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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第二章(1)

<call down>は「酷評する、けなす、こき下ろす」

【訳文】

 それはプライベート・オフィスたるもの、そうあるべき部屋だった。奥行きがあり、ほの暗く、ひっそりして空調が効いていた。窓は閉まり、灰色のベネシアン・ブラインドを半ば閉じて、七月のぎらつく陽射しを遮っていた。厚地のグレイのカーテンはグレイの絨毯と調和がとれていた。隅には大きな黒と銀色の金庫があり、それと正確に高さを揃えた低いファイリング・ケースが並んでいた。壁には巨大な着色写真がかかっていた。鑿で彫り出したような鉤鼻と頬髯、ウィングカラーの老人だ。ウィングカラーから迫り出した喉仏は大抵の人の顎より硬そうだった。写真の下のプレートには「ミスタ・マシュー・ギラ―レイン、一八六〇-一九三四」とあった。
 ドレイス・キングズリーはきびきびと歩いて、八百ドルはしそうな高級机の後ろに回り込み、背の高い革張りの椅子にどっかりと尻を埋めた。銅とマホガニーでできた箱に手を伸ばし、細巻き葉巻を取り出して端を切り、銅製の大きなデスク・ライターで火をつけた。それだけのことをするのにたっぷりと時間をかけた。私の方の時間など、どうでもいいのだ。それが終わると、椅子にふんぞり返って煙を少し吐き、言った。
「私はビジネスマンだ。無駄なことはしない。名刺によると君は免許を有する私立探偵らしい。それを証明する物を見たい」
 私は財布から証明する物を出して渡した。彼はそれを見て、机越しに投げてよこした。探偵免許の写しを入れたセルロイドのホルダーが床に落ちたが、詫びの一言もなかった。
「マッギーとやらは知らん」彼は言った。「保安官のピーターセンなら知っている。信頼して仕事を任せられる人間を紹介してほしいと頼んだが、どうやら君がそうらしいな」
「マッギーは保安官事務所のハリウッド分署勤務です」私は言った。「確認できますよ」
「その必要はない。そうかも知れんが、余計な口出しはするな。ことわっておくが、私は人を雇ったら、勝手な真似は許さん。私の言う通りに動き、口は閉じておけ。さもなきゃ即刻お払い箱だ。分かったか? やたらボス風を吹かす気はないのだが」
「それについては保留ということにしておきましょう」私は言った。
 彼は眉を顰めた。そして、はっきり言った。「料金はいくらだ?」
「一日二十五ドルと必要経費。それにガソリン代が一マイル八セント」
「ばかな」彼は言った。「高すぎる。一日かっきり十五ドル。それで十分だ。マイル当たりの料金は必要な分はその金額を払う。ただし、用もないのに乗り回すな」
 私は灰色の煙草の煙を一吹きし、手で払いのけだ。何も言わなかった。彼は私がしゃべらないので少し驚いたようだった。 
 彼は机の上に身を乗り出し、私に葉巻を突きつけた。「まだ君を雇ったわけではない」彼は言った。「だが、雇われたなら、仕事については他言無用だ。警察の友だちにも話すな。分かったか?」
「何をさせたいんですか。ミスタ・キングズリー?」
「何が気になるんだ。探偵の仕事なら何でもやるんだろう?」
「何でもやる訳ではありません。筋の通ったことに限ります」
 彼は落ち着いた眼で私を見つめ、口を引き結んだ。灰色の瞳は解り難い表情をしていた。
「一例をあげれば離婚案件は扱いません」私は言った。「それから初めての依頼人からは保証金として百ドル戴きます」
「それは、それは」彼は急に穏やかな声になった。「それは、それは」
「そして、ボス風を吹かすことに関しては」私は言った。「依頼人の大半は、初めは私のシャツに取りすがって泣くか、誰がボスか分らせようと怒鳴るかのどちらかです。しかし、ふつう最後にはとても物分かりがよくなる。もし、その時まで生きていられたらですが」
「それは、それは」彼は同じ穏やかな声でまた言うと、私を見つめ続けた。「客はよく死ぬのか?」彼は訊いた。
「心配いりません。私を正しく扱ってさえいれば」私は言った。
「葉巻はどうだ」彼は言った。
 私は一本とってポケットに入れた。
「妻を探してほしいんだ」彼は言った。「いなくなってからひと月経つ」
「オーケイ」私は言った。「見つけ出しますよ」
 彼は机を両手でぱたぱた叩いた。彼はじっと私を見つめた。「君ならやってくれるだろう」彼は言った。そして、にやりと笑った。「四年間というもの、こんなふうに喧嘩を売られたことはない」彼は言った。
 私は何も言わなかった。
「ちくしょうめ」彼は言った。「気に入った。大いに気に入った」彼は濃い黒髪をかきあげた。「妻はひと月というもの消えたままだ」彼は言った。「ピューマ・ポイントに丸太小屋を持ってるんだが、そこから消えたんだ。ピューマ・ポイントを知ってるか?」
 私はピューマ・ポイントなら知ってると言った。
「うちの小屋は村から三マイル離れている」彼は言った。「途中からは私道だ。リトル・フォーン湖という私有の湖に面している。土地を開発するために三人で作ったダムだ。他の二人と共同で一帯を所有している。かなり広いが、未開発だ。しばらくの間は手のつけようがない。戦時ではね。二人の友人の小屋と私の小屋の他にもう一軒、ビル・チェスという夫婦者の小屋がある。退役して年金暮らしの傷痍軍人だ。家賃代わりに地所の管理をさせている。他には誰もいない。妻は五月の半ばにそこに行き、二度週末に帰ってきた。六月十二日にパーティーをする予定だったが姿を見せなかった。それから妻に会っていない」
「それで、あなたは何をしたんですか?」私は訊いた。
「何も。何ひとつ。そこに行きさえしなかった」彼は待った。私に、なぜと聞いて欲しがっている。
 私は言った。「なぜ?」

【解説】

「隅には大きな黒と銀色の金庫があり、それと正確に高さを揃えた低いファイリング・ケースが並んでいた」は<There was a large black and silver safe in the corner and a low row of low filing cases that exactly matched it>。<row>は「(まっすぐな線に並んだ人・ものの)列、並び」のこと。清水訳は「黒と銀色の大型の金庫が部屋のすみ(傍点二字)におかれてあって、背の低いファイル・ケースの長い列と見事につり合いがとれていた」。

村上訳は「部屋の隅には黒と銀色の大型の金庫が置かれ、それにぴったりサイズの合った、ファイリング・ケースが並んだ低い棚があった」。村上氏は資料室にあるような棚に並べられた箱を想像しているらしい。田中訳は「隅にある大きな銀色の金庫も、またひくい書類ケースがひくくならんでいるのも、この部屋の雰囲気によくマッチしている」で、金庫でなく部屋との調和がとれていると解釈している。映画によく出てくる、一個につき三段くらい抽斗がついた、ファイリング・キャビネットのことじゃないか、と思うのだが。

「鑿で彫り出したような鉤鼻」は<a chiselled beak>。清水氏訳は「とがった顎(あご)」。田中訳は「鑿(のみ)でほりとったような口」。村上訳は「鑿(のみ)で削られたような鉤鼻(かぎばな)」。<chisel>は「のみで彫る」の意味。<beak>は「くちばし状のもの」のことで、「口」という意味もあるが「鉤鼻」を指す場合もある。

「そうかも知れんが、余計な口出しはするな」は<I guess you might do, but don't get flip with me>。清水訳は「君で用が足りるだろう」。村上訳は「きみでいいだろう。ただし、私に向かって生意気な口をきいてはならん」。この<might>だが、後ろに等位接続詞<but>が続いているので、譲歩を示している。「君はそうするのかもしれないが(私はしない)」という意味になる。清水、村上両氏は「探偵は君でつとまる」と解釈しているが、田中訳「ただし、きみが電話して、呼びだすのはかまわん」が意味としては正しい。

<flip>は<flippant>「軽薄な、軽々しい」の短縮形。<don't be flip with me>は「私に向かって軽薄な(軽々しい)口を利かないでください」の意。キングズリーはマーロウに<You can check on that>と言われたのが気に障ったのだ。村上氏は丁寧に訳している。田中、清水両氏は、同じ趣旨のことを後の方でキングズリーが言っているので、ここをトバしている。

「彼は落ち着いた眼で私を見つめ、口を引き結んだ」は<He stared at me level-eyed, his jaws tight>。清水訳は「彼は目を据え、顎を引いて、私を見つめた」。田中訳は「キングズリイは、グッと顎をひき、まともにおれの顔をみた」。村上訳は「彼は顎をぎゅっと締めて、正面からまっすぐ私を見た」。<level>には「落ち着いた、冷静的」という意味もある。<jaw>は「顎」だが<jaws>は「(あご、歯を含めた)口」を指す。

「四年間というもの、こんなふうに喧嘩を売られたことはない」は<I haven't been called down like that in four years>。田中訳「君みたいにはっきりものをいう者には、もう何年もあっていない」。清水訳「私はこの四年間、こんなふうにはっきりものをいわれたことがない」。村上訳「そんな風にはっきりものを言われたことは、この四年間一度もなかった」。<call down>は「酷評する、けなす、こき下ろす」の意味だ。もっとはっきり言った方がいい。

「ちくしょうめ」は<Damn it all>。田中氏は「まったく、やっかいなことだ」と訳したために、つぎの<I liked it. I liked it fine>を「じつに、おもしろくない」とめずらしく誤訳している。<dame it all>は「かまわん、しまった、畜生、どうにでもしろ、なんてこった、知るか」といった罵り言葉。大いに気に入った場合でも用いることはある。清水訳は「わかるかね」、村上訳は「いいだろう」と無難な訳にしているが、ここはあえてそのまま訳した方がキングズリーのマーロウに対する評価の激変を表現できる。

『湖中の女』を訳す。第一章(2)

