marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第三章(2)

<in the way of ~>は「~の点では」という条件がついている

【訳文】

 レイヴァリーは勢いよくドアを閉め、ダヴェンポートに座った。打ち出し細工を施した銀の箱から煙草を一本ひっつかんで火をつけ、いらだたし気にこちらを見た。私は向かい合って座り、相手を観察した。スナップ写真で見たとおり、美貌という点では申し分なかった。素晴らしいトルソ―と極上の腿。栗色の瞳に微かに灰白色を帯びた白眼。長めの髪はこめかみのあたりで少しカールしている。褐色の肌にはまだ放蕩の兆しは見あたらなかった。たしかにいい体つきだが、私にとってはただそれだけのことだ。ただ、女たちが彼を放っておけないのは理解できた。
「彼女がどこにいるのかをなぜ教えてくれないんだ?」私は言った。「どうせ最後には分かることだろう。今のうちに教えてくれれば、君の邪魔はしないつもりだ」
「私立探偵ごときに邪魔される俺じゃない」彼は言った。
「そういったものでもない。私立探偵というのはうるさいものだ。しつっこいし、剣突を食うのになれている。報酬をもらってるんだ。やることは他にもあるが、それと同じくらい、君の邪魔をすることに時間を使うだろう」
「いいか」彼はそう言って身を乗り出し、こちらの鼻先に煙草を突きつけた。「電報の件は知ってる。しかしそいつは戯言だ。俺はクリスタル・キングズリーとエルパソには行っていない。その電報の日づけよりずっとずっと前から彼女には会っていない。何の連絡も取っていない。キングズリーにそう言ったはずだ」
「彼には君を信じる義理はない」
「俺があいつにに嘘をつく必要がどこにある?」彼は驚いたようだ。
「どこかにあるんじゃないか?」
「いいか」彼は熱心に言った。「あんたにはそう見えるかもしれんが、それはあの女を知らないからだ。キングズリーは彼女に紐をつけていない。彼女の態度が気にくわないなら、あいつには治療法がある。独占欲に凝り固まった亭主には吐き気がする」
「もし君とエルパソに行っていないなら」私は言った。「彼女はなぜこの電報を出したんだ?」
「さっぱり見当がつかない」
「もう少しましな言い訳がありそうなもんだ」私はそう言って、暖炉の前のマンザニータの切り花を指さした。「リトルフォーン湖でとってきたのか?」
「このあたりの丘はマンザニータだらけだよ」彼は人を小馬鹿にするように言った。
「このあたりじゃ、こんなに大きく咲かない」
 彼は笑った。「五月の第三週に行ったのさ。証拠が必要なら、いくらでも見つかるよ。彼女に会ったのはそれが最後だ」
「彼女との結婚は考えもしなかったのか?」
 彼は吐いた煙の向こうから言った。「考えはしたさ。金を持ってたからな。金はいつでも役に立つ。しかし、それはとんでもない厄介を背負いこむことになる」
 私は肯いただけで何も言わなかった。彼は暖炉のマンザニータの花に目をやり、椅子にもたれて、咽喉にある強い褐色の線を見せながら煙を宙に吐いた。しばらくのあいだ私は何も言わずにいた。彼は落ち着きをなくしかけていた。さっき渡された名刺をちらっと見て言った。「スキャンダルを掘り返すのが仕事ってわけだ。順調かい?」
「自慢できるようなことは何もない。あっちで一ドル、こっちで一ドルさ」
「そして、どれもこれも汚れた金ときている」彼は言った。
「なあ、ミスタ・レイヴァリー。我々が争う必要はない。キングズリーは君が妻の居所を知っててわざと教えないと考えている。嫌がらせか、はたまた細かな心配りか知らないが」
「どちらがやつの気に入るかな?」日に灼けたハンサムな男は鼻で笑った。
「そんなこと、どっちだっていいんだ。情報さえ得られれば。君と彼女がくっつこうが、一緒にどこへ行こうが、離婚するもしないも。彼にとってはどうでもいいことだ。彼はただ、万事順調で、彼女がどんなトラブルにも巻き込まれていないことを確かめたいだけなんだ」
 レイヴァリーは興味を引かれたみたいだ。「トラブル? どんなトラブルだ?」茶色の唇の上でその言葉を舐めるように味わっていた。
「彼の考えているトラブルは君には想像もつかないだろう」
「教えてくれ」彼は皮肉っぽく懇願した。「俺の知らないトラブルがあるならぜひ聞きたいものだ」
「いうじゃないか。まともな話をする暇はなくても、気の利いた文句を言う暇はあるんだ。彼女と州境を越えたことで、我々が君をどうにかするかもしれないと思ってるのなら、その心配は無用だ」
「利いた風な口をきくな。俺が運賃を支払ったことを証明できなきゃ、何の意味もない」
「この電報には何らかの意味がある」私は頑なに言い張った。前にも何度かそう言ったような気がした。
「ただの冗談かもな。そんな悪戯ばかりしてたから。くだらないものばかりだったが、中にはたちの悪いのもあった」
「この電報のねらいとするところが分からないんだ」

【解説】

「スナップ写真で見たとおり、美貌という点では申し分なかった」は<He had everything in the way of good looks the snapshot had indicated>。清水訳は「スナップ写真が示していたとおり、ハンサムな男のあらゆる条件をそなえていた」。田中訳は「スナップ写真むきの、あらゆる肉体的好条件をそろえていた」。村上訳は「写真で見たとおりのハンサムな風貌だった」。

ここでマーロウが使っているのは、外観の美点をほめあげることで、内面との落差を際だてる、一種のレトリックだ。それを示しているのが<in the way of ~>(~の点では)という言い方だ。つまり、美貌は全て兼ね備えている(が、それ以外は見るべきものはない)ということだ。ほんとうに言いたいことは言外にあることを匂わせている。三氏の訳からは、そこがあまり伝わってこない。

「彼には君を信じる義理はない」は<He didn't have to believe you>。清水訳は「彼は君がいったことを信じていないよ」。これは<have to>をトバしている。田中訳は「キングズリイが、きみのいうことを信用するとおもうかい?」。村上訳は「彼は君の言い分を信じなくちゃならないのか?」。両氏とも疑問文にしているが、原文は平叙文だ。

「彼女の態度が気にくわないなら、あいつには治療法がある」は<If he doesn't like the way she behaves he has a remedy>。清水訳は「あの女のすることが気にいらないとなるとあの男は何をするかわからない」。<remedy>は「治療法」のことだが、この語が何を指しているのか分からない。田中訳は「クリスタルのやり方を、亭主のキングズリイが気にいらなかったら、はっきり別れりゃいい」と治療法を離婚と決めつけている。村上訳は「もし女房の素行が気に入らなければ、やつにはそれなりに打つ手があるはずだ」。

「利いた風な口をきくな」は<GO climb up your thumb, wise guy>。直訳すれば「親指を登るんだ、利口者」だが、ハードボイルド小説で、出過ぎた真似を戒めるときに使うらしい。清水訳は「きいた(傍点三字)ふうな言い方をするな」。清水訳は「だから、どうした?」。村上訳は「好きなことを思っていればいい」。

『湖中の女』を訳す 第三章(1)

