marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

ストラバイト

f:id:abraxasm:20190225111200j:plain


先日、書斎で本を読んでいると妻が慌ただしくドアを開けて
「あなた大変、ニコまた病院に行かなきゃ」という。
聞けば、トイレに敷いてあるシートにきらきら光るものがあるという。尿路結石にかかった猫が出すストラバイト結石らしい、と。

最近、ニコは元気で、冬になると具合の悪くなる後ろ肢も今年は何のこともなく安心しきっていた。だいたいそういうものである。安心しきっていると何かが来るのだ。とにかく、嫌がるニコを車に乗せ、かかりつけの動物病院へ。エコーで診てもらうと、やはり結石が見つかった。ただ、大きなものではないので、療法食で対処できるという。

ニコは薬が嫌い(好きな者はいないだろうが)で、飲ませるのに難儀するので、これは助かった。詳しく検査するため、尿を採取するキットをもらって家に帰った。おしっこをするときスティックの先をあてがうのだそうだが、そんなことはとても無理。神経質なニコがそんなこと許すはずがない。トイレ・シートの端を折って置き、簀の子の下に尿がたまるように工夫をすることで、難なくゲット。後日顕微鏡で見せてもらうと、小さくきらきら光る石のようなものがたくさん見えた。

食事にこだわりがあったニコだが、最近は食べきるともらえる「ちゅーる」目当てに三食完食できるようになった。サンプルでもらってきた療法食も嫌いではなさそうで、これで様子を見ることにした。

先日、神戸に住んでいる孫の生活発表会とやらで、二人して早朝から家を空けなくてはならず、トイレの心配をした。きれい好きな性格で、いつもトイレはすぐ始末する癖がついている。二人ともに一日中留守という事態はまず経験したことがない。しかし、猫のトイレの世話があるから、という理由でせっかくの祖父母限定の招待を断るわけにもいかず、食事はタイマー付きの給餌器、トイレは一階のケージと二階の水入れの傍に二つ用意して、午前五時に家を出た。

さいわい、九時半のオープニングに間に合い、孫の演技を楽しむこともできた。別れを惜しむ孫を振り切るように帰路に着いた。あまり暗くならないうちに家に帰りたいからだ。昼間は南の日が入る妻のベッドで日向ぼっこをしている。二人で買い物をしても、暗くなる前にはいつも帰るようにしている。結局六時を回ったが、ニコは元気で待っていた。

翌日はトリミングの日で、嫌がるニコを車に乗せ、動物病院付属のトリミングでカットとシャンプーをしてもらった。顎の下の毛が長くなり、毛づくろいをするたびに口に入ってくるのが邪魔だったが、これでもう安心だ。一回り小さくなって帰ってきたニコは二日分甘える。ふだんは、妻にだけ甘えるのだが、この日は、私にも甘えてきた。これはこれで嬉しいものがある。孫の家からは明石海峡大橋が間近に見え、それはいい眺めなのだが、ニコがくつろいでいる姿に勝る景色はない。また、しばらくどこにも行けそうにない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(2)

《「少し遡って考えてみようか?」彼は言った。「誰かがマリオットとその女を襲い、翡翠のネックレスその他を強奪した後、推定価格よりかなり安価と思われる値での売却を持ちかける。マリオットが支払いの交渉にあたり、自分一人でやると言い出した。相手がそう主張したのか、話の中で出たことなのか、それは知らない。普通こういう場合、もっと煩雑な条件がつくものだ。しかし、マリオットはどうやら君を連れて行って差し支えないと考えたようだ。君ら二人は、組織的なギャング相手の取引だと考えて、連中なりのルールに則ったやり方で事を運ぶものと考えた。マリオットは怖がっていた。当たり前のことだ。誰か連れがほしかった。君がその誰かだ。しかし君は彼にとって赤の他人だ。偶々手渡された名刺にあった名前に過ぎない。それもよく知らない相手からな。彼が言うには共通の友人だそうだが。その上いよいよ土壇場というときになって、マリオットは君が金を運び、相手と話すことに同意する。その間、彼は車に隠れている。君はそれが自分の考えだというが、おそらく彼は君がそう申し出ることを待っていて、もし君が言い出さなければ、自分から言い出しただろう」
「はじめは嫌がってたんだ」私は言った。
 ランドールはまた肩をすくめた。「嫌がってるような振りをしたが、やがては折れた。そこに、ようやく電話がかかってきて、君は言われた場所に出かけた。すべてはマリオットの口から出たことだ。君が自分で知ったことなどひとつもない。君がそこに着いたとき、あたりに人の気配はなかった。君は窪地まで下ろうと考えたが、大型車が通るだけの空きがなかった。実際、その通りだった。車の左側にかなり酷いひっかき傷があった。それで君は車を降り、歩いて窪地に向かった。何も見えず何も聞こえなかった。数分後、車に引き返したところで、車の中にいた誰かが君の後頭部を殴った。ここで、マリオットは金が欲しくて君を身代わりにした、と仮定してみよう。彼の動きは逐一それをなぞっていないかな?」
「しゃれた仮説だ」私は言った。「マリオットは私を殴って、金をとった。その後、自責の念にかられて自分の頭を死ぬまで殴った。金を茂みの下に埋めたその後で」
 ランドールは無表情に私を見た。「もちろん共犯者がいたのさ。君たち二人を倒した後、そいつが金をとって逃げる手はずだった。マリオットは共犯者の裏切りにあって殺された。君が殺されずにすんだのは顔を知られていないからだ」
 私は感心してランドールを見つめ、木のトレイで煙草をもみ消した。以前は内側にガラスの灰皿が入ってたのだろうが、今はなくなっている。 
「事実に符合している―我々が知る限りのだが」ランドールは穏やかに言った。「今のところ、考えられる一番もっともらしい仮説だ」
「一つ事実に符合しないところがある―私は車の中から殴られた、ということだな? となると、新たに何か出てこない限り、私はマリオットの仕業を疑うだろう。もっとも、殺された今となっては疑いようがないが」
「何より君の殴られっぷりがもっとも符合しているじゃないか」ランドールは言った。「君は銃を持っていることをマリオットに言わなかった。しかし、脇の下のふくらみに目をつけたかもしれないし、銃の携帯にうすうす感づいていたのかもしれない。もしそうなら、相手の油断した隙を狙うに越したことはない。それに君は車の後部に何の注意も払っていない」
「オーケイ」私は言った。「いいだろう。辻褄は合っている。もしもだ、金がマリオットのものでなく、彼は盗みを企んでおり、さらには共犯者までいたらな。計画では、二人とも頭の上に瘤を作って目を覚ますと金は消えている、そしてお互い酷い目にあったなと慰めあい、私は家に帰ってすべてを忘れる。それで終わりか? つまり、そんな結末を思い描いてたのかってことだ。それで彼の方も体裁が整う、とでもいうのか?」
 ランドールは苦々し気に微笑んだ。「俺自身、気に入ってるわけじゃない。とりあえず考えてみたまでだ。知り得た限りの事実には符合している―たいして知っちゃいないがね」
「論を立てるには、まだ知らないことが多すぎる」私は言った。「なぜ彼が真実を語っていないと決め込むんだ。ことによると強盗犯の一人が顔見知りということもあるのでは?」
「争った音を聞かなかったといっただろう? 叫び声も」
「聞こえなかった。しかし、手際よく首を絞めたかもしれない。それとも、襲われた時に恐怖のあまり声が出なかったのかもしれない。私が坂道を下りてゆくのを連中が茂みから見張っていたとしよう。何しろ少し距離が離れていた。ゆうに百フィートはあっただろう。連中は車をの中を調べてマリオットを見つける。誰かが銃を顔に突きつけ、そっと車から降ろす。それから殴り倒された。しかし、彼の言葉、あるいは顔つきが、連中の誰かに正体を知られたと思わせたんだ」
「暗闇の中でか?」
「そうだ」私は言った。「そういうことがあったにちがいない。心に残る声というのがある。暗闇の中でも知り合いなら気づく」》

