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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

「帰るう」

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暑くなってきた。夏毛に生え変わる時期だからか、ニコの抜け毛がすごい。毎朝夕櫛で梳いても、もくらもくらと毛がついてくる。我が家に来たばかりのころは、さわられるのが嫌で、よく逃げられたものだが、最近は櫛を入れると、グルグルと喉を鳴らす。

冬から春にかけて、妻のベッドに上がってきていたニコだが、さすがにここのところの暑さで、ベッドに来なくなっていた。ところが、ここ何日かは朝晩、少し寒いくらいで、昨日も今日も、ニコがベッドに上がってきた。

妻は喜んだが、今日はトリミングの日だ。せっかく一緒に寝ようとベッドに上がったニコを泣く泣くキャリーに入れて、トリミングに向かった。ニコに限らず一般に猫は車に乗るのが嫌い。この日も車が動き出すと泣き出した。

あやしていた妻が言った。

「ねえ、この子『帰るう、帰るう』って鳴いてる」

耳をすますと、なるほどそう聞こえないでもない。

鳴き声は可愛いのに、ふだんはめったに鳴かない。泣くのはきまってペット・クリニックに行く日。トリミングはクリニックに併設されているので、ニコには行き先がトリミングなのか、病院なのかは分からない。

昨日、ダイニングの窓に上ろうとして、足を滑らせたばかりだ。肉球の周りの毛がのびてきて前足の踏ん張りがきかないのだ。抜け毛も多いし、シャンプーとカットは嫌いじゃないはず。話しかける妻の声の調子で、病院じゃないことも賢いニコなら分かるように思うが、車に乗ることがパニックで、それどころじゃなくなるらしい。

病院といえば、検査の結果、ストラバイトの方はよくなっているらしい。しばらくは療法食を続けなければならないが、逆にいえば、薬は飲まなくていいということだ。このまま完治してほしいものだ。

トリミングから帰ってきたニコは元気そのもの。現金なもので、同じ車なのに帰りはあまり鳴かない。鳴いても「ニャン」と短い。とすると、往きのあれは、やはり「帰るう、帰るう」だったのだろうか。猫後の翻訳アプリができたらスマホに替えてもいいと真剣に考えているところだ。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(2)

18-2

【訳文】

《縞のヴェストに金ボタンの男がドアを開けた。頭を下げ、私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ。男の後ろの薄暗がりに、折り目を利かせた縞のズボンに黒い上着を着て、ウィング・カラーにグレイ・ストライプ・タイをしめた男がいた。白髪混じりの頭を半インチばかり下げて言った。「ミスタ・マーロウでいらっしゃいますね? どうぞこちらへ」
 我々は廊下を歩いた。たいそう静かな廊下だった。蠅一匹飛んでいない。床には東洋の絨毯が敷きつめられ、壁に沿って絵が並んでいた。角を曲がるとまた廊下が続いていた。フレンチ・ウィンドウの遥か彼方で青い水がきらりと光った。危ういところで思い出した。我々は太平洋の近くにいて、この家は渓谷のどこかの縁に建っていたのだ。
 執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した。快適な部屋だった。大きなチェスターフィールド・ソファと淡黄色の革張りのラウンジ・チェアが暖炉を囲むように置かれ、艶やかだが滑りにくい床に、絹のように薄く、イソップの伯母さんのように年季の入った敷物が敷いてある。きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった。壁紙はくすんだ色の羊皮紙だった。そこには安らぎ、ゆとり、心地よさがあり、極めて現代的な味わいと、かなり古風な味わいが各々ほんの少しだけ加味されていた。そして口を噤んだ三人の人物が、床を横切る私を見ていた。
 うち一人はアン・リオーダンだった。最後に見たときと変わりなかった。琥珀色した液体の入ったグラスを手にしていることを除けば。一人は背の高い痩せて陰気な顔をした男で、石のような顎に窪んだ眼をし、不健康な土気色のほかには顔に色というものがなかった。六十代は優に超えていようが、優にというより寧ろ、劣化した六十代だった。暗い色のビジネス・スーツに赤いカーネーションを挿し、塞ぎ込んでいるように見えた。
  三人目はブロンドの女で、薄い緑がかった青の外出着を着ていた。服装に特に注意は払わなかった。どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった。その服には彼女をより若く見せ、ラピス・ラズリの瞳をひときわ青く見せる効果があった。髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた。肢体はこれ以上誰にも手が出せない曲線一式を備えていた。ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい。小さいとは言えない手は良い形をしていて、よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた。マゼンタに近い赤紫だ。私に微笑みかけていた。気軽に微笑んだように見えたが、視線は外さず、まるで時間をかけ慎重に熟慮中といったところだ。口は、官能的だった。
「ようこそおいでくださいました」彼女は言った。「こちらは夫です。ミスタ・マーロウに飲み物を作ってあげて、あなた」
 グレイル氏は私と握手した。手は冷たく少しじっとりしていた。悲しげな眼だった。彼はスコッチ・アンド・ソーダを作り、私に手渡した。
 それが終わると黙って隅の椅子に腰を下ろした。私は半分ほど口をつけミス・リオーダンに笑いかけた。彼女は上の空だった。まるで別の手がかりを見つけでもしたように。
「私たちのために何かできるとお考え?」ブロンドの女はグラスの中を見下ろしながら、ゆっくり訊いた。「できるとお考えでしたら、喜んで。でも、これ以上ギャングや不愉快な連中と揉めるようなら、被害は忘れてもいいくらい」
「その辺の事情は不案内でして」私は言った。
「そこを何とか、お願いします」彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた。
 残りの半分を飲み干し、気分がほぐれかけてきた。ミセス・グレイルが革のチェスターフィールドの肘掛けにセットされたベルを押すと給仕人(フットマン)が入ってきた。彼女はトレイのあたりを適当に指さした。彼はあたりを見まわして飲物を二杯つくった。ミス・リオーダンは借りてきた猫のように同じ物を手にしたままで、ミスタ・グレイルは酒を飲まないようだ。フットマンは出て行った。
 ミセス・グレイルと私はグラスを手にした。ミセス・グレイルは少々ぞんざいなやり方で脚を組んだ。
「私に何かできるのか」私は言った。「怪しいものです。いったい何に手をつけたらいいのやら?」
「あなたなら大丈夫」彼女はまた別の微笑みを投げてよこした。「リン・マリオットは、どこまであなたに話したの?」
 彼女はミス・リオーダンの方を横目で見た。その視線にミス・リオーダンは気づかなかった。そのまま座り続けていた。彼女は別の方を横目で見た。ミセス・グレイルは夫の方を見た。「ねえ、あなたが、この件で気に病む必要があって?」
 ミスタ・グレイルは立ち上がって、お会いできて何よりでした。気分が優れないので、少し横になることをお許し願いたい、と言った。非常に礼儀正しかったので、謝意を表するために抱きかかえて部屋から出したくなったくらいだった。
 彼は去った。ドアをそっと閉めて。まるで眠っている人を起こすのを怖れてでもいるかのように。ミセス・グレイルはしばらくドアの方を見ていたが、やがて顔に微笑みを置き直しこちらを見た。
「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」
「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」
「なるほど」彼女は一口か二口啜ってからグラスの酒を一息に飲み干し、脇に置いた。》

