marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『すべての火は火』フリオ・コルタサル

すべての火は火 (叢書アンデスの風)
ラテン・アメリカ文学と一口にいっても北は北米西海岸に接するメキシコから南は南極に近いアルゼンチンまで、人種、気候はもとより歴史、文化が異なるのは当然のこと。それを一括りにしてしまうのには無理があると思うようになったのは、コルタサルを読むようになってからだ。アルゼンチンという国は旧大陸からの移民によって創られた国である。首都ブエノスアイレスはパリを真似て建設された。世界三大オペラ劇場の一つが建ち、南米初の地下鉄が敷設されたのもパリへの憧憬あればこそ。エリート層によって主導されたアルゼンチン文学は高踏的、芸術的で、土着的な風俗よりもヨーロッパ世界を志向しているのは、ボルヘスを見たらよく分かる。紛れもなくラテン・アメリカに属していながら、腰より上の部分では西欧社会を生きるように運命づけられているのが、アルゼンチンの作家なのだ。

二つの世界を生きるという意味では、巻末に置かれた「もうひとつの空」が象徴的である。ブエノスアイレスに住む「僕」は、あやしげな店が犇めき合うグエメス・アーケードを歩き回るうちに、いつの間にかパリのヴィヴィアンヌ回廊に出てしまう。アーケード(回廊)がトンネルの働きをし、「僕」は二つの世界を往還しながら二人の女性と付き合い、現代の夏のブエノスアイレスとギロチンによる公開処刑が行われていた当時の冬のパリという異世界での二重生活を送ることになる。アルゼンチン人ならではの引き裂かれたアイデンティティーを濃厚に漂わせる一篇である。

表題作の「すべての火は火」もまた相異なる二つの世界が同時進行する。ひとつはローマの円形闘技場、剣闘士と総督夫人は恋仲であり、総督もそれを知っている。強敵のヌビア人剣闘士との死闘が今しも始まろうとしている。もうひとつは現代、パリのアパートの一室が舞台。不実な男に愛想を尽かした女は電話で自殺をほのめかすが、別の女といる男はまともに取り合わない。どちらも男女の三角関係が主題で二つの物語は相似形をなす。二つの糸が綯い合わされ一本の紐になるように、二つの物語が交互に語り継がれ、最後には一体化してしまう。はじめは段落ごとの交代だったものが、事態が緊迫感を増し始めると、文レベルの交代となってゆくのだが、ひとつの言葉やフレーズが異世界の橋渡しの契機となり、物語の進行はいささかも停滞しない。バルガス=リョサにも同様の手法を用いた作品があるが、あちらは長篇。短編でこの技法を駆使してみせるコルタサルはまさに短編の名手の名に相応しい。

他に六篇の作品を収めるが、いずれもコルタサルらしい技巧を凝らした粒揃いの傑作短篇ばかり。個人的にはパリ名物の渋滞をファンタジックに描いてみせた「南部高速道路」がおすすめ。大規模災害に見舞われたとき、人は連帯感を抱き、見知らぬ者同士が会話したり、食料や物資を融通しあったりするものだ。プジョー404に乗った技師は、ある日曜日の午後、南部高速道路を通ってパリに戻ろうとするところを渋滞につかまってしまう。なかなか収束しない渋滞に、はじめは苛立っていた人々が次々と起きる難題を解決するために協力して立ち向かうようになる様子をユーモアを交えて描いたもの。ただ、時間の進み方が尋常でない。渋滞の最中に季節が何度もかわるのだ。長引く事態にブラック・マーケットが生まれたり、調達屋が現れたり、最後には死人まで出るという戦時を思わせる状況下に、大江健三郎がかつて「広大な共生感」と呼んだような感情がそこに現出する。仲良くなったドーフィヌに乗った娘とのこれからの生活を夢見かける技師だったが、渋滞が解消されるに連れ、人々は…。

ことは渋滞に限らない。誰にでも覚えのある経験を、極限状態に追い詰めることで生まれる凝縮された感情のカタルシス。日常の中に非日常を奔出させるコルタサルの真骨頂。このなんともいえない結末の持ち味がたまらない。