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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第5章(4)

《「座るんだ」私は故意に声を荒げて言った。「あんたが相手にしているのはムース・マロイのような騙されやすい馬鹿じゃない」
 空鉄砲を撃ってみたが、手応えはなかった。女は二度瞬きをし、上唇で鼻を持ち上げようとした。兎のような笑い顔に汚い歯が何本か見えた。
「ムース? あのムース? あいつがどうしたって?」彼女は息を呑んだ。
「釈放されたんだ」私は言った。「刑務所を出て、四十五口径を手にうろついている。今朝セントラル・アヴェニューで黒人を一人殺した。ヴェルマがどこにいるか言わなかったという理由でな。今頃、あいつは八年前に自分を刑務所に送り込んだ密告屋を探し回っている」
 女の顔が刷毛で掃いたように白く変わった。瓶を唇に押し当てて喉を鳴らして飲んだ。ウィスキーの滴が顎を伝って流れ落ちた。
「そしてお巡りがあいつを探している」彼女はそう言って笑った。「お巡りがねえ」
 愛すべき老女だ。私は一緒にいるのが楽しくなった。私は自分のさもしい目的のために女を酔っぱらわせた。私はやり手だったし、そうであることを楽しんでいた。この稼業じゃ、大抵ありあわせの物を見繕う。しかし、さすがに少しばかり胸が悪くなってきた。
 私は手の中に握りしめていた封筒を開け、艶のあるスティル写真を一枚取り出した。他の写真とよく似ていたが、違いがあった。ずっと見映えがした。娘は腰から上はピエロの衣装を着ていた。頭には黒いポンポンの着いた白い円錐形の帽子をかぶっている。ふわりとした髪の暗い色合いは赤毛だったかもしれない。横顔だが眼には陽気さがはっきり出ている。愛らしい、穢れのない顔、とまでは言わない。顔は得手ではない。だが、可愛い顔だった。人受けのする顔で、業界向きでもある。とはいえ、よくある顔で、厳密にいえば工場の組立ライン並みの可愛らしさだ。昼休みに街に出れば、その手の顔はごろごろいる。
 写真の腰から下は主に二本の脚で、それも極めて美しい脚だ。右手の下にサインがあった。「親愛なる──ヴェルマ・ヴァレント」
 私は間合いを取って、女の前に写真を掲げた。女は掴みかかったが、届かなかった。
「なぜこれを隠した?」私は訊いた。
 女は息を喘がせる外に音を立てなかった。私はそっと写真を封筒に戻し、封筒をポケットに入れた。
「なぜこれを隠したんだ?」私は重ねて訊いた。「なぜこれだけ見せられなかったんだ? この女はどこにいる?」
「その娘は死んだ」女は言った。「いい娘だったが、死んだよ、お巡りさん。もう帰りな」
 黄褐色の見るかげもない眉毛が落ち着かなく動いた。女の手が開いてウィスキーの瓶がカーペットに滑り落ち、ごぼごぼと中身がこぼれ出した。私は屈んで瓶を拾い上げた。女が私の顔を蹴ろうとしたが、私は身をかわした。
「あんたはまだ、なぜこれを隠したか言ってない」私は言った。「いつ死んだんだ? どんなふうに?」
「私は哀れな病気の婆さんだよ」彼女はぶつぶつ言った。「さっさと帰れ、このくそ野郎」
 私は立ったまま何も言わずに女を見ていた。特に言うべきことを何も思いつかなかった。私はしばらくしてから、女の傍に行き、今やほとんど空になっている平たい瓶を女の傍のテーブルの上に置いた。
 女はカーペットを見つめていた。ラジオは隅で楽しそうに鳴っていた。外の通りを車が通った。蠅が窓で羽音を立てていた。しばらくしてから女は片方の唇をもう一方の上で動かし、床に向かって話しかけた。意味をなさない戯言の寄せ集めだった。それから女は声を立てて笑い、頭を仰け反らし、よだれを垂らした。やがて右手で掴んだ瓶が歯に当たる音がして、女は残った酒を一気に飲み干した。瓶が空になると、女は持ち上げて揺すぶり、それから私に投げつけた。瓶はカーペットの上を滑りながら隅の方に転がっていき、幅木に当たってゴツンという音を立てて止まった。
 女はもう一度私を嫌な目つきで見てから両眼を閉じて鼾をかきはじめた。
 芝居かも知れなかったが、どうでもよかった。突然、私はこの醜態にうんざりした。ひどすぎる。もうたくさんだ。
 私はダヴェンポートから帽子をつかみ、ドアまで行き、ドアを開けて網戸の外へ出た。ラジオがまだ低く鳴り、女は椅子の上でまだ静かに鼾をかいていた。私はドアを閉める前にちらりと女を振り返り、それからドアを閉め、またそっと開け、もう一度見た。
 女の両眼は閉じたままだったが、目蓋の下に光るものがあった。私は階段を下り、ひびの入った道に沿って通りに向かった。
 隣家の窓のカーテンが横に引かれ、真剣な顔がガラスに押しつけられていた。白髪で尖った鼻の老女が覗いていた。
 口さがない年寄りが近所を監視しているのだ。どこのブロックにも少なくとも一人はあの女のような人間がいる。手を振って見せると、カーテンが閉まった。
 私は車に戻り乗り込んだ。そして、七十七丁目警察署に引き返し、二階にある臭いの染みついた戸棚みたいに小さなナルティのオフィスに通じる階段を上った。》