「実際、その通りだった。車の左側にかなり酷いひっかき傷があった」は<It wasn't, as a
matter of fact, because the car was pretty badly scratched on the left side>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「そして実際にそのとおりだった。車の左側にはかなりひどいひっかき傷ができていたよ」と訳している。

「もっとも、殺された今となっては疑いようがないが」は<Although I didn't suspect him after he was killed.>。清水氏はここを何と思ったか「彼の立場が悪くなるじゃないか」と意訳している。村上氏は「もっとも、マリオットが殺された今では、そんな疑いは抱かないが」と訳している。ふつうはそうなるだろう。

それに対するランドールの言葉「何より君の殴られっぷりがもっとも符合しているじゃないか」は<The way you were socked fits best of all>。ここも、清水氏は「そんなことはない」と意訳している。村上訳では「君の殴られたことが、いちばん話の筋書きに合致している」だ。清水氏は、現場に第三者がいたことを暗黙の了解事項としている。

それは「それに君は車の後部に何の注意も払っていない」<And you wouldn't suspect anything from the back of the car>を「自動車の中から殴られたといって、マリオが殴ったという証拠にはならないからね」と訳していることからも分かる。つまり、清水氏によれば車の中に誰がいたとしても構わないというわけだ。おそらく、マリオットはその前に気絶させられていて、別の男が待ち構えていたという解釈なのだろう。

「それで彼の方も体裁が整う、とでもいうのか?」は<It had to look good to him too, didn't it?>。清水訳は「彼にもぐあいがよかったのだ」。村上訳は「会心の筋書きだと本人も思ったことだろうよ」だ。両氏ともマーロウが強烈な皮肉をランドールに浴びせているという解釈なんだろうが、少々回りくどい気がする。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(1)


12

 

《一時間半後。死体は運び去られ、あたり一帯は入念に調べられ、私は同じ話を三回か四回繰り返させられた。我々は四人で、西ロサンジェルス警察署の当直警部の部屋に腰をおろしていた。早朝ダウンタウンの裁判所に送られるのを待つ、酔っ払いが独房でオーストラリア奥地の雄叫びを上げ続けているのを除けば、署内は静かだった。
 ガラスの反射板で跳ね返された冷たく白い光が平らな天板を照らしていた。テーブルの上にはリンゼイ・マリオットのポケットから出た、今や持ち主同様に生気と居場所を失った品々が広げられていた。テーブルの向こうにいるのはロサンジェルス警察本部の殺人課から来たランドールという名の男だった。五十がらみの瘦せた無口な男で、滑らかで柔らかな銀髪と冷たい眼の持ち主で、態度はよそよそしかった。臙脂のドット・タイを締め、黒いドットが眼の前で絶えず揺れ動いた。男の背後、円錐形の光の向こうには、二人の逞しい男がボディガードよろしくゆったりと構え、各々が私の片一方の耳をそれぞれ見張っていた。
 私は指で煙草を探り当てて火をつけたが、味は気に入らなかった。ただ座って、指の間で燃え尽きるのを眺めていた。知らぬ間に時が過ぎて、八十歳になったような気がした。
 ランドールが冷やかに言った。「繰り返せば繰り返すほど、君の話はばかげて聞こえてくる。マリオットとやらが、この支払いについて何日も交渉を続けてきたことに疑問の余地はない。それなのに、最後の顔合わせの数時間前に得体の知れない男を電話で呼んで、ボディガードとしてついてくるよう雇ったというのだからな」
「正確にはボディガードとしてではない」私は言った。「私は銃を持っていることを話していない。つきあってくれ、と言われただけだ」
「君のことをどこで耳にしたんだ?」
「はじめは共通の友人を介して知ったと言った。その後、電話帳で名前を拾っただけだと」
 ランドールはテーブルの上の品々をつつきまわし、さも汚いものにでも触れるように白い名刺を横に取り分け、机越しに押して寄こした。
「君の名刺を持っていた。業務用のだ」
 私はちらっと名詞に目をやった。紙入れに他の何枚かの名刺に混じって入っていたものだ。プリシマ・キャニオンの窪地で見かけたが、わざわざ調べはしなかった。私の名刺の一枚にちがいなかったが、マリオットのような男には不似合いなほど汚れていた。角の一つに丸い染みがついていた。
「そのようだ」私は言った。「機会があればいつでも渡すことにしている。当然のことだ」
「マリオットは君に金を運ばせた」ランドールは言った。「八千ドルだ。ずいぶん信じやすい魂の持ち主のようだ」
 私は煙草の煙を吸い込み、天井に向けて吐いた。天井の照明が眼に痛かった。後頭部がずきずきした。
「八千ドルは持っていない」私は言った。「すまないね」
「当然だ、もし金を持っていたら、君はこんなとこにいないだろう。違うかね?」今では顔に冷笑を浮かべていたが、とってつけたものに過ぎなかった。
「八千ドルのためなら何でもやるだろう」私は言った。「が、もし、殺しの得物がブラックジャックなら、せいぜい二回だ―頭の後ろを狙ってな」
 彼はかすかに頷いた。刑事の一人が屑籠に唾を吐いた。
「そこがもう一つ解せないところだ。見たところ素人の仕事のようだが、もちろん、素人仕事のように見せかけているのかもしれない。金はマリオットのものじゃなかったんだな?」
「知らないな。そんな印象を持ちはしたが、ただの印象に過ぎない。件の女性が誰なのか言おうともしなかった」
「こちらもマリオットについて何もつかんでいない―今のところはだが」ランドールはゆっくり言った。「八千ドルを盗もうとしていたと考えられなくもない」
「なんだって?」私は驚いた。多分驚いた顔をしただろうが、ランドールの愛想のいい顔に変化はなかった。
「金は数えたのか?」
「勿論そんなことはしていない。包みを預かっただけだ。金はそこに入っていた。たいした金額のようだった。八千ドルあると言っていた。どうして私が登場する前から持っていたものをわざわざ私から盗もうとするんだ?」
 ランドールは天井の隅を見上げ、両方の口角を下げ、肩をすくめた。》

