marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第三十章(1)

《次の日はまた太陽が輝いていた。
 失踪人課のグレゴリー警部はオフィスの窓から裁判所の縞になった最上階を物憂げに眺めていた。雨のあとで裁判所は白く清潔だった。それからのっそりと回転椅子を回し、火傷痕のある親指でパイプに煙草を詰めながら浮かぬ顔でこちらを見た。
「それで、また厄介ごとに巻き込まれたとか」
「もうあなたの耳に入ってるのか」
「やれやれ、一日中ここに尻をつけてるだけで、まるで頭に脳があるように見えないのだろうが、私が何を聞いているか知ったら君は驚くだろうよ。カニーノとかいうのを撃ったことに問題はないだろう。とは言え、殺人課の連中は君に勲章はくれないと思うね」
「私の周りで人がたくさん殺されているんだ」私は言った。「自分の取り分がまだだったものでね」
 警部はしたたかな笑みを浮かべた。「そこにいる女がエディ・マーズの女房だと誰に聞いたんだ?」
私は話した。警部は耳を傾け、そして欠伸した。窪めた掌で金歯の入った口を軽く叩いた。
「私が見つけるべきだったと考えているんだろう」
「そう考えるのが当然だ」
「知っていたかもしれない」彼は言った。「考えたかもしれない。エディと女がちょっとしたゲームをしたがってるのなら、上手くやれていると思わせておくのは気が利いてる──私にしては気が利いているとね。それとも、君はこう考えるかもしれない。私が専ら個人的な理由からエディが罪を免れるようにしたのだと」警部は大きな手を突き出し、親指を人差し指と中指にくっつけて回した。
「いや」私は言った。「そんなこと思いもしなかった。この間エディと会った時、我々のここでの話をすべて知っていたように思ったとしてもだ」
 警部は眉を上げようと骨を折っているようだったが、その芸当は練習不足で腕が落ちていた。額一面に皺が寄ったがすぐに消え、白い線のすべてが見る見るうちに赤みを帯びた。
「私は警官だ」彼は言った。「ただの平凡な普通の警官だ。適度に正直だ。流行遅れの世界で人が期待する程度には正直だ。今朝君に来てもらったのはそれが主な理由だ。信じてほしい。警官の身としては法が勝つところを見たい。派手な身なりをしたエディ・マーズのようなごろつきが、フォルサム刑務所の石切り場でマニキュアを台無しにするところが見たい。初めの仕事でドジを踏んで以来休みなしの哀れなスラム育ちの物騒な連中と並んでな。それが私の望みだ。君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる。この街では無理だ、ここの半分くらいの街でも無理、この広々として緑萌える美しい合衆国中のどこでも無理だ。我々はこの国をそのように動かしていない」
 私は何も言わなかった。警部は頭を後ろにぐいと引いて煙を吐き、パイプの吸い口を見ながら続けた。
「しかし、それは私がエディ・マーズがリーガンを殺したと考えていることを意味しない。殺す理由が思いつかないし、もし理由があったにせよ殺したとは思えない。もしかしたら何かつかんでいるのでは、と考えている。遅かれ早かれそれは明るみに出る。女房をリアリトに隠すなどというのは子どもっぽい。しかし、それは賢い猿が自分の賢さを見せつける類の子どもっぽさだ。あいつは昨夜ここにいた。地方検事の取り調べの後だ。すべて認めたよ。カニーノは頼りになる用心棒で、それが雇った理由だと言っていた。ただ、カニーノの趣味は知らないし、知りたいとも思っていない。ハリー・ジョーンズも知らないし、ジョー・ブロディも知らない。ガイガーのことは勿論知っていたが、裏の稼業については知らなかったと主張した。みんな聞いたんだろう」
「聞いた」
「リアリトではうまく立ち回ったな。小細工などせずに。近頃、我々は出所不明の銃弾のファイルを残している。いつか再びその銃を使うようなことがあれば、窮地に陥るだろう」
「私はうまく立ち回ったわけだ」私はそう言って流し目をくれた。彼は叩いて中身を捨てたパイプを、物憂げに見つめた。「女はどうなった?」彼は顔を上げずに訊いた。
「よくは知らない。警察は拘留しなかった。我々は三通の陳述書を書いた。ワイルド、郡保安官事務所、殺人課に宛てて。女は放免され、その後は見ていない。会えるとも思えない」
「どちらかといえば、いい女だそうじゃないか。悪事などしそうにない」
「どちらかといえば、いい女だ」私は言った。》

「その芸当は練習不足で腕が落ちていた」は<a trick he was out of practice on.>。双葉氏は「何かをごまかそうとするときのて(傍点一字)だ」と訳している。村上氏は「それは苦労して身につけた芸のようだ」と訳している。<out of practice>は「練習不足で腕がなまる」の意味。それがどうして、このような訳になるのかが分からない。

「君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる」は<You and me both lived too long to think I'm likely to see it happen.>。双葉氏は「君も私もずいぶん長生きしている。私がそういう場面を見たがっている気持ちはわかるだろう」と訳しているが、<too long to think>を正しく訳していない。村上氏は「ただし、そんな展開が望めそうにないことは、俺もあんたも長年の経験から承知している」と訳している。

双葉氏はこう訳したことで、それに続く以下の部分を完全に誤解してしまう。<Not in this town, not in any town half this size, in any part of this wide, green and beautiful U.S.A. We just don’t run our country that way.>を「この町でも、もっと小さい半分くらいの町でも、この広い青々とした美しい合衆国のどんな土地でも、奴らにのさばらせてはならん。私たちはそんなふうにこの国をまかなっておらんのだ」と。

村上氏は「この都市においても、またこの広大にして緑なす美しきアメリカ合衆国の、ここの半分くらいのサイズの都市ならどこといわず、そんなことはまず起こらんだろう。俺たちの国はそういう具合には運営されてないんだ」と訳している。意味としては合っているが、<not>を先頭に立てて、畳みかける原文の強い否定の意志が弱められている。それは、最後の文の主語が<we>から<our country>に代わっていることからも分かる。日本人なら国が誰かによって「運営されて」いると思うのかもしれないが、アメリカ人であるグレゴリー警部はちがう。法を守る立場にある人のこの苦々しさを薄めてはいけないと思う。