marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第十五章(1)

<the dickens>は<the devil>と同じで「一体全体、どうして」

【訳文】

 アルテア・ストリートの交差点を過ぎて交差道路に入り、渓谷の端で行き止まりになっている、歩道と白い木の柵に囲まれた半円形の駐車場に行き着いた。しばらくの間、車の中に座り、考え事に耽りながら海を眺め、海に向かって落ちていく青灰色の山裾に見とれていた。レイヴァリーをどう扱うか考えあぐねていたのだ。下手に出るか、それとも問答無用で容赦なく問い詰めるか。下から出てもこちらに損はない。もしそれが役に立たなかったら――役に立つとは思わなかったが――事の成り行き次第で、家具の一つや二つは壊れることになるかもしれない。
 海を見下ろすように建つ家々の下、山腹の中ほどを走る舗装された細道に人影はなかった。その下の隣の丘の中腹を走る通りでは二人の子どもが斜面に向かってブーメランを投げ上げ、例によって肘で小突き合い、互いに罵り合いながら追いかけていた。さらに下の方に、木立ちと赤煉瓦の壁に囲まれた家があった。裏庭の物干しロープに洗濯物がぶら下がっているのがちらっと見え、屋根の斜面で二羽の鳩が勿体ぶって頭を上げ下げしていた。青と黄褐色に塗られたバスが通りをやってきて煉瓦造りの家の前で停まり、かなり年寄りの男がゆっくりと用心して降りてきて、すっくと腰を伸ばし、重そうな杖で地面をトントン叩いてから、もと来た方に坂道を上り始めた。
 大気は昨日より澄んでいた。平穏そのものといった朝だ。私は車をそこに残してアルテア・ストリート、六ニ三番地まで歩きだした。
 正面の窓は内側にベネチアン・ブラインドが下ろされて、家は眠っているようだった。苔を跨いで呼鈴を鳴らした。ドアは完全に閉まっていなかった。どこのドアでもそうだが、重さのせいで枠の上に落ちかけ、スプリング錠のラッチボルトは受け座の下端にやっと掛かっている有様だ。昨日ここを出るとき、ドアが言うことをきかなかったのを思い出した。
 少し押したら、カチッと音がしてドアが内側に開いた。部屋の奥は薄暗かったが、西の窓からは光りが差し込んでいた。呼鈴には返事がなかった。もう一度鳴らしはしなかった。それからドアを押してもう少し広く開け、中に踏み込んだ。
 静まり返った部屋は生温かい匂いがした。朝遅くなるまで開けられない部屋の匂いだ。ダヴェンポート脇の丸テーブルの上のVAT69のボトルはほとんど空いていた。その傍に別の手つかずのボトルが控えていた。銅の氷入れには底に水が溜まっていた。グラスが二つ使われて、サイフォンに炭酸水が半分ばかり残っていた。
 はじめに見た時のようにドアを戻し、そこに立って耳を澄ました。もしレイヴァリーが留守なら、家探しするのにいい機会だ。たいして知りもしなかったが、もし見つかっても、おそらく警察に電話するのを控えさせるくらいのネタは隠れていそうだった。
 沈黙の裡に時は過ぎて行った。聞こえてくるのは、炉棚の電気時計のブーンという乾いた音、遠くアスター・ドライブから聞こえる車の警笛、渓谷を横切って丘の上を飛ぶ飛行機の蜂の羽音めいた音、出し抜けに作動する台所の電気冷蔵庫の立てる唸り声だけだ。
 私はさらに部屋の奥に進み、立って覗き込んだが、家につきものの音が聞こえるだけで、人のいる気配はなかった。それで、敷物の上を奥のアーチ型入口の方に歩き出した。
 アーチ型入口の端から下におりる階段の白い金属の手摺りの上に、手袋をはめた手が現れて、止まった。
 手が動いて女物の帽子が現れ、続いて女の頭が現れた。女は静かに階段を上がった。階段を上りきって向きを変え、アーチの下を抜けても、まだ私に気がついていないようだ。痩せた女で歳ははっきりしない。だらしない茶色の髪、真っ赤に塗りたくられた口、頬紅もアイシャドウも濃すぎる。青いツイードのスーツを着ていたが、頭の横に全力でぶら下がっている紫の帽子を合わせると、何と評していいものやら分からなかった。
 女は私を見ても止まりもせず、表情も変えなかった。ゆっくり部屋の中に入ってきて、握った右手を体から離した。左手は手すりの上ですでに見た茶色の手袋をはめていた。それと対になる右手の手袋は小型オートマチックの銃把に巻き付いていた。
 女は立ち止まり、からだを後ろに反らせ、短く苦しそうな声を出した。それから、くすくす笑った。甲高い神経質な笑い声だ。私に銃を向けたままどんどん近づいてくる。
 私は銃から目を離さず、悲鳴もあげなかった。
 女は近寄ってきた。内緒話ができるくらい傍によると、私の腹に銃口を向けて言った。
「欲しいのは家賃だけ。部屋は大事に使われているようね。何も壊れていない。あの人はいつもきちんとしている、几帳面な店子よ。私としては、家賃を滞納してほしくないだけ」
 緊張の抜けきらない不幸せな声の男が丁寧に言った。「どれくらい滞ってるんです?」
「三か月」彼女は言った。「二百四十ドル。これだけの家具付きの部屋で、八十ドルという家賃はとってもリーズナブル。滞納は前にもあったけど、その都度、払ってくれた。今朝、小切手を約束してくれていたの。電話でね。あの人は今朝私に払うと約束してくれたわけ」
「電話でね」私は言った。「今朝?」
 私は目立たないように足を少し動かした。狙いは、銃を手で払えるところまで近づき、銃口をそらせ、もとに戻る前に素早く飛び込むことだ。今まであまり成功したことのないテクニックだが、いつかは試みるべきだ。今がその時のように思えた。
 六インチほど稼いだが、ファーストダウンには足りなかった。私は言った。「あなたが家主ですか?」銃の方には目をやらなかった。ひょっとしたら私に銃を向けていることに気づいていないのでは、という淡い、非常に淡い期待を抱いていた。
「もちろんよ、ミセス・フォールブルック。私を誰だと思ってるの?」
「やっぱり、そうじゃないかと思ってたんですよ」私は言った。「家賃や何かのことをお話しされてたんで。でもお名前を知らなかったんです」もう八インチ。滑らかな動きだ。無駄にしちゃ勿体ない。
「お聞きしてもいいかしら、どちら様?」
「車の支払いののことで伺いました」私は言った。「ちょっとだけドアが開いてたんで、どういうちょっと覗いてみた。それだけのことです」
 私は車の支払いの件で金融会社から来た者のような顔をして見せた。それなりに手ごわいが、金さえ貰えれば、ありったけの笑顔になる用意のある顔だ。
「ミスタ・レイヴァリーは車の支払いも滞っていたというの?」彼女は心配そうに訊いた。
「少しだけ。大した額じゃありません」私はなだめるように言った。
 準備は整った。距離は稼いだ。要は速くやることだ。銃を内から外にきれいにさっと薙ぎ払うだけでいい。私は敷物から足を出しかけた。
「ねえ」彼女は言った。「この銃、変なのよ。階段で見つけたんだけど、油でべとべとなの。階段の敷物はとても素敵なグレイのシェニール織り。高いのよ」
 そして女は銃を私に手渡した。