【解説】

「私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ」は<took my hat and was through for the day>。清水氏は後半部分をカットしている。<be through for the day>は「今日の仕事は終わり」という意味だ。村上訳は「この男の仕事はそれで終わりだった」。金持ちの家では玄関扉を開け、客を迎え入れるだけのために、人ひとり雇う余裕がある、ということだろう。ワークシェアリングの一種と思えばいい。

「執事は一つのドアに手を伸ばし、話し声のする方に開き、自分は脇に控え、私を通した」は<The butler reached a door and opened it against voices and stood aside and I went in>。清水氏は「執事は一つのドアを軽くノックしてから、私を部屋に通した」と訳している。ノックをすれば返事を待つ必要があるが、それのないことから考えるとノックはしていないはず。<opened it against voices>というのは、ドアが内開きだったことを指しているのではないか。

村上氏は「執事はひとつのドアに手を伸ばして開けた。中からは人々の話し声が聞こえた。執事は脇に寄って私を中に通した」と訳しているが、これだと、どちらに開いたかはよく分からない。外開きなら、執事の立ち位置はドアの陰になる。話者の視点からは見えなくなるわけで、わざわざ<stood aside>と書く必要はない。つまり、ドアは内側に開かれたのだ。それらのことが、この短い文から読み取ることができる。

「きらめきを帯びた花々が部屋の隅に咲きこぼれ、ローテーブルの上にも花があった」は<A jet of flowers glistened in a corner, another on a low table>。清水氏はここを「部屋の隅の低いテーブルの上に花が匂っていた」と、訳している。いちいち挙げているときりがないが、これでは省略のし過ぎというものだ。部屋に飾ってある花の数が減ってしまう。

村上氏は「漆黒の花が部屋の隅で輝き、同じものが低いテーブルの上にも置かれていた」と訳している。形容詞<jet>には「漆黒の」という意味もあるが、<a jet of~>と使われる場合は「~の噴出」の意味だ。花瓶の口からあふれるように飾られた多くの花を表現したものと思われる。

「石のような顎に窪んだ眼をし」は<with a stony chin and deep eyes>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「石のような顎と、窪んだ目」。同じところで「六十代は優に超えていようが、優というより寧ろ、劣化した六十代だった」は<He was a good sixty, or rather a bad sixty>。清水氏は<good>と<bad>の対比を無視して「おそらく、六十を越しているだろう」とあっさり訳している。村上氏は「年齢はおそらく六十代の後半。好ましい年齢の重ね方をしているとは見えない」と、意味の方を重視して訳している。

「どこかの男が彼女のためにデザインしたのだろう、正しい人選だった」は<They were what the guy designed for her and she would go to the right man>。清水氏は「それは男が女のために考えて、彼女はその男のところに行くのだ」と訳している。分かりづらい訳だ。村上氏は「それはどこかの人物が彼女のためにデザインしたものであり、彼女はただデザイナーの選び方がうまいだけだ」と訳している。少し訳者の主観が混じっているようだ。

「髪は古い絵にある金色で、やり過ぎにならない程度に手が掛けられていた」は<Her hair was of the gold of old paintings and had been fussed with just enough but not too much>。清水氏は「髪は、古い油絵の金色のような色だった」と後半をカットしている。村上氏は「髪は古い絵画の中に見られる黄金色であり、いくらかほつれていたが、良い具合のほつれ方だった」と訳している。<fuss>を辞書にある「空騒ぎ」と解釈してのことだろうが、<fuss with>は「あれこれかまう、いじる」という意味だ。

「ドレスそのものは喉元のダイヤの留め金を別にすればむしろプレーンと言っていい」は<The dress was rather plain except for a clasp of diamonds at the throat>。清水氏は「咽喉に、ダイヤモンドが光っていた」と訳しているが、これではネックレスのように読めてしまう。村上訳は「喉のダイアモンドの留め金を別にすれば、ドレスはどちらかというと簡素なものだ」。

「よくあることだが、爪が不協和音を奏でていた」は<and the nails were the usual jarring note>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「世の常としてそれが全体の調和を損なっていた」だ。「マゼンタに近い赤紫だ」は<almost magenta>。両氏とも「深紅(色)」という色名を使っているが、マゼンタには紫が入っていて、もっと明るく鮮やかな色のはずだ。

ミス・リオーダンの態度について。「まるで別の手がかりを見つけでもしたように」は<as if she had another clue>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「何かほかのことを考えているみたいに」となっている。<clue>は、どの辞書で引いても「手がかり」と出ている。先を読まないと何とも言えないが、この時点で単なる「考え」と曖昧に訳す意図はどこにあるのだろう。

ミセス・グレイルの微笑について。「彼女は人をその気にさせるように微笑んでみせた」と訳した部分、原文は<She gave me a smile I could feel in my hip pocket>。清水氏は「彼女はまるで旧知の間柄のような微笑を私に見せた」と訳している。それに対して、村上氏は「彼女は私に微笑みを寄越した。尻ポケットのあたりがもぞもぞした」と訳している。

「人を思いのままに操る」という意味の慣用句に<have [get] someone in one’s (back) pocket>というのがある。<back pocket>は<hip pocket>のことだ。マーロウに向けられたミセス・グレイルの微笑は、その手のものではなかったか。< I could feel in my hip pocket>という、マーロウの印象は、自分が手玉に取られている気分にさせられたことを表している。

