marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『帝国の構造』柄谷行人

帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺
西にイスラム国が誕生し、北ではウクライナ・ロシア国境付近が不穏な動きを見せている。アメリカは、シリアに爆撃を決定し、ロシアはウクライナNATO入りを武力行使してでもやめさせようと躍起になっている。スコットランド連合王国から独立するための住民投票を実施し、独立の可能性が高まると、それに呼応するようにスペインではカタルーニャバスク地方独立の火花が上がる。まさに混沌とした世界情勢である。東欧の自由化、アラブの春の掛け声が騒がしかった頃に思い描いていた自由で平和な世界の到来は、淡雪のごとく消えてしまい、世界はまとまるどころか、ばらばらに粒状化し、隙あらば戦争状態に入ろうと、きな臭いにおいを漂わせはじめている。

それは日本をめぐる環境においても変わらない。安倍政権誕生以来、領土問題に端を発する中国との関係、同じく領土問題に加え、従軍慰安婦問題が関係をこじらせたままの韓国、と隣国との関係は冷え切っている。主権国家の独立が、それ自体価値を持つと信じられていた時代にあっては、予想もつかなかった事態に世界は突入しようとしている。このような時代を誰も予想していなかった。あのマルクスでさえも。では、なぜマルクスはまちがったのか。

『世界史の構造』以来、柄谷が提唱するのは、世界史を読み解く鍵として、マルクスのように「生産様式」を用いるのでなく、柄谷の発案した「交換様式」を採用すればいい、というものだ。マルクスのいう「生産様式」では、アジアは、生産手段を共有化するということで一括りにされ、原始共産社会のままで停滞した社会としてしか見られない。一方、「交換様式」という解析格子を適用すれば、アジアにも、いやアジアにしか見られない「世界史の構造」が見られるというものだ。

『帝国の構造』は、ギリシアにおけるイソノミアを扱った『哲学の起源』に続き、『世界史の構造』で言い足りなかった点を補説するものとして構想された。その名の通り、「帝国」に焦点を当てた内容となっている。近代国家の誕生は、旧帝国の崩壊を契機としている。それゆえに近代国家において、「帝国」は評判が悪い。しかし、フランシス・フクヤマが『歴史の終焉』と名づけた、資本主義のグローバリゼーションによる世界の安定は、一時的なものであり、それ以後の世界情勢は次々と見舞われる危機的状況にあえいでいる。柄谷によれば、世界は90年代から何ら変わっていない。世界は、いまだに資本=ネーション=国家というシステムの上に乗っかっているからだ。

柄谷が言うには、社会構成体は単独では存在せず、他の社会構成体との関係つまり「世界システム」において存在する。その四つの段階を交換様式との関係で述べると以下のようになる。第一、交換様式A(互酬)によって形成されるミニ世界システム、第二、交換様式B(略奪と再分配)による世界=帝国、第三、交換様式C(商品交換)による世界=経済(近代世界システム)、それにカントが「世界共和国」と呼んだ交換様式Dによる世界システムである。

それによれば、資本=ネーション=国家は近代世界システムである。実は交換可能な概念がまるで必然でもあるかのように三位一体の構造をなしているところに、近代世界ステムの問題がある。いちど、それを解きほぐし、新しい目で世界を見て見れば解決策はある、それは交換様式A(互酬)を高次元で回復した交換様式Dによる「世界共和国」であるというのが、柄谷の主張である。その主張はいつもながらの預言者めいた、ありえない未来を語るもので、現実離れしているのだが、それを解説するために持ち出した「帝国」擁護論が目新しい。特に、中国の学生に対する講義を基にした論考なので、中国の王朝史を帝国の歴史として読み替えるあたりの説得力はなかなかのものである。

主権国家ありき、という目線で世界に接する限り、目下の情況が好転することはまずありえない。それは誰にでもわかることで、未来への展望が開けない状況が、各国の疑心暗鬼を助長し、刹那的な祖国防衛、民族自決主義に奔らせている。旧帝国を専制国家としてではなく、宗教に対する寛容さ、周辺国の独自性の保障、多民族、多文化の共生、といった観点から見ることで、それを高次に回復することは可能ではないか、という提言と見れば、耳を貸すこともできよう。

副題の「中心・周辺・亜周辺」というキイ・ワードは、最終章「亜周辺としての日本」を語るためにも重要な概念である。日本が、中国という巨大な帝国の中にありながら、なにゆえ独自の発展を成し遂げたか、という所以を、海によって切り離された「亜周辺」であったことがその要因であったことを論証する過程は、少々大雑把に過ぎる気もするが、そういう細かなことには目もくれず、自分の思いつきをぐいぐいと引っ張ってゆくように読ませる柄谷の文章は好感が持てる。

日本のクオリティー・ペーパーである朝日新聞の相つぐ誤報問題に頭を悩ませておられる良識ある読者に、長年、マルクスフロイト、カントを読み続け、自家薬籠中のものとし、今度は、アウグスティヌスの『神の国』まで引っ張り出し、力業で世界を解釈しなおそうとする柄谷の仕事は、巨視的な視点から世界の歴史を見ることの爽快さを味わわせてくれるのではないかと愚考する。