<rear back>は「後退り」ではなく「後ろ脚で立つ」ことだ。

【訳文】

 半時間がたち、煙草を三、四本吸い終わった頃、ミス・フロムセットの背後のドアが開き、二人の男が笑いながら後ろ向きに出てきた。三人目の男がドアを抑え、二人に調子を合わせていた。彼らは熱心に握手を交わし、二人はオフィスを横切って出て行った。三人目の男の顔から笑顔が消え、まるで生まれてから一度も笑ったことなどないような顔になった。グレイのスーツを着た長身の男には、無意味なことをする気は微塵もなかった。
「電話はなかったか?」彼は親分風を吹かせ、切り口上で訊いた。
 ミス・フロムセットは低い声で言った。「ミスタ・マーロウという方がお見えです。マッギー警部補の紹介で、個人的な要件とのことです」
「聞いたこともない男だ」背の高い男は大声で言った。そして、名刺を手に、こちらには目もくれずオフィスに戻った。ドアが圧縮空気の力で閉まり、ふーん、とでもいうような音を立てた。ミス・フロムセットは私に誠にお気の毒と言いたげな微笑をくれ、私はいやらしい流し目で返した。新しい煙草を口にすると、また時間がよろよろと過ぎて行った。私はギラ―レイン社のことが大好きになりかけていた。
 十分後、再び同じドアが開き、帽子を被った大物が出てきて、人を小馬鹿にするように、散髪に行くと言った。中国段通を軽快な運動選手の大股で横切りかけ、ドアまで半分ほど行ったところで、急に折り返し、私が座っているところまで来た。
「私に会いたいって?」彼は怒鳴った。
 身長は六フィート二インチほどで、やわな体つきではない。鈍色の瞳は燐光の斑入り。細いチョーク・ストライプの入った滑らかなグレイ・フランネルに大きな体を詰め込んでおり、着こなしも上品だった。見るからに、つきあい難い相手だった。
 私は立ち上がった。「もし、あなたがドレイス・キングズリーさんでしたら」
「一体誰だと思ってたんだ?」
 言いたいように言わせておいて別の名刺を取り出した。商売用のやつだ。彼は大きな手で鷲づかみし、見下ろして顔をしかめた。
「マッギーというのは誰かね?」彼はいきなり言った。
「ただの知り合いですよ」
「そそられる話だ」彼は言った。そして、ちらっとミス・フロムセットを振り返った。それは彼女にうけた。大いにうけた。
「その男について他に聞かせてもらえるかな?」
「ヴァイオレッツ・マッギーと呼ばれています」私は言った。「菫の香りのする小さな喉薬をいつも噛んでるのでね。柔らかな銀髪の大男で赤ん坊でもキスしたくなるかわいい唇をしている。この前見たときはこざっぱりしたブルーのスーツを着て、爪先の広い茶色の靴を履き、グレイのホンブルグ帽を被って、短いブライアーのパイプで阿片を吸ってました」
「その態度は気に入らない」キングズリーはブラジル・ナッツでも割れそうな声で言った。
「構いませんよ」私は言った。「別に態度が売りってわけじゃない」
 まるで鼻先に一週間経った鯖をぶら下げられたみたいに彼はいきり立った。しばらくすると、くるりと私に背中を向け、肩越しに言った。
「きっかり三分間だけくれてやる。さっぱり訳がわからん」
 彼は焦げよとばかり絨毯を踏みつけてミス・フロムセットの机を通り過ぎ、自分の部屋のドアをぐいと開け、私の鼻先で閉まりかけるのも無視して部屋に入った。これもミス・フロムセットにうけたが、今ではその両眼の奥に少しばかり冷笑が隠されているように思えた。

【解説】

「無意味なことをする気は微塵もなかった」は<he didn't want any nonsense>。田中訳は「ふざけたりするのはぜったいにゆるさん、といった顔をしていた」。村上訳は「なめた真似は許さないと心に決めた人物のように見えた」。清水訳は「いかにもとっつき(傍点四字)にくい顔つきだった」。<nonsense>は文字通り「無意味」という意味だ。相手が見えなくなったら、それ以上作り笑いをしているのは無意味なことだ。彼はそう考えるタイプの男なんだろう。文脈上、そう考えるのが自然だ。

「ドアが圧縮空気の力で閉まり、ふーん、とでもいうような音を立てた」は<His door closed on the pneumatic closer and made a sound like “phooey.”>。<phooey>は軽蔑や不信、失意などを表す間投詞で「そんなばかな、ふーん、ちぇっ」といった意味。無視された格好のマーロウの耳には、ドアの閉まる音がそう聞こえたということだろう。

清水訳は「圧搾空気の開閉装置がついているドアが妙な音を立てて閉まった」。村上訳はドアは自動圧力で閉まり、「ひゅうう」という音しか立てなかった」。田中訳は「圧縮空気仕様の自動開閉ドアが、フーイ、用はないよ、というような音をたてて、閉まった」。「用はないよ」は擬音である<phooey>を意味の分かる言葉に訳したもので、こう書かれると意味がよく分かる。田中小実昌氏のチャンドラーは、ちゃんと日本語の小説になっている。

「人を小馬鹿にするように、散髪に行くと言った」は<sneered that he was going to get a hair-cut>。<sneer>は「嘲笑う、冷笑する、鼻であしらう」。田中訳は「散髪に行くとほざいた」。清水訳は「髪を刈りに行くとぶっきらぼうな口調でいった」。村上訳は「これから散髪に行ってくると、小馬鹿にしたような声で言った」。ここで考えたいのは、いったい誰が「鼻であしらわれ」ているのか、ということだ。いうまでもなく待ちぼうけを食わされているマーロウだ。田中訳、村上訳からはそれが伝わるが、清水訳からは伝わってこない。

「鈍色の瞳は燐光の斑入り」は<His eyes were stone gray with flecks of cold light in them>。田中訳は「石のような灰色の目が、つめたくひかっている」。清水訳は「目は石のように灰色で、冷たく光っていた」。どちらも<flecks>をトバしている。<fleck>は「(光・色などの)斑点」。また<cold light>は燐や蛍のような熱のない光を表す言葉。村上訳は「瞳は険しい灰色で、まだら模様がその中に冷たい明かりとなって見えた」。<stone gray>は「粘板岩または花崗岩の色」を表す言葉で「濃青灰色、鈍色」を指す。

「見るからに、つきあい難い相手だった」は<His manner said he was very tough to get along with>。<to get along with>は「気が合う、馬が合う」の意味だが、田中氏はここをカットしている。清水訳は「そのそぶり(傍点三字)で一筋なわではいかぬ人間であることがわかった」。村上訳は「その素振りからして、相手にするのはずいぶん厄介(やっかい)そうだ」。

「彼はいきり立った」は<He reared back>。清水訳は「後しざリ(傍点三字)した」。田中訳は「うしろにさがった」。村上訳は「後ろにさっと身を引いた」。鼻先に腐った鯖をぶら下げられたら、誰しも身を引きたくなる。それはそうだが、動詞<rear>に「さがる」という意味はない。自動詞<rear>は「後脚で立つ」という意味だ。馬が興奮すると後脚で立つことから<rear back>は「憤慨し始める、抗議を始める」という意味になる。

「さっぱり訳がわからん」は<God knows why>。清水訳では「会う必要はないのだが」。村上訳では「そんな義理もないのだが」。田中訳では「しかし、いつもこんなふうだとおもってもらってはこまる」。<God knows why>を日本風に言えば「(その訳は)神のみぞ知る」だ。三氏とも、後半部分をマーロウに聞かせる台詞だと解釈している。しかし、腹は立てていても、話を聞くのは興味を引かれたからだ。どうしてそんなことをする気になったのか自分でも分からないので、自分に言い聞かせるために言った台詞ではないか。

「自分の部屋のドアをぐいと開け、私の鼻先で閉まりかけるのも無視して部屋に入った」は<his door, yanked it open and let it swing to in my face>。圧縮空気で自動的に閉まるドアについては先に紹介されていた。その伏線の回収である。「ドアを私の鼻先に乱暴にあけた」という清水訳では、それが分からない。村上訳は「ドアを勢いよく開け、そのまま手を離した。ドアはあやうく私の顔にぶつかるところだった」。田中訳は「ドアをあけ、うしろのおれの顔にぶつかるようにドアがしまってくるのをほったらかしたまま、自分のオフィスにはいってしまった」。

「今ではその両眼の奥に少しばかり冷笑が隠されているように思えた」は<but I thought there was a little siy laughter behind her eyes now>。清水訳は「目のうしろで意地わるく笑っていた」。村上訳は「しかし彼女の両目の奥には、見すかした笑いが隠されているようにも感じられた」。田中訳は「だが、こんどはちょっぴり目が笑っていたようだった。ボス面(づら)をしたキングズリイがやりこめられたのが、おかしかったのだろう」。二つ目の文は原文にはない。訳者がここまで介入してもいいものかどうか、意見の分かれるところかもしれない。

チャンドラー『湖中の女』を訳す 第一章(1)

【はじめに】

 ずぶの素人がまるまる一冊、長篇小説を訳してみようと無謀な試みを思い立ったには訳がある。村上春樹氏がチャンドラーの長篇の新訳を出したことで、新訳について様々な意見が巻き起こった。旧訳でなじんできた読者に新訳が違和感を持って迎えられたのはよく判るが、村上訳そのものの是非については、本当のところは原文を読まないと分からない。それで、清水潔訳の『長いお別れ』文庫版と村上訳の『ロング・グッドバイ』単行本、それにブラック・リザード版の<The Long Goodbye>原文を用意して比べ読みから始めた。
 これがなかなか面白くて、次に『大いなる眠り』を比べ読みし、その次に『さらば愛しき女よ』を読みだしたが、もうその頃には、自分ならどう訳すだろうという好奇心が強くなっていて、試訳を始めたら病みつきになってしまった。
 最近の自動翻訳は、以前とは比べ物にならないほど精度がよく、著名な翻訳家も下訳になら使えるとお墨付きを出すほどだ。もっとも、チャンドラーの使う凝った比喩や、俗語、スラングには対応していないので、参考程度にしか使えない。やはり、こつこつと複数の辞書を引くことになる。ネットの情報も頼りになる。ロサンジェルス市庁舎の正面階段の高さもそれで確認した。
 さて、今回の『湖中の女』だが、原題は<The Lady in the Lake>。ウォルター・スコット叙事詩<The Lady of the Lake>(湖上の美人)に因んでいるのだろう。一語だけ違うのは、女が舟の上ではなく、死体となって水中にいるからだ。しかし、錘をつけて水底に沈められた訳ではないので、村上訳の『水底の女』は、あまり相応しい訳とは思えない。
 『湖中の女』には、清水潔訳、村上春樹訳の他に、田中小実昌訳があり、他に長篇のもとになった中篇小説を稲葉明雄氏が訳した「湖中の女」が晶文社刊『マーロウ最後の事件』に収められている。私訳にあたり、これらを参考にしたことをあらかじめことわっておく。