「ミス・リオーダンはあなたの信頼を完全に得ているのよね。当然のことに」は<Miss Riordan is in your complete confidence, of course>。清水氏の訳では「ミス・リアードンには何を聞かれても差し支えないんですのよ」となっている。<your complete confidence>とあるのだから、夫人が「何を聞かれても差し支えない」というのはおかしい。村上訳は「ミス・リアードンはあなたにとって間違いなく信頼できる人よね?」と疑問文にしている。原文に<?>はついていない。念を押しているのだろう。

「誰も私の信頼を完全に得ることはありません、ミセス・グレイル。この事件に関して言えば、彼女はたまたま知ったということです」は<Nobody's In my complete confidence, Mrs. Grayle. She happens to know about this case-what there is to know>。清水氏はこの部分を「ぼくにわかっていることは、もう知っているんです」と前半をカットして訳している。村上訳は「私にとって間違いなく信頼できる相手など一人もいません、ミセス・グレイル。彼女はたまたまこの事件の事情を知っているというに過ぎない。少なくとも、今まで判明している限りの事情を」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(1)

18-1

【訳文】

《海に近く、大気中に海の気配が感じられるのに、目の前に海は見えなかった。アスター・ドライブはその辺りに長くなだらかなカーブを描いていた。内陸側の家もそこそこ立派な建物だったが、渓谷側には巨大な物言わぬ邸宅が建ち並んでいた。高さ十二フィートの壁、彫刻が施された錬鉄製の門扉、観賞用生垣。そして、もし中に入ることができたなら、上流階級だけのために、防音コンテナに詰められて荷揚げされた、とても静かな特別の銘柄の陽光が待っている。
 濃紺のロシア風チュニックに身を包み、フレアの入った膝丈のズボンに黒光りする革脚絆をつけた男が、半開きの門の後ろに立っていた。浅黒い顔の美青年だった。広い肩幅、輝く艶やかな髪、粋な帽子の鍔が眼の上に柔らかな影を作っていた。口の端に煙草を咥え、首を少し傾げていた。まるで煙から鼻を守るかのように。片手に滑らかな黒革の長手袋をはめ、もう一方はむき出しだった。重そうな指輪が中指に嵌められていた。
 見たところ表示はなかったが、ここが八六二番地にちがいない。車を停め、身を乗り出して男に尋ねた。返事がかえってくるのにかなり時間がかかった。相手は私を子細に検分する必要があった。それから私が運転する車も。こちらにやってくるとき、手袋をしてない手をさりげなく尻の方にまわした。注意を引きたいのが見え見えのさりげなさだった。
 車から二歩ばかり離れたところに立ち止まって、もう一度こちらを眺めまわした。
「グレイル家を探しているんだが」私は言った。
「ここがそうだ。今は留守だが」
「呼ばれているんだ」
 男はうなずいた。眼が水のようにきらめいた。
「名前は?」
フィリップ・マーロウ
「そこで待て」彼は急ぐこともなくぶらぶら門まで歩き、がっしりした柱についた鉄の門扉の鍵をあけた。中に電話があった。一言二言それに話しかけ、扉をばたんと閉め、戻ってきた。
「身分を証明するものがいる」
 ステアリング・ポストに付けた車検証を見せた。
「そんな物は何の証明にもならない」彼は言った。「これがあんたの車だとどうして分かる?」
 私はイグニッション・キーを抜き、ドアをさっと開けて外に出た。そうすることで男との距離が縮まった。その息はいい匂いがした。安く見積もってもヘイグ&ヘイグだ。
「また一杯ひっかけたな」 
 彼は微笑んだ。眼が私を値踏みしていた。私は言った。
「どうだろう、電話で執事と話をさせてくれないか? 私の声を覚えているはずだ。そこを通してくれるかな、それとも君が音を上げるまでやり合わなければいけないのか?」
「俺はただ仕事をしてるだけだ」彼はおだやかに言った。「もし、そうじゃなかったら―」後の言葉は宙に浮いたままにして、微笑み続けた。
「いい子だ」私はそう言って相手の肩を叩いた。「ダートマス出身、それともダンネモーラかな?」
「何なんだ」彼は言った。「どうして警官だって言わないんだ?」
 顔を見合わせてにやりとした。彼は手を振り、私は半分開いた門から入った。屋敷への道はカーブを描き、高い暗緑色の刈り込まれた生垣で、通りからも屋敷からも完全に遮断されていた。緑の門を抜けると日本人庭師が広い芝生で雑草をとっていた。広大な天鵞絨の中から一つかみの雑草を引き抜いていた。いかにも日本人庭師らしい薄ら笑いを浮かべながら。それから再び丈高い生け垣が視界を妨げ、百フィート以上何も見えなくなってしまった。生け垣が尽きるところは広いロータリーになっていて、車が六台停まっていた。
 うち一台は小さなクーペだった。とても素敵な最新型のツートンのビュイックが二台。郵便物を取りに行くのにお誂え向きだ。鈍いニッケル製のルーバーと自転車の車輪ほどの大きさのハブキャップがついた黒いリムジンが一台。幌を下ろした長いフェートン型スポーツもいた。短く幅の広いコンクリートでできた全天候型の車寄せが、そこから屋敷の通用口に通じていた。
 左手、駐車スペースの向こうは半地下庭園になっていて、四隅に噴水が設けられている。入り口は錬鉄製の門扉で閉ざされ、その中央にキューピッドが宙を舞っていた。細い柱の上に胸像が載り、石の椅子の両脇にグリフィンがうずくまっていた。楕円形をした石造りのプールの中にある水連の一葉に大きな石の牛蛙が座っていた。さらに遠くに薔薇の柱廊が祭壇のようなものに続いていた。祭壇の階段に沿って両側の生垣から漏れた太陽がまばらな唐草模様を描いていた。そして、左手はるか向こうは風景式庭園になっていた。さして広いものではない。廃墟を模して建てられた壁の一隅に日時計があった。そこに花が咲いていた。無数の花々が。
 屋敷そのものはそれほどでもなかった。バッキンガム宮殿よりは小さく、カリフォルニアにしては地味過ぎ、そして多分窓の数はクライスラー・ビルディングより少なかった。
 私は通用口からこっそり入り、呼び鈴を押した。どこかで一組の鐘が教会の鐘のように深く揺蕩うような響きをたてた。》