<burl walnut>というのは、ふし瘤のあるウォールナットのこと

【訳文】

 アルテア・ストリートは、深い峡谷にV字の形に広がる土地のいちばん奥にあった。北は冷たく青い海岸線がマリブあたりの岬までのび、南はコースト・ハイウェイに沿って続く断崖の上にベイ・シティの海に面した市街地が広がっていた。
 せいぜいが三、四ブロックほどの短い通りで、突き当りは大きな地所を取り囲む高い鉄柵になっていた。柵の上につけられた金箔塗りの忍び返しの向こうに、樹木や灌木、芝生やカーブを描く私道の一部は瞥見できたが、邸は見えなかった。アルテア・ストリートの内陸側にある家々はよく手入れされていて、かなりの大きさだったが、渓谷の端に散らばるバンガローはたいしたことはなかった。突き当りの鉄柵の手前、短い半ブロックにあるのはたった二軒で、道を挟んでほぼ向い合うように建っていた。小さい方が六二三番地だった。
 その前を通り過ぎ、行き止まりの半円形に舗装されたところで車を回し、引き返してレイヴァリーの家の隣の空き地の前に車を停めた。家は斜面に蔓が這うように下向きに建てられていた。よくあるタイプだ。玄関扉は道路より少し下がった位置にあり、屋根の上がパティオになっていた。寝室は地階にあり、ガレージはビリヤード台のコーナー・ポケットに似ていた。真紅のブーゲンビリアが玄関の壁でかさこそと音をたて、玄関に続く小径の敷石は苔で縁取られていた。扉は狭く、格子が嵌り、上部は尖頭アーチ型をしていた。格子の下に鉄のノッカーがあった。私はそれを叩いた。
 反応がなかった。扉の横にある呼び鈴を押した。家の中のさほど遠くないところで鳴るのが聞こえたが、やはり何も起きなかった。もう一度ノッカーを試したが答えはなかった。小径に引き返してガレージに行き、サイドが白く塗られたタイヤのついた車が見えるところまでドアを開けた。それから玄関に引き返した。
 向かいのガレージから小ぎれいな黒いキャディラック・クーペがバックで出てきて方向転換し、レイヴァリーの家の前を通り過ぎるとき速度を落とし、サングラスをかけた痩せた男が、まるでそこに私の居場所はないというように鋭く見つめた。冷たい一瞥をくれてやるとそのまま走り去った。
 私はもう一度レイヴァリーの家の小径まで戻り、何回かノッカーを叩いた。今度は結果を出した。「ユダの窓」が開き、格子の横棒越しに輝く眼をしたハンサムな男が見えていた。
「うるさいじゃないか」声が言った。
「ミスタ・レイヴァリー?」
 男は、レイヴァリーだがそれがどうした、と言った。私は格子越しに名刺を突っ込んだ。陽に灼けた大きな手が名刺をつかんだ。輝く茶色の眼が覗き窓に現れ、声が言った。「生憎だが、今のところ探偵は間に合っている」
「私はドレイス・キングズリーに雇われている」
「あいつもあんたも知ったこっちゃない」彼はそう言ってユダの窓をバタンと閉めた。私はドアの横の呼鈴に凭れ、空いた方の手で煙草を取り出し、ドアの縁の木の部分でマッチを擦った。その途端、ドアがぐいと開かれ、水着の上にタオル地のバスローブを羽織り、ビーチサンダルを履いた大男が私に向かってきた。
 私は親指を呼鈴からはなし、にやりと笑って見せた。「どうした?」私は訊いた。「怖いのか?」
「もう一度呼鈴を鳴らしてみろ」彼は言った。「通りの端まで投げ飛ばしてやる」
「子どもじみた真似をするな」私は言った。「よく分かってるはずだ。私は君と話すし、君は私と話すことになる」
 ポケットから青と白の電報用紙を取りだして輝く茶色の眼の前に掲げて見せた。彼はむっつりとそれを読み、唇を噛んでうなるように言った。
「しょうがない、入れよ」
 彼はドアを大きく開け、私はその前を通って仄暗く落ち着いた部屋に入った。値の張りそうな杏子色の中国絨毯、深々とした椅子、白いドラム型のランプ、隅にある大きな家具調蓄音機、淡い黄褐色に暗褐色が混じったモヘアを張った長くて広いダヴェンポート、そして銅の炉格子と白木の化粧枠の着いた暖炉。火は炉格子の後ろで焚かれ、一部は大きなマンザニータの切り花の陰になっていた。花はところどころ黄色くなっていたが、まだきれいだった。ガラス天板の下にバール杢の浮き出たウォールナットの低い丸テーブルの上にはVAT69のボトルとグラスを載せたトレイと銅製の氷入れがあった。部屋は家の裏手まで素通しで、突き当りのアーチの向こうに、三つの細い窓と、下に降りる階段の白い鉄の手すりの上部が数フィートばかり見えていた。

【解説】

「アルテア・ストリートは、深い峡谷にV字の形に広がる土地のいちばん奥にあった」は<Altair Street lay on the edge of the V forming the inner end of a deep canyon>。清水訳は「アルテア通りは深い谷間(たにあい)の内がわのV字型の土地の端にあった」。村上訳は「アルテア・ストリートは深い渓谷(キャニオン)の奥の、V字をなした内側の突き当りにあった」。

両氏の訳は原文にある<the inner end>を忠実に訳そうとするあまり、かえって分かりにくくなってしまった悪い例だ。「内側の端」というのは扇形のかなめにあたる場所のことだろう。田中訳は「アルテア・ストリートは、V字形に深くきれこんだ湾の、いちばん奥のところにあった」だ。<canyon>を「湾」と訳したことは合点がいかないが「湾」を「峡谷」に替えれば最もわかりやすい訳になる。

「家は斜面に蔓が這うように下向きに建てられていた。よくあるタイプだ」は<His house was built downwards, one of those clinging vine effects>。田中訳は「傾斜にそって、上から下にたてているような家で、蔦がいっぱい壁にはっている」となっている。<clinging vine>は直訳すれば「絡みつく蔓」だが、「蔦蔓効果」などという建築様式はないので、こう訳すしかない。斜面にしがみつくように建つ家を蔓性植物に喩えたもので、実際に蔦は生えていない。清水訳は「彼の家は壁を這うツタのように下に向かって建てられ」。村上訳は「家は斜面に沿って、蔦が垂れるように、下方に向かって建てられていた。よくあるスタイルだ」。

「上部は尖頭アーチ型をしていた」は<topped by a lancet arch>。清水訳は「上部が尖頭アーチになっていた」。田中訳は「鋭角的なアーチ型で」。村上訳は「上は円弧を組み合わせた尖ったアーチになっていた」だ。<lancet arch>はゴシック建築につきものの窓の形状で、「尖頭アーチ」は一般的な呼び名になっている。村上氏のように噛みくだく必要が果たしてあるのだろうか。

「ガラス天板の下にバール杢の浮き出たウォールナットの低い丸テーブルの上にはVAT69のボトルとグラスを載せたトレイと銅製の氷入れがあった」は<There was a bottle of Vat 69 and glasses on a tray and a copper icebucket on a low round burl walnut table with a glass top>。清水訳は「盆の上にバット69の壜といくつかのグラス、クルミ材の上にガラスをおいた背の低いテーブルに銅のアイス・バケットがおいてあった」。

田中訳は「ガラス張りの、ひくい、くるみ(傍点三字)の丸テーブルの上には、スコッチウイスキーのVAT69とグラス、それに銅の氷いれがのっている」。村上訳は「グラストップの胡桃材(くるみざい)の低い丸テーブルがあり、その上にはVAT69の瓶と、いくつかのグラスを載せた盆と、銅製のアイスバケットがあった」。

<burl walnut>というのは、ふし瘤のあるウォールナットのことで、単なるクルミ材ではない。銘木と言っていい高価な材である。「グラストップ」や「アイス・バケット」のような訳語のある単語を片仮名にしておきながら、なぜ「ウォールナット」のようによく知られた木の名前をわざわざ「クルミ」に替えてしまうのだろう? 「オーク」もそうだが、間違った訳語が定着したがために別種の木だと思われている木がけっこうある。

『湖中の女』を訳す 第二章(3)