第一章

【訳文】

 トレロア・ビルディングは、今と同じように市の西側、六番街に近い、オリーヴ・ストリートにあった。ビルの前の歩道には黒と白のゴム・ブロックが敷かれていた。戦時で政府に供出するために掘り出されている最中だったが、ビルの管理人らしい青白い顔をした無帽の男が傷心の面持ちでそれを見ていた。
 男の前を通り過ぎ、専門店の並ぶアーケードを抜け、黒と金色の広大なロビーに入った。ギラ―レイン社は七階の正面側、プラチナに縁どられたガラスの両開きのドアが揺れる、その向こうにあった。応接室には中国製の敷物、鈍い銀色の壁、無骨ながらが手の込んだ家具、幾つかの台座に据えられた鋭く光る抽象彫刻、隅に置かれた三角形のショーケースには背の高い陳列棚が収まっていた。輝く鏡ガラスの階段の各層、島、張り出しには、これまでにデザインされたあらゆる意匠を凝らした壜や箱が置かれているようだった。すべての季節や場に応じたクリームやパウダー、石鹸、化粧水があった。香水の入った細長い瓶は一吹きで倒れそうだった。かわいいサテンで蝶結びされたパステル・カラーの小瓶に入った香水は、まるでダンス教室に通う少女たちのようだ。中でも最高級品は、ずんぐりした琥珀色の瓶に入った何か特別なとても小さいシンプルな品のようだ。目の高さにある棚の真ん中で、広いスペースを独占していた。ラベルには<ギラ―レイン・リーガル、香水のシャンパン>とあった。何としてでも手に入れるべき一品だった。喉の窪みに一滴たらせば、粒揃いのピンク・パールが夏の雨のように降りかかることだろう。
 きちんとした小柄な金髪娘が、危険地帯から遠く離れた柵の後ろ、小さな電話交換台の隅に坐っていた。奥の両扉の前には平机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた。机上の傾いた打ち出しの名札によると、名前はミス・エイドリアン・フロムセットだった。
 スチール・グレイのビジネス・スーツを着て上着の下はダーク・ブルーのシャツに明るい色の男物のタイを締めていた。胸のポケットチーフの角はパンが切れそうなほど鋭く折られていた。チェーンのブレスレット以外、アクセサリーは身につけていなかった。黒い髪は両側にゆるやかに垂らしていたが、ウェイブは手がかかっていた。滑らかな象牙色の肌で、かなりきつめに引いた眉と、大きな黒い瞳は時と場所さえ間違えなければ熱くなりそうに見えた。私は肩書き抜きの名刺、隅に機関銃が描いてないやつを彼女の机に置いて、ミスタ・ドレイス・キングズリーに会いたいと言った。彼女は名詞を見て言った。
「約束はおありでしょうか?」
「約束はしていない」
「約束なしにミスタ・キングズリーにお会いになることは大変難しいのです」
 それは私がどうこう言うことではなかった。
「どんなご用向きでしょう?」
「個人的なことだ」
「なるほど。ミスタ・キングズリーはあなたのことを存じ上げておりますでしょうか、ミスタ・マーロウ?」
「そいつはどうかな。名前くらいは聞いてるかもしれない。マッギー警部補に言われてきたと言った方がいいかもしれない」
「ミスタ・キングズリーはマッギー警部補を存じ上げておりますでしょうか?」
 彼女はタイプしたばかりのレターヘッド付き用箋の山の横に私の名刺を置いた。からだを後ろにそらし、片腕を載せた机を、小さな金色の鉛筆で軽くたたいた。
 私はにやっと笑って見せた。交換台の小柄なブロンドが貝殻のような耳をそばだてて、小さくふわりとした微笑を浮かべた。ふざけたくてたまらないらしいが、どうしたらいいのか分からないのだ。子猫のことなぞ構いもしない家に貰われてきた子猫のようだった。
「だといいのだが」私は言った。「彼に訊くのが一番かもしれない」
 彼女は私にペンセットを投げつけるのをやめて、三通の手紙に素早くイニシャルを書き留めた。そして顔も上げずに言った。
「ミスタ・キングズリーは会議中です。折を見て名刺をお取り次ぎします」
 私は礼を言って、クロームと革でできた椅子に腰をおろした。見かけよりずっと座り心地がよかった。時が過ぎその場に沈黙が立ちこめた。出入りする者は誰もいなかった。
 ミス・フロムセットのエレガントな手が書類の上で動き、交換台の子猫が時折立てる小さな話し声と、プラグを抜き差しする音が微かに聞こえてきた。
 私は煙草に火をつけ、灰皿スタンドを椅子の傍に引き寄せた。時は忍び足で、唇に指をあてて過ぎて行った。私はあたりを見渡した。こういうところは見かけだけでは何もわからない。儲けは何百万ドルになるかもしれず、後ろの部屋に雇われシェリフがいて、金庫に椅子の背を凭せて張り番をしているかもしれない。

【解説】

「トレロア・ビルディングは、今と同じように市の西側、六番街に近い、オリーヴ・ストリートにあった」は<The Treloar Building was, and is, on Olive Street, near Sixth, on the west side>。<on the west side>はL.Aの西側を意味すると思われるが、清水氏は「トレロア・ビルはいまとおなじオリーヴ通りの西がわの、六番通りに近いところにあった」と訳している。村上訳は「市西部の」、田中訳は「ロサンジェルスの西側」だ。

「輝く鏡ガラスの階段の各層、島、張り出しには」は<On tiers and steps and islands and promontories of shining mirror-glass>。清水訳は「きらきら輝いているミラー・ガラスの棚に」と<steps and islands and promontories>を例によってカットしている。田中訳は「たて、よこにかさなり、あるいはポツンと島のようにはなれ、また、岬みたいにつきだした、ピカピカひかる鏡ばりの陳列棚の上には」。村上訳は「きらびやかな鏡面ガラスでできた棚やステップや浮島(アイランド)や出っ張りの上には」。田中訳が読者には親切だが<tiers>も<steps>も上下の階段の意味だ。「たて、よこにかさなり」の訳がひっかかる。

「奥の両扉の前には平机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた」は<At a flat desk in line with the doors was a tall, lean, darkhaired lovely>。清水訳は「ドアから正面の飾りのないデスクには背が高く、ほっそりした、薄い色の髪の娘が座っていて」だ。<darkhaired>がどうして「薄い色の髪」になったのかは分からない。田中訳は「奥のドアに並んで、大きな飾りのない机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた」。村上訳は「ドアとドアとを結ぶ線上に置かれたフラットなデスクの前には、ほっそりとした長身黒髪の美人が座っていた」。

<in line with ~>は「~に沿って」という意味だ。つまりガラスのスイング・ドアを入ると、その向こうにも二枚のドアが待っている造りで、奥のドアを守るように受付用のデスクが置かれているのだろう。それが訳者によって「飾りのないデスク」になったり「大きな飾りのない机」になったりし、「デスクに座っていた」り、「デスクの前に座っていた」りするのだから可笑しい。マーロウの視点から見れば、黒髪の女はデスクの向こう側にある椅子に座っているのでないと変だ。

「私は肩書き抜きの名刺、隅に機関銃が描いてないやつを彼女の机に置いて」は<I put my plain card, the one without the tommy gun in the corner, on her desk>。清水訳は「私は固書きのついていない名刺を彼女のデスクにおいて」。田中訳も「私立探偵の肩書がついたのではなく、ふつうの名刺をエイドリン・フラムセットの机の上に置き」と<the one without the tommy gun in the corner>をカットしている。村上訳は「私は名前だけの名刺を彼女のデスクに置いた。隅っこに機関銃の絵が描かれていないやつだ」。

「交換台の子猫が時折立てる小さな話し声」は<the muted peep of the kitten at the PBX was audible at moments>。清水訳は「交換台の子ネコちゃんの視線がときどき私に向けられ」。村上訳は「電話交換台の子猫ちゃんがが時折こっそりこちらを覗き見する音まで、しっかり耳に届いた」。両氏とも<peep>を「覗き見」と解しているようだ。しかし、これは、「ひな鳥などがピーピー鳴く、ネズミがチューチュー鳴く、音」の方ではないか。因みに田中氏は「交換台の仔猫がちいさな声でしゃべるのが、時々きこえ」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第41章(最終話)