「早朝ダウンタウンの裁判所に送られるのを待つ、酔っ払いが独房でオーストラリア奥地の雄叫びを上げ続けているのを除けば」は<except for a drunk in a cell who kept giving the Australian bush call while he waited to go downtown for sunrise court>。<the Australian bush call>の意味がいまひとつよくわからない。

清水氏は「留置所の酔漢がときどき何ごとか叫んでいるだけで」とあっさり訳している。まあ、これで意味は伝わりはするのだが、釈然としない。村上訳は「オーストラリアの奥地の雄叫びのような声をあげている酔っ払いを別にすれば、署の中は静まりかえっていた。この男はダウンタウンに連行されて早朝の簡易裁判にかけられるのを、留置場で待っているのだ」と、やけに詳しい。

「態度はよそよそしかった」は<a distant manner>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「物腰はどこかよそよそしい」だ。

「私は指で煙草を探り当てて」と訳したところ、原文は<I fumbled a cigarette around in my fingers>だが、清水氏は「私はタバコに火をつけたが」と、ここを訳していない。村上氏は「私は指で煙草をごそごそといじりまわし」と訳している。

「知らぬ間に時が過ぎて、八十歳になったような気がした」は< I felt about eighty years old and slipping fast>。清水氏は「急に八十歳になったような気持だった」と訳している。村上氏は「自分がもう八十歳になり、更にとめどなく衰えつつあるような気がした」と訳している。<slip>には、本人が意識しないうちに何かが動き去るという意味があるが、村上訳だとマーロウはそれを意識しているようにとれる。ここは時間が無駄に流れ去ることへの言及と取っておけばいいところではないか。

「が、もし、殺しの得物がブラックジャックなら、せいぜい二回だ―頭の後ろを狙ってな」は<But if I wanted to kill a man with a sap, I'd only hit him twice at the most-on the back of the head>。清水氏は「しかし、もし、人間を殴り殺すのだったら、二度以上はなぐらないね」とダッシュの後をカットしている。村上氏は「しかしもし私がブラックジャックで相手を殺そうと思ったら、殴るのはせいぜい二回だ。それも頭の後ろをね」と訳している。

「肩をすくめた」は<He shrugged>。清水訳では「そして、肩をゆすった」。村上訳では「それから肩をすぼめた」と訳されている。似ているようで、この三つの印象はずいぶん異なる。「肩をゆすった」には、「大げさ、偉そう」な印象がある。それに対して「肩をすぼめる」には「元気がなく、しょんぼりした」というイメージがある。<shrug>は「(両方の手のひらを上に向けて)すくめる」の意味で、その前に<drew his mouth down at the corners>とある。「両方の口角を下げ」と訳したが、言い換えれば「口をへの字に曲げ」の意味だ。欧米人がよくやる仕草である。相手の意見を否定はしないが、同意もしない、というような、いろんなニュアンスを含む態度である。

 

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第11章(2)

《明かりが地面に垂れていた。私は財布を戻し、ペンシル・ライトをポケットにクリップで留めると、とっさに女がまだ懐中電灯と同じ手に持っていた小さな拳銃に手を伸ばした。女は懐中電灯を落とし、私は銃を手にした。女がさっと身を引いたので、私はかがみ込んで懐中電灯をつかんだ。しばらく女の顔を照らした後、スイッチを切った。
「手荒い真似をすることもなかったのに」肩にフレアのついたざっくりしたロング・コートのポケットに両手を突っこみながら彼女は言った。「あなたが殺したとは思っていない」
 クールで落ち着いた声が気に入った。生意気なところもだ。我々は暗闇の中に立ったまま、しばらく無言で向い合っていた。見えるのは茂みと空の明かりだけだった。
 懐中電灯をつけて顔を照らすと女は眼を瞬かせた。活き活きと整った小さな顔に、大きな眼。皮膚の下の骨格がクレモナ製のヴァイオリンのように繊細を極めている。とても可愛い顔だ。
赤毛だね」私は言った。「アイルランド人のようだ」
「そして私の名前はリオーダン。それが何か? 明かりを消して。赤毛じゃない、鳶色よ」
 私は明かりを消した。「ファースト・ネームは?」
「アン。アニーと呼ばないで」
「それで、こんなところで何をしていたんだ?」
「ときどき夜にドライブするの。気晴らしよ。一人暮らしで、両親はいない。この辺のことはよく知ってる。偶々通りかかると、窪地にちらつく明かりに気づいたの。愛し合うには少し寒すぎる。それにそういう人たちは明かりをつけない。そうよね?」
「したことがないんでね。ずいぶん危険なまねをするんだね。ミス・リオーダン」
「それって、さっきの私の台詞よね。私には銃があるし、怖くはない。ここに来ちゃいけないって規則もない」
「それはそうだ。自己防衛という規範があるだけだ。ほら、今夜は血の巡りがよくない。銃の許可証はあるんだろうね」私はグリップの方から銃を差し出した。
 娘は銃を受け取るとポケットの中に突っ込んだ。
「好奇心旺盛な連中は何をするか分からない、でしょ? 私は文章を書くの。特集記事ね」
「金になるのか?」
「雀の涙。何を見つけたかったの―あの人のポケットの中から?」
「特には何も。こそこそ嗅ぎまわることでは名が売れてる。我々はあるレディのために、盗まれた宝石を八千ドルで買い戻そうとしていたところを襲われた。連中が男を殺した理由がわからない。たいして抵抗をする男のようには見えなかった。人が争う音も聞いていない。襲撃されたとき私は下にいた。彼は上の車の中だ。車で窪地まで下りるように指示されていたんだが、引っ掻き傷を作らずに通るだけの空きがなかった。そこで、私が窪地まで下りている間に連中に捕まったにちがいない。奴らのうちの一人が車に乗り込んで待ち伏せていたんだ。あの男は当然まだ車の中にいるものと私は思っていた」
「なら、あなたがドジを踏んだってわけじゃない」彼女は言った。
「初っ端から、この仕事には何か気に障るものがあった。勘が働いたんだ。けれど、金が必要だった。今となっては恥を覚悟で警察に出向くしかない。モンテマー・ヴィスタまで乗せて行ってくれないか? 車を置いてきた。そこに依頼者の家があるんだ」
「いいけど。誰かここについていなくていいの? あなたが私の車で行くか―私が警官を呼んでこようか」
 私は腕時計の文字盤を見た。かすかな光がもうすぐ深夜であることを告げていた。
「だめだ」
「どうして?」
「理由は分からない。ただそう感じるんだ。これは私一人でやることだ」
 娘は何も言わなかった。我々は坂を下って戻り、娘の小型車に乗り込んだ。娘はエンジンをかけ、ライトもつけずに方向転換すると、坂を上り、難なくバリケードをすり抜けた。一ブロックばかり行ったところでライトを点けた。
 頭がずきずきした。道が舗装路に変わって、最初の家が現れるまで、我々は口をきかなかった。それから、彼女が言った。
「一杯ひっかけた方がいいわ。うちに寄って飲んでいけば? そこからでも警察に電話できる。いずれにせよ、西ロサンジェルスからくるんだし。この辺には消防署しかないから」
「このまま海岸沿いまで行ってくれ。あとは一人でやるから」
「でも、どうして? 私は警官なんて怖くない。あなたの話を裏づけることもできる」
「誰の助けもいらない。考えたいことがある。しばらく一人になりたい」
「わたしは―そうね、分かったわ」彼女は言った。
 どうともとれる音を喉で鳴らすと、娘は大通りに向かった。湾岸ハイウェイのガソリン・スタンドの前を北に折れ、モンテマー・ヴィスタまで戻った。そこには豪華客船のように光り輝くオープン・カフェが待っていた。娘は車を路肩に停めた。私は車を降り、ドアに手をかけたまま立っていた。
 財布から手探りで名刺を取り出し女に渡した。「いつか君に強い後押しが必要になるかもしれない」私は言った。「そんなときは連絡してくれ。ただし頭を必要とする仕事以外で」
 女はハンドルの上を名刺で叩くと、やがてゆっくり言った。「ベイ・シティの電話帳に名前が載ってる。二十五番街の819番地。近くに来たら立ち寄って、嘴を突っこまなかったご褒美に可愛いメダルでも頂戴。あなたの殴られた頭、まだ普通じゃないみたい」
 娘はハイウェイに出ると、素早く車を回した。私はツイン・テール・ライトが闇の中に消えていくのを見ていた。
 アーチとカフェを通り過ぎ、駐車スペースの自分の車に乗り込んだ。すぐ目の前にバーがあり、私はまた震えだしていた。しかし、賢明なことに私が二十分後にやったのは、蛙のように冷たく、刷り上がったばかりの一ドル紙幣のように青ざめたままで、西ロサンジェルス署に入ってゆくことだった。》

