『バット・ビューティフル』の「あとがき」でジェフ・ダイヤーが誉めていたので、どんな本だろうと思って読んでみた。何人ものジャズ・ミュージシャンの人生の一場面を「想像的批評」という方法で活写した本の書き手が称揚するだけに、かろうじて写真一枚を残すだけで、演奏の録音すらないジャズ史に残る伝説的なコルネット奏者の数奇な半生を、短い断章を駆使したコラージュ風のタッチで鮮やかに切り取ってみせる。書いたのは、映画『イングリッシュ・ペイシェント』(イギリス人の患者)の原作者マイケル・オンダーチェ。惹句にはドキュメント・ノヴェルなどという耳慣れない言葉が使われているが、実在の人物を素材にしたこれは、紛れもない小説である。
バディ・ボールデンは1877年生まれ。19世紀末から20世紀初頭にかけてニューオリーンズ・ジャズの最高のコルネット奏者として君臨。ジャズというスタイルの創出に重要な役割をはたしたが、三十歳のときに精神に異常をきたし、後半生を精神病院で送る、と「訳者あとがき」にある。とてつもなく大きな音が出せたという伝説が残っている。唇が傷むのもかまわず高音を吹き続けたとも。エキセントリックなミュージシャンだったのだろう。
ダイヤーがミュージシャンのポートレートを見た印象からストーリーを紡いで見せたように、現地を訪れたマイケル・オンダーチェは、知人にインタビューし、残されたわずかな資料を探して歩くうち、人物が「憑依」するのに気づく。探偵がその日の捜査で得た結果を手帳にメモするように、短い断章形式で書きとめた記述の合間合間に、バディ・ボールデン本人が立ち現われてくる。無論、作家の想像である。小説だというのはその意味だ。作家的資質の持ち主にかかれば、いくら事実をもとにして書かれようが、書かれた物は限りなく虚構に近づいていくのは避けられない。むしろ読者にとっては、その方がありがたいくらいのものだ。
昼間は床屋で働きながら、耳に入ってくる醜聞をネタにしたゴシップ新聞を発行し、夜はクラブでコルネットを吹いていた。彼を贔屓にする顔役が毎日届けてよこすアルコールが回ってくると狂気を帯びた剃刀が怖くて顔見知りは午後には髭を剃らせなかったなどという話も、後半生を知る者にはうなづける挿話だ。娼婦上がりのノーラを妻にしたのはいいが、妻は町一番の色男と手が切れない。バディの方もミュージシャン仲間の妻に魅かれ、二つの頂点が重なる三角関係が生じる。挙句が刃傷沙汰に次ぐ失踪事件だ。
何も知らずに手にとった読者なら、この本は探偵小説だと思うだろう。今は警官をやっているウェッブが、失踪した旧い友人のバディを捜し歩くという体裁をとっているからだ。作家はウェッブの眼を借りて、ニューオリーンズの街をバディを捜して歩く。梅毒を病んで娼館を追い出され、商売道具のマットレスを背に歩道に立つ娼婦たちは棒を手にした淫売狩りのポン引きに見つかると足首を潰される。ジャズの本だと思って読んでいると、とんだまちがいだ。酒と娼婦と音楽がまだ混沌としていた時代のニューオリーンズにいつのまにか迷い込んでしまっている。
伝説となったジャズ・ミュージシャンの末路はいつも何故か嘘寂しい。バディに憑依した作家が描き出す荒涼とした精神病院の風景、密閉された空間でおおっぴらに行われるレイプを含め、精神を病んだバディが見つめる自分とそれを取り巻く世界の描写がリアルで背筋が寒くなる。人が毀れてしまうには、それなりの理由があるのだろうが、当事者にとって納得できる何ものもそこにはない。よくできたハード・ボイルド小説を読んだ後のような、空しさと静かな余韻がいつまでも残る。