<She turned>は「彼女は振り返った」

【訳文】

ヴェルマを見つけるのに三か月以上かかった。グレイルが彼女の行方を知らず、逃亡を助けてもいないということを警察は信じなかった。そこで、国中の警官とやり手の新聞記者は金のかかりそうな隠れ場所を八方手を尽くして調べた。ところが、彼女は身を隠すのに金をかけなかった。ねたが割れれば、誰にでも分かるやり方で身を隠していたのだ。
 ある夜、ピンクの縞馬のように稀少な観察眼を持ったボルティモアの刑事がナイトクラブに迷い込み、バンド演奏に耳を傾けた。そして、センチメンタルなラブソングを心を込めて歌うことのできる、黒髪に黒い眉の美しい歌手に目を留めた。彼女の顔の何かが彼の琴線に触れ、それは震え続けた。
 彼は本署に戻って、指名手配犯のファイルを取り出すと手配書の山を調べ始めた。お目当ての物にたどりついたとき、彼は長い間それを見ていた。それからストローハットを真っ直ぐにかぶり直し、ナイトクラブに引き返してマネージャーをつかまえた。二人は舞台裏手の楽屋に回り、マネージャーがドアのひとつをノックした。鍵はかかっていなかった。刑事はマネージャーを押しのけて、中に入って鍵をかけた。
 彼はマリファナの匂いを嗅いだはずだ。なぜなら彼女が吸っていたから。しかし、その時は何の注意も払わなかった。彼女は三面鏡の前に坐って、髪の毛と眉毛のつけ根を調べていた。眉は自前のものだった。刑事は微笑みながら部屋を横切り、彼女に手配書を手渡した。
 彼女は、本署で刑事が見ていたのと同じくらい長い間写真を見ていたはずだ。写真を見ながら、思いを馳せることがいくらでもあった。刑事は腰を下ろし、足を組み、煙草に火をつけた。彼はいい眼をしていたが、使うのは捜査に限られ、女について見聞が足りなかった。
 最後に彼女は少し笑って言った。「若いくせに隅に置けないわね。記憶に残る声だとは思っていたの。前にラジオで聞いただけで私だと気づいた友だちが一人いたから。このバンドで歌うようになってひと月。週に二回ラジオにも流れてるのに誰にも気づかれなかった」
 「声は聞いたことがなかった」刑事はそう言って微笑し続けた。
 彼女は言った。「この件で取引は難しいんでしょうね。うまく捌いてくれたら、得る物は多いと思うけど」
「お門違いだ」刑事は言った。「悪いね」
「じゃあ、行きましょう」彼女はそう言って立ち上がり、ハンドバッグをつかみ、ハンガーからコートを取った。彼女は彼のところへ行き、着せかけてもらおうとコートを差し出した。彼は立ち上がり、いかにも紳士らしく、女のためにコートを持ってやった。
 女は振り向きざま、バッグから銃を抜き、男が捧げ持つコート越しに三発撃ち込んだ。
 人々がドアを壊したとき、彼女の銃には弾丸が二発残っていた。彼女がそれを使い切るのには間に合わなかった。二発とも使用されたが、二発目は反射作用だったにちがいない。床に倒れる前に抱き留めたが、時すでに遅し、彼女の頭は襤褸布のように垂れ下がっていた。
「刑事は翌日まで生きていた」ランドールは言った。それについて話してくれた。「口の利ける間、彼は話した。それで事情が知れたんだ。彼が油断していた訳が分からない。本気で彼女との取引を考えていなかったのでないならね。気持ちが揺れていたのだろう。勿論、そう考えたくはないんだが」
 そんなところだろうな、と私は言った。
「弾丸はきれいに心臓を射抜いていた――二度も」ランドールは言った。「そういうことはあり得ないと複数の専門家が証言するのを聞いたことがある。そんなこと言われなくたって知っている。ところで、聞く気はあるか?」
「何だ?」
「馬鹿だよ、刑事を撃つなんて。あの見てくれと金、それに高給取りの弁護士が鳴り物入りでぶちあげる苦労話があれば、有罪になんてなりっこない。スラム出身の憐れな娘が金持ちの妻になり、昔を知る禿鷹たちの餌食にされる。その手の話だ。レネンカンプなら、あの娘を何年も脅迫してきました、と泣きながら語らせるため、場末の芝居小屋から小汚い婆さんを半ダースほど法廷に呼んだだろう。婆さん連に罪が及ばない手立てを講じてな。陪審員はこれに乗っかったはずだ。グレイルを置き去りにして一人で逃げたのはいい手だ。しかし、捕まったときは家に帰ってくる方がもっとよかった」
「では君も、グレイルは蚊帳の外だったと考えるようになったんだな」私は言った。
 彼は肯いた。私は言った。「彼女には何か特別な理由があったと思うか?」
 彼は私を見つめた。「どんな理由があったにせよ、俺はその線で行くことにした」
「彼女は人殺しだった」私は言った。「それはマロイも同じだ。そして、彼は裏切りとは無縁の男だった。そのボルティモアの刑事だが、記録にあるほど真っ当じゃなかったのかもしれない。彼女はそこに一つのチャンスを見たのだろう。逃げるためのじゃない。その頃には逃げることに厭き厭きしていた。男に一息つかせるためのチャンスだ。かつて、自分に本当の休息を与えてくれた唯一人の男に」
 ランドールはあんぐり口を開けたまま私を見つめていたが、納得していない眼だった。
「だとしても、刑事を撃つ必要はなかった」彼は言った。
「彼女が聖女だったとも、多少なりとも善良な女だとも言っていない。一度たりとも。追いつめられなければ自殺もしなかっただろう。しかし、自ら幕を引くことで、ここでの裁判を防いだ。考えてもみろ。裁判で誰が最も傷つくか? 裁判に最も耐えられないのは誰か? 勝つにしろ、負けるにしろ、引き分けるにせよ、その見世物に大枚はたくのは誰なのか? 年甲斐もなく、若い女に惚れぬいた一人の年寄りだ」
 ランドールは、にべもなく言った。「ただのセンチメンタルじゃないか」
「そうだな。自分で話していてもそう聞こえた。どうせみんな間違いなんだろう。じゃあな。ところで私のピンクの虫はここに戻ってきただろうか?」
 私が何の話をしているのか、彼には分からなかった。
 私はエレベーターで地上階まで降り、市庁舎の階段の上に出た。涼しい日で、空は晴れ上がっていた。遥か遠くまで見晴るかすことができた――しかし、さすがにヴェルマが逝ったところまでは見えなかった。

 

【解説】

「そして、センチメンタルなラブソングを心を込めて歌うことのできる、黒髪に黒い眉の美しい歌手に目を留めた」は<and looked at a handsome black-haired, black browed torcher who could sing as if she meant it>。清水訳は「すばらしい声でうたっている髪も眉毛も真っ黒な美しい歌手に目をつけた」。<mean it>は「本気で」の意味で、声云々ではない。村上訳は「黒髪で黒い眉の美人歌手に目を留めた。彼女は感傷的なトーチソングを歌っていたが、歌詞の一言ひとことに思いを込めた歌唱だった」と、いつものように噛みくだいてみせる。

「彼女の顔の何かが彼の琴線に触れ、それは震え続けた」は<Something in her face struck a chord and the chord went on vibrating>。清水訳は「彼女の顔を見ているうちに、何ものかが彼の第六感の糸に触れた。糸はたちまち慄えはじめた」。村上訳は「彼女の顔つきの何かが彼にあれ(傍点二字)っと思わせた。どこかで見た覚えがある」。確かにそういうことなのだろうが、ここまで解きほぐされてしまうと原文との乖離が気になってくる。

「眉は自前のものだった」は<They were her own eyebrows>。清水訳は「頭髪も、眉毛も、彼女自身のものだった」。原文を見ればわかるが、言及しているのは<eyebrows>だけだ。ヴェルマはマロイの恋人だった頃は赤毛だった。村上訳は「眉は染められていない自前の色だった」。

「彼はいい眼をしていたが、使うのは捜査に限られ、女について見聞が足りなかった」は<He had a good eye, but he had over-specialized. He didn't know enough about women>。清水訳は「彼はいい眼を持っていた。しかし、彼はその眼を一つの目的のために使いすぎた。女を見る眼としては、充分でなかったのだ」。村上訳は「彼の目は人並み外れたものだったが、頭はいささか専門的に過ぎた。女というものをよく知らなかった」。

<over-specialized>は「過度に専門化された」という意味。若い刑事の眼は「捜査用」に特化されていたのだろう。もっとほかの目的で使用されていたなら、ヴェルマのようなタイプの女が次に打って来そうな手を見破ることもできたのかもしれない。<He had a good eye, but he had over-specialized>で一つの文だ。「いい眼だったが、専門化し過ぎていた」と読むのが普通。村上訳のように「頭」を持ち出すのは不自然だ。

「彼女は彼のところへ行き、着せかけてもらおうとコートを差し出した」は<She went over to him holding the coat out so he could help her into it>。村上氏は「そのコートを持って彼の方に行った。コートを着せかけてもらうために」と訳している。村上氏は<out>の一語を読み落としている。<hold~out>は「~を差し出す」という意味。清水氏の「それから、刑事のそばへ行って、外套を差し出し、着せかけてもらおうとした」が正しい。

同じく<hold>絡みでもう一つ。「彼は立ち上がり、いかにも紳士らしく、女のためにコートを持ってやった」は<He stood up and held it for her like a gentleman>。清水氏は「彼は紳士らしく立ち上がって、彼女のうしろから外套を着せかけようとした」と訳している。次のパラグラフの冒頭に<She turned>とあるので、ここで背を向けておく必要があったのだろう。<hold~for>は「(人)のために~を持ってやる」の意味だ。村上訳は「刑事はいかにも紳士らしく、女のためにそのコートを広げた」珍しく<stood up>をトバしている。

では、その<She turned>だが、両氏はどう訳しているか。清水訳は「突然、彼女は身をひるがえして」。村上訳は「女は後ろを向き」だ。つまり、清水氏の場合、背を向けていた女が刑事の方にからだを向けることになる。一方、村上氏の場合、それまで刑事の方を向いていた女が、ここで背を向けることになる。どちらが正しいのだろうか? コートを着せかけてもらおうとしていたのだから、いうまでもなく女は背を向けていただろう。<She turned>は「彼女は振り返った」と訳されるべきだ。

「気持ちが揺れていたのだろう」は<That would clutter up his mind>。<clutter up>は「心が乱れる」という意味だが、清水訳は「(女と話をつけようという下心でもなければ)、警戒を怠るわけはないんだ」となっている。村上訳は例のごとく、旧訳を踏まえて「そのせいで懐が甘くなったのかもな」となっている。この「懐が甘い」という言葉の意味がよく判らない。「脇が甘い」なら分かるのだが、犯罪方面での隠語だろうか。

「そういうことはあり得ないと複数の専門家が証言するのを聞いたことがある。そんなこと言われなくたって知っている」は「And I've heard experts on the stand say that's impossible, knowing all the time myself that it was>。清水訳は「射撃の専門家にいわせると、そういうことはあり得ないというんだがね」と、後半部分を「ね」の一言で済ませている。名人芸と言うべきか。村上訳は「証言台に立つ専門家は誰しも、そんなことはあり得ないと言うよ。自殺者が二発も自分に撃ち込むなんてな。しかしそういうことも起こり得るんだ」と詳しく説明してくれる。しかし、そんなことは原文のどこにも書いてない。

「婆さん連に罪が及ばない手立てを講じてな。陪審員はこれに乗っかったはずだ」は<in a way that you pin anything on them but the jury would go for it>。<pin on>は「(人に)(罪を)着せる」という意味。清水氏は「婆さんたちが罪にならないように芝居を書く方法はいくらもある。陪審員を泣き落としにかければいいんだ」と訳している。村上訳は「そんな証言はまったく裏がとれない代物だ。しかし陪審員はそれでころっと参ってしまう」。