五セントのはずの<nickel>が、二セントや十セントになる不思議

【訳文】

「他にもっと多くのことが起きているかもしれません」私は言った。「レイヴァリーと駆け落ちしたものの、喧嘩別れした。他の誰かと駆け落ちして電報は冗談だった。一人で家を出たか、あるいは女性と一緒だった。飲みすぎて、どこか私営のサナトリウムで療養している。我々には思いもつかない窮地に陥っている。犯罪に巻き込まれたことも考えられる」
「何てことを言うんだ。やめてくれ」キングズリーは叫んだ。
「どうしてです? あらゆる事態を想定すべきだ。ぼんやりとですが奥さんのことが分かってきました――若くて、美しく、向こう見ずで、わがまま。酒を飲み、酔うと何をしでかすか分からない。男好きで、知らない男と仲良くなって、後で悪党だと分かる恐れがある。あたってますか?」
 彼は肯いた。「一言一言、思い当たる」
「金はどれくらい持って出たんです?」
「現金をどっさり持ち歩くのが好きだった。自分の銀行に自分だけの口座がある。いくらでも引き出し放題だ」
「お子さんは?」
「子どもはいない」
「奥さんの財産の管理はあなたがしてるんですか?」
 彼は頭を振った。「あれは、小切手を銀行に預け入れ、金を引き出し、使う以外何もしない。五セントたりとも投資したことはない。そして、私が妻の財産に手を出すことはない。君がそう考えているとしたらね」彼は間を置き、そして続けた。「何とかしようと考えなかったわけじゃない。私だって人間だ。みすみす年に二万ドルもの金が無駄に使われるのを見ているのが愉快なはずがない。その果てに残るのが、二日酔いとクリス・レイヴァリーみたいなボーイフレンドというのではな」
「奥さんの銀行はどうです。この二か月に切った小切手の詳細を知ることはできますか?」
「銀行は教えてくれんだろう。私も以前、妻が強請られているのではと思って、何かの情報を得ようとしてみた。冷たくあしらわれたよ」
「どうにかなるはずです」私は言った。「やってみるべきかもしれない。でもそれは警察に失踪届を出すことを意味する。それは嫌なんでしょう?」
「もしそんなことが好きなら、君を呼んだりはしなかった」彼は言った。
 私は肯いて、証拠物件をかき集めてポケットにしまった。「この件には私が今まで挙げたのとは別の側面がありそうだ」私は言った。「まず、レイヴァリーと話すところから始めて、それからリトル・フォーン湖に足を延ばし、いくつか聞いてみたい。レイヴァリーの住所と山小屋の管理人への紹介状が必要です」
 彼は机からレターヘッドを取り出してペンを走らせ、こちらに寄越した。私は読んだ。「ビル、フィリップ・マーロウ氏を紹介する。私の土地が見たいそうだ。私の小屋へ案内し、よろしく面倒を見てやってくれ。ドレイス・キングズリー」
 私はそれを折り畳み、私が読んでいる間に彼が表書を書いた封筒に入れた。「ほかの小屋はどうなっているんですか?」私は訊いた。
「今のところ今年は誰も行っていない。一人はワシントンで政府の仕事をしている。もう一人はフォート・レヴンワースだ。二人の妻は夫といる」
「レイヴァリーの住所を」私は言った。
 彼は私の頭のはるか上の一点を見た。「ベイ・シティにいる。家は分かっているが、住所は忘れた。ミス・フロムセットなら教えられるだろう。君がそれを知りたい理由をいう必要はない。多分すぐに知ることになるだろうが。百ドル欲しいと言ったな?」
「もういいんです」私は言った。「あなたが私を踏みつけにするので言ってみたまでで」
 彼はにやりとした。私は立ち上がり、机のところでためらい、キングズリーを見た。しばらくしてから私は言った。「何か隠していないでしょうね。大事な何かを?」
 彼は自分の親指を見た。「いや何も隠しちゃおらん。私は心配なんだ。妻がどこにいるのか知りたい。ひどく気がかりでね。何かつかんだら電話してくれ。いつでもいい。昼間でも夜中でも」
 私は、そうする、と言って悪手をし、奥行きのある涼しいオフィスを出て、エレガントに腰掛けているミス・フロムセットの机まで行った。
「クリス・レイヴァリーの住所を君に聞けとミスタ・キングズリーに言われた」私は彼女の顔を見ながら言った。
 彼女はのろのろと茶色い革の住所録に手を伸ばしてページを繰った。声は固く冷たかった。
「ここにある住所はベイ・シティ、アルテア・ストリート六二三。電話番号はベイ・シティ一二五二三です。ミスタ・レイヴァリーがやめてから一年以上経ちます。住所は変わっているかもしれません」
 私は礼を言ってドアから出た。そこからちらっと彼女を見た。彼女はじっと坐ったまま、机の上に両手を組んで、宙を見据えていた。両の頬で赤い斑が燃えていた。眼は遠くを見ているようで辛そうだった。
 クリス・レイヴァリーのことを考えるのは彼女にとって楽しいことではないようだ。

【解説】

「男好きで、知らない男と仲良くなって、後で悪党だと分かる恐れがある」は<That she is a sucker for the men and might take up with a stranger who might turn out to be a crook>。清水訳は「男に目がなく、まったくの他人とも親しくなり、その男が悪いやつということもあるかもしれない」。<turn out to be>は「結局~だと分かる」だが、そのニュアンスが弱い。

村上訳は「男に騙されやすく、知らない男と簡単に仲良くなる。そして後日、その相手は問題ある男であったと判明する」。<turn out to be>はいいが、<might>が無視されている。田中訳は「男にもだまされやすいようだから、知らない男と関係ができ、それがたいへんなやつだったら……」。<be a sucker for~>は「~に弱い(むやみに好きになる)、~が好きでたまらない」の意味で、単に「騙されやすい、おめでたい人」という意味ではない。

「奥さんの財産の管理はあなたがしてるんですか?」は<Do you have the management of her affairs?>。清水訳「奥さんの財産の管理についてくわしいことをごぞんじですか」。田中訳「奥さんの財産は、あなたが管理してるんですか?」。村上訳だけが「彼女の金銭の運用について把握しておられますか?」となっている。これでは<have the management>の主語が<she>になってしまう。

「五セントたりとも投資したことはない」は<She never invests a nickel>。<nickel>とは「五セント白銅貨」のことだが、公衆電話に使う硬貨でもあり、少額の金を意味することもある。そこでこういうことになる。清水訳「一セントも投資したことはない」。田中訳「十セントも、なにかに投資したことはない」。村上訳「一銭たりとも投資なんてしなかった」。村上訳は日本語訳と考えると理解できるが、他のお二方はなぜ金額を変更したのか首をひねりたくなる。

「この二か月に切った小切手の詳細を知ることはできますか?」は<Could you get a detail of the checks she has drawn for the past couple of months?>。清水訳「奥さんがこの二カ月間に切った小切手の詳細を知らせてもらえますか」。田中訳「過去二カ月のあいだに多額の金額をひきだしてるかどうか、きいてみたら――」と両氏とも「二カ月」説を採用している。村上氏はというと「過去数カ月にわたって彼女が切った小切手の記録を手に入れることはできますか?」と「数カ月」と訳している。いなくなってからひと月なら、数カ月までさかのぼる必要はないと思うが。

「やってみるべきかもしれない。でもそれは警察に失踪届を出すことを意味する」は<we may have to. It will mean going to the Missing Persons Bureau>。清水訳では「もらわなければなりますまい。そうでないと失踪人捜査課に行くことになります」となっているが、これはおかしい。小切手の詳細は個人に関する秘密だから、失踪届を出すことではじめて法的に可能になるのだろう。田中訳は「しらべるべきじゃないかな。行方不明の届けをだすんです」。村上訳は「そうする必要があるかもしれない。しかしそのためには警察に失踪届を出さなくてはならない」だ。

「両の頬で赤い斑が燃えていた」は<Her eyes were remote and bitter>。清水氏はここをカットしている。田中訳は「その頬には赤く血がのぼり」。村上訳は「両方の頬に燃えるような赤い点が浮かんでいた」。頬に赤みが差すというのは、心の中の動揺のあらわれだ。ミス・フロムセットもまたクリス・レイヴァリーが手を出したオフィスの女性の一人だったのだろう。

