主人公は三十六歳の画家。今は復縁しているが、五年前に突然妻から離婚を切り出されたことがある。あなたとはもう暮らせない、と言われたのだ。家を出るという妻に、自分の方が出ていくと告げ、愛車のプジョー205に当座の荷物だけを積みこむと、そのまま北に向けて走り出した。東北、北海道をさすらうようにして宮城に着いたところで車が壊れた。電車で東京に戻り、友人の雨田政彦に電話し、住むところを紹介してもらった。小田原の山中にある、政彦の父で画家の雨田具彦の家である。
具彦は山の上にある一軒家にこもって絵を描いていたが、今は認知症が進み、施設で暮らしている。空き家のままでは物騒で、「私」は番人代わりに格安で宿を提供される。しかも、政彦の紹介で市内の絵画教室の教師の職も得、何とか暮らしの目途もついた。そんなある夜、屋根裏で物音がする。明るくなってから天井裏を調べると梁にミミズクがいた。それともう一つ見つかった物がある。丁寧に梱包された絵だ。紐に付された名札には「騎士団長殺し」と記されていた。
雨田具彦は元は洋画家だが、留学先のウィーンから帰国後、突然日本画を描き出した。理由は不明だが、余白を生かした空間に飛鳥時代の人物を配置した絵は高い評価を得た。見つかった絵は、未発表のもので画家は誰にも見せる気がなく、秘匿していたもののようだ。画題は題名からモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に想を得たものと分かる。騎士団長(コメンダントーレ)がドン・ジョヴァンニに刺された直後を描いたものらしく、騎士団長の白衣には血が滲み、ドン・ジョヴァンニの恋人であるドンナ・アンナの驚く姿も見える。ただ服装は日本の古代の装束に変えられている。画家の代表作と言っていい傑作である。
その絵を見つけてからというもの、おかしなことが起きるようになる。深夜になると外で鈴の音が聞こえるのだ。それも敷地内にある祠のあたりから。祠の裏にはススキの茂みがあり、よく見ると塚のようなものがあった。一人で調べるのも気が引けたので、知りあったばかりの免色という男に話して協力を得る。IT関連で財をなした男で、早速手を回して業者と重機を手配し、蓋になっていた岩を持ち上げた。石の下には深さ三メートルほどの穴が隠されており、中には仏具の鈴が残されていたが、人のいた気配はなかった。
持ち帰った鈴はスタジオに置いた。すると今度は家の中で鈴が鳴る。恐る恐るスタジオの扉を開ける、とそこに騎士団長がいた。身長六十センチほどで絵の中から抜け出てきたなりをして。「ない」というところを「あらない」と奇妙な日本語を使うその男は本人の言葉を借りると「イデア」だそうだ。今は「形式化」していて、格好は主人公の頭の中にある騎士団長の姿を借りたのだという。いわば「私」の「心の眼」だけに写っているわけだ。現実界では長くこの姿でいることはできず、一定時間がたつと消えてしまう。
このイデアとの遭遇以来、主人公の絵は変化を遂げる。それまでも肖像画家としての技量は人に優れていたが、今ではモデルの外見ではなく本質を描き出すまでになった。免色に依頼された肖像画も傑作で、高額で買い取られて屋敷に飾られる。その上で免色はもう一枚絵を依頼する。「私」の絵画教室に通う十二歳の少女の絵だ。まりえという少女は、免色の愛した女の忘れ形見であるだけでなく、もしかしたら自分の血を引いているかもしれない、という。死んだ自分の妹に似たまりえは、日曜日になるとやってきた。教室では無口だったが、二人きりになるとよくしゃべった。
その絵もほぼ完成しかけたころ、ことは起きた。まりえの行方が分からなくなったのだ。騎士団長は、明日電話がかかり、何かを頼まれるが、それを断ってはいけないという。それがまりえの行方を知る手がかりだからだ。電話の主は政彦で、父の具合が悪いので見舞いに行くが一緒に行くか?というものだ。前々から具彦に会いたかった「私」はもちろん承知する。翌日、ベッドに横たわったままの具彦と「私」が二人きりになると、姿を現した騎士団長がここで自分を刺せ、と命じる。それがまりえを探す切り札だった。躊躇した「私」だったが、まりえのためと思い定め、言われたとおりにすると、不思議なことが起きる。
「私」は、具彦の部屋ではない薄暗いところにいた。そこは「メタファー」の世界だった。ところで、突然出てきたこの「メタファー」、修辞学で言えば隠喩である。それにとどまらず視覚表現などにも適用され、近頃では「空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきている」らしい。村上春樹をあまり読んだことがないので、よく知らないのだが、こんな小難しい理論を小説の中に持ち込むような作家だったか?