「そして、彼は裏切りとは無縁の男だった」は<and he was a long way from being all rat>。<rat>はネズミのことだが、危険を察知していち早く逃げだすことから「卑劣漢、変節者、裏切者、密告者」を指す俗語。清水氏は「そして、マロイはそれほど悪い人間じゃない」と訳しているが、これでは何故ここにマロイの名が出てくるのかが分からない。村上訳は「そして彼はどのような意味でも卑劣な男ではなかった」だが、これでもやはりよく判らない。

マーロウが言いたいのは「盗人にも三分の理」だ。殺人は悪いことに違いないが、結果的に殺人を犯したにせよ、そこには何らかの理由がある。その理由について知ることが大事だ、と刑事としての眼でしか物事を見ていないランドールに説いているのだ。ボルティモアの刑事が犯人との取引を考えていたというのはランドールが持ち出した仮説だが、単独で楽屋に入り、鍵までかけていることから見ても怪しい。そこで、人殺しではあっても、筋を通したマロイが例に挙げられたと考えられる。

「男に一息つかせるためのチャンスだ。かつて、自分に本当の休息を与えてくれた唯一人の男に」は<to give a break to the only man who had ever really given her one>。清水訳は「彼女にほんとうに機会を与えてくれた唯一の人間に恩返しをする機会なんだ」。村上訳は「ある男を救済するためのチャンスだ。その男は彼女に救済の手を差し伸べてくれたただ一人の男だった」。

<break>という名詞には様々な意味がある。清水氏のいう「機会」も、村上氏のいう「救済」を「好意のある配慮」ととれば、それもありだ。しかし<give a break>なら「休憩を与える」という意味になる。自分の一件で、もとから健康状態の良くなかった夫が心身共に疲れ果てていることを夫人はよく知っていたにちがいない。ここで彼のためにしてやれることは休息を与えることしかない。彼女にできることはそれだけだった。確かにセンチメンタル過ぎる解釈だが、それでこそ、マーロウであり、チャンドラーなのだ。

「しかし、自ら幕を引くことで、ここでの裁判を防いだ」は<But what she did and the way she did it, kept her from coming back here for trial>。清水訳は「しかし、彼女が自殺をしたことは、ここで裁判を開く必要をなくしてしまった」。村上訳は「それでも、彼女としては、連れ戻されて裁判にかけられることだけは避けたかった。だからこそああして命を絶ったんだ」。直訳すれば「彼女が何をどのようにしたかが、ここへ戻っての裁判から彼女を守った」。原文には自殺という言葉はない。それをできるだけ尊重したいと考えた。

「年甲斐もなく、若い女に惚れぬいた一人の年寄りだ」は<An old man who had loved not wisely, but too well>。清水訳は「愛し方は賢明ではなかったが、彼女に最も深い愛情を捧げていた老人なんだ」。村上訳は「賢明とは言えずとも、まぎれもない真摯な愛情を注いだ一人の老人だ」。<~too well>は「~し過ぎる」くらいの意味で、両氏の訳のように立派な意味はない。典型的な<not A but B>の構文だが、<an old man>を強調したくて<not wisely>を「年甲斐もなく」と訳してみた。パラグラフの雰囲気から見て、最後で持ち上げるよりもあえて突き放した方が効果的ではないのだろうか。

「ただのセンチメンタルじゃないか」は<That's just sentimental>。清水訳は「それは感情にとらわれた考え方だ」。村上訳は「お涙ちょうだいに過ぎるぜ」。原文をそのままにするのは好むところではないが「センチメンタル」はそのままで行けそうな気がする。清水訳では硬すぎるし、村上訳の「お涙ちょうだい」というのも、若干ニュアンスが違う気がする。

「そうだな。自分で話していてもそう聞こえた」は<Sure. It sounded like that when I said it>。清水訳は「そのとおりさ、ぼくがいえば、いっそう感情的に聞こえる」だが、「いっそう」は言い過ぎだろう。村上訳の「たしかに。話しているそばから自分でもそう思ったよ」くらいが適当なところだ。

「涼しい日で、空は晴れ上がっていた」は<It was a cool day and very clear>。こういう簡単な文ほど訳すのが難しい。特に長篇小説の結びの文ともなれば、どうしても力が入り過ぎるものだ。清水訳は「一点の雲もなく晴れあがり、空気が冷たく澄みきっている日だった」。村上訳は「涼気の感じられる日で、空気は透明だった」と両氏ともやや美文調になっている。有名な市庁舎前の高い階段の上に立ったマーロウは、よく澄んだカリフォルニアの青空を見つめながら、一人の女の短い人生を想う。映画のような終わり方だ。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第40章

「ホワイト・タイ」とあるからには、ここは「燕尾服」の出番だ。

【訳文】

「あなたは、ディナー・パーティーを開くべきだった」アン・リオーダンはタン色の模様のある絨毯越しに言った。「きらめく銀食器とクリスタル、糊の利いた真っ白なリネン――ディナー・パーティーを開くような場所で、まだリネンを使ってるならね――蝋燭の灯りの中、とっておきの宝石を身に着けた女たちとホワイト・タイを締めた男たち、布でくるんだワイン・ボトルを手に、控え目に辺りを行き交う召使いたち、借り着の夜会服を着て澄ましているが、ちょっと落ち着かない警官たち、見せかけの微笑を浮かべ、落ち着きなく手を動かす容疑者たち、そして長いテーブルの上座に着いたあなたは、すべての謎を少しずつ解き明かしてゆく。その魅力的な淡い微笑に、フアィロ・ヴァンスのような紛い物の英国風アクセントを織り交ぜて」「いいね」私は言った。「君のご託宣を聞いている間、私の手に何かちょっと持たせておいたらどうかな?」
 彼女はキッチンに行って、氷をからからと鳴らし、背の高いグラスを二つ手にして戻り、座り直した。
「あなたの女友だちの酒代はすごいんでしょうね」彼女はそう言って唇を軽く酒につけた。
「すると突然執事が卒倒する」私は言った。「ただし、執事が殺人を犯したわけではない。気の利いたまねがしたかったんだ」
 私は少し酒をすすった。「そんな話じゃない」私は言った。「気もきかず、手際もよくない。ただ暗く、血なまぐさい」
「それで、彼女は逃げたの?」
 私は肯いた。「今のところは。家には帰らなかった。ちょっとした隠れ家を持っていたにちがいない。服や見かけを変えるための。つまるところ彼女は危険と隣り合わせに生きていた。板子一枚下は地獄ってやつさ。私に会いに来たときはひとりだった。運転手はいなかった。小さな車でやってきたんだ。数十ブロックばかり行ったところに車が残っていた」
 警察は彼女を逮捕するでしょう――本気で捕まえる気があるなら」
「そういう決めつけはどうかな。地方検事のワイルドは公正な男だ。かつて彼の下で働いていたことがある。しかし、もし逮捕したとして、それからどうなる? 二千万ドルとあの美貌、それに名うての弁護士、リー・ファネルか、レネンカンプかのどちらかが相手だ。彼女がマリオットを殺したことを立証するのは至難の業だ。検察がつかんでいるのは、強い動機のように見えるものと彼女の過去の人生だ。過去を辿れたとしたらだが。おそらく彼女に前科はないだろう。そうでなければこんな真似はしなかったはずだ」
「マロイの件は? 前に彼のことを話してくれていたら、彼女が誰かすぐにわかったのに。でも、どうしてわかったの? 二枚の写真は同じ女性のものじゃない」
「その通り。あのフロリアンの婆さんですら、写真がすり替えられていたことに気づいていたと思えない。ヴェルマの写真を鼻先に突き出したとき、驚いたように見えたからな――写真にはヴェルマ・ヴァレントとサインしてあったんだ。しかし、知っていたのかもしれない。隠しておいて、後で私に売りつけようと考えていたのかも知れない。マリオットが他の娘の写真とすり替えて、害はないと知っていたんだ」
「ただの推測よ」
「そうあるべきなんだ。マリオットが電話で私を呼び出し、金を払って宝石を買い戻すという嘘八百を並べ立てたのは、私がヴェルマのことでミセス・フロリアンに会いに行ったからだ。マリオットが殺されたのは、生かしておいたら命取りになったからだ。ミセス・フロリアンはヴェルマがミセス・ルーイン・ロックリッジ・グレイルになったことすら知らなかった。知ることができなかったから、安値で買い叩かれたんだ。グレイルはヨーロッパで結婚したと言ってたし、彼女は本名で結婚している。それがどこで、いつのことだったのか彼には言うつもりはない。彼女の本名も明かさない。どこにいるのかも言おうとしない。私には彼が知ってるとは思えないが、警察はそれを信じない」
「彼はなぜ言おうとしないの?」アン・リオーダンは組み合わせた両手の指の上に顎を載せ、翳りのある瞳で私をじっと見つめた。
「彼は彼女に夢中で、彼女が誰の膝に座っていようが気にしないんだ」
「彼女があなたの膝を楽しめたことを願うわ」アン・リオーダンは棘のある言い方をした。
「私を弄んでいたのさ。少し私を怖がってもいた。殺したくはなかった。警察まがいの人間を殺すと面倒なことになるのでね。だが、行き着く果ては殺すつもりでいたはずだ。もし、マロイが手間を省いてくれなかったら、ジェシー・フロリアンを殺していたように」
「ブロンドの美女に弄ばれるのはさぞ愉しいでしょう」アン・リオーダンは言った。「多少のリスクがあったとしてもね。火遊びにリスクはつきものでしょう」
 私は何も言わなかった。
「マロイ殺しで彼女の罪は問えないわね。相手が銃を手にしていたのでは」
「無理だな。彼女は顔が利く」
 金の斑点のある眼が真剣に私を見つめていた。「マロイを殺す気だったと思う?」
「彼女はマロイを怖れていた」私は言った。「彼女は八年前に彼を裏切っていた。彼は気づいていたようだ。しかし彼女を傷つける気はなかった。彼女を愛し過ぎていたんだ。ああ、彼女は必要とあらば誰でも殺す気でいた。護るべきものが多かった。しかし、そんなことをいつまでも続けてはいられない。彼女はアパートで私を撃った――しかし、弾切れだった。あの崖の上でマリオットを殺した時、私も殺しておくべきだったんだ」
「べた惚れだったのね」アンは優しく言った。「マロイのことよ。獄中にいた六年間、一通の便りも寄越さず、面会に来なかったことも何の問題もなかった。報奨金のために彼を警察に売ったことも問題ではなかった。一張羅を誂え、出所するや否や彼女を探し始めた。それなのに、彼女は彼に銃弾を五発撃ち込んだ。挨拶替わりにね。彼自身二人の人を殺めてはいた。でも、それは彼女を愛すればこそよ。なんということなの」
 私は酒を飲み干して、飲み足りないという顔をした。彼女はそれを無視して言った。
「彼女はグレイルに素性を明かす必要があったけど、彼は気にしなかった。遠くへ行き、別名義の彼女と結婚した。彼女の素性を知っていそうな人との接触を断つため放送局を売り払い、金で買えるものなら何でも彼女に与えた――彼女が彼に与えたものって何かある?」
「いわく言い難いね」私はグラスの底の氷の塊を振った。何の効果もなかった。「彼女が与えたのは自慢の種のようなものだと思う。老人と言っていい年齢の男が若く美しく人目を引く妻を娶る。彼は彼女を愛した。何のためにこんなことを話してるんだ? こんなことはどこでも起こってる。彼女が何をしていようが、誰と遊んでいようが、かつての彼女が何であろうが、どうでもいいことだ。彼は彼女を愛していたんだ」
「ムース・マロイのようにね」アンは静かに言った。
「海沿いをドライブしよう」
「あなたはまだブルネットの話をしていない。マリファナ煙草の中の名刺のことも、アムサーやドクター・ソンダーボーグのことも、偉大な解決に至る小さな手がかりについても」
「ミセス・フロリアンに名刺を渡したんだ。彼女はその上に濡れたグラスを置いた。それらしき名刺がマリオットのポケットに入っていた。濡れたグラスの痕らしきものもあった。マリオットはだらしない男じゃなかった。それもちょっとした手がかりになった。何かを嗅ぎつけたら、ほかとのつながりを見つけるのは簡単だ。ミセス・フロリアンの家の信託証書をマリオットが持っていたのは口封じのためだ。アムサーについて言えば、こいつは悪党だ。ニューヨークのホテルで逮捕された。聞けば国際的な詐欺師らしい。スコットランド・ヤードに指紋があった。パリにもだ。昨日か一昨日か知らないが、一体どうやってそんな情報をつかんだんだ? 連中、その気になりさえすりゃ仕事は速い。ランドールはそのことを何日も前に知っていたに違いない。私の介入を恐れたんだ。だが、アムサーはどの殺人にもかかわっていない。ソンダーボーグもだ。ソンダーボーグはまだ見つからない。警察はこいつにも前科があると踏んでいるが、確かなことは捕まえるまではわからない。ブルネットについて言えば、ブルネットのような男については誰も手だしができない。大陪審を前にしても彼は発言を拒否するだろう。憲法上の権利を主張して。自分の評判について気にする必要がない。しかし、ベイ・シティでは喜ばしい人事異動があった。署長が解雇され、大半の刑事が臨時のパトロール警官に降格された。そして、レッド・ノルガードという名のナイスガイが警察に復職した。モンテシートに乗り込む手助けをしてくれた男だ。市長が全部をやってる。危機が去るまで、一時間ごとにズボンを履き替えるって寸法だ」
「そういうことを言わなきゃ気が済まないの?」
シェイクスピア風タッチというやつさ。ドライブしよう。後一杯ずつ飲んでから」
「私のがあるわ」アン・リオーダンは言った。立ち上がって、手つかずのグラスを持ってきた。彼女はグラスを手に私の前に立った。大きく見開かれた瞳には少し怯えが見えた。
「驚くべき人ね」彼女は言った。「勇敢で、断固として、僅かな金のために働く。誰もがあなたの頭を殴り、首を絞め、顎を打ち、モルヒネ漬けにする。それでもあなたは相手が音を上げるまで、何度でもぶつかってゆく。どうしてそんなに素敵なの?」
「続けろ」私は唸った。「最後まで言うんだ」
 アン・リオーダンは考え込んだ様子で言った。「いやな人、キスして」