【解説】

「観賞用生垣」としたのは<ornamental hedges>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「装飾的に刈り揃えられた生け垣」である。トピアリーの一種だが、厚みのある壁状に仕立てられた生け垣と思われる。

「フレアの入った膝丈のズボン」は<flaring breeches>。清水氏はここもカット。村上訳は「ひだのついたズボン」この時代の運転手の服装らしく、他のチャンドラー作品にも登場している。膝から下に「黒光りする革脚絆」をつけている。原文は<shiny black puttees>である。清水訳は「ピカピカ光る黒い革ゲートル」。ところが、村上訳は「艶やかなブルーの巻きゲートル」となっている。チュニックの色に合わせたのか、それとも単なるまちがいか。以前にも書いたが、わざわざ<shiny>としていることからも分かるように、この<puttees>はバックル止めの革ゲートルではないかと思われる。

「粋な帽子の鍔が眼の上に柔らかな影を作っていた」は<the peak on his rakish cap made a soft shadow over his eyes>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「粋な帽子の先端が両目に柔らかな影をつくっている」だが、「帽子の先端」というのはどの部分を指すのか分かりにくい。<cap>とある以上<peak>は「つば」であることをはっきりさせたい。

「返事がかえってくるのにかなり時間がかかった」は<It took him a long time to answer>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「返事が戻ってくるまでにけっこうな時間がかかった」だ。その後の「相手は私を子細に検分する必要があった。それから私が運転する車も」のところも、清水氏は「彼は私の姿をじろじろ眺めながら」とあっさりまとめてしまっている。村上氏は「彼はその前に私を子細に点検しなくてはならなかった。それからまた私が乗っている車も」と訳している。

「眼が水のようにきらめいた」は<His eyes gleamed like water>。清水氏はここもカット。村上氏は「目が水のようにきらりと光った」と訳している。

「ステアリング・ポストに付けた車検証を見せた」は<I let him look at the license on the steering post>。清水氏は「私は自動車の免許証を見せた」と訳しているが、「免許証」なら身分証明ができそうなものだ。相手が「君の自動車じゃないかもしれない」と言ってるのだから見せたのは「車検証」だろう。村上訳は「ステアリング・コラムについている許可証を見せてやった」だ。「許可証」というのは無難な訳だが、何の許可証なのかが分からない。これなら「ライセンス」とカナ書きにするのと何も変わらない。

「また一杯ひっかけてたな」は<You've been at the sideboy again>。清水氏は「飲んでるね」と訳している。<sideboy>は酒などを入れておくサイドボードのことだ。男が酒の匂いをさせていることに対する軽いジャブだろう。ところが、村上氏は「門番仕事は楽しいかい」と訳している。兵が二列向かい合わせになって上官を迎える儀式があり、その兵のことを<sideboy>という。村上氏はこの訳をとったのかもしれない。しかし、<sideboy>には<drinks cabinet>の意味がある。酒類を入れるロウ・キャビネットのことだ。マーロウは、こちらの意味で言ったと考える方が当を得ている。

「それとも君が音を上げるまでやり合わなければいけないのか」は<do I have to ride on your back>。清水訳は「君を殴りとばしてからでなければ、入れないのかね」と、いささか乱暴な物言いだ。村上氏はといえば「それとも君の背中におぶさって行かなくちゃならないのか」と、<ride on your back>を字義通り「おんぶ」と解釈している。

実は<ride someone’s back>は「何かを達成するために、頻繁に、絶えず嫌がらせをする、悩む、または率直に言うこと」を意味するイディオムである。清水訳は「嫌がらせ」の最大級を採用して「殴りとばす」と訳したのだろう。「船乗りシンドバッドの冒険」の中に出てくる、一度とりついたら絶対背中から下りないで、相手を意のままに操る「海の老人」を思い出すと「おんぶ」の厄介さが理解できるかもしれない。

「いい子だ」は<You're a nice lad>。清水氏はここを「ぼくは探偵なんだ」と作文して、後に続く<Dartmouth or Dannemora?>を訳していない。ダートマスは大学で有名だが、ダンネモーラは凶悪犯罪者ばかりが収監されているクリントン刑務所のあるところだ。訳注なしでは分からないとみて、適当に作文したのだろう。村上氏は「まあそうつっぱるな」と訳している。言い淀んだ言葉の後に何が来ると思ったのだろう。微笑み続けているところから見て、若者が言いたかったのは「仕事でなけりゃさっさと通してるよ」ではないかと思うのだが。村上氏の解釈では「ただじゃ置かない」とでも言いそうに思える。

「郵便物を取りに行くのにお誂え向きだ」は<good enough to go for the mail in>。清水氏はここを「郵便物を入れるのに十分なほど大きい」と訳している。原文をどう読んでみても、郵便物を車の中に入れる、とは読みようがない。それにビュイックは小型車とはいえないので、皮肉にもならない。村上訳は「玄関まで郵便物を取りに行くにはうってつけだ」だ。大邸宅の私道の長さを皮肉っていると考えるべきだろう。

答志島温泉に行ってきました。

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今日は長男の仕事が休みということで、趣味の離島行きに誘われた。島のいきのいい寿司を食べ、温泉につかるという。妻が乗り気だというので慌てて支度をした。といっても、たかが知れている。替えの下着、靴下とタオルを用意するだけのことだ。船の出る時間が迫っているので、息子の車で鳥羽の佐田浜まで走ることにした。免許は持たなかった。運転しないときはビールくらいは飲みたい。

市営駐車場に車を停めた。船着き場が、ひと昔前とは全く様子がちがっている。以前は海だったところが埋め立てられ、桟橋が新しくなり、まるでしゃれたハーバーのようだ。市営定期船もずいぶんおしゃれになって、まるで観光船のようである。十一時五十分佐田浜発。乗船時間約二十分で、目的地である答志和具に着く。

まずは、島に一軒だけという寿司屋さんへ。長男は何度か来ているので顔見知りになっていた。妻と私は海鮮丼、息子は握りとトロ鰆を別に注文。話に聞いてはいたが、本当に海老が鮨桶の中で跳ねるので驚いた。活きがいいなどという範疇を超えている。車海老は頭だけになっても頭をもたげてくる。頭の部分は後で別に焼いてくれた。噛むと口中に濃厚な海老味噌が溢れ出し、舌を火傷しそうになった。