「明かりが地面に垂れていた」は<The flash was drooping to the ground>。清水氏はここをまるきりカットしている。村上訳は「明かりが地面を向いた」。<droop>は「うなだれる、垂れる」の意味。マーロウが立ち上がったので、身体検査が終わったと思って娘は懐中電灯を下ろしたままにしていたのだろう。その隙をついての行動だ。行動に移るきっかけの提示である。カットする理由がない。

それに続く<little gun she was still holding in the same hand with the flashlight>「まだ懐中電灯と同じ手に持っていた小さな」もカットして「いきなり、向きなおって、彼女の手からピストルを奪った」と訳している。シガレット・ケースを見るために片手を開ける必要があり、懐中電灯と小さな拳銃を同じ手に持っていたから、拳銃をとられると同時に懐中電灯も落としたわけだ。この部分を略すと、それがわかりづらくなる。それにしても、この辺りのマーロウのとっさの判断と行動は、さすがというべきだ。

「しばらく女の顔を照らした後、スイッチを切った」は<I put it on her face for a moment, then snapped it off>。清水氏は「彼女の顔を照らし、そして、すぐ消した」と訳している。村上氏は「ひとしきり相手の顔に光をあててからスイッチを切った」である。どれだけの時間顔にライトをあてていた今ではのだろう? 相手を確認するだけなら、それほど長時間ではあるまい。ただ、後にも出てくるように、なかなか印象的な顔である。村上氏は<for a moment>を「ひとしきり」と訳しているが、「ひとしきり」という語は「しばらくの間。その間に物事が集中するようす」を表しており、言い得て妙である。

「肩にフレアのついたざっくりしたロング・コート」は< a long rough coat with flaring shoulders>。清水氏は「長い外套」とだけ。「外套」は、死語とは言わないまでも、ゴーゴリの小説以外、今ではほとんど使われることのない言葉だ。村上氏は「粗い布地の、肩にフレアがついたロングコート」と訳している。当時の流行なのかもしれない。ハードボイルド小説の読者にはあまり重要な情報ではないと清水氏は踏んだのだろう。資料的には訳しておきたいところかもしれない。

「見えるのは茂みと空の明かりだけだった」は<I could see the brush and light in the sky>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「見えるのは茂みと、空の明かりだけだった」。

「皮膚の下の骨格がクレモナ製のヴァイオリンのように繊細を極めている」は<A face with bone under the skin, fine drawn like a Cremona violin>。清水氏はここを「皮膚の下の骨が感じられるような強い顔だった」と意訳している。ヴァイオリン産地としてのクレモナが今ほど知られていなかったからだろうか。ヴァイオリンの比喩を欠くと、なんだか骨ばったぎすぎすした女のイメージになってしまう。村上氏は「骨格のきっちりした顔立ちで、優美な輪郭はクレモナのバイオリンを思わせる」と訳している。

「愛し合うには少し寒すぎる」は<It seemed a little cold for love>。清水氏は「逢いびきにしては、今夜は寒すぎるし」と訳している。「逢いびき」も風情のある言葉だとは思うが、今やデヴィッド・リーン監督の映画くらいにしか使われていないのではないか。村上氏は「恋人たちがいちゃつきに来るにはいささか寒すぎるし」と訳している。

「したことがないんでね」は<I never did>。清水氏は「ぼくだったら、つけないね」と訳している。マーロウにしては愛想がいい。村上氏は「そうかもしれないが」だ。こちらも、そんなに素っ気なくはない。両氏とも、この若い女性にマーロウが好感を抱いていることを意識した訳になっている。

「それって、さっきの私の台詞よね」は<I think I said the same about you>。清水氏は「あなただって同じことよ」と、訳しているが、ここはその前のマーロウの台詞<You take some awful chances>に、注意喚起しなければならないところだ。この台詞はリオーダン嬢が前にそのまま使った言葉の繰り返しである。村上氏は「あなたについてもさっき同じ指摘をしたと思う」と、まさか気づいていない訳でもないだろうに、いささか逐語訳的だ。「その台詞、そっくりお返しするわ」という訳も考えたくらい美味しいところなのだが。

「ここに来ちゃいけないって規則もない」「それはそうだ。自己防衛という規範があるだけだ」は<There's no law against going down there><Uh-huh. Only the law of self preservation>。<law>という同じ単語の持つ異なる意味を二人の台詞に響かせている。チャンドラーらしい言葉遊びである。清水氏は「ここへ来てはいけないという法律はないはずよ」「うん、しかし、自己防衛という法律がある」と、同語反復になっている。村上氏の場合「それにここに来ちゃいけないという法律(ロウ)もない」「そうだな、ただ自己保存の法則(ロウ)ってのがあるだけだ」とルビ振りで同語であることを匂わせている。

「なら、あなたがドジを踏んだってわけじゃない」は<That doesn't make you so terribly dumb>。清水氏は「では、あなたが抜かったというわけでもないじゃないの」と訳している。これでまちがいはないと思う。ところが、村上氏は「筋は通っている」と意訳している。マーロウの説明に無理のないことを理解したという意味だろうが、先刻の「とんだボディガードね」という皮肉を込めた一言に対する釈明の言葉と解すると、少し軽すぎる気がする。