【解説】

「借り着の夜会服を着て澄ましているが、ちょっと落ち着かない警官たち」と訳した部分は<the cops looking a little uncomfortable in their hired evening clothes, as who the hell wouldn't>。清水氏は「借り着のタキシードで窮屈そうな恰好をしている警官たち」と<as who the hell wouldn't>をカットしている。村上訳は「居心地悪そうに借り物のディナー・ジャケットに身を包んだ、見るからに変装と知れる警官たち」。

<as who would>は「まるで~とばかりに」。否定形になっているから「まるで~でないとばかりに」。<the hell>と強調されているから、「一体全体、誰が緊張なんかするものかというように」というくらいの意味だろう。警官だって、ディナー・ジャケットくらい着ることもあるだろう。それを「変装」というのは、警察官に対して失礼というものだ。

ちなみに「ホワイト・タイ」とあるからには、ここは正装である「燕尾服」の出番だろう。タキシード(米)やディナー・ジャケット(英)の場合、タイは「ブラック・タイ」になる。パーティーの招待状に「ブラック・タイ」と記してあれば、タキシードも可だが、「ホワイト・タイ」となっているなら、昼間なら「モーニング」、夜なら「燕尾服」が正しい。

「君のご託宣を聞いている間、私の手に何かちょっと持たせておいたらどうかな?」は<How about a little something to be holding in my hand while you go on being clever?>。清水訳は「だが、君の台詞はいくらでも聞くけれども、そのあいだ、ぼくの手に何か持たせてくれるわけにはいかないのか?」。村上訳は「なかなか愉しそうな話だ。何かちょっと手に取って口に運べるものがあるともっといいんだが」

「気もきかず、手際もよくない。ただ暗く、血なまぐさい」は<It's not lithe and clever. It's just dark and full of blood>。<lithe>は「しなやかな、柔軟な」という意味の形容詞だ。清水訳は「それほど巧妙でもなければ、それほどの小説的の事件でもない。暗いばかりで、それに、もっと血なまぐさい」。村上訳は「お洒落でもないし、才気に富んでいるわけでもない。ただ暗くて、血なまぐさいばかりだ」。

「つまるところ彼女は危険と隣り合わせに生きていた。板子一枚下は地獄ってやつさ」は<After all she lived in peril, like the sailors>。清水訳は「しじゅう、身の危険を感じながら暮らしていたんだからね」と<like the sailors>をカットしている。村上訳は「なんといっても彼女は常に危険と背中合わせの生活を送っていた。水夫の暮らしと同じだよ」

「知ることができなかったから、安値で買い叩かれたんだ」は<She couldn't have. They bought her too cheap>。清水訳は「そこまで知っているはずがない」と後の文をスルーしている。村上訳は「もし知っていたら、あの程度のはした金で満足するはずがない」

「無理だな。彼女は顔が利く」は<No, Not with her pull>。<pull with>は「引き、つて、手づる、コネ」のことで、他人に対する強味、利点を言う。清水訳は「ならないね。あれだけ有力な背景(バック)があれば有罪になるはずはない」。村上訳は「無理だね。そこで美貌がものをいう」と「美貌」だけを持ち出すが、「美貌」は確かに強みではあれ、陪審員の半分は女性で、金持ちに反感を感じる階層もいる。逆効果になりかねない。

「彼自身二人の人を殺めてはいた。でも、それは彼女を愛すればこそよ。なんということなの」は<He had killed two people himself, but he was in love with her. What a world>。清水訳は「マロイも彼女のために二人殺しているけれど、最後まで彼女を愛していたんだわ。世の中って、不思議なものね」。村上訳は「マロイ自身、二人の人間をすでに殺していた。しかしその大男は彼女を深く愛していた。やりきれない話ね」

<but>で繋がれている前後の関係が村上訳ではよく判らない。ミセス・グレイルがマロイを撃った。マロイは既に二人を殺している。つまり殺人犯だ。だから、銃を持った殺人犯を撃つのは正当防衛を主張できる。しかし、その殺しについては、ミセス・グレイルとなっていた恋人ヴェルマを探す過程での過ちでしかなかった。つまり、愛ゆえの行き過ぎた実力の行使だった。逆接で繋いだのはそういう意味ではないのか。

「ランドールはそのことを何日も前に知っていたに違いない。私の介入を恐れたんだ」は<I think Randall has had this thing taped for days and was afraid I'd step on the tapes>。<have A taped>は「Aに決着をつける」という意味。清水訳は「察するところランドールはぼくが口を出さないように、秘密に調査していたんだろう」。村上訳は「ランドールはその事実を何日も伏せていたと私は睨んでいる。しかし私がそれを嗅ぎつけるかもしれないと心配になって公開したんだろう」。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(4)