海鮮丼というが、シャリは酢飯なので握り用のネタを細かく切らずにそのまま放り込んだちらし寿司みたいだった。ビールと一緒にいただいて、すっかり満足した。カウンターに椅子五脚、四人掛けのテーブル席が三つというこぢんまりした店だったが、船が着くのと同時にほぼ満席状態になっていた。もっとも、それから新しく客が来ることはなく、ちょうどいい塩梅になっているのに感心した。次の船の時間にはまた新しい客が入るのだろう。

海岸沿いの道を歩いて、答志島温泉へ向かう。何年か前に掘り当てた温泉らしい。小高い丘の上に立つ旅館で日帰り温泉に入らせてもらう。浴場は二階だが、高台に建っているので、眺めは抜群(写真)。真正面に菅島が眺望できる展望露天風呂は、ぬるめの湯でいつまででも浸かっていられる温度だった。眼下には砂浜が広がり、その横におそらく海水だろう、プールもあった。高い椰子の木が植えられ、ちょっとしたリゾート地の雰囲気を漂わせている。

左手には神島が手が届きそうに見えている。すぐそこにあるように見えているが、鳥羽からは約一時間船に乗らなければたどり着けない。答志や桃取までは、島が風よけになってくれるが、そこを越えると伊良湖水道の真っただ中を行くので、急に波風が高くなる。夏場はまだしも、冬ともなれば定期船は大きく揺れる。波の荒い日には、船は波の上まで揺り上げられ、窓から空が見えたかと思うと、一気に波の底まで滑り落ち、生きた心地がしない。

とはいえ、今は波も静かで、船もたいして揺れはしない。午後二時二十八分発の船で帰途についた。帰りの船はかつて巡行していたのと同様の鳥羽丸。先に行っていた妻が「気持ちいいよ」というので甲板に上がってみた。波はおだやかで、手すりに凭れていても、潮風が髪をなぶるばかり。積み雲が湧きあがり、空港へと行き来するジェット機の飛行機雲が青空に白い線を引いている。日はまだ高い。いい気分だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第17章(2)

【訳文】

《寝具の下で女のからだは木像のように硬直した。目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で。息は止まった。
「信託証書が高額すぎてね」私は言った。「この辺りの物件の価格からいうとだが。リンゼイ・マリオットなる人物の所有になる債権だ」
 女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた。
「あの人のところで働いていたことがある」彼女はやっと言った。「あの家の使用人だったんだよ。それで、ちっとばかし面倒を見てくれてる」
 私は火のついていない煙草を口からとり、あてもなく眺め、また口に突っ込んだ。
「昨日の午後、あんたに会った数時間後、ミスタ・マリオットがオフィスに電話してきた。仕事の依頼だった」
「どんな仕事の?」声はひどく嗄れてきていた。
 私は肩をすくめた。「それは言えない。守秘義務がある。それで昨夜、会いに行った」
「如才ない男だよ、あんたは」彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした。
 私は彼女を見つめ、黙っていた。
「ずる賢いお巡りだ」彼女は嘲笑った。
 私はドア枠に置いた手を上下に動かした。ぬるぬるしていた。触るだけで風呂に入りたくなった。
「それだけだ」私は如才なく言った。「ちょっと気になった。多分何でもない。偶然の一致だろうけど。何か意味がありそうに思えてね」
「小癪なお巡りだ」彼女は虚ろな声で言った。「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」
「仰せのとおり」私は言った。「邪魔したね、ミセス・フロリアン。それはそうと、明日の朝、待ってても書留は来ないと思うよ」
 彼女は布団をはねのけ、起き上がった。眼がぎらついていた。右手で何か光った。小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ。
「吐きな」彼女は吠えた。「さっさと吐くんだ」
 私は銃の方を見た。銃も私を見ていた。構えはしっかりしていない。銃を握った手が震えはじめた。しかし、眼はまだぎらつき、唾液が口角で泡立っていた。
「あんたとなら組んで仕事ができそうだ」私は言った。
 銃と彼女の顎が同時に下がった。私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた。
「考えておいてくれ」私は後ろに呼びかけた。
 返事はなかった。何の音もしなかった。
 私は急いで廊下と食堂を通って家を出た。歩いている間も背中が落ち着かなかった。筋肉がむずむずした。
 何も起こりはしなかった。通りを歩いて自分の車に乗り込み、そこを離れた。
 三月最後の日だというのに真夏のように暑かった。運転中、上着を脱ぎたくなった。七十七丁目警察署の前で、パトロール警官が二人、曲がったフロント・フェンダーを睨んでいた。スイングドアから入ると、制服姿の警部補が手すりの後ろで事件簿を見ていた。ナルティは上にいるか訊いた。いるはずだが、知り合いか、と聞いたので、そうだと答えた。彼は、分かった、上がれ、と言い、私は古ぼけた階段を上って廊下伝いに進み、ドアをノックした。怒鳴り声が聞こえたので中に入った。
 ナルティは歯の掃除中だった。椅子に座り、足は別の椅子に預けていた。目の前に腕を伸ばして左手の親指を見ているところだった。親指は何ともなさそうに見えたが、ナルティは陰気に見つめていた、まるで治らないとでも思っているかのように。
 その手を腿まで下げ、足を振って床に下ろし、親指でなく私を見た。ダークグレーのスーツを着ていた。端に噛み跡の残る葉巻が机の上で歯の掃除が済むのを待っていた。
 椅子に結んでいないフェルトのシートカバーを裏返して座り、煙草をくわえた。
「君か」ナルティは言い、爪楊枝が充分噛まれたか検分した。
「うまくいってるか?」
「マロイのことか? もうそれに興味はない」
「どうなってるんだ?」
「どうもこうもない。あいつは逃げた。我々はテレタイプで奴の情報を送り、向こうはそれを受信した。今頃はとっくにメキシコだろうさ」
「そうだな、たかだか黒人一人殺しただけだ」私は言った。「微罪といえるだろう」
「まだ引っかかってるのか? 自分の仕事があるはずだろう?」薄青い眼がじっとりと私の顔を睨め回した。
「昨夜の仕事は長続きしなかった。あのピエロの写真、まだ持ってるか?」
 彼はデスクマットの下を探り、差し出した。相変わらずきれいだった。私はその顔に見入った。
「これは本当は私のものだ」私は言った。「ファイルする必要がないなら、自分で持っていたい」
「ファイルに入れるべきだが」ナルティは言った。「詳しいことは忘れた。オーケイ、ここだけの話だ。そういうことにしておく」
 写真を胸のポケットに入れ、立ち上がった。「じゃあな、用はそれだけだ」言い方が少しはしゃぎ過ぎだった。
「何だか匂うな」ナルティが冷たく言った。
 私は机の端に置かれた一本のロープに目をやった。ナルティは私の視線を追った。そして爪楊枝を床に投げ捨て、噛み跡のある葉巻を口にくわえた。
「これでもないな」彼は言った。
「まだはっきりしない。固まってきたら、君のことを忘れないようにするよ」
「いろいろ大変でね。チャンスが欲しいんだ」
「君のような働き者にこそ与えられてしかるべきだ」私は言った。
 ナルティは、親指の爪で擦ったマッチが一度でついたのが嬉しかったのだろう、葉巻の煙を吸い始めた。
 「笑わせてくれるよ」ナルティは悲しげに言った。私は外に出た。
 廊下は静かだった。建物全体が静まり返っていた。玄関の前ではパトロール警官がまだ曲がったフェンダーをのぞき込んでいた。私は車を走らせてハリウッドに帰った。
 オフィスに足を踏み入れると、電話のベルが鳴っていた。私は机に身を乗り出して言った。「もしもし」
フィリップ・マーロウ様でしょうか?」
「はい、マーロウですが」
「こちらはミセス・グレイルの家の者です。ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイル。ご都合がつき次第、ミセス・グレイルがここでお目にかかりたいそうです」
「お住まいはどちらですか?」
「住所は、ベイ・シティ、アスター・ドライヴ八六二です。一時間以内にお出でになれますか?」
「あなたはミスタ・グレイルですか?」
「そうではありません。執事です」
「ドアの呼び鈴が鳴ったら、それが私だ」私は言った。》