【解説】

「アルテア・ストリートの交差点を過ぎて交差道路に入り、渓谷の端で行き止まりになっている、歩道と白い木の柵に囲まれた半円形の駐車場に行き着いた」は<I drove past the intersection of Altair Street to where the cross street continued to the edge of the canyon and ended in a semi-circular parking place with a sidewalk and a white wooden guard fence around it>。

清水訳は「私はアルテア通りの十字路を通りすぎて、道路が崖のふちまで続いて、半円形の駐車場で終わっているところまで車を走らせた。そこには歩道と白く塗られた木の柵があった」。田中訳は「おれは、レヴリイの家があるアルテア・ストリートの角をとおりすぎ、まつすぐすすんで、絶壁のふちの、まわりが白い木の柵と歩道になつている、半円形の駐車場までやつてきた」。

両氏の訳ではマーロウは<the cross street>に入っていない。清水氏も田中氏もアルテア・ストリートと<the cross street>を同一視しているようだが、<the cross street>とは「大通りと交差している交差道路」のことで、<the intersection of Altair Street >(アルテア・ストリートの交差点)を過ぎた<to where the cross street>(ところにある交差道路)が、<continued to the edge of the canyon and ended>(渓谷の端で行き止まりになっている)のだ。

村上訳は「アルテア・ストリートの交差点を越えた。そこから横手の道路に入ると、道路は渓谷の端で行き止まりになり、歩道のついた半円形の駐車スペースになっている。まわりは白く塗られた木の柵で囲まれている」。原文は一文。清水訳が二文、田中訳が一文であるのに対し、村上訳は三つの文になっている。村上氏はあまり気にしていないようだが、一文で訳せるのに、三つに切るのは、少々気になる。

「下手に出るか、それとも問答無用で容赦なく問い詰めるか」は<with a feather or go on using the back of my hand and edge of my tongue>。清水訳は「ソフトなタッチで対するべきか、手の甲を用い、舌の端で鋭くせまるべきか」。田中訳は「下からでるか、手の甲でひつぱたくか、それとも口でやりこめるか」。村上訳は「優しく羽根を用いるべきか、それとも手の甲やら鋭い舌先やらを活用するべきか」。