<the weak link in the chain>は「集団・計画の命取り」

【訳文】

 彼女はバッグから金のシガレット・ケースを取り出した。私は彼女の傍に寄り、マッチの火をつけた。彼女は微かな一筋の煙を吐き、眼を細めてそれを見つめた。
「隣に座って」彼女は突然言った。
「その前に少し話そう」
「何について? 私の翡翠のこと?」
「人殺しについて」
 彼女の表情に変化はなかった。また一筋煙を吐いた。今度は慎重に、もっとゆっくりと。「不愉快な話題ね。しなきゃならないの?」
 私は肩をすくめた。
「リン・マリオットは聖人じゃなかった」彼女は言った。「でも、まだそれについて話したい気分じゃない」
 彼女はしばらく冷やかに私を見つめ、それから、ハンカチを取るために開いたバッグに手を突っ込んだ。
「私としては、彼が宝石強盗の手先だったと考えてはいない。警察はそう考えているようなふりをしているが。連中はいつもそういうふりをする。実のところ、恐喝していたとも思っていない。おかしいだろう?」
「そう?」今では声はこれ以上ないほど冷え切っていた。
「まあ、そうでもないか」私は調子を合わせ、グラスに残っていた酒を飲んだ。「ここまで足を運んでくれたことに感謝している、ミセス・グレイル。しかし、どうやら雲行きが怪しくなってきたようだ。たとえば、私にはマリオットがギャングに殺されたとは思えない。彼がキャニオンに行ったのは翡翠のネックレスを買い戻すためじゃない。そもそも翡翠のネックレスは盗まれてもいない。彼がキャニオンに行ったのは、殺されるためだ。本人は殺しの片棒を担ぐ気でいたのだろうが。遺憾ながら、マリオットは最悪の殺人者だった」
 彼女は少し身を乗り出した。その微笑みから少し生気が抜けかけていた。前触れもなしに、何かが変わったというでもなく、彼女は美しくあることをやめた。百年前なら危険だったろうし、二十年前なら型破りと言えた。しかし、今ではただのハリウッドのB級映画に出て来る女のように見えた。
 彼女は何も言わなかったが、右手がバッグの留め金を叩いていた。
「最悪の殺人者」私は言った。「シェイクスピアの『リチャード三世』に登場する第二の刺客のような。そいつは良心の呵責を感じながら、それでも金を欲しがっていた。結局、決心がつかず、仕事を果たせなかった。そういう殺人者はすこぶる危険だ。排除されなければならない。時にはブラックジャックによってね」
 彼女は微笑んだ。「で、彼が殺そうとした相手は誰なの?」
「私だ」
「信じろというのが無理かもね――誰がそこまであなたを憎む。私の翡翠のネックレスは盗まれてもいないと言ったわね、その証拠があるの?」
「そうは言っていない。そう考えていると言ったんだ」
「それじゃ、どうしてそんな馬鹿げた話をしてるの?」
「証拠というのは」私は言った。「常に相対的なものだ。蓋然性の釣り合いがどう傾くかにかかっている。要は、それが人にどういう印象を与えるかということだ。弱いものではあるが私を殺す動機はあった。以前セントラル・アベニューの安酒場にいた歌手の足取りを捜そうとしていた。同じ頃、刑務所を出たムース・マロイという前科者もまた彼女を探し始めた。ただそれだけのことだ。多分私は彼の捜索を手伝っていたのだろう。当然、女を探し出すことは可能だった。さもなければ、私を殺さなければならない、それも一刻も早く、とマリオットを唆す価値もなかっただろう。そうでも言わなきゃ彼は信じなかったろう。しかし、そこにはマリオットを殺すという、より強い動機があった。自惚れか、愛か、欲か、あるいはそのすべてが混じり合ったもののせいで、彼はそれを見抜けなかった。彼は怯えていたが、我が身を案じてのことではない。彼は一役買って有罪になるかもしれない暴力を怖れた。しかし、一方で食うに困ってもいた。そこで一か八か腹をくくったのさ」
 私は話をやめた。彼女は肯いて言った。「とても興味深い。何の話をしているのか分かる人なら」
「一人、いるのさ」私は言った。
 我々はたがいに見つめ合った。彼女はまた右手をバッグに入れていた。何が入っているのか見当はついていた。しかし、出て来る気配はなかった。出番が来るのを待っているのだ。
「下手な芝居はやめよう」私は言った。「ここは法廷じゃない。我々だけだ。相手の言うことを一々あげつらうことなど求められていない。これでは一歩も前に進めない。スラム育ちの娘が億万長者の妻になる。運が向いてきたところで、みすぼらしい老婆が彼女に気づいた――ラジオ局で歌っている、その声に聞き覚えがあって会いに行ったんだろう――この老婆は黙らせる必要があった。しかし、たいして金はかからない。多くは知らなかったからだ。しかし、女との間に立ち、月々の支払いをし、女の家の信託証書を持ち、おかしな真似をしたら、いつでも相手を溝に放り込むことができる男――その男はすべてを知っていた。こちらは高くついた。しかし、それも問題ではなかった。誰も知られない限りは。ところがある日、ムース・マロイという名のタフガイが監獄を出て、昔の女を探し始めた。大男は女を愛していたからだ――今もまだ愛している。話がおかしくなるのはそこからだ。悲劇的であり、いかがわしくもある。相前後して、私立探偵も嗅ぎ回り始める。そうなると、最早マリオットは贅沢品どころか、計画の命取りになりかねない。彼は脅威になった。警察は逮捕して徹底的に調べ上げるだろう。ああいう手合いだ。警察の手にかかったら、ひとたまりもない。そういうわけで、口を割る前に殺された。ブラックジャックを使って。あなたに」
 彼女はバッグから手を出すだけでよかった。手には銃があった。彼女は私に銃を向け、微笑むだけでよかった。私にできることは何もなかった。
 しかし、それだけでは終わらなかった。ムース・マロイがコルト四五口径を手に、更衣室から出てきた。大きな毛むくじゃらの手に握られた銃は、相変わらず玩具のように見えた。
 私には眼もくれなかった。彼はミセス・ルーイン・ロックリッジ・グレイルを見ていた。背を丸め、口もとに微笑を浮かべ、そっと語りかけた。
「声に聞き覚えがあった」彼が言った。「八年の間ずっとその声ばかり聞いていた――それしか覚えていない。でもよ、お前の赤っぽい感じの髪も好きだったがな。よおベイビー、久しぶりだなあ」
 彼女は銃をそちらに向けた。
「そばに寄るんじゃない。このろくでなしが」彼女は言った。
 彼はぴたりと止まり、銃を持った手をだらんと下ろした。彼女からまだ二、三フィート距離があった。呼吸が荒くなった。
「思ってもみなかった」彼は静かに言った。「たった今、思い至った。お前、俺を警察に指したな。お前だ。かわいいヴェルマ」
 私は枕を投げた。しかし遅すぎた。彼女は彼の腹に五発撃ち込んだ。指を手袋に入れるほどの音しかしなかった。
 それから銃を私に向けて撃ったが、弾倉はからっぽだった。彼女は床に落ちたマロイの銃に跳びついた。二回目の枕は的を外さなかった。ベッドを回って彼女が枕を顔からはがす前に払いのけた。コルトをつかんでまたベッドを回った。
 彼はまだ立っていた。しかし体は揺れていた。口はだらしなく開き、両手は体を掻きむしっていた。彼は膝から頽れて横向きにベッドに倒れ込んだ。顔を俯せにして。息を喘がせる音が部屋を満たした。
 彼女が動く前に私は受話器をつかんだ。彼女の両眼は半ば凍りかけた水のような鈍い灰色だった。彼女はドアに突進した。私は彼女を留めようとしなかった。ドアを開けっぱなしにして出て行ったので、電話を終えてから閉めに行った。彼が窒息しないようにベッドの上で頭を少し回した。彼はまだ生きていた。しかし、腹に五発食らったあとではムース・マロイといえども長くは生きられない。
 私は電話に戻ってランドールの自宅にかけた。「マロイだ」私は言った。「私のアパートにいる。腹に五発喰らっている。ミセス・グレイルの仕業だ。救急病院には電話した、女は逃げた」
「それで、賢く立ち回る必要があった」それだけ言うと、彼はさっさと電話を切った。
 私はベッドに戻った。マロイはベッドの横に膝をつき、片手で山のようなシーツを手繰り寄せ、起き上がろうとしていた。顔に汗が流れていた。瞬きが緩慢になり、耳朶は黝ずんでいた。
 救急車が到着したときも彼はまだ膝をついて起き上がろうとしていた。ストレッチャーに載せるのも、四人がかりだった。
「わずかだが、チャンスはある――もし二五口径なら」出て行く前に救急医が言った。「内臓のどこを撃たれたかによるが、チャンスはある」
「彼はそれを望まないだろう」私は言った。
 言った通りだった。彼は夜のうちに死んだ。

【解説】

「それから、ハンカチを取るために開いたバッグに手を突っ込んだ」は<and then dipped her hand into her open bag for a handkerchief>。清水訳は「それから、開いたバッグに手を突っ込んで、ハンケチを取り出した」。村上訳は「それから開いたバッグの中に手を入れ、ハンカチを取り出した」。ハンカチと手はバッグの外に出ているのかどうかが気になる。これは、次にくる動作の仄めかしだからだ。

「ここは法廷じゃない。我々だけだ。相手の言うことを一々あげつらうことなど求められていない。これでは一歩も前に進めない」は<We're all alone here. Nothing either of us says has the slightest standing against what the other says. We cancel each other out>。<not in the slightest ~>は「少しも~でない」という慣用句だ。<stand against>は「~に反対する立場をとる」ことを意味する。

清水訳は「ここにはわれわれ二人きりしかいない。どんなことをしゃべっても、ほかに聞いているものはいない。お互いに責任を持たないでいい。跡で取り消せばいいんだ」。村上訳は「ここには我々二人しかいないんだ。誰も聞いてやしない。お互い言いたいことを言えばいい。何を言おうが、それで言質を取られることもない」だ。村上訳が清水訳の言い換えであることは一目瞭然だ。

「おかしな真似をしたら、いつでも相手を溝に放り込むことができる男」は<could throw her into the gutter any time she got funny>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「下手な真似をすればすぐにでも彼女をどぶに放り込める立場にいる男は」。<gutter>ほ「溝、どぶ」のことだが「貧民窟」の意味もある。

ヴェルマの素性を語るところで<A girl who started in the gutter>として出て来る。「スラム育ちの女」と訳しておいたが、清水訳は「素性の卑しい女」。村上訳は「裏街道を歩いてきた女」となっている。

「そうなると、最早マリオットは贅沢品どころか、計画の命取りになりかねない」は<So the weak link in the chain, Marriott, is no longer a luxury>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「そうなると、マリオットという鎖の弱い部分を放置しておけなくなる」と<is no longer a luxury>をスルーしている。<the weak link in the chain>は「(比喩的に)(集団・計画の)弱点、命取り」を意味する。

「八年の間ずっとその声ばかり聞いていた――それしか覚えていない。でもよ、お前の赤っぽい感じの髪も好きだったがな」は<I listened to that voice for eight years-all I could remember of it. I kind of liked your hair red, though>。清水訳は「八年間その声が聞きたかったんだ。それに、その赤い髪にも、たまらねえ想い出がある」。村上訳は「俺はその声を八年間、いっときも忘れなかった。俺としちゃ、以前の赤毛もけっこう気に入っていたんだがな」。