『湖中の女』を訳す 第二章(2)

<homewrecker>は女の尻を追いかける「泥棒猫」のこと

【訳文】

 彼は鍵のかかった抽斗を開けるために椅子を後ろに退き、折り畳んだ紙片を取り出して渡してよこした。広げてみると電報用紙だった。電報は六月十四日 午前九時十九分にエルパソで打たれたもので、宛先はビヴァリー・ヒルズ、カーソン・ドライブ九六五、ドレイス・キングズリー。そし文面はこうだ。

「メキシコヘリコンシニイク クリストケツコンスル ゲンキデ サヨナラ クリスタル」

 私はそれを机のこちら側に置いた。彼は光沢紙に焼かれた大きなスナップ写真を私に手渡した。ビーチ・パラソルの下で砂の上に座っている一組の男女がきれいに撮れていた。男はトランクスを穿き、女は非常に大胆な白いシャークスキンの水着を着ていた。女はほっそりした金髪で、若く、すらりとした体つきで微笑んでいた。男は屈強で浅黒いハンサムな若者で、広い肩幅と長い脚、滑らかな黒髪と真っ白な歯をしていた。身の丈六フィートの標準的な泥棒猫だ。手は抱きしめるためにあり、頭そっちのけで顔に手をかけていた。サングラスを手に、カメラに向かってわざとらしい気楽な微笑を浮かべていた。「それがクリスタルだ」キングズリーは言った。「それとクリス・レイヴァリー。妻がそいつとひっつこうが、そいつが妻をつかまえようがどうでもいい。二人ともくそくらえだ」
 私は写真を電報の上に置いた。「分かりました。で、何が問題なんです?」私は訊いた。
「小屋には電話がない」彼は言った。「妻が山を下りるはずだった用事はたいしたものじゃなかった。それで電報が来るまで気にもしていなかった。電報にもさほど驚かなかった。クリスタルと私は何年も前から終わっていたんだ。妻はしたいようにして、私もそうしていた。妻には自分の財産があって、それもかなりの額だ。妻の家族は価値ある石油をリース取引する持株会社をテキサスに持っていて、そこから年に二万ドルほど入ってくる。妻が遊び回っていて、レイヴァリーが遊び相手の一人だということは知ってた。少々驚いたのはあの男とほんとに結婚したことだ。あいつはプロの女たらし以外の何ものでもないからな。今のところ、写真で見る限り、うまくやっているようだが。ここまではいいか?」
「それから?」
「二週間は何ごともなかった。その後、サン・バーナディノのプレスコット・ホテルから連絡があった。私の住所でクリスタル・グレイス・キングズリー名義のパッカード・クリッパーがガレージに置きっぱなしにされているが、どうしたらいいかというものだ。預かっておいてくれと伝えて小切手を送った。それでもまだ大して気にしていなかった。妻はまだ州の外にいて車で行ったのならレイヴァリーの車で行ったと思ったのだ。ところが一昨日、ここの角にあるアスレチック・クラブの前でレイヴァリーに会った。彼はクリスタルの居場所を知らないと言っていた」
 キングズリーは私の方をちらっと見てからボトルと二つの色付きグラスに手を伸ばした。二つのグラスに酒を注ぎ、一つを押して寄こした。自分のグラスを明りにかざし、ゆっくり言った。
「レイヴァリーが言うには、妻と出かけたりしていないし、この二か月会ってもいなければ、一切連絡もないそうだ」
 私は言った。「彼の言うことを信じたんですか?」
 彼は肯き、眉を顰め、酒を一口飲むとグラスを脇にやった。私も試してみた。スコッチだった。あまり上物ではなかった。
「もし彼の言うことを信じたとしたら」キングズリーは言った。「多分それが誤りだったのだろうが、彼が信じるに足る人物だったからではない。話は逆だ。友だちの妻と寝ておいてそれを自慢するようなろくでなしだからだ。私を見捨てた妻と駆け落ちしたなら、喜色満面でそれを吹聴するだろうと思ったんだ。私はこういう女たらしをよく知っているし、こいつのことならなおさらだ。しばらくの間、うちで外回りの仕事をしていたんだが、トラブル続きだった。オフィスの女の子に手を出さずにいられないんだ。そのことは別にしても、エルパソからの電報の件がある。しらを切ったところで彼に何の利があるんだ?」
「奥さんに捨てられたのかもしれませんよ」私は言った。「だとすれば、かなりの痛手を受けたでしょう。カサノヴァ・コンプレックスというやつです」
 キングズリーの顔が少し明るくなったが、ほんの少しだけだった。彼はかぶりを振った。「まだ半分以上彼の話を信じている」彼は言った。「君は私が間違っていることを証明しなければならない。君を雇ったのも一部はそれだ。それとは別にかなり心配していることがある。私はここで良い地位を得ている。しかし地位とは危ういものだ。スキャンダルは命取りになる。妻が警察沙汰を起こしたら、すぐにここから出て行かねばならない」
「警察?」
「妻の数ある行状の中に」キングズリーはむっつりして言った。「時々、デパートでやる万引きがある。酒を飲みすぎたときに起きる一種の誇大妄想で、気が大きくなるんだと思う。私たちは支配人室でかなりひどい目に遭ってきた。今までのところ、色々手を回して書類送検は免れてきたが、見知らぬ町でそんなことが起きたとしたら――」彼は両手を上に揚げ、ぴしゃりと机の上に落とした。「留置場に入れられるかもしれん。そうだろう?」
「奥さんは指紋を取られたことがありますか?」
「逮捕されたことは一度もない」
「そういう意味じゃないんです。大きなデパートでは、万引きの罪科を問わないことを条件に、指紋を取られることがあります。出来心でやった連中は震え上がるし、デパート防犯協会には窃盗症のファイルが溜まる。指紋の数が一定数を越えると相応の措置がとられます」
「私の知る限り、それはないようだ」彼は言った。
「今のところ、万引きの件は考えなくてもいいでしょう」私は言った。「もし逮捕されていたら、警察は身許を洗う。記録簿にはジェイン・ドウの名を使わせたとしても、あなたに連絡しそうなものだ。それに、自分が窮地にいることに気づいたら、今ごろ、助けて、と叫び始めているでしょう」私は青と白の電報用紙を叩いた。「それにこれはもう一月も前だ。あなたが恐れていることがその時期に起きていたら、もう解決ずみでしょう。初犯なら、叱りつけ、執行猶予付きの判決で済ますでしょう」
 彼は不安を紛らすためにもう一杯注いだ。「君のお陰で気が楽になったよ」彼は言った。

【解説】

「身の丈六フィートの標準的な泥棒猫だ」は<Six feet of a standard type of homewrecker>。清水訳は「身長およそ六フィート。世間でいうマダム・キラー型」。「マダム・キラー」はもう死語かもしれない。村上訳は「身長は百八十センチほど。いかにも家庭を破壊しそうなタイプだ。田中訳は「背の高さは六フィートぐらい。他人の家庭を破壊する典型的なタイプだ」。<homewrecker>は「(不倫などして)家庭を壊す人、既婚者と付き合う人、泥棒猫」と辞書にある。

「妻の家族は価値ある石油をリース取引する持株会社をテキサスに持っていて、そこから年に二万ドルほど入ってくる」は<About twenty thousand a year from a family holding corporation that owns valuable oil leases in Texas>。清水訳は「テキサスに石油の権利を持っている持株会社から年におよそ二万ドル入ってくる」とシンプルだ。情報量は少ないがこれで意味は通る。

田中訳は「テキサスの有望な油田採掘権をもつている会社を、クリスタルの家族が経営していて、そこから毎年二万ドルほど配当があるんだよ」と詳しい。村上訳は「彼女のファミリーは持ち株会社を経営し、その会社はテキサスに価値の高い油井の賃貸権を保有している。そこから年に二万ドルほどの金が入ってくる」。「ファミリー」とカナ書きするとマフィアか何かのようだが、何か意図があるのだろうか?