【解説】

「寝具の下で女のからだは木像のように硬直した」は<She was rigid under the bedclothes, like a wooden woman>。村上訳は「布団の中で彼女はさっと身をこわばらせた」だが、清水氏は「彼女は蒲団の上で体を硬ばらせた」と訳している。「蒲団の上」だと、次に女のとる行動に齟齬をきたす。

「目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で」は<Even her eyelids were frozen half down over the clogged iris of her eyes>。清水氏は「半ば眼蓋(まぶた)を閉じ」と短くまとめている。村上氏は「まつげまで凍りついた。それはどんよりした虹彩の上に半分降りかけたまま、固定されてしまった」と訳している。<eyelids>は「まぶた」のはずだが、村上氏はなぜ「まつげ」と訳したのかが分からない。単なるまちがいだろうか。

「女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた」は<Her eyes blinked rapidly, but nothing else moved. She stared>。清水氏は「彼女はからだを緊張させたままだった」と眼については一切触れていない。村上訳は「彼女の目は素ばやくしばたたかれた。しかしそれ以外の部分は微動だにしなかった。彼女はじっと前を睨んでいた」と、ほぼ直訳に近い。

「彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした」は<she said thickly and moved a hand under the bedclothes>。からだを「蒲団の上」に出したままにしている清水氏は「と、彼女はいまいましそうにいって、蒲団の下に手を入れた」と、ここで手だけを蒲団の下にもぐり込ませている。少し分かりやす過ぎるだろう。村上訳だと「と彼女は野太い声で言って、布団の中でもぞもぞと片手を動かした」になる。村上訳は修飾語が増える傾向にある。

「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」は<Not a real copper at that. Just a cheap shamus>。清水氏はここをカットして、前の台詞と併せて「だから嫌いだというんだよ、探偵は」と訳している。村上氏は「それも本物のお巡りですらない。ただのぺらぺらの私立探偵じゃないか」と訳している。

「小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ」は<A small revolver, a Banker's Special. It was old and worn, but looked business-like>。清水氏は「小さなピストルだった。古めかしい、汚れたピストルだった」と、拳銃の種類を明らかにしない。村上訳は「小型のリヴォルヴァーだった。バンカーズ・スペシャル、年代物でくたびれていた。しかし、用は足せそうだ」。バンカーズ・スペシャルは、有名なディテクティブ・スペシャルより銃身が短く軽いコルト社製の小型拳銃だ。

「私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた」は<I was inches from the door. While the gun was still dropping, I slid through it and beyond the opening>。清水氏は「私は少しずつドアからはなれた」と訳している。<I was inches from the door>を<by inches>(少しずつ)と読んだのだろう。村上訳は「私はドアから数センチのところにいた。銃が下に向けられているあいだに、私はドアの外に出て、弾丸の届かぬところに逃れた」だ。

「彼はデスクマットの下を探り、差し出した」は<He reached around and pawed under his blotter>。またしても<blotter>の登場である。清水氏は「彼は吸取紙の下を探って、写真を取り出した」と「吸取紙」説をとる。村上氏は「彼は手を伸ばして、下敷きの下を探った。それを掲げた」と「下敷き」説をとっている。写真を下に挟んでおくのに、何が一番ふさわしいだろう。

「言い方が少しはしゃぎ過ぎだった」は<I said, a little too airily>。清水氏はここをカットしている。村上訳では「と私は言った。私の声はいささか軽やかすぎたのだろう」となっている。

「これでもないな」は<Not this either>。この台詞は、その前の「何だか匂うな」を受けてつぶやかれている。マーロウの行動に不信感を抱き、それとなしに隠し事があるだろう、とほのめかしているのだ。マーロウの目がロープを見たのは、その言葉を文字通りとってみせたからで、ナルティも形式的にそれに追従している。<this>は、匂いのもとのことだ。清水氏も「これでもない」と訳している。

ところが、村上訳を見ると「こっちも手詰まりだ」となっている。<this>はナルティ自身を指している。では何が<not either>なのだろう? その前のマーロウの言った「昨夜の仕事は長続きしなかった」<I had a job last night, but it didn't last>を受けていると読んだのだろう。ナルティの置かれている状況を考えると、こう訳すことで話のつながりはよくなる。しかし、そうすると、その前のロープに関するやりとりが意味を持たなくなる。チャンドラーが、必要もない物を描写するとは思えない。