「今となっては恥を覚悟で警察に出向くしかない」は<Now I have to go to the cops and eat dirt>。清水氏は「どくはこれから警察へ行って、油をしぼられなければならない」、村上氏は「おかげでこれから警察に出向いて、こってり絞り上げられることになる」と訳している。村上訳が清水訳を踏襲しているのが分かるところだが、<eat dirt>は「屈辱をなめる、恥を忍ぶ」という意味だ。「油を絞られる」は「ひどく叱責される」の意味で、少し意味が異なる。マーロウは警察に叱責されることをではなく、自分の勘に従わなかったことを悔やんでいるのだ。警察官ではない私立探偵としてのプライドの問題である。

「どうともとれる音を喉で鳴らすと、娘は大通りに向かった」は<She made a vague sound in her throat and turned on to the boulevard>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「彼女は喉の奥で小さくうなり、大通りに出た」と訳している。

「近くに来たら立ち寄って、嘴を突っこまなかったご褒美に可愛いメダルでも頂戴」は<Come around and pin a putty medal on me for minding my own business>。清水氏は「私、あんたの仕事に余計な口出しをしなかったんだから、ほめていただいてもいいはずよ」と<pin a putty medal on me>を逐語訳せずに処理している。村上氏は「近くに来たら立ち寄って、余計なことに首を突っこまなかったことで、おもちゃの勲章でもちょうだい」と訳している。

「しかし、賢明なことに私が二十分後にやったのは、蛙のように冷たく、刷り上がったばかりの一ドル紙幣のように青ざめたままで、西ロサンジェルス署に入ってゆくことだった」は、少し長いが<But it seemed smarter to walk into the West Los Angeles police station the way I did twenty minutes later, as cold as a frog and as green as the back of a new dollar bill>。

清水氏は「しかし、いまの私にとっては、蛙のように冷えきったからだと、新しい一ドル紙幣の裏のように青ざめた顔色のまま、西ロサンゼルス警察署に乗りつけるのが一番賢明なことのように思われた」と訳している。村上氏は「しかし私は何とか理性を働かせた。そしてその二十分後には蛙みたいに冷え切った身体と、一ドルの新札なみの緑色の顔を抱え、西ロサンジェルンス警察署に足を踏み入れた」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第11章(1)


11

 

《坂道を半分ほど登ったところで、右の方に目をやると左足が見えた。女は懐中電灯をそちらに振った。それで、全身が見えた。坂を下りてくるとき、当然見ているはずだった。だが、そのとき私は地面の上にかがみ込み、白銅貨(クォーター)大のペンシル・ライトの光でタイヤ痕を読み取っている最中だった。
「懐中電灯をくれ」私はそう言って後ろに手を伸ばした。
 女は無言で懐中電灯を手渡した。私は片膝をついた。布地を通して地面の冷たさと湿気が伝わってきた。
 それは地面にぐったりと横たわり、茂みの根もとに仰向けになっていた。放り出された衣類のような姿勢が意味するのは一つだけだった。顔は思い出すよすがもなかった。髪は血で黒ずみ、美しい岩棚のようだった金髪に、大古の軟泥のような灰色のどろどろしたものと血が絡み合っていた。
 私の背後で娘が荒い呼吸をしていたが、口はきかなかった。私は光を死者の顔に当てた。顔面は原形をとどめないまでに叩き潰されていた。片手は凍りついたように伸ばされ、指は鈎状に曲がっていた。倒れたとき転がったのだろう、コートの半分が体の下に巻きついていた。両脚は交差していた。口の端から汚れたオイル状の黒い液体が滴っていた。
「灯りを当て続けていてくれ」私はそう言って懐中電灯を渡した。「気分が悪くならなければな」
 女は何も言わずに受け取ると、年季の入った殺人課の古手のようにしっかり構えた。私はペンシル・ライトを再び取り出し、死体を動かさないように気をつけながら、ポケットを探っていった。
「そんなことしちゃだめ」女は緊張して言った。「刑事が来るまで触れちゃいけないのよ」
「その通り」私は言った。「そしてパトカーの警官は刑事が来るまで死体に触ることができない。刑事は検死官が来て死体を検分し、写真班が現場写真を撮り、指紋係が指紋を採取するまで、死体に触れちゃいけない。それにどれだけかかるか知ってるか? ざっと二時間はかかるんだ」
「わかったわ」女は言った。「いついかなる時でも自分は正しい。あなたはそういう人なのね。誰か知らないけど、よほど憎んでいたようね。こんなに頭を殴るなんて」
「そうとばかりは言えない。人による」私はうなった。「世の中には、無性に頭を殴りたがる連中がいるのさ」
「無知をさらしたからには、これ以上の憶測はやめておくのが無難ね」女は辛辣に言った。
 私は死体の着衣を調べた。ズボンの片方のポケットにばらの小銭と紙幣、もう一方に革細工のキーケースと、小さなナイフがあった。左のヒップ・ポケットからはもっと多くの紙幣が入った札入れ、保険証、運転免許証、数枚の領収書が出てきた。上着にはばらけた紙マッチ、ポケットにクリップで留めた金のシャープ・ペンシル、乾いた粉雪のように白い薄い亜麻布のハンカチが二枚あった。そして見覚えのある茶色の吸い口のついた煙草が入ったエナメルのシガレット・ケース。煙草は南米のモンテヴィデオ産だ。もう一方の内ポケットには初めてお目にかかる二つ目のシガレット・ケース。絹地で両側に龍が刺繍されていた。フレームは模造の鼈甲製でありえないほど薄かった。留め金を開け、ゴムバンドで巻かれた三本の特大のロシア煙草を見つけた。一本つまんでみた。古いものらしく、ひからびて、巻きが緩んでいた。中空の吸い口がついていた。
「もう一つの方がお気に入りだった」私は肩越しに言った。「こちらは女友だち用にちがいない。女友だちがたくさんいそうなタイプだった」
 娘が前かがみになり、首に息がかかった。「知り合いじゃなかったの?」
「今夜会ったばかりだ。ボディガードに雇われたんだ」
「とんだボディガードね」
 私には返す言葉がなかった。
「ごめんなさい」彼女はほとんど囁くように言った。「もちろん、私はどんな経緯があったのか知りもしない。それ、マリファナ煙草じゃないかしら? ちょっと見せてくれない?」
 私は刺繍入りのケースを娘に手渡した。
「前に、マリファナタバコを吸う男の人を知ってたの」彼女は言った。「ハイボール三杯にマリファナ煙草を三本吸った人をシャンデリアから降ろすのにパイプレンチが必要だった」
「ライトを動かさないでいてくれ」
 少しの間、かさこそという音がして、彼女はまた口をきいた。
「ごめんなさい」女はケースを返し、私は死体のポケットにそっと戻した。持ち物はこれですべてのようだった。分かったのはマリオットが身ぐるみ剥がれたわけではない、ということくらいだ。
 私は立ち上がって自分の財布を取り出した。五枚の二十ドル札はまだそこにあった。
「高級な連中だ」私は言った。「相手にするのは大金だけときている」》