「今のところ、写真で見る限り、うまくやっているようだが。ここまではいいか?」は<But the picture looked ail right so far, you understand?>。清水訳は「ここまでの話はべつにどうということもないだろう」と、写真についての言及がない。村上訳は「しかし写真で見る限り、なかなか悪くない見かけだ。だいたいのところはわかったかね?」。<all right>を男のルックスについてと解釈している。田中訳は「しかし、この写真で見ると、二人は仲がよさそうだ」。文脈から見て、こう考えるのが妥当だろう。

「そのことは別にしても、エルパソからの電報の件がある。しらを切ったところで彼に何の利があるんだ?」は<And apart from all that there was this wire from El Paso and I told him about it and why would he think it worth while to lie about it?>。清水訳は「そんなことをべつにしても、エルパソからの電報があって、私がそのことを彼に話した。私に嘘をいってとく(傍点二字)をすると彼が思うはずはあるまい」。

田中訳は「それに、エルパソで打ったクリスタルの電報もある。クリスタルのことをかくして、嘘をつく必要は、レヴリイにはないわけだ」。ところが、村上訳では「そういうことは一切抜きにしても、エルパソから届いた電報の一件もあった。私はそのことを持ち出し、今更そんなことで嘘をついて何の得があるんだと彼に詰め寄った」となっている。先に、彼を信じたと言っているのに、こう言うのはおかしいだろう。

「記録簿にはジェイン・ドウの名を使わせたとしても、あなたに連絡しそうなものだ」は<Even if the cops let her use a Jane Doe name on the police blotter, they would be likely to get in touch with you>。清水訳は「どんな仮名を使ったところで、警察からあなたのところに連絡があるはずです」。村上訳は「仮に警察の取り調べで偽名を使っていたとしても、あなたのところには連絡が来るはずです」となっている。

<Jane Doe>は裁判文書等で用いる身元不明の女性の仮名のこと。また、今までにも何度か出てきている<blotter>だが、ここでは「吸取り紙」でも「下敷き」でもなく、警察の「事件控え帳」のことだ。身元不明の場合、仮の名前が使われるのは当然だが、その後、身許が明らかになれば家族に連絡が来る。ひと月前だったら、もう連絡が来ていていいはず。マーロウはそのことを言っているのだ。田中訳は「警察の記録には変名でとおしてくれるとしても、きっと、あなたには連絡があります」。

『湖中の女』を訳す 第二章(1)

<call down>は「酷評する、けなす、こき下ろす」

【訳文】

 それはプライベート・オフィスたるもの、そうあるべき部屋だった。奥行きがあり、ほの暗く、ひっそりして空調が効いていた。窓は閉まり、灰色のベネシアン・ブラインドを半ば閉じて、七月のぎらつく陽射しを遮っていた。厚地のグレイのカーテンはグレイの絨毯と調和がとれていた。隅には大きな黒と銀色の金庫があり、それと正確に高さを揃えた低いファイリング・ケースが並んでいた。壁には巨大な着色写真がかかっていた。鑿で彫り出したような鉤鼻と頬髯、ウィングカラーの老人だ。ウィングカラーから迫り出した喉仏は大抵の人の顎より硬そうだった。写真の下のプレートには「ミスタ・マシュー・ギラ―レイン、一八六〇-一九三四」とあった。
 ドレイス・キングズリーはきびきびと歩いて、八百ドルはしそうな高級机の後ろに回り込み、背の高い革張りの椅子にどっかりと尻を埋めた。銅とマホガニーでできた箱に手を伸ばし、細巻き葉巻を取り出して端を切り、銅製の大きなデスク・ライターで火をつけた。それだけのことをするのにたっぷりと時間をかけた。私の方の時間など、どうでもいいのだ。それが終わると、椅子にふんぞり返って煙を少し吐き、言った。
「私はビジネスマンだ。無駄なことはしない。名刺によると君は免許を有する私立探偵らしい。それを証明する物を見たい」
 私は財布から証明する物を出して渡した。彼はそれを見て、机越しに投げてよこした。探偵免許の写しを入れたセルロイドのホルダーが床に落ちたが、詫びの一言もなかった。
「マッギーとやらは知らん」彼は言った。「保安官のピーターセンなら知っている。信頼して仕事を任せられる人間を紹介してほしいと頼んだが、どうやら君がそうらしいな」
「マッギーは保安官事務所のハリウッド分署勤務です」私は言った。「確認できますよ」
「その必要はない。そうかも知れんが、余計な口出しはするな。ことわっておくが、私は人を雇ったら、勝手な真似は許さん。私の言う通りに動き、口は閉じておけ。さもなきゃ即刻お払い箱だ。分かったか? やたらボス風を吹かす気はないのだが」
「それについては保留ということにしておきましょう」私は言った。
 彼は眉を顰めた。そして、はっきり言った。「料金はいくらだ?」
「一日二十五ドルと必要経費。それにガソリン代が一マイル八セント」
「ばかな」彼は言った。「高すぎる。一日かっきり十五ドル。それで十分だ。マイル当たりの料金は必要な分はその金額を払う。ただし、用もないのに乗り回すな」
 私は灰色の煙草の煙を一吹きし、手で払いのけだ。何も言わなかった。彼は私がしゃべらないので少し驚いたようだった。 
 彼は机の上に身を乗り出し、私に葉巻を突きつけた。「まだ君を雇ったわけではない」彼は言った。「だが、雇われたなら、仕事については他言無用だ。警察の友だちにも話すな。分かったか?」
「何をさせたいんですか。ミスタ・キングズリー?」
「何が気になるんだ。探偵の仕事なら何でもやるんだろう?」
「何でもやる訳ではありません。筋の通ったことに限ります」
 彼は落ち着いた眼で私を見つめ、口を引き結んだ。灰色の瞳は解り難い表情をしていた。
「一例をあげれば離婚案件は扱いません」私は言った。「それから初めての依頼人からは保証金として百ドル戴きます」
「それは、それは」彼は急に穏やかな声になった。「それは、それは」
「そして、ボス風を吹かすことに関しては」私は言った。「依頼人の大半は、初めは私のシャツに取りすがって泣くか、誰がボスか分らせようと怒鳴るかのどちらかです。しかし、ふつう最後にはとても物分かりがよくなる。もし、その時まで生きていられたらですが」
「それは、それは」彼は同じ穏やかな声でまた言うと、私を見つめ続けた。「客はよく死ぬのか?」彼は訊いた。
「心配いりません。私を正しく扱ってさえいれば」私は言った。
「葉巻はどうだ」彼は言った。
 私は一本とってポケットに入れた。
「妻を探してほしいんだ」彼は言った。「いなくなってからひと月経つ」
「オーケイ」私は言った。「見つけ出しますよ」
 彼は机を両手でぱたぱた叩いた。彼はじっと私を見つめた。「君ならやってくれるだろう」彼は言った。そして、にやりと笑った。「四年間というもの、こんなふうに喧嘩を売られたことはない」彼は言った。
 私は何も言わなかった。
「ちくしょうめ」彼は言った。「気に入った。大いに気に入った」彼は濃い黒髪をかきあげた。「妻はひと月というもの消えたままだ」彼は言った。「ピューマ・ポイントに丸太小屋を持ってるんだが、そこから消えたんだ。ピューマ・ポイントを知ってるか?」
 私はピューマ・ポイントなら知ってると言った。
「うちの小屋は村から三マイル離れている」彼は言った。「途中からは私道だ。リトル・フォーン湖という私有の湖に面している。土地を開発するために三人で作ったダムだ。他の二人と共同で一帯を所有している。かなり広いが、未開発だ。しばらくの間は手のつけようがない。戦時ではね。二人の友人の小屋と私の小屋の他にもう一軒、ビル・チェスという夫婦者の小屋がある。退役して年金暮らしの傷痍軍人だ。家賃代わりに地所の管理をさせている。他には誰もいない。妻は五月の半ばにそこに行き、二度週末に帰ってきた。六月十二日にパーティーをする予定だったが姿を見せなかった。それから妻に会っていない」
「それで、あなたは何をしたんですか?」私は訊いた。
「何も。何ひとつ。そこに行きさえしなかった」彼は待った。私に、なぜと聞いて欲しがっている。
 私は言った。「なぜ?」

