りを無用なものと切って捨てたために、清水氏はこの発言の意味を取り違えたのだろう。村上訳は「あなたのしゃべり方、とーても変です」だ。

「調子は上々だ。私はいつもこんなふうにしゃべるんだ」は<I feel fine. I always talk like that>。清水氏は「ちっとも妙じゃないんだ」と無理やり訳しているが誰が読んでもしゃべり方のことだと分かる。村上氏は「おかしなところはない。私はいつもこんなしゃべり方をするんだ」と、話題になっていうのがしゃべり方であることを強調している。

「帽子をとって外に出た」は<then I reached for my hat and went out>。清水氏はここを「帽子をかぶって廊下に出た」と訳している。実はこの帽子が後でもう一度出てくる。しかし、清水氏は例によってそこをカットしている。それは<and pushed my hat around on my head>の部分だが、村上訳だと「帽子をしばらく頭に馴染ませ」となっている。

<push around>は「乱暴に扱う、こき使う」の意味で、「頭に馴染ませる」というよりは、もっと乱暴な扱いをされたはず。マーロウはそれまで手にしていた帽子をここでかぶったのだろう。おそらく帽子の上からも頭を叩いたにちがいない。何か大事なことを思いついた頭に対してよくやったというように。すでに帽子をかぶらせていた清水氏は帽子の扱いに困ってここをカットした。そんなところだろう。

「ひとの背骨をストッキングに走る伝線みたいに感じさせずにおかないその手の視線だった」は<gave me one of those looks which are supposed to make your spine feel like a run in a stocking>。この背筋がぞわぞわっとする卓抜な比喩を、清水氏は「不思議そうに私を見つめた」と訳してしまう。女性のストッキングから伝線というものが消えた今となっては、是非記憶にとどめておきたい表現だろうに。村上氏は「人の背骨をストッキングの伝線のように思わせてしまうような視線だった」と、淡々と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第14章(2)

14
【訳文】(2)

《電話のベルが鳴り、上の空で電話に出た。冷静で非情な、自分を優秀だと思い込んでいる警官の声。ランドールだ。決して声を荒らげることはない。氷のようなタイプだ。
「通りすがりだったんだよな、昨夜ブルバードで君を拾ってくれた娘は? そこまで君は歩いて行った。よくそんな嘘何かがつけるもんだな。マーロウ」
「君に娘がいたとしよう。茂みから飛び出してきたニュース・カメラマンにフラッシュを浴びせられたくはないだろう」
「君は私に嘘をついた」
「お役に立ててよかった」
 彼はしばらく黙ったままでいた。何かを決めかねているように。「いいだろう。なかったことにしよう」彼は言った。「彼女に会ったよ。やってきて自分の知ってることを話していった。私がリスペクトしている人の娘だ」
「彼女は君に話した」私は言った。「そして、君は彼女に話した」
「ほんのさわりだけだ」彼は冷たく言った。「理由があってね。電話したのも同じ理由だ。隠密捜査になりそうだ。宝石ギャングを壊滅するいい機会なんでね。そうするつもりだ」
「一夜明けたらギャングの殺人事件になったわけだ。なるほどね」
「それはともかく、あれはマリファナの屑だったよ。おかしな煙草入れに入ってた―龍がついていたやつだ。そこから出して吸うところを君が見ていないのは確かだな?」
「間違いない。私の前では別の煙草を吸っていた。とはいえ始終目の前にいた訳じゃない」
「なら、いい。それだけだ。昨夜私が言ったことを忘れるな。この件に首を突っ込んだりしないことだ。だんまりを決め込むに限る。さもなければ―」
 彼は間を置いた。私は受話器に向かってあくびをした。
「聞こえたぞ」彼は咬みついた。「たぶん君は私に手が出せないと思ってるんだろう。やるさ。ひとつでも何かやらかしてみろ、重要参考人として逮捕する」
「この事件についちゃ、新聞は蚊帳の外ということかい?」
「殺人の件は漏らすさ―しかし、背後について知ることはないだろう」
「君だって同じだろうに」私は言った。
「君に警告するのは今ので二度目だ」彼は言った。「三度目はないぞ」
「おしゃべりが過ぎる」私は言った。「切り札を握る男に向かって」
 電話は話の途中で一方的に切れた。オーケイ。もううんざりだ。好きにさせておくさ。
 私は頭を冷やすためにオフィスの中を歩き回った。軽く一杯ひっかけながら、時計をまた見たが時間は確かめなかった。それからもう一度机の前に座った。
 ジュールズ・アムサー、心霊顧問医。ご相談は要予約。金と時間をたんまり与えれば、妻に飽いた夫からイナゴの大量発生まで何でもござれ。性生活の欲求不満、孤閨を託つ女、便りの途絶えた息子や娘たち、財産の処分は今か一年後か、その役はファンの期待を裏切ることになるのか、逆に芸域を広げるのか、といった悩みの専門家だ。男たちもこっそりやってくる。オフィスではライオンのように吼える強い男もベストの下に弱音を隠しているものだ。しかし、顧客の大半は女性だろう。ぜいぜいと喘ぐ肥った女、ぷりぷりした痩せた女、夢見る老いた女、エレクトラ・コンプレックスを疑う若い女、サイズも体型も歳も様々な女たちに一つだけ共通点がある―金(かね)だ。ジュールズ・アムサー氏は木曜日に郡立病院で診察しない。支払いは現金。牛乳代をケチる金持ち女でも即金で支払うだろう。
 筋金入りのいかさま師、鳴り物入りの宣伝屋、マリファナ煙草の中に名刺を忍ばせていた男。その名刺が死体と一緒に発見された。
 こいつは渡りに船だ。私は電話に手を伸ばし、交換手にスティルウッド・ハイツの番号を告げた。》

【解説】

「お役に立ててよかった」は<It was a pleasure>。清水訳は「楽しかったよ」。村上訳は「痛快だった」。両氏ともに直訳だ。<It’ a pleasure to ~>というのは、「あなたに~してうれしい」などというときの挨拶の冒頭につける決まり文句だ。嘘をついたことを責めている相手に対して、いけしゃあしゃあとこういう科白を吐いてみせるのがマーロウという男なのだ。

「切り札を握る男に向かって」は<for a guy that holds cards>。清水氏はここをカットして「口だけは、達者なんだな」と訳している。<guy>をどちらにするか迷ったんだろう。村上氏は<for>を「~に対して」という意味にとって「切り札を持っている人間にしちゃ」と訳している。その前に「まるであんたは何があるか知ってるみたいじゃないか」と言わせているところから見て、これをマーロウの挑発と捉えているようだ。果たして切り札を握っているのはどちらなんだろう。

「その役はファンの期待を裏切ることになるのか、逆に芸域を広げるのか」は<will this part hurt me with my public or make me seem more versatile?>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「その役柄がファンの抱いているイメージを損なうのか、あるいは逆に多芸さを評価されることになるのか」だ。新しい役どころをオファーされた俳優の躊躇だ。

「こいつは渡りに船だ」は<This was going to be good>。清水氏は例によってここをカットしている。訳しがいがありそうなところなのに。村上氏は「脈がありそうじゃないか」と訳している。いずれにしても内言で、マーロウが心の中で発したひとり言である。「しめしめ、しめこの兎」あたりを使いたいところだが、あまりやり過ぎてもいけない。「渡りに船」くらいでお茶を濁しておいた。