「茂みの根もとに」は<at the base of a bush>。清水氏は「叢の端に」、村上氏は「茂みの切れ目あたりの」と訳している。<base>は「つけ根、土台」を意味する。それをなぜ、「端」や「切れ目」とするのかがよくわからない。

「放り出された衣類のような姿勢」と訳したのは<in that bag-of-clothes position>。清水氏は「服だけがそこにおかれているようだった」と訳している。村上氏は「そのぐにゃっとした姿勢」と意訳している。その後に続く「意味するのは一つだけだった」は<that always means the same thing>。清水氏はそこをカットしている。村上訳は「~が意味するものはひとつしかない」だ。

娘の胆の座った様子を表す「年季の入った殺人課の古手のようにしっかり構えた」は<as steady as an old homicide veteran>。清水氏は「殺人事件の係の警官のように平然として(死体に電灯を向けた)」と訳している。村上氏は「まるで年期を積んだ殺人課の警官みたいに、落ちついた手で、かざした」と訳している。まず<veteran>だが、「老兵、古参兵」の意味で、前に殺人課とあるから、わざわざ「警官」と言及するのは余計というもの。また、村上氏の「年期」は誤りで「年季」が正しい。

「いついかなる時でも自分は正しい。あなたはそういう人なのね」は<I suppose you're always right. I guess you must be that kind of person>。清水氏は「あなたにまかせるわ。どうせ考えどおりにするんでしょ」と、くだけた調子で訳している。村上氏は「いつだって自分は正しい。間違っているのは他の人ってわけね」と、こちらも自由な表現になっている。興が乗ってくると、訳は走りがちになる。一概に悪いとは言えない。翻訳は英文和訳ではない。原文の持ち味を日本語でどう伝えるかということに尽きる。

上着には」と訳したところを清水氏は「上着の内ポケットには」と訳し、村上氏は「コートには」と訳している。原文はというと<In his coat>とはじまっている。それまで、ズボンのポケットを探っていたマーロウが次に調べるのはどこかといえば、まずは上着だろう。英語の<coat>がスーツの「上着」を意味することは、村上氏はよくご存じのはず。以前『大いなる眠り』ではそう訳していたのを覚えている。普通のコートは<over coat>と原文でも区別している。

ハンカチやマッチ、愛用の煙草をコートのポケットにしまったのでは、屋内に入ったときに取り出すのに不自由だ。ここは上着のポケットと解釈するのが正しい。さらに、すぐ後に<And in the other inside pocket>という記述が来ることから見て「内ポケット」であることも判明している。村上氏にしてはめずらしい凡ミスである。

「特大のロシア煙草」は<oversized Russian cigarettes>。清水氏は「細長いロシア・タバコ」と訳しているが、それだと華奢に読めてしまう。村上氏は「大きなサイズの」と穏当な訳である。

「分かったのはマリオットが身ぐるみ剥がれたわけではない、ということくらいだ
」は<All it proved was that he hadn't been cleaned out>。清水氏は「結局、マリオのからだには、手がふれられていないようだった」という訳になっている。<clean out>には「すべてを盗み出す、一文なしにする」の意味がある。村上訳は「判明したのは、彼は身ぐるみはがれたわけではないということくらいだ」となっている。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(3)

f:id:abraxasm:20190206105510p:plain


《「そこを動かないで」娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった。「あなたは誰なの?」
「君の銃を見てみたい」
娘は光の前に掲げて見せた。銃口は私の腹に向けられていた。小さな銃だった。コルト・ベスト・ポケットのようだ。
「なんだ、それか」私は言った。「玩具じゃないか。そいつに弾丸は十発も入らない、たった六発だ。小さな銃で蝶くらいしか撃てない、バタフライ・ガンと呼ばれてる。ちっとは恥を知るといい。あんな見え透いた嘘をつくなんて」
「あなた、頭がおかしいの?」
「私か? 強盗に頭を殴られたばかりだ。少し螺子が緩んでいるかもしれない」
「それは―それはあなたの自動車?」
「いや」
「あなたは誰なの?」
「あそこにスポットライトをあてて、何を捜していたんだ?」
「わかった。訊くのはあなたということか。男らしい男の作法ね。私はある人を見てたの」
「ウェーヴのかかった金髪をした男のことかな?」
「今はちがう」娘は静かに言った。「かつてはそうだったかもしれない」
 その言い方が気に障った。思ってもみなかった答えだ。「そいつは見過ごしたな」私はへどもどしながら言った。「懐中電灯でタイヤの跡をつけて坂を下ってきたから。怪我はひどいのか?」私は娘の方へ一歩踏み出した。小さな銃が私に向けられ、光は動かなかった。
「落ち着いて」娘は静かに言った。「じっとしてて。お友だちは死んでる」
 私はしばらくの間、黙った。それから言った。「分かった。様子を見に行こう」
「そこにじっとして、動かないで。あなたは誰で、何が起こったのか教えて」はきはきした声だった。びくついていない。言うとおりにした方がよさそうだ。
「マーロウ。フィリップ・マーロウ。私立探偵」
「あなたが言うのが―もし事実なら、証明がいる」
「紙入れを見せよう」
「ありえない。両手はそのままにしておいて。とりあえず証明はお預け。それで、いったいどういうことなの?」
「その男はまだ死んでないかもしれない」
「まちがいなく死んでる。顔の上に脳味噌をぶちまけて。事情を、ミスタ。早く聞かせて」
「今も言ったように―死んでないかもしれない。まず見に行こう」片足を一歩前に出した。
「動いたら、風穴が開く」娘はぴしゃりと言った。
 もう一方の足を前に出すと、光が少し跳ねまわった。女が後ろに下がったのだろう。
「救いがたい人のようね」女は静かに言った。「いいわ。先に行って、ついていくから。あなたは具合が悪そう。もし、そうでなきゃ―」
「私を撃っていただろう。ブラックジャックでやられたんだ。頭を殴られると眼の下に隈ができるのが習い性になってる」
「素敵なユーモアのセンスをお持ちだこと―死体公示所の係員並みのね」泣き声に近い声だった。
 私が顔を背けると、光はすぐに目の前の地面を照らし出した。小さなクーペの脇を通り過ぎた。ありふれた小型車で、霧の振る星明りの下で汚れなく光っている。未舗装路を上り、カーブを曲がった。足音がすぐ後ろに迫り、懐中電灯の光が足元を照らした。二人の足音と女の息づかいの他には何も聞こえなかった。自分の息すら聞こえなかった。》

「娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった」は<the girl snapped angrily, after I had stopped>。ここを清水氏は「と、彼女は叫んだ」と訳し、後半部分をカットしている。村上訳は「と娘は腹立たし気にきつい声で言った。しかし、そう言ったのは私が自ら止まったあとのことだ」。ちょっと勿体をつけすぎているような気がする。

「コルト・ベスト・ポケットのようだ」は<it looked like a small Colt vest pocket automatic>。清水訳は「小さなコルトの自動拳銃だった」。村上訳は「コルトの懐中オートマチックのようだった」。ここでいう「ベスト」は、「チョッキ」のこと。スーツのポケットよりも小さいベストのポケットにも入るという意味。25口径のオートマチックで、コルトの最小拳銃として女性の護身用に人気があった。