【解説】

「隅には大きな黒と銀色の金庫があり、それと正確に高さを揃えた低いファイリング・ケースが並んでいた」は<There was a large black and silver safe in the corner and a low row of low filing cases that exactly matched it>。<row>は「(まっすぐな線に並んだ人・ものの)列、並び」のこと。清水訳は「黒と銀色の大型の金庫が部屋のすみ(傍点二字)におかれてあって、背の低いファイル・ケースの長い列と見事につり合いがとれていた」。

村上訳は「部屋の隅には黒と銀色の大型の金庫が置かれ、それにぴったりサイズの合った、ファイリング・ケースが並んだ低い棚があった」。村上氏は資料室にあるような棚に並べられた箱を想像しているらしい。田中訳は「隅にある大きな銀色の金庫も、またひくい書類ケースがひくくならんでいるのも、この部屋の雰囲気によくマッチしている」で、金庫でなく部屋との調和がとれていると解釈している。映画によく出てくる、一個につき三段くらい抽斗がついた、ファイリング・キャビネットのことじゃないか、と思うのだが。

「鑿で彫り出したような鉤鼻」は<a chiselled beak>。清水氏訳は「とがった顎(あご)」。田中訳は「鑿(のみ)でほりとったような口」。村上訳は「鑿(のみ)で削られたような鉤鼻(かぎばな)」。<chisel>は「のみで彫る」の意味。<beak>は「くちばし状のもの」のことで、「口」という意味もあるが「鉤鼻」を指す場合もある。

「そうかも知れんが、余計な口出しはするな」は<I guess you might do, but don't get flip with me>。清水訳は「君で用が足りるだろう」。村上訳は「きみでいいだろう。ただし、私に向かって生意気な口をきいてはならん」。この<might>だが、後ろに等位接続詞<but>が続いているので、譲歩を示している。「君はそうするのかもしれないが(私はしない)」という意味になる。清水、村上両氏は「探偵は君でつとまる」と解釈しているが、田中訳「ただし、きみが電話して、呼びだすのはかまわん」が意味としては正しい。

<flip>は<flippant>「軽薄な、軽々しい」の短縮形。<don't be flip with me>は「私に向かって軽薄な(軽々しい)口を利かないでください」の意。キングズリーはマーロウに<You can check on that>と言われたのが気に障ったのだ。村上氏は丁寧に訳している。田中、清水両氏は、同じ趣旨のことを後の方でキングズリーが言っているので、ここをトバしている。

「彼は落ち着いた眼で私を見つめ、口を引き結んだ」は<He stared at me level-eyed, his jaws tight>。清水訳は「彼は目を据え、顎を引いて、私を見つめた」。田中訳は「キングズリイは、グッと顎をひき、まともにおれの顔をみた」。村上訳は「彼は顎をぎゅっと締めて、正面からまっすぐ私を見た」。<level>には「落ち着いた、冷静的」という意味もある。<jaw>は「顎」だが<jaws>は「(あご、歯を含めた)口」を指す。

「四年間というもの、こんなふうに喧嘩を売られたことはない」は<I haven't been called down like that in four years>。田中訳「君みたいにはっきりものをいう者には、もう何年もあっていない」。清水訳「私はこの四年間、こんなふうにはっきりものをいわれたことがない」。村上訳「そんな風にはっきりものを言われたことは、この四年間一度もなかった」。<call down>は「酷評する、けなす、こき下ろす」の意味だ。もっとはっきり言った方がいい。

「ちくしょうめ」は<Damn it all>。田中氏は「まったく、やっかいなことだ」と訳したために、つぎの<I liked it. I liked it fine>を「じつに、おもしろくない」とめずらしく誤訳している。<dame it all>は「かまわん、しまった、畜生、どうにでもしろ、なんてこった、知るか」といった罵り言葉。大いに気に入った場合でも用いることはある。清水訳は「わかるかね」、村上訳は「いいだろう」と無難な訳にしているが、ここはあえてそのまま訳した方がキングズリーのマーロウに対する評価の激変を表現できる。

『湖中の女』を訳す。第一章(2)

<rear back>は「後退り」ではなく「後ろ脚で立つ」ことだ。

【訳文】

 半時間がたち、煙草を三、四本吸い終わった頃、ミス・フロムセットの背後のドアが開き、二人の男が笑いながら後ろ向きに出てきた。三人目の男がドアを抑え、二人に調子を合わせていた。彼らは熱心に握手を交わし、二人はオフィスを横切って出て行った。三人目の男の顔から笑顔が消え、まるで生まれてから一度も笑ったことなどないような顔になった。グレイのスーツを着た長身の男には、無意味なことをする気は微塵もなかった。
「電話はなかったか?」彼は親分風を吹かせ、切り口上で訊いた。
 ミス・フロムセットは低い声で言った。「ミスタ・マーロウという方がお見えです。マッギー警部補の紹介で、個人的な要件とのことです」
「聞いたこともない男だ」背の高い男は大声で言った。そして、名刺を手に、こちらには目もくれずオフィスに戻った。ドアが圧縮空気の力で閉まり、ふーん、とでもいうような音を立てた。ミス・フロムセットは私に誠にお気の毒と言いたげな微笑をくれ、私はいやらしい流し目で返した。新しい煙草を口にすると、また時間がよろよろと過ぎて行った。私はギラ―レイン社のことが大好きになりかけていた。
 十分後、再び同じドアが開き、帽子を被った大物が出てきて、人を小馬鹿にするように、散髪に行くと言った。中国段通を軽快な運動選手の大股で横切りかけ、ドアまで半分ほど行ったところで、急に折り返し、私が座っているところまで来た。
「私に会いたいって?」彼は怒鳴った。
 身長は六フィート二インチほどで、やわな体つきではない。鈍色の瞳は燐光の斑入り。細いチョーク・ストライプの入った滑らかなグレイ・フランネルに大きな体を詰め込んでおり、着こなしも上品だった。見るからに、つきあい難い相手だった。
 私は立ち上がった。「もし、あなたがドレイス・キングズリーさんでしたら」
「一体誰だと思ってたんだ?」
 言いたいように言わせておいて別の名刺を取り出した。商売用のやつだ。彼は大きな手で鷲づかみし、見下ろして顔をしかめた。
「マッギーというのは誰かね?」彼はいきなり言った。
「ただの知り合いですよ」
「そそられる話だ」彼は言った。そして、ちらっとミス・フロムセットを振り返った。それは彼女にうけた。大いにうけた。
「その男について他に聞かせてもらえるかな?」
「ヴァイオレッツ・マッギーと呼ばれています」私は言った。「菫の香りのする小さな喉薬をいつも噛んでるのでね。柔らかな銀髪の大男で赤ん坊でもキスしたくなるかわいい唇をしている。この前見たときはこざっぱりしたブルーのスーツを着て、爪先の広い茶色の靴を履き、グレイのホンブルグ帽を被って、短いブライアーのパイプで阿片を吸ってました」
「その態度は気に入らない」キングズリーはブラジル・ナッツでも割れそうな声で言った。
「構いませんよ」私は言った。「別に態度が売りってわけじゃない」
 まるで鼻先に一週間経った鯖をぶら下げられたみたいに彼はいきり立った。しばらくすると、くるりと私に背中を向け、肩越しに言った。
「きっかり三分間だけくれてやる。さっぱり訳がわからん」
 彼は焦げよとばかり絨毯を踏みつけてミス・フロムセットの机を通り過ぎ、自分の部屋のドアをぐいと開け、私の鼻先で閉まりかけるのも無視して部屋に入った。これもミス・フロムセットにうけたが、今ではその両眼の奥に少しばかり冷笑が隠されているように思えた。

