正直なところ、テリー・イーグルトンの名前は何度も目にしているが、書かれたものを読んだことがない。そんな人間がこの分厚い本をなぜ手にとってみようと思ったのか。理由は至極簡単、面白そうだったから。筒井康隆の『文学部唯野教授』でも紹介されているが、筒井が「印象批評」から「ポスト構造主義」にいたる主要な文学理論をネタに、あの小説が書けたのもイーグルトンが『文学とは何か』で先鞭をつけていたからだ。
もっともこの本、タイトルこそ似ているが、『文学とは何か』とちがってテリー・イーグルトン自身が書いたものではない。マシュー・ボーモントという十九世紀英文学を専門とする研究者によるインタヴューと、イーグルトンの回答を編集したものだ。そのぶん、たいへん読みやすくなっている。このマシュー・ボーモントというインタヴュアーが只者ではない。インタヴュー相手の書いたものに精通しているだけでなく、誤解されている部分についての弁明や言い足りないところの補足を促すような、実にいい質問を投げかけている。そのせいもあって、テリー・イーグルトンの方も、実に気持ちよく開けっぴろげな態度で応えている。それが読んでいて、こちらに伝わってくる。
副題に「イーグルトンすべてを語る」とあるが、実生活についてはほとんど触れられていない。インタヴュアーの関心は作品と発表当時の批評的関心に限られる。その中で例外的に語られているのは、少年時からケンブリッジ入学に至るまでの家庭の様子だ。ぶれないマルクス主義的批評家として知られるイーグルトンは、ソルフォード市に生まれる。両親はアイルランド移民の二世で典型的な労働者階級。家にはほとんど本などなく、古本のディケンズ全集を分割払いで買ってもらって読んだのが、読書体験の始まりというから、後の作家・批評家イーグルトンが、どこから出発しているかを知って驚いた。自分で買った最初の本はコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』。何だ、自分と同じじゃないか。
この状況から抜け出すには勉強して上に進むしかない。カトリック系のグラマースクールでその才能を認められ、ケンブリッジに進むことになる。ご存知のように上流階級の子弟が集まるケンブリッジでは、カトリックグラマースクール出身ということで居心地の悪い思いをしたようだ。カトリックの世界では制度習慣という観点からものを考えるのに対して、多数派のパブリックスクール出身者は個人主義的リベラル・ヒューマニストとして育っている。これが、ラディカルなカトリック系左翼としてのイーグルトンの立ち位置を決定づけたようだ。
自分でも語っているように、アルチュセールやロラン・バルト、デリダ、フーコーといったポスト構造主義他のそうそうたる論客の影響を次々と受けながらもカトリック系左翼であるという点は、ずっとぶれない。その点が、流行りの思想潮流を輸入しては蕩尽し、それが廃ればまた別の流行思想の旗を振るどこかの国の知識人たちとは徹底的に異なる。階級差というものが全くといってない日本のような国で育つのと、はっきりした階級意識の存在する英国のような国で生きるのとでは、人格なり思想の形成においてかなりちがいがあるのだと、この本を読んで強く感じた。
インタヴューは時代順に進んでいくので、自伝のようにも読めるのだが、ケンブリッジでは、ウェールズの労働者階級の出身者であるレイモンド・ウィリアムズに師事している。ケンブリッジにおける異端者であること以外にも、優れた才能と人格を持ったこの師であり友人でもあるレイモンドとの関係が心に残る。若さゆえの性急な批判を今となっては悔いるイーグルトンの言葉は胸に浸みる。
それと反対に、イーグルトンを批判する論客に対する舌鋒は実に鋭い。ノースロップ・フライが書いたイーグルトンの悪口やマーティン・エイミスの反イスラム的発言に寄せる批判文などを読むと論争好きといわれるイーグルトンの面目躍如たるものがある。
カトリックであることと、マルクス主義者であることが無矛盾で結びつくことが、いくら説明されてもなかなか腑に落ちないなど、すべてがよく解かるとは言いがたいのだが、話を端折ったり、韜晦趣味に逃げ込んだりしないイーグルトンの語りを直接に聞いているような気分に励まされ、あっという間に読み終えてしまった。読んでいて、たびたびわが身を振り返らされた。本を読んでいて、自分の生き方や思想的営為を問われるというのはかなり疲れる体験である。最近そのような経験をしたことがなかっただけに余計。しかし、それが「批評家の責務」(原題)というものなのかもしれない。
ベンヤミンは言う。「偉大な批評家は、自分自身の意見を披露するかわりに、自分の批評分析を基盤として、他の人びとが彼ら自身の意見を形成するよう仕向けることができる。またさらに、こうした批評家像のありようは、私的な性質の事柄に留まるべきでなく、可能な限り、客観的で戦略的な事柄であるべきだ。批評家について私たちが知るべきは、その批評家が何を支援しているかである。批評家はそれを私たちに告げるべきである」と。
まんま批評家イーグルトンについて述べているようではないか。最後に出版社に苦言を呈する。瑣末なことだが、脱字が多すぎる。一つや二つではない。青土社はちゃんと校正をしたのだろうか。良い本だと思うだけに残念だ。