「強盗に頭を殴られたばかりだ」は<I've been sapped by a holdup man>。清水氏は「実はホールドアップにあったんだ」と訳している。<sap>には俗語で「こん棒で殴る」という意味があるが、清水氏はその意味を採っていない。マーロウほどの男が強盗に遭ったくらいで「正気」をなくすとも思えない。村上氏の「ああ、さっきホールドアップ強盗に頭をどやされた(傍点五字)んだ」くらいに訳さないと意味が通じないだろう。

その後の「少し螺子が緩んでいるかもしれない」は<I might be a little goofy>。<goofy>は「まぬけな、とんまな」という意味。清水氏は「まだ、正気ではないかもしれないな」と訳している。村上氏は「いささか脳みそがゆるんでいるかもしれない」だ。村上氏の言葉遣いでときどき思うのは、実にユニークな使い方をする、ということである。「頭のねじがゆるむ」というのは手垢のついた表現だが、「脳みそがゆるむ」というのはあまり聞いたことがない。実に新鮮だ。新鮮すぎる気がしないでもない。

「男らしい男の作法ね」と訳したのは<He-man stuff>。清水氏はここをカットしている。<he-man>は「男らしい男」、<stuff>はこの場合「物事、やり方、ふるまい」の意味だろう。村上氏は「タフぶってればいいわよ」と訳している。この若い女性がどんな人間なのかを知ったうえで訳すのが本当なのだが、今のところ知り得た情報のみで訳している。実際のところ、マーロウだって初対面なのだ。原文をあまりいじらないで、できるだけそのまま訳していきたいと思っている。村上訳の娘は、少し悪ぶっているように見える。

「びくついていない。言うとおりにした方がよさそうだ」は<It was not afraid. It meant what it said>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「怖がってはいない。相手は本気なのだ」と訳している。

「とりあえず証明はお預け」は<We'll skip the proof for the time being>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「とりあえず証明の部分はあとまわしにしましょう」だ。

「救いがたい人のようね」は<You take some awful chances, mister>。清水訳では「ずいぶん生命(いのち)を粗末にするのね」。村上訳は「まったく度しがたい人ね」だ。直訳すれば「あなたはずいぶん危険な賭けをするのね」くらいか。清水訳が最も原文に近い。

ブラックジャックでやられたんだ」は<I've been sapped>。清水氏は「ずっと脅かされているんだ」と訳している。<sap>で躓いたのが後を引いている。眼の下に隈ができる理由として「脅かされている」は、マーロウらしくもない。村上訳は「さっきブラックジャックでどやされたんだ」だ。

「泣き声に近い声だった」は<she almost wailed>。清水氏はここを「と、彼女はかん(傍点二字)だかい声で言った」と訳している。<wail>は、どの辞書で引いても「悲しい声で泣き叫ぶ」のような意味しかない。かん(傍点二字)ちがいだろうか。村上氏は「今にも悲鳴になりそうな声だった」と訳している。さすがに若い女性の忍耐も切れかかっているという理解なのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(2)

《車が停まっていた場所に行き、ポケットから万年筆型懐中電灯を取り出し、小さな光で地面を調べた。土壌は赤色ロームで、乾燥すると非常に固くなるが、乾上るほどの気候ではなかった。少し霧がかかっていて、地面は車の停まっていた跡を残す程度の湿気を帯びていた。ごく微かだが、ヴォーグ社製の高耐久性タイヤの痕が認められた。そこに光を当ててかがみ込むと、痛みで頭がくらくらした。私は轍の跡をたどっていった。三メートルほど直進した所で左に折れていた。連中は引き返さず、そのまま白いバリケードの左端の隙間に向かっていた。轍はそこで消えていた。
 バリケードまで行き、小さな光で茂みを照らした。折れたばかりの小枝があった。隙間を通り抜け、曲がった坂道を下りた。ここも地面は柔らかかった。タイヤの痕はもっと目立っていた。そのまま坂を下り、カーブを曲がって灌木で閉じられた窪地の端まで行った。
 車はそこにあった。クロームと光沢仕上げ塗装は暗闇の中でも輝きを忘れていない。テールライトの赤い反射鏡がペンシル・ライトの光を受けて輝いていた。黙って、明かりを消し、ドアをみんな閉じていた。私は一歩ごとに歯を噛みしめながら、ゆっくりそちらに向かっていった。リアのドアを開け、ライトで中を照らした。空だった。前の席も同じだ。イグニッションは切られていた。細い鎖のついたキーは差しっぱなしだった。シートは引き裂かれておらず、ガラスに傷もついていない。血痕もなければ死体もなかった。すべてがきちんと整っていた。私はドアを閉め、車の周りをゆっくり回ってみた。手がかりを探したが、何も見つからなかった。
 物音がして、私は立ちすくんだ。
 エンジンの音が灌木の縁で聞こえた。飛び上がったとしても三十センチ足らずだ。手に持ったライトを消した。拳銃が自ずから手の中に滑り込んできた。ヘッドライトが上向きに空を照らし、また下を向いた。エンジン音は小型車のようだった。湿気を帯びた大気の中で満足げな音を立てていた。
 ライトが下向きになり、明るさを増した。車が一台、未舗装路のカーブを下りてきた。道路を三分の二ほど降りたところで停まった。カチッという音とともにスポット・ライトが点灯し、横に動いてしばらくはそのまま動かなかった。やがてまた消えた。車が坂を下ってきた。私はするりとポケットの中から銃を取り出し、マリオットの車の後ろにかがんだ。
 形も色も特徴のない小型のクーペが窪地に滑り込んできたせいで、ヘッドライトがセダンのフロントからリアエンドまで一舐めした。私は慌てて頭を引っ込めた。ライトが剣のように頭の上を薙いだ。クーペが停まった。エンジンが切れた。ヘッドライトも消えた。静寂。それからドアが開き、軽い足音が地面を踏んだ。再び静寂。蟋蟀も啼きやんだ。光線が闇を低く切り裂いた。地面と平行に僅か数インチ上を光線がさっと通り、私は足首を避ける暇を与えられなかった。光線は私の足の上で止まった。光線が上がってきて、再びボンネットの上を照らした。
 笑い声がした。若い娘の笑い声だ。ぴんと張ったマンドリンの弦のように緊張している。こんな場所には似つかわしくない。白い光線はまた車の下を照らし、私の足に落ち着いた。
 声が言った。甲高いというにはもう少しという声だ。「そこから出てきなさい。両手を上げて、つまらない真似をすると、撃つわよ」
 私は動かなかった。
 かざしている手の震えを物語るように、ライトが少し揺れた。光がゆっくりとボンネットの上をもう一度舐めた。声がまた私を突き刺した。
「誰だか知らないけど、よく聞いて。私は十連発の自動拳銃を構えてる。腕は確かよ。あなたの両脚はまる見え。それでもやるの?」
「銃を置くんだ―それとも手から吹き飛ばされたいか!」私は怒鳴った。私の声はまるで誰かが鶏小屋の薄板を引き剥がしているように響いた。
「あら、まあ、ハードボイルドな方のようね」声には少し震えが聞き取れた。かわいい震え声だ。それから再び硬くなった「出て来る気はないの? 三つ数える。勝ち目があるかどうか考えなさい。言っておくけど、それってシリンダーが贅沢なことに十二もあるのよね。それとも十六気筒かしら。でも、あなたの足は傷を負うわ。それに踝の骨は治るまで何年もかかる。時には治らないままということも」 
 私はゆっくり立ち上がり、懐中電灯の光を見つめた。
「怖いときにしゃべり過ぎるのは私も同じだ」私は言った。
「動かないで、じっとしてて! あなたは誰?」
 私は車の前を回って女の方に動いた。懐中電灯の後ろの華奢な暗い人影から六フィートのところで足を止めた。懐中電灯の光は私をじっと眩しく照らしていた。》

