萩原朔美という名前をはじめて目にしたとき、なんというたいそれたことするものだ、と正直驚いた。萩原朔太郎といえば口語自由詩の完成者としてあまりにも有名。その大詩人から三字を勝手に拝借するなんて、あまりにも畏れ多いと感じたのだ。高校の教科書に載っていた「青樹の梢をあふぎて」に出会って以来、詩が好きになり、作品はもちろんのこと評伝なども片端から読み漁っていた愛読者としては、してやられたという気持ちもひとつにはあった。そんなことが許されるなら自分だって筆名にしたい、というような気持ちだ。
後に、朔美が朔太郎の長女である萩原葉子の実子であることを知り、自分の早合点に苦笑することになる。朔太郎という人は詩人としての名声はゆるぎないが、実生活者としてはあまり幸せとはいえなかったようだ。その辺のことは葉子の小説『蕁麻の家』にしっかり描かれている。葉子も早くに離婚し、作家活動に入っている。家でひたすら物を書きつづける母と母ひとり子ひとりの生活を続けるうちに朔美は内向的な少年に育っていった。
その少年が寺山修司率いる演劇実験室・天井桟敷に入ったことで変貌する。そこで演出を任されるうちに、当時の日本を席巻していた錚々たる顔ぶれに引き合わされることになる。土方巽、澁澤龍彦、三島由紀夫、美輪明宏、さらには母の友人でもある森茉莉、パルコの創始者増田通二、美術評論家東野芳明、変わったところでは『家畜人ヤプー』の作者沼正三。
これは一人の青年が、昭和の異才たちの風貌、人となりを捉えたポルトレであり、彼等との個人的な出逢いを披瀝するエッセイ集である。また萩原朔美という人間がそれらの人々によって形づくられていく記録ともいえる。絵描きを目指していた青年が劇団員となって役者修業に励むうち、座付き演出家(後に東京キッドブラザースを起こす東由多加)の退団によって図らずも演出家を任される。それだけでもすごいことだが、この青年の演出に寺山はいっさい口をはさむことがなかったというから畏れ入る。
美輪明宏と対等に口を利き、三島由紀夫には役者時代に演技指導までされている。「君のおじいさんの詩、若い時よく読んだよ」と三島が言ったというから朔太郎の孫だということは周囲の人にはよく知られていたのだろう。本人にその気があろうとなかろうと、朔太郎の孫というのはすごいネームバリューであったろう。それに加えてその美貌である。朔太郎ゆずりの大きな瞳と憂いを秘めた顔立ちは、後に美大の教授となってから女学生に、不倫してみたい先生ナンバーワンの称号を奉られているほどだ。
全裸の土方巽と少年航空兵の上衣と帽子だけを纏った朔美が白馬に跨る写真は澁澤が編集長をつとめていた雑誌『血と薔薇』創刊号の頁を飾ったもので、朔美にモデルの依頼があったという。酔った東由多加が、「あなたは寺山さんに可愛がられていたからな」とからむところや、個展会場で土方に何でもいいから選べと言われ、池田満寿夫の版画をプレゼントされるところなど、名だたる異才たちにかなり愛されていたことが分かる。もっとも当時の朔美はそんなことに気づくはずもなく当たり前のようにそれを受け容れていたというから、そのノンシャランなところが貴種というものだろう。
森茉莉の家には小学校時代からお使いに行っていたが、人見知りの少年時代は、話すこともできなかったという。ある日夕飯時になっても母と話し続ける茉莉に「人の迷惑も考えてよ」と言ったことがあり、その時の茉莉の困った様子を見て傷つけたことを後悔する少年でもあった。大人になってからは部屋に入ることもあって、森茉莉の部屋の様子をスケッチしてみせる。殆ど物のない部屋で、森茉莉の書くものとの落差に驚かされるが、生活臭のなさというのは分かる気がする。洗濯が苦手で、下着は近くを流れる川に捨てては新しいのを買ったというから半端ではない。
朔美は森茉莉をいくつになっても大人になりきれない「子供大人」と評している。子どもの頃は、それにいらついていたのに、今大人になって思うのは、自分も本当はああいう子供大人になりたかったのだ、という思いである。「1660年代のヒッピーのように、放浪し、愛し、作り、味わい尽くす。そんなような生活を理想として思い描いていたのに、いつのまにか日常の些末な出来事に囚われて、凡百の世俗の殻に自ら閉じ込もってしまった。」この後悔を我がことのように感じない同世代はいないのではないか。多摩美術大学の教授となった今の自分を「芝居を捨て凡庸を選んだ者。かたぎに堕した男。それが熱中するものの無い人間を支える、甘い故郷のような自己憐憫である」と自嘲するその口吻に祖父朔太郎の面影が重なる。
沼正三にマゾヒズムの神髄を教えられる一章から東野芳明によって多摩美に呼ばれることになる最終章まで、一人の青年が60年代、70年代を無我夢中に駈け抜け、ふと気づくと妻子も家もある大学教授になっている。振り返ってみれば、贅沢なメンターたちに囲まれていた、あの「劇的な人生こそ真実」であったのだと気づく。この人でなければ書けなかった貴重な体験記。全共闘世代と括られることが多いけれど、アングラの時代でもあったのだ、とあらためて気づかされた一冊であった。