ここからはまったく「冥界下り」。ル=グウィンの『ゲド戦記』に描かれているような灰色の世界が延々続く。それまで読んできた現実的な世界から突然放り出され、霧に包まれた茫漠たる世界や三途の川を思わせる川、富士の風穴にあるような横穴などの中を「私」は一人で歩いていかなければならない。しかも、そこには「二重のメタファー」と呼ばれる恐ろしい存在がいて、「私」が動けなくなるのを待っている。必死で頼りとなる記憶をたどろうとする「私」だが、しだいにそれもままならなくなる。すると穴は狭まり、「私」は身動きが取れなくなる。まるで母親の子宮の中にいる胎児のようだ。
冒頭にあるように、結果として「私」は生還し、離婚していた妻と元の鞘に収まる。まりえがどこにいたのかもその口から説明される。めでたし、めでたしとなるわけだが、いったいこれはどういう小説なのだろう。ミステリめいた謎も多く解決されずにそのまま放置されている。妻にそのことを言うと(実はこれは妻が貸してくれたのだ。妻は村上春樹をよく読んでいる)「続編があるんじゃないの?」とあっさり言った。えっ、そうなの。これで終わりというのではないのか?そういえば、上・下じゃなかったなあ、と思い出した。第一部、第二部になっている。ひょっとしたら第三部が書かれたりすることもあるわけか?あるかもしれない。前にもそんなことがあった。
というわけで、ここまでで分かったことをちょっとだけまとめておく。これはユング心理学でいう「死と再生」を主題とした小説だ。村上春樹は河合隼雄と親しく、ユング心理学について対談もしている。「私」は実は一度死んだのだ。といっても、肉体的にはそのまま存在していた。ご丁寧なことに村上春樹らしく律儀にセックスまでしている。しかし、ユズという伴侶を失ったことは「私」が考える以上に彼を深く傷つけ、回復不可能なところまで追いつめていたのだ。彼はもう、一度死ぬしかなかった。
雨田具彦も一度死んだのだろう。愛する女性をオーストリアに残し、自分ひとり強制帰国させられた時点で。しかし、そのままでは死ねなかった。自分の身代わりのように南京に出征した弟が、ピアノを弾く繊細な手に剣を握らされ、中国人を虐殺するよう命じられ、帰国後自殺したからだ。その具彦が描いたのが「騎士団長殺し」の絵だ。考えてみると、この小説の登場人物のほとんどが、愛する人をなくして深い喪失感に耐えている。
免色はまりえを見るためだけに、大金を払って向かい合う山の上に建つ家を購入し、今でもまりえの母の衣服を鍵のかかった部屋にしまいこんでいる。まりえも幼い頃に母を失ったままだ。父は喪失に耐え兼ねて宗教に走り、娘を顧みることはない。肉体だけを残して魂が死にかけていた「私」は、何故かこれらの人に引きつけられるように小田原に来て、九か月間暮らした。これらの人々は「地下の通路」で結ばれているのだ。
思うに、「私」はまだ一人で死ぬだけの確かな自我を持っていなかったのだろう。謎の多い免色という人物や、妹を思い出させるまりえという導き手によって、象徴的な死を経験することができた。なにより、雨田具彦という先達が描いた「騎士団長殺し」という絵の存在が大きい。騎士団長のなりをした「イデア」がいなかったら、「私」はどうなっていたのだろう。一度死をくぐり抜けたことで、「私」はひとつ成長を遂げた。画家として対象の本質をつかむところまで行きながら、元の肖像画家として生きてゆくことを選んだ「私」。いつか、あの「白いスバル・フォレスターの男」の絵を完成させることはあるのだろうか?妻ではないが、続編を期待したい。