腕力に頼る場合にわざわざ「手の甲」を使うだろうか。手の甲でひっぱたくのは相手を侮蔑するやり方である。<the back of one's hand>には相手に対する「非難、拒絶、軽蔑」の意がある。羽根でくすぐるような手ぬるいやり方でなく、はなから相手を拒否してかかる、という意味だろう。

「青と黄褐色に塗られたバスが通りをやってきて」は<A blue and tan bus trundled along the street>。清水訳は「ブルーと焦げ茶色のバスが車体をゆすって走ってきて」。田中訳は「青と茶にペンキを塗つたバスが、(赤レンガの家の前の道を)のろのろすすんでいき」。ところが、村上訳は「白と褐色のバスが道路をゆっくりとやってきて」と勝手に色を変えてしまっている。凡ミスだろうが、校正の段階で気づくべきところだ。

「どこのドアでもそうだが、重さのせいで枠の上に落ちかけ、スプリング錠のラッチボルトは受け座の下端にやっと掛かっている有様だ」は<It had dropped in its frame, as most of our doors do, and the spring bolt hung a little on the lower edge of the lock plate>。原文は簡単に書かれているが、そのまま訳しても意味が伝わりにくいだろう。<spring bolt>は「スプリング錠のラッチボルト」のことだ。ちなみに、ラッチボルトとは、ドアの部品のひとつであり、先端が三角形になっているボルトのことをいう。

清水訳は「ドアが古くなるとよくあるように蝶つがい(傍点三字)がゆるんで錠がきちんと降りないのだった」。田中訳は「どこの家でもたいていそうだが、このドアも下のほうがさがっている。スプリングの留金は、鍵穴があるプレートのはしのところだ」。村上訳は「それはドアがおおむねそうであるように、フレームの中に収まっていた。しかし、バネ付きのボルトは、鍵プレートの下の縁に少しかかっているだけだ」。

村上訳だが、これでは、(普通の)ドアが「おおむねそうであるようにフレームの中に収まっている」のだから、何ら問題がないように読める。そうではなく、(古い)ドアの多くがそうであるように、それ自体の重さでドア枠の上に落ち、ラッチボルトと受け座のある位置にズレが生じて、ドアが完全に閉まらない状態になっているのだ。村上訳ではそこのところが分からない。

「青いツイードのスーツを着ていたが、頭の横に全力でぶら下がっている紫の帽子を合わせると、何と評していいものやら分からなかった」は<She wore a blue tweed suit that looked like the dickens with the purple hat that was doing its best to hang on to the side of her head>。<the dickens>は、やや古い表現で「驚き、婉曲的な悪口」を表す。<the devil>と同じ。「一体全体、どうして」というような言い方。

清水訳は「青いツイードのスーツをだらしなく着て、紫色の帽子が頭の横っちょでいまにも落ちそうになっていた」と無難な訳に収まっている。田中訳は「女は青のツイードのスーツを着て、紫色の帽子を、ななめに、いやにしやれてかぶつているが、なにか魔女みたいだった」と<devil>を「魔女」に変えている。村上訳は「ブルーのツイードのスーツを着ていたが、それはどう見ても紫色の帽子とは似合っていなかった。そして帽子はかろうじて、頭の片側にしがみついているような有様だった」と、婉曲的な悪口になっている。

「内緒話ができるくらい傍によると、私の腹に銃口を向けて言った」は<When she was close enough to be confidential she pointed the gun at my stomach and said>。清水訳は「充分近づいたことを確かめて、拳銃を私の腹につきつけて、いった」。田中訳は「ちいさな声で言つてもわかる距離までくると。ピストルをおれのどてつ腹にむけ、口をひらいた」。村上訳は「その銃口が間違いなく私の腹に向けられているとはっきりわかるくらい近くに寄り、そして言った」だが、<confidential>(内緒話を打ち明ける)は、どこへ行ってしまったのだろう。

「六インチほど稼いだが、ファーストダウンには足りなかった」は<I made about six inches, but not nearly enough for a first down>。<first down>はアメリカン・フットボールの用語で四回の攻撃で十ヤードを奪えば、新たに得られる攻撃権をいう。奪えなければ相手側の攻撃に変わる。アメリカ人には解説不要だが、日本ではまだ難しいかもしれない。

清水訳は「六インチほど近づいたが、まだ距離がありすぎた」。田中訳は「六インチぐらいは、足をうごかすことができた。だが、まだ、むりだ」。村上訳は「十五センチほど身体を動かした。しかし初回の試み(ファーストダウン)として満足のいく距離ではなかった」。一貫性を大事にする村上氏としてはこうするほかはないのだろうが、アメフト用語でルビを振りながら、メートル法の表記というのは野暮だろう。