「笑わせてくれるよ」は<I’m laughing>。清水氏は「俺は笑ってるよ」と訳している。いかにも唐突に見えるが、第六章の「はあ? そいつは愉快だ。非番の日に思い出して笑うことにするよ」を受けての台詞であることは言うまでもない。村上氏は「笑わせるのがうまい男だ」と訳している。マロイの担当がはずれて暇を持て余しているナルティの自嘲だ。非番ではないが、何もできない今の私はせめて笑うしかない、というわけだ。

GWでも混雑とは無縁のドライブコース

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十連休も折り返しに入った。退職後は、毎日が連休みたいなものだから、連休が何日続こうが別にどこへ出かける予定もない。それよりも、なまじ観光地に住んでいるので無駄に道が混むのに閉口する。

それにしても、朝からいい天気だ。妻もどこかに出かけたそうにしている。妻のTwingoGTに乗れるなら、ドライブも悪くない。問題は混雑必至の中でどこを走るのか、ということだ。

時は新緑の真っ最中である。緑の中を爽やかに走りつつ、前の車を気にせず走ることのできる空いた道。ありました。「日本の道百選」にも選ばれている「賢島~長島線」。志摩地方はけっこう人気の観光地なのでそちらは避け、途中から入って紀北を目指す。

目的地は錦町にある「錦向井ヶ浜トロピカルガーデン」(写真)。桜のころによく走る道だ。左手にリアス式海岸を臨む風光明媚な国道260号線。南伊勢を通り途中から入る。地元の人くらいしか走らない道は予想通りガラガラ。

気持よく走りぬける。県道22号線の能見坂も、リアエンジン・リアドライブのTwingoはきびきび走りぬける。ステアリングを握るのが嬉しく感じられる車である。カーブに差し掛かってステアリングを切ると、文字通りくいっと曲がってくれる。シャープなハンドリングが持ち味の車は、こういう道路を走るためにある。

山懐に抱かれるようにひっそりと遠浅の砂浜が続くトロピカルガーデンは、休日に小さな子を連れてくるには最適だ。残念ながら自分たちの子どもが小さい頃にはなかったようだが、孫のできた今なら、連れてきてやれる。

まだ五月が始まったばかりだというのに、ビーチには水着姿で肌をやいている人もいたが、十連休にしては人の出はまばらだ。正午になったので、どこかで食事をと思い、紀伊長島まで足を伸ばした。

道の駅、紀伊長島マンボウは、コペンに乗っていた頃よくオフ会で訪れた。ここの真鯛のあぶり丼は最高だったが、いつのころからかメニューから消えた。それであまり行かなくなったのだが、久しぶりに行ってみることにした。

予想通りの賑わいだったが、どうにか空きを見つけて車を停め道の駅へ。メニューはまた変わって、ラーメンなどが中心になっており、席もなかったのでさんま寿司と握りのパックを買って外で食べた。甘めの味に仕上げたさんま寿司も握りも美味しかった。

帰路は荷坂峠を越えて42号線で帰ってきた。ログハウスを作っていた頃、よく走った道だが、すっかりご無沙汰していた。こちらの道も混雑とは無縁で気持ちよく走ることができた。宮川を越えるところで少し渋滞に捕まったがそれ以外はマイぺースで走り通した。渋滞は嫌いだが、連休中に出かけたいという人におすすめのコースである。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第17章(1)

17

【訳文】(1)

《呼び鈴を鳴らそうが、ノックをしようが、隣のドアから返事はなかった。もう一度試してみた。網戸の掛け金は外れていた。玄関ドアを試してみた。ドアの鍵は開いていた。私は中に入った。
 何も変わっていなかった、ジンの匂いすらも。床にまだ死体はなかった。昨日ミセス・フロリアンが座っていた椅子の傍のテーブルに汚れたグラスが載っていた。ラジオは消してある。ダヴェンポートに行き、クッションの後ろを探った。空き瓶に仲間が増えていた。
 呼んでみたが、返事はない。それから、うめき声のような、長くゆっくりとした惨めな息遣いが聞こえたように思った。アーチを通って小さな廊下に忍び入った。寝室のドアが少し開いていて、その後ろからうめき声が聞こえてきた。首を突っ込んで中をのぞいた。
 ミセス・フロリアンはベッドにいた。仰向けに横になり木綿の掛け布団を顎まで引いていた。掛け布団についた小さな毛玉のひとつが、今にも口の中に入りそうだ。長い黄色い顔は緩みきって、半ば死んでいた。汚れた髪は枕の上で縺れていた。眼がゆっくり開き、何の感情もなく私を見た。部屋は眠りと酒、汚れた服の臭いでむかむかした。六十九セントの目覚まし時計が、灰白色の塗料の剥げかけた衣装箪笥の上で時を刻んでいた。その上で鏡が女の歪んだ顔を映していた。写真を取り出したトランクの蓋は開けっ放しだった。
 私は言った。「こんにちは、ミセス・フロリアン。具合でも悪いのですか?」
 彼女はゆっくりと唇を動かして一方を他方とこすり合わせた。それから舌を出して両唇を湿らせ、顎を動かした。口から洩れてきた声は使い古されたレコードのようだった。その目は私のことを分かったようだが、喜んではいなかった。
「捕まえたのかい?」
「ムースのことかな?」
「そう」
「まだだ。もうすぐだと願ってるよ」
 彼女は両眼を窄め、それからぱっと開いた。まるで目にかかった膜を振り払おうとでもするように。
「家に鍵をかけておく方がいい」私は言った。「あいつが戻ってくるかも知れない」
「私が怖がってると思うのかい、ムースのことを?」
「昨日私と話しているとき、そのように見せていたじゃないか」
 彼女はそれについて考えた。考えることは骨の折れる仕事だった。「酒はあるのかい?」
「いや、今日は持ってきていない、ミセス・フロリアン。現金の持ち合わせがなくてね」
「ジンは安いよ。願ったりさ」
「少ししたら買いに行けるかもしれない。マロイのことは怖くないんだな?」
「どうして怖がらなきゃいけない?」
「分かった。あなたは怖がってなどいない。で、いったい何が怖いんだ?」
 彼女の眼に光が飛び込んできて、しばらくじっとしていたが、やがて消えていった。「帰っとくれ。あんたらお巡りときたら、全く胸くそが悪いよ」
 私は何も言わなかった。ドアの枠に寄りかかって、タバコをくわえ、鼻先につくくらい持ち上げようとした。これは見かけより難しい。
「お巡りなんかに」彼女はゆっくり言った、自分自身に言い聞かせるかのように。「あいつは捕まりっこない。腕が立つし、金もある。仲間だっている。時間の無駄遣いってものさ」
「そういう手順になってるんだ」私は言った。「いずれにしても実質的には正当防衛だ。どこへ行ったと思うね?」
 彼女はくすくす笑い、木綿の羽根布団で口を拭った。
「今度はおべっかをつかうんだ」彼女は言った。「戯言を言うもんじゃない。そんな手が通用すると思ってるのかい?」
「私はムースが好きだ」私は言った。
 彼女の眼が興味で輝いた。「あいつを知ってるのかい?」
「昨日、セントラル街で黒人を殺したとき一緒にいたんだ」
 彼女は口を大きく開け、腹をよじって笑い出した。その声はブレッドスティックを折る音より小さかった。涙が眼から溢れ頬を伝った。
「大きくて強い男」私は言った。「優しい心の持ち主でもある。ヴェルマをとても恋しがっていた」
 眼が陰った。「あの娘を探してるのは親戚だと思ってたけど」彼女は優しく言った。
「そうさ。でも、死んだと言ったじゃないか。もうどこにもいない。どこで死んだんだ?」
「ダルハート、テキサスの。風邪をこじらせて肺をやられ、逝っちまった」
「あんたもそこにいたのか?」
「まさか、聞いただけさ」
「誰に聞いたんだ。ミセス・フロリアン?」
「どこかのタップ・ダンサーさ。名前は忘れちまったよ。一杯飲めば思い出せるかもしれない。デス・ヴァレーみたいに渇き切ってるんでね」
「そして、あんたは死んだ驢馬のように見える」私はそう思ったが、口に出しては言わなかった。「もう一つだけ」私は言った。「そうしたら、ジンを買いに出かけよう。あんたの家の権利がどうなってるか調べてみた。たいした理由はないんだが」》