【解説】

「無意味なことをする気は微塵もなかった」は<he didn't want any nonsense>。田中訳は「ふざけたりするのはぜったいにゆるさん、といった顔をしていた」。村上訳は「なめた真似は許さないと心に決めた人物のように見えた」。清水訳は「いかにもとっつき(傍点四字)にくい顔つきだった」。<nonsense>は文字通り「無意味」という意味だ。相手が見えなくなったら、それ以上作り笑いをしているのは無意味なことだ。彼はそう考えるタイプの男なんだろう。文脈上、そう考えるのが自然だ。

「ドアが圧縮空気の力で閉まり、ふーん、とでもいうような音を立てた」は<His door closed on the pneumatic closer and made a sound like “phooey.”>。<phooey>は軽蔑や不信、失意などを表す間投詞で「そんなばかな、ふーん、ちぇっ」といった意味。無視された格好のマーロウの耳には、ドアの閉まる音がそう聞こえたということだろう。

清水訳は「圧搾空気の開閉装置がついているドアが妙な音を立てて閉まった」。村上訳はドアは自動圧力で閉まり、「ひゅうう」という音しか立てなかった」。田中訳は「圧縮空気仕様の自動開閉ドアが、フーイ、用はないよ、というような音をたてて、閉まった」。「用はないよ」は擬音である<phooey>を意味の分かる言葉に訳したもので、こう書かれると意味がよく分かる。田中小実昌氏のチャンドラーは、ちゃんと日本語の小説になっている。

「人を小馬鹿にするように、散髪に行くと言った」は<sneered that he was going to get a hair-cut>。<sneer>は「嘲笑う、冷笑する、鼻であしらう」。田中訳は「散髪に行くとほざいた」。清水訳は「髪を刈りに行くとぶっきらぼうな口調でいった」。村上訳は「これから散髪に行ってくると、小馬鹿にしたような声で言った」。ここで考えたいのは、いったい誰が「鼻であしらわれ」ているのか、ということだ。いうまでもなく待ちぼうけを食わされているマーロウだ。田中訳、村上訳からはそれが伝わるが、清水訳からは伝わってこない。

「鈍色の瞳は燐光の斑入り」は<His eyes were stone gray with flecks of cold light in them>。田中訳は「石のような灰色の目が、つめたくひかっている」。清水訳は「目は石のように灰色で、冷たく光っていた」。どちらも<flecks>をトバしている。<fleck>は「(光・色などの)斑点」。また<cold light>は燐や蛍のような熱のない光を表す言葉。村上訳は「瞳は険しい灰色で、まだら模様がその中に冷たい明かりとなって見えた」。<stone gray>は「粘板岩または花崗岩の色」を表す言葉で「濃青灰色、鈍色」を指す。

「見るからに、つきあい難い相手だった」は<His manner said he was very tough to get along with>。<to get along with>は「気が合う、馬が合う」の意味だが、田中氏はここをカットしている。清水訳は「そのそぶり(傍点三字)で一筋なわではいかぬ人間であることがわかった」。村上訳は「その素振りからして、相手にするのはずいぶん厄介(やっかい)そうだ」。

「彼はいきり立った」は<He reared back>。清水訳は「後しざリ(傍点三字)した」。田中訳は「うしろにさがった」。村上訳は「後ろにさっと身を引いた」。鼻先に腐った鯖をぶら下げられたら、誰しも身を引きたくなる。それはそうだが、動詞<rear>に「さがる」という意味はない。自動詞<rear>は「後脚で立つ」という意味だ。馬が興奮すると後脚で立つことから<rear back>は「憤慨し始める、抗議を始める」という意味になる。

「さっぱり訳がわからん」は<God knows why>。清水訳では「会う必要はないのだが」。村上訳では「そんな義理もないのだが」。田中訳では「しかし、いつもこんなふうだとおもってもらってはこまる」。<God knows why>を日本風に言えば「(その訳は)神のみぞ知る」だ。三氏とも、後半部分をマーロウに聞かせる台詞だと解釈している。しかし、腹は立てていても、話を聞くのは興味を引かれたからだ。どうしてそんなことをする気になったのか自分でも分からないので、自分に言い聞かせるために言った台詞ではないか。

「自分の部屋のドアをぐいと開け、私の鼻先で閉まりかけるのも無視して部屋に入った」は<his door, yanked it open and let it swing to in my face>。圧縮空気で自動的に閉まるドアについては先に紹介されていた。その伏線の回収である。「ドアを私の鼻先に乱暴にあけた」という清水訳では、それが分からない。村上訳は「ドアを勢いよく開け、そのまま手を離した。ドアはあやうく私の顔にぶつかるところだった」。田中訳は「ドアをあけ、うしろのおれの顔にぶつかるようにドアがしまってくるのをほったらかしたまま、自分のオフィスにはいってしまった」。

「今ではその両眼の奥に少しばかり冷笑が隠されているように思えた」は<but I thought there was a little siy laughter behind her eyes now>。清水訳は「目のうしろで意地わるく笑っていた」。村上訳は「しかし彼女の両目の奥には、見すかした笑いが隠されているようにも感じられた」。田中訳は「だが、こんどはちょっぴり目が笑っていたようだった。ボス面(づら)をしたキングズリイがやりこめられたのが、おかしかったのだろう」。二つ目の文は原文にはない。訳者がここまで介入してもいいものかどうか、意見の分かれるところかもしれない。

チャンドラー『湖中の女』を訳す 第一章(1)

【はじめに】

 ずぶの素人がまるまる一冊、長篇小説を訳してみようと無謀な試みを思い立ったには訳がある。村上春樹氏がチャンドラーの長篇の新訳を出したことで、新訳について様々な意見が巻き起こった。旧訳でなじんできた読者に新訳が違和感を持って迎えられたのはよく判るが、村上訳そのものの是非については、本当のところは原文を読まないと分からない。それで、清水潔訳の『長いお別れ』文庫版と村上訳の『ロング・グッドバイ』単行本、それにブラック・リザード版の<The Long Goodbye>原文を用意して比べ読みから始めた。
 これがなかなか面白くて、次に『大いなる眠り』を比べ読みし、その次に『さらば愛しき女よ』を読みだしたが、もうその頃には、自分ならどう訳すだろうという好奇心が強くなっていて、試訳を始めたら病みつきになってしまった。
 最近の自動翻訳は、以前とは比べ物にならないほど精度がよく、著名な翻訳家も下訳になら使えるとお墨付きを出すほどだ。もっとも、チャンドラーの使う凝った比喩や、俗語、スラングには対応していないので、参考程度にしか使えない。やはり、こつこつと複数の辞書を引くことになる。ネットの情報も頼りになる。ロサンジェルス市庁舎の正面階段の高さもそれで確認した。
 さて、今回の『湖中の女』だが、原題は<The Lady in the Lake>。ウォルター・スコット叙事詩<The Lady of the Lake>(湖上の美人)に因んでいるのだろう。一語だけ違うのは、女が舟の上ではなく、死体となって水中にいるからだ。しかし、錘をつけて水底に沈められた訳ではないので、村上訳の『水底の女』は、あまり相応しい訳とは思えない。
 『湖中の女』には、清水潔訳、村上春樹訳の他に、田中小実昌訳があり、他に長篇のもとになった中篇小説を稲葉明雄氏が訳した「湖中の女」が晶文社刊『マーロウ最後の事件』に収められている。私訳にあたり、これらを参考にしたことをあらかじめことわっておく。