「乾上るほどの気候はではなかった」は<but the weather was not bone dry>。清水氏はカット。村上訳「しかしこのあたりはそこまで乾ききってはいない」。

「ヴォーグ社製の高耐久性タイヤの痕」は<the tread marks of the heavy ten-ply Vogue tires>。清水氏は「重いヴォーグのタイヤの跡」と訳している。村上訳は「ヴォーグ社製の十層重ねの重量級タイヤのあと」だ。<the heavy ten-ply>をどう訳すかということだ。<ten-ply>は、村上訳の通りで、少し前まではタイヤの強度を上げるために、木綿糸で編まれたベルトのような補強材(プライレーティング)をタイヤ内部に巻きつけていた。

<ten-ply>は、十層のことで、通常四層や六層であることから考えると、かなりの高耐久性であることを意味している。次に<heavy>だが、「重い」という旧訳に引きずられてか、新訳も「重量級」という訳語をあてている。この<heavy>は「酷使に耐える」という意味の<heavy-duty>のことだと思う。<Vogue>は、当時の高級タイヤメーカーの社名。

「そこにに光を当ててかがみ込むと、痛みで頭がくらくらした」は<I put the light on them and bent over and the pain made my head dizzy>。清水氏は何故かここもカットしている。村上訳は「そこに光をあててかがみ込むと、殴打された部分がずきずき痛み、めまいを感じた」と、言葉を補って訳している。

次の段落でも清水氏は「隙間を通り抜け」<I went through the gap>と「ここも地面は柔らかかった」<The ground was still softer here>を訳していない。村上訳は「私は隙間を通り抜け」、「あたりの地面はより柔らかくなっていて」である。

その次の段落でも清水氏のカットは目立つ。「クローム」<chromium>の一語と「すべてがきちんと整っていた」<Everything neat and orderly>の一文が抜けている。「クローム」は村上訳も同じ。もう一つの方は「異変らしきものは何も見当たらなかった」と意訳している。

「物音がして、私は立ちすくんだ」は<A sound froze me>。清水訳では「突然、物音が聞こえた。私はからだに冷水を浴びせられたように緊張した」と珍しく説明的だ。村上訳だとこうなる。「物音が私を縮み上がらせた」。<floze>は、アメリカのハロウィンの夜に日本人学生が射殺された時に言われた言葉「フリーズ」のことだ。「動くな、じっとしてろ」という意味である。「寒さを感じる」の意味で訳すところではない。

その次の「飛び上がったとしても三十センチ足らずだ」は<I didn't jump more than a foot>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「飛び上がったとしても、せいぜい三十センチ程度のものだ」。どうでもいいといえばどうでもいいようなものだが、作者が書いているのだから、訳者は訳すべきだろう。

「湿気を帯びた大気の中で満足げな音を立てていた」も清水氏はカットしている。霧が出て空気が湿っていることについては、マーロウは再三再四喚起している。カットするべきところではない。村上氏は「はきはきとした音が湿気を含んだ大気を叩いていた」と、ちゃんと湿気に触れている。車のエンジン音を「はきはきとした」と形容する感覚にはちょっとついていけない気はするとしても。

「地面と平行に僅か数インチ上を光線がさっと通り」は<parallel to the ground and only a few inches avobe it>。清水氏は「地上数インチのところを、地面と平行に流れた」と訳している。単位の訳し方については悩ましいものがあるが、一インチは約25ミリメートル。村上氏はここを「地面と平行に、その数センチ上のあたりを」と訳している。村上氏が律儀にメートル法に換算しているのは読者に親切なところだが、一字ちがいでも「センチ」と「インチ」は単位がちがう。<few>は「少しの」という意味だから、実質として大差はないが「数センチ」なら「二、三センチ」、「数インチ」なら「五、六センチ」くらいか。この程度の差なら許容範囲と見たのだろう。

「甲高いというにはもう少しという声だ」は<not quite shrilly>。<shrilly>は「金切り声、甲高い」という意味。清水氏は「意外に柔らかい調子の声」と訳している。村上氏は「ほとんど甲高いと言ってもいい声だ」だ。<not quite>は「完全には~でない、~とまではいかない」というような意味なので、「甲高くはないが、どちらかといえばそれに近い」声なのだろう。

「銃を置くんだ」は<Put it up>。清水氏は「ピストルをそのまま持ってるんだね」と訳している。その後に「さもないと、君の手から叩き落すぜ」と続けている。いくら何でも銃で撃たれても持ち続けていられるはずがない。村上氏は「銃を下ろせ」と訳している。<put up>には古英語で「剣を収める、戦いをやめる」の意味がある。また「~を上に置く」という意味もある。<up>を「下ろせ」と訳すのも野暮なので「置く」と訳してみた。

「私の声はまるで誰かが鶏小屋の薄板を引き剥がしているように響いた」は<My voice sounded like somebody tearing slats off a chicken coop>。清水氏は「私の声は、鶏小舎(とりごや)に小石を投げつけたように響いた」と訳している。<tear off>には「もぎとる、はがす」の意味がある。清水氏がどうして「投げる」を訳語として選んだのかがよくわからない。村上氏は「私の声には、誰かがニワトリ小屋から板をはがしているような響きがあった」と訳している。

「あら、まあ、ハードボイルドな方のようね」は<Oh-a hardboiled gentleman>。清水氏は「えらそうなことをいうのね」と意訳している。この場合の<gentleman>は、目の前にいる名前を知らない男性を指していう言葉で、「男の方、殿方」などと訳す。村上氏は「あらあら、ハードボイルドな方のようね」と訳している。チャンドラーが活躍しだした頃には、「ハードボイルド」という名称は確立していた。ここはそのまま訳したいところだ。

「言っておくけど、それってシリンダーが贅沢なことに十二もあるのよね。それとも十六気筒かしら」は<I'm giving you-twelve fat cylinders, maybe sixteen>。清水氏は当然のようにカットしている。ロールスロイスは耐久性に優れた車だ。その後ろに隠れていても足だけはまる見えだということを言っている。村上氏は「そのエンジンはたっぷりと十二気筒はあるかもしれない。あるいは十六気筒かもね」と訳している。小型のクーペに乗っている娘の嫌味である。