【解説】

「床にまだ死体はなかった」<There were still no bodies on the floor>。清水氏はここをカットしている。しゃれた文句だが、トバしてもかまわないと踏んだのだろう。村上訳は「床の上にはやはり死体は転がっていなかった」。

「それから、うめき声のような、長くゆっくりとした惨めな息遣いが聞こえたように思った」は<Then I thought I heard a long slow unhappy breathing that was half groaning>。ここを清水氏は「寝室から寝息が聞こえたような気がした」と短くまとめている。村上氏は「それから長く、ゆっくりとした、幸福とは縁遠い呼吸音が聞こえたような気がした。どちらかといえばうめきに近い代物だ」と訳している。

「木綿の掛け布団」と訳したところ、清水氏も「木綿の掛蒲団」だが、村上氏は原文の<a cotton comforter>をそのまま使い「コットンのコンフォーター」としている。たしかに、厳密にいうと「掛布団」と「コンフォーター」の間には区別があるらしい。アメリカでいう「コンフォーター」は、厚手の羽毛布団のことだ。外国暮しの経験のある村上氏にとって「コンフォーター」はなじみがあるのかもしれないが、日本ではまだまだそれほど知られていないのではないだろうか。

「部屋は眠りと酒、汚れた服の臭いでむかむかした」は<The room had a sickening smell of sleep, liquor and dirty clothes>。清水訳は「部屋には異臭が充ちていて」とあっさりしたものだ。村上訳は「部屋には、眠りと酒と不潔な衣服の匂いがこもっていた。気分が悪くなりそうだった」。

「その目は私のことを分かったようだが、喜んではいなかった」は<Her eyes showed recognition now, but not pleasure>。清水氏はここもカットしている。ここはカットするべきところではないと思うのだが。村上訳は「その目は私の姿をようやく認めたようだが、とりたてて嬉しそうには見えなかった」と、意を尽くした訳しぶりだ。

「考えることは骨の折れる仕事だった」は<Thinking was weary work>。清水氏はここもカット。村上訳は「考えるとくたびれるようだった」と、マーロウの目線で訳している。アルコール常用者が目を覚ましたばかりである。昨日と今日の区別もついていないだろう。特に異論はないが、マーロウの、というより話者の言葉と考えて訳してみた。アル中の老婆に限らず、考えることは探偵にとっても骨の折れる仕事にちがいはないからだ。

「ジンは安いよ。願ったりさ」は<Gin's cheap. It hits>。清水氏は「ジンなら、安いよ」。村上氏は「ジンなら安いし、酔いのまわりが早い」と訳している。<hit>を「打つ」と解釈して「酔いのまわりが早い」と訳したのだろう。しかし、<hit>には「目的、好みに合う」という意味もある。拙訳は後者をとった。

「彼女は口を大きく開け、腹をよじって笑い出した。その声はブレッドスティックを折る音より小さかった」は<She opened her mouth wide and laughed her head off without making any more sound than you would make cracking a breadstick>。これでもう何度目だろう、<breadstick>がとうじょうするのは。当然のことに清水氏はそんなことに頓着せず「彼女は口を大きく開いて、ゲラゲラ笑い出した」と訳している。

村上氏は「彼女は口を開け、身体を揺すって笑ったが、実際に出てきた声は棒パンを折った程度の音だった」と律儀に訳している。ブレッドスティックは、食事のときにグラスに差して供される、細い棒状のパン。チャンドラーはこれを使った比喩がお気に入りらしく何度も使っている。「ゲラゲラ」では音が大きすぎるだろう。

「ダルハート、テキサスの」は<Dalhart, Texas>。清水訳は「テキサス州ダルハート」。村上訳は「テキサスのダラートだよ」だ。問題は<Dalhart>の読み方だ。ウィキペディアでは「ダルハ-ト」になっているが、心もとないのでブリタニカ国際地図で調べてみた。「ダルハート」と書かれていた。村上氏は何に拠って「ダラート」にしたのだろう?

<「そして、あんたは死んだ驢馬のように見える」私はそう思ったが、口に出しては言わなかった>は<“And you look like a dead mule,” I thought, but didn't say it out loud.>。例によって清水氏はここをカットしている。村上訳は<「見かけは死んだラバのようだが」と私は心の中で思ったが、もちろん声には出さなかった>だ。