第一章

【訳文】

 トレロア・ビルディングは、今と同じように市の西側、六番街に近い、オリーヴ・ストリートにあった。ビルの前の歩道には黒と白のゴム・ブロックが敷かれていた。戦時で政府に供出するために掘り出されている最中だったが、ビルの管理人らしい青白い顔をした無帽の男が傷心の面持ちでそれを見ていた。
 男の前を通り過ぎ、専門店の並ぶアーケードを抜け、黒と金色の広大なロビーに入った。ギラ―レイン社は七階の正面側、プラチナに縁どられたガラスの両開きのドアが揺れる、その向こうにあった。応接室には中国製の敷物、鈍い銀色の壁、無骨ながらが手の込んだ家具、幾つかの台座に据えられた鋭く光る抽象彫刻、隅に置かれた三角形のショーケースには背の高い陳列棚が収まっていた。輝く鏡ガラスの階段の各層、島、張り出しには、これまでにデザインされたあらゆる意匠を凝らした壜や箱が置かれているようだった。すべての季節や場に応じたクリームやパウダー、石鹸、化粧水があった。香水の入った細長い瓶は一吹きで倒れそうだった。かわいいサテンで蝶結びされたパステル・カラーの小瓶に入った香水は、まるでダンス教室に通う少女たちのようだ。中でも最高級品は、ずんぐりした琥珀色の瓶に入った何か特別なとても小さいシンプルな品のようだ。目の高さにある棚の真ん中で、広いスペースを独占していた。ラベルには<ギラ―レイン・リーガル、香水のシャンパン>とあった。何としてでも手に入れるべき一品だった。喉の窪みに一滴たらせば、粒揃いのピンク・パールが夏の雨のように降りかかることだろう。
 きちんとした小柄な金髪娘が、危険地帯から遠く離れた柵の後ろ、小さな電話交換台の隅に坐っていた。奥の両扉の前には平机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた。机上の傾いた打ち出しの名札によると、名前はミス・エイドリアン・フロムセットだった。
 スチール・グレイのビジネス・スーツを着て上着の下はダーク・ブルーのシャツに明るい色の男物のタイを締めていた。胸のポケットチーフの角はパンが切れそうなほど鋭く折られていた。チェーンのブレスレット以外、アクセサリーは身につけていなかった。黒い髪は両側にゆるやかに垂らしていたが、ウェイブは手がかかっていた。滑らかな象牙色の肌で、かなりきつめに引いた眉と、大きな黒い瞳は時と場所さえ間違えなければ熱くなりそうに見えた。私は肩書き抜きの名刺、隅に機関銃が描いてないやつを彼女の机に置いて、ミスタ・ドレイス・キングズリーに会いたいと言った。彼女は名詞を見て言った。
「約束はおありでしょうか?」
「約束はしていない」
「約束なしにミスタ・キングズリーにお会いになることは大変難しいのです」
 それは私がどうこう言うことではなかった。
「どんなご用向きでしょう?」
「個人的なことだ」
「なるほど。ミスタ・キングズリーはあなたのことを存じ上げておりますでしょうか、ミスタ・マーロウ?」
「そいつはどうかな。名前くらいは聞いてるかもしれない。マッギー警部補に言われてきたと言った方がいいかもしれない」
「ミスタ・キングズリーはマッギー警部補を存じ上げておりますでしょうか?」
 彼女はタイプしたばかりのレターヘッド付き用箋の山の横に私の名刺を置いた。からだを後ろにそらし、片腕を載せた机を、小さな金色の鉛筆で軽くたたいた。
 私はにやっと笑って見せた。交換台の小柄なブロンドが貝殻のような耳をそばだてて、小さくふわりとした微笑を浮かべた。ふざけたくてたまらないらしいが、どうしたらいいのか分からないのだ。子猫のことなぞ構いもしない家に貰われてきた子猫のようだった。
「だといいのだが」私は言った。「彼に訊くのが一番かもしれない」
 彼女は私にペンセットを投げつけるのをやめて、三通の手紙に素早くイニシャルを書き留めた。そして顔も上げずに言った。
「ミスタ・キングズリーは会議中です。折を見て名刺をお取り次ぎします」
 私は礼を言って、クロームと革でできた椅子に腰をおろした。見かけよりずっと座り心地がよかった。時が過ぎその場に沈黙が立ちこめた。出入りする者は誰もいなかった。
 ミス・フロムセットのエレガントな手が書類の上で動き、交換台の子猫が時折立てる小さな話し声と、プラグを抜き差しする音が微かに聞こえてきた。
 私は煙草に火をつけ、灰皿スタンドを椅子の傍に引き寄せた。時は忍び足で、唇に指をあてて過ぎて行った。私はあたりを見渡した。こういうところは見かけだけでは何もわからない。儲けは何百万ドルになるかもしれず、後ろの部屋に雇われシェリフがいて、金庫に椅子の背を凭せて張り番をしているかもしれない。

【解説】

「トレロア・ビルディングは、今と同じように市の西側、六番街に近い、オリーヴ・ストリートにあった」は<The Treloar Building was, and is, on Olive Street, near Sixth, on the west side>。<on the west side>はL.Aの西側を意味すると思われるが、清水氏は「トレロア・ビルはいまとおなじオリーヴ通りの西がわの、六番通りに近いところにあった」と訳している。村上訳は「市西部の」、田中訳は「ロサンジェルスの西側」だ。

「輝く鏡ガラスの階段の各層、島、張り出しには」は<On tiers and steps and islands and promontories of shining mirror-glass>。清水訳は「きらきら輝いているミラー・ガラスの棚に」と<steps and islands and promontories>を例によってカットしている。田中訳は「たて、よこにかさなり、あるいはポツンと島のようにはなれ、また、岬みたいにつきだした、ピカピカひかる鏡ばりの陳列棚の上には」。村上訳は「きらびやかな鏡面ガラスでできた棚やステップや浮島(アイランド)や出っ張りの上には」。田中訳が読者には親切だが<tiers>も<steps>も上下の階段の意味だ。「たて、よこにかさなり」の訳がひっかかる。

「奥の両扉の前には平机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた」は<At a flat desk in line with the doors was a tall, lean, darkhaired lovely>。清水訳は「ドアから正面の飾りのないデスクには背が高く、ほっそりした、薄い色の髪の娘が座っていて」だ。<darkhaired>がどうして「薄い色の髪」になったのかは分からない。田中訳は「奥のドアに並んで、大きな飾りのない机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた」。村上訳は「ドアとドアとを結ぶ線上に置かれたフラットなデスクの前には、ほっそりとした長身黒髪の美人が座っていた」。

<in line with ~>は「~に沿って」という意味だ。つまりガラスのスイング・ドアを入ると、その向こうにも二枚のドアが待っている造りで、奥のドアを守るように受付用のデスクが置かれているのだろう。それが訳者によって「飾りのないデスク」になったり「大きな飾りのない机」になったりし、「デスクに座っていた」り、「デスクの前に座っていた」りするのだから可笑しい。マーロウの視点から見れば、黒髪の女はデスクの向こう側にある椅子に座っているのでないと変だ。

「私は肩書き抜きの名刺、隅に機関銃が描いてないやつを彼女の机に置いて」は<I put my plain card, the one without the tommy gun in the corner, on her desk>。清水訳は「私は固書きのついていない名刺を彼女のデスクにおいて」。田中訳も「私立探偵の肩書がついたのではなく、ふつうの名刺をエイドリン・フラムセットの机の上に置き」と<the one without the tommy gun in the corner>をカットしている。村上訳は「私は名前だけの名刺を彼女のデスクに置いた。隅っこに機関銃の絵が描かれていないやつだ」。

「交換台の子猫が時折立てる小さな話し声」は<the muted peep of the kitten at the PBX was audible at moments>。清水訳は「交換台の子ネコちゃんの視線がときどき私に向けられ」。村上訳は「電話交換台の子猫ちゃんがが時折こっそりこちらを覗き見する音まで、しっかり耳に届いた」。両氏とも<peep>を「覗き見」と解しているようだ。しかし、これは、「ひな鳥などがピーピー鳴く、ネズミがチューチュー鳴く、音」の方ではないか。因みに田中氏は「交換台の仔猫がちいさな声でしゃべるのが、時々きこえ」と訳している。