帯の惹句に「半自伝的実験小説」だとか「私小説にしてメタメタフィクション!」だとかいう文句が躍っているが、スランプに陥った小説家が何とかしてページ数をかせぐための苦肉の策じゃないか。しかも、ネタは自分の旧作からの引き写しだし。これが新作だったらかなりの批判が予想されるが、原作が刊行されたのが一九七〇年であることを考えると帯の惹句も満更、盛り過ぎというわけでもない。
エドはけっこうなハイペースで、ここまでは書いて来た。しかし、締め切りが近いのに突然書けなくなってしまう。スランプだ。しかし、エドにはスランプなどという言い訳は使えない。エドはゴースト・ライターなのだ。書けなければ代わりはいくらでもいる。妻子のいる今、実入りのいい仕事を失うわけにはいかない。
この仕事は大学時代のルーム・メイトのロンからの話だ。ロンはポルノに嫌気がさして、スパイ小説を書きはじめたら、これが売れて映画化もされた。この路線で行きたいが、ポルノの需要は絶えずあり、出版社としては人気作家の作品がほしい。そこで、大学時代の同期で売れていないエドにゴースト・ライターにならないか、と持ちかけたわけだ。
タイプライターに用紙を挟み、いざ書こうとするのだが、何も出てこない。スランプを克服するいい方法は、何でもいいから書くことだ。そのうちに調子が戻ってくる。そう聞いたので、エドはとにかく書き出すのだが、タイプ用紙に打ち出されるのはエドの現在の心境やら、ポルノ小説のセオリーやら、最近うまくいっていない妻ベッツィーとの関係といったポルノ小説とは関係のないことばかり。
この小説には上と下に二つのノンブルが打たれている。タイプ用紙二十五枚が完成原稿二十五ページに相当する。一章が二十五枚で十章書けば完成だ。しかし、二十五枚書けたところで原稿を破り捨て、はじめからやり直したりするから、下に打たれているこの小説のページ数は増えていくのに、上に打たれたノンブルはいっこうに数が増えていかない、という面白い仕掛け。いや、面白いのは読者にとってであって、主人公にとっては厄介のたねだ。
そんなこんなで七転八倒の挙句、どうにか第一章は書き上げるのだが、そのネタというのが、エド自身と妻ベッツィーをモデルにした身辺小説。実はエド、ポルノ小説は書いていても、妻以外の女性とセックスしたことがない。しかし、その分、頭ではいろいろ妄想している。一応作家なので妄想したことは書いて残している。ベビーシッターの十七歳のアンジーとのことも。実名なので日記みたいなものだ。しかし、すべては妄想であり、真実ではない。
ところが、エドの留守中にベッツィーがそれを読み、エドの帰りも待たずに子どもを連れて実家に帰ってしまう。実家には恐ろしい義兄二人がいて、話を聞いてエドの家に押しかけてくる。エドは這う這うの体で家を逃げ出し、ロンの部屋で原稿の続きを書く破目に。しかし、第二章が書けない。ポルノ小説でよく使う手に、章ごとに夫と妻の視点が入れ替わる、というのがある。それで行くと第二章はベッツィーが他の男とセックスをする番だ。今の状態でとてものことにそれは想像すらしたくない。
そこで、第二章を飛ばして第三章を書きはじめることにする。別の男女を次々とリレー式に登場させるロンド形式で行くわけだ。しかし、エドの家に探りを入れに行ったロンからの電話では、兄弟がこちらに向かっているらしい。慌ててロンの家を出たエドにはタイプがない。エドは百貨店のタイプ売り場で試し打ちをする客を装い、原稿の続きを書く。しかし、店員に見咎められ別の百貨店へ。
いつの間にか、エドが書いている話より、エドが置かれている状況の深刻さの方が数倍も興味深くなってきている。未成年のアンジーとのセックスは、ただの妄想なのだが、エド以外の人間にとっては犯罪である。警察がエドを追いかけ出す。追いつめられたエドは逃げ回りながら、タイプライターが使える場所を探しては、原稿の続きを書く。ここらあたりからの展開はジェットコースタームービーを観ているよう。
唯々、決められた枚数のタイプ用紙を埋めるために書き続けること、それが作家というものの至上命題であることが痛いほど伝わってくる。どうやら、元ネタになっているのは、ウェストレイク本人の実生活らしい。「半自伝的実験小説」、「私小説にしてメタメタフィクション!」の看板に偽りはないようだ。多作で知られる「ウェストレイク全作品の中でも大傑作に属する私小説にしてメタメタフィクション!」と若島正氏が絶賛するのも頷ける。
というのも、ネタに困ったエドがついつい持ち出す自身の逸話がいちいち思い当たる。大学に行ったのも、結婚せざるを得ない破目に陥ったのも、そこいらじゅうに転がっている、誰にでもある話だからだ。ゴーストだってライターであることにちがいはない。読者は面白がっているのだ。しかし、書いている本人は知っている。真の作家とそうでない者との差を。妄想日記で窮地に陥るところは、本当に面白い。それでいて、当人の心情を語る部分を読んでいると身につまされる。このギャップが凄い。
キスマークの中に、サイケデリック調(死語?)のレタリングで記されたタイトルといい、表紙の色調といい、七〇年代を知る者には懐かしい限りだが、意気阻喪したホールデン・コールフィールドばりのモノローグで押し通す語り口調に今の読者はついてきてくれるのだろうか。「メタメタフィクション」といえば、そうにちがいはないが、ついてない男の駄目っぷりをユーモラスかつシリアスに描いた、遅れてきた青春小説といいたいような出来映え。ファンは勿論、その実力を知るという意味で、初ウェストレイクという人こそ手にとるべき本かもしれない。