ここは清水氏のミス。夫人の髪は今は金髪だ。しかし<all I could remember of it>に続けて赤い髪の思い出を口にするマロイの心情に触れているところは大いに買う。村上訳は、果たしてそこのところが分かっているのだろうか。八年ぶりに耳にした声を聞いて顔を出してみたら、好きだった女の髪が赤毛から金髪に変わっているんだ。何で勝手に髪の色を変えたんだ、とひとこと言いたくもなるではないか。

「腹に五発喰らっている。ミセス・グレイルの仕業だ」は<Shot five times in the stomach by Mrs. Grayle>。清水訳は「グレイル夫人に腹を五発撃たれた」。村上訳は「五発撃ち込まれている。撃ったのはミセス・グレイルだ」。語順はこの方が正しいが、大事な< in the stomach>を抜かしているのが惜しい。

「それで、賢く立ち回る必要があった」は<So you had to play clever>。清水訳は「等々、俺を出しぬいたな」。両氏とも<had to>が効いていない。自分の部屋で逃亡中の殺人犯が撃たれ、そいつを撃った犯人は逃げたでは、マーロウが警察に疑われる。そこで顔見知りのランドールに電話したのだ。警察にはランドールから連絡が行くという寸法だ。これで警察の扱いが変わるだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(3)

「毛皮が渦を巻」く? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」

【訳文】

「俺がジェシー・フロリアンを殺したと考えた理由は何だ?」彼は不意に尋ねた。
「首に残っていた指の痕の開き具合だ。君は女から何かを聞き出そうとしていた。そして、その気はないのに人を殺してしまうほど力が強いというのも事実だ」
「警察も俺の仕業と思ってるのか?」
「どうだろうな」
「俺は何を聞き出そうとしてたんだ?」
「女がヴェルマの居所を知っているかも知れない、と君は考えた」
 彼は黙ってうなずき、私を凝視し続けた。
「しかし、女は知らなかった」私は言った。「ヴェルマはあの女より抜け目がない」
 ドアを軽くノックする音がした。
 マロイは少し前屈みになって微笑み、銃をとりあげた。誰かがドアノブを回そうとした。マロイはゆっくり立ち上がり、屈みこんで耳を澄ました。それからドアを見てから私の方を振り返った。
 私はベッドに起き上がり、脚を床に下ろして立ち上がった。マロイは黙って身じろぎもせず私を見ていた。私はドアの方に行った。
「誰だ?」私はドアの羽目板に唇をつけて訊ねた。紛れもなく彼女の声だった。「開けなさい、お馬鹿さん。ウィンザー公爵夫人よ」
「ちょっと待って」
 私はマロイを振り返った。彼は眉をひそめた。私は彼の傍に寄り、小声で言った。「逃げ場がない。ベッドの裏にある更衣室で待っていてくれ。女を追い払う」
 彼は話を聞いて、考えていた。その表情は読めなかった。彼には失うものはほとんどなかった。彼は恐れるもののない男だった。その巨躯に恐怖心は組み込まれていなかった。ついに彼は肯いて帽子とコートをつまみあげ、そっとベッドを回って更衣室の中に入った。ドアが閉まった。しかし、ぴったりと閉まってはいなかった。
 私は彼の形跡がないか辺りを見回した。誰かが吸ったであろう煙草の吸殻だけが残っていた。私はドアに行き、錠を開けた。マロイは入った後で、錠をかけ直したのだ。
 彼女は半ば微笑を浮かべて立っていた。話に聞いていたホワイト・フォックスのハイネックの袖なし外套を身に着けて。耳から垂れ下がったエメラルドのペンダントは柔らかな白い毛皮にほとんど埋まっていた。指を軽く曲げて小さなイヴニング・バッグを抱えていた。
 私を見て、彼女の顔から微笑が消えた。頭から爪先までじろじろ見まわした。視線が冷やかになっていた。
「そういうことだったのね」彼女はにこりともしないで言った「パジャマに部屋着。私に可愛い素敵なエッチングを見せるために。私がばかだったわ」
 私は脇に立ってドアを支えた。「そうじゃないんだ。着がえようとしたところへ警官がやってきて、今帰ったところなんだ」
「ランドール?」
 私はうなずいた。うなずいただけでも嘘になる。だが、気が咎めない嘘だ。彼女は一瞬ためらった後、馥郁たる毛皮をふわりとなびかせて私の前を通り過ぎた。
 私はドアを閉めた。彼女はゆっくり歩いて部屋を横切り、ぼんやりと壁を眺め、それからいきなり振り返った。
「お互い理解し合いましょう」彼女は言った。「私を思い通りにしようなんて無理。廊下みたいなベッドルームでの情事なんか願い下げ。そんな時代もあったけど、過ぎたことよ。何をするにも雰囲気というものがなくてはね」
「出ていく前に一杯どうだい?」私はドアに凭れかかったまま、部屋を隔てて彼女と向き合った。
「私は出ていくの?」
「ここがお気に召さないように思えたのでね」
「言っておきたかったの。それには少し下品にならなきゃ。私はその辺にいる淫乱女じゃない。モノにすることはできる――けど、手を伸ばすだけではだめ。ええ、一杯いただくわ」
 私はキチネットに行き、まだ震えの残る手で二つのグラスにスコッチを注ぎ、ソーダで割った。グラスを手に部屋に戻り、一つを彼女に手渡した。
 更衣室は無音で、息遣いさえしなかった。
 彼女はグラスを取ってひとくち味見し、グラス越しに奥の壁を見た。「パジャマ姿で出迎える男は嫌いなの」彼女は言った。「おかしな話よね。あなたのことは好きだった。それも、かなり。でも、忘れることはできる。そうやっていつも乗り越えてきた」
 私はうなずいて酒を飲んだ。
「たいていの男は下劣な獣」彼女は言った。「それどころか、世界そのものかなり下劣。私に言わせれば、だけど」
「金が解決してくれるだろう」
「お金のないときはそう思う。実のところ、それはまた別の面倒を引き起こす」彼女は不思議そうに微笑んだ。「そして、古い方の面倒がいかに厄介だったかを忘れてしまう」

【解説】

「ベッドの裏にある更衣室で待っていてくれ」は<Go in the dressing room behind the bed and wait>。清水訳は「ベッドのうしろに戸棚がある。あそこに入って、待っていてくれ」。村上訳は「ベッドの奥にある化粧室に入っていてくれないか」。<dressing room>は、劇場であれば「楽屋」だが、家庭では「寝室の隣にある着替え用の小さな部屋」のこと。「化粧室」ともいうが、「戸棚」では狭すぎる。ウォークイン・クローゼットの意味で「戸棚」としたのだろうか。

「彼女は一瞬ためらった後、馥郁たる毛皮をふわりとなびかせて私の前を通り過ぎた」は<She hesitated a moment, then moved past me with a swirl of scented fur>。清水訳は「彼女はしばらくためらっていたが、毛皮の匂いを残しながら、私の前を通って部屋に入った」。村上訳は「彼女は少し迷ったが、私のそばを通って中に入った。香水を振った毛皮が、私の鼻先で小さな渦を巻いた」。毛皮が渦を巻くものだろうか? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」の意味だ。

「私を思い通りにしようなんて無理。廊下みたいなベッドルームでの情事なんか願い下げ。そんな時代もあったけど、過ぎたことよ。何をするにも雰囲気というものがなくてはね」は<I'm not this much of a pushover. I don't go for hall bedroom romance. There was a time in my life when I had too much of it. I like things done with an air>。

清水訳は「私、こんなの嫌いよ。すぐベッドが出て来るんじゃ、少しも趣味がないじゃないの。それでよかった時代もあるけれど、いまさら、そんな時代を想い出したくないのよ。火あそびも、ロマンスの匂いが欲しいわ」。語順を入れ替え、解説がいりそうなところはスルーし、それらしい台詞にしている。

村上訳は「私はそんなお手軽な女じゃないの。せせこましい寝室でのどたばたした情事なんてごめんよ。そういうのは昔話、もううんざりなの。ものごとには情緒ってものがなくちゃね」。<pushover>は「騙されやすい(すぐ言いなりになる)人」のことを言う。<hall bedroom>とは<hall>(廊下)のように狭い寝室のことで、マーロウの収納式ベッドを採用した一間きりのアパートの部屋の狭さを揶揄っている。

「言っておきたかったの。それには少し下品にならなきゃ。私はその辺の淫乱女じゃない。モノにすることはできる――けど、手を伸ばすだけではだめ」は<I wanted to make a point. I have to be a little vulgar to make it. I'm not one of these promiscuous bitches. I can be had-but not just by reaching>。

清水訳は「一言(ひとこと)いっておきたかっただけだわ。誰にでも身をまかせる女と思われたくなかったのよ。身をまかせるのはかまわないけれど、抱きさえすれば、いつでもいうことをきくと思われるのが厭なんだわ」。二文目の< I have to be a little vulgar to make it>がカットされているだけでなく、最後の文も少し意味が変わっている。

村上訳は「私は要点を明らかにしておきたかっただけ。そのためにはあまり面白くないことも口にしなくてはならない。私はね、そのへんのやらせ(傍点三字)女とは違うの。男に身を任せることもあるかもしれない。でも、それほどお手軽にはいかない」。意味はその通りだが、これでは<vulgar>「(人が)育ちがよくない、趣味の悪い、粗野な、下品な」という言葉が生きてこない。

「彼女はグラスを取ってひとくち味見し、グラス越しに奥の壁を見た」は<She took the glass and tasted it and looked across it at the far wall>。清水訳は「グレイル夫人はグラスを口に持っていって、ちょっと唇をつけてから、正面の壁に視線を送った」。<looked across it>がカットされている。村上訳は「彼女はグラスを手に取ってそれを味わい、グラス越しに向こうの壁を見た」。<taste>に「味わう」の意味は当然あるが、ここでは「味見」くらいの意味ではないか。清水訳の方がこなれている。

「おかしな話よね」は<It's a funny thing>。ここは、その前の「パジャマ姿で出迎える男は嫌いなの」に続いているのではないだろうか。女をデートに誘っておいて、パジャマ姿で出迎える男はかなりあやしい。それで<It's a funny thing>と言ったのだ。ところが、清水訳は「なぜだかわからないけれど、(私はあんたが好きになったわ)」と、次の文へのつなぎとしている。村上訳も「どうしてかはわからないけど、(あなたのことが気に入ったのよ)」と、旧訳を踏襲している。首をひねりたくなるところだ。