「空鉄砲を撃ってみたが、手応えはなかった」は<It was a shot more or less in the dark, and it didn't hit anything.>。清水氏は「私は闇の中にピストルを撃ってみたつもりだったが、手ごたえはなかった」。村上氏は「それは盲撃ちだったが、結局何にも当たらなかった」だ。「盲撃ち」は、差別用語扱いを受けているらしいが、村上氏はあえて使ったのだろうか。<shot>とあるので、「ほら、でまかせ」の意味がある「空鉄砲」をあててみた。

「上唇で鼻を持ち上げようとした。兎のような笑い顔に汚い歯が何本か見えた」は<tried to lift her nose with her upper lip. Some dirty teeth showed in a rabbit leer.>。チャンドラーは唇にこだわりがあるらしい。それとも英語ではよくあることなのだろうか。清水氏は「唇をひらいた。汚い歯が私を冷笑しているように見えた」と<leer>に「冷笑」をあてているが、<rabbit>は無視だ。

村上氏は「鼻と上唇を引っ張り上げようと試みた。根性の悪いウサギのような目つきになり、汚い歯が何本か見えた」だ。<a rabbit leer>を「根性の悪いウサギのような目つき」と解釈している。しかし、その前に言及されているのは「上唇で鼻を持ち上げようとした」ことである。上唇で鼻を持ち上げると、口角は下がったままで兎のように口が開く。そこから歯がのぞいたのだろう。<leer>には「薄ら笑い、含み笑い」の意味もある。ここは目つきではなく、口の開き方に着目するべきだ。

「ムース?(略)」の後の「彼女は息を呑んだ」は<she gulped>。清水氏はここをカットしている。村上氏はここを「彼女は酒をあおった」と訳している。しかし、女はさっき座り直したばかりだ。村上氏自身少し先で「女の顔がさっと青ざめた。酒瓶をとってそのまま口につけ、ぐいと飲んだ」と書いている。つまり、この時点では酒瓶を手にしていないわけだ。手にしているのがグラスだとすると、それを手にした隙にマーロウが動いたのだからグラスはまだ空のままだ。ここで女が酒を飲んだとは考え難い。

「この稼業じゃ、大抵ありあわせの物を見繕う。しかし、さすがに少しばかり胸が悪くなってきた」は<You find almost anything under your hand in my business, but I was beginning to be a little sick at my stomach.>。ここを清水氏は「私の仕事は、どんなことに出っくわすか、見当がつかないのだが、何が起こるのか少々気になってきた」と訳している。村上氏は「私のような商売をしていると、ほとんどどんなことだって平気でやってのけられるようになる。しかし、その私をしても、さすがにいくらか胸くそがわるくなってきた」と訳している。

ここはマーロウの自嘲である。いくら商売とはいえ、アル中の婆さんに酒をあてがって油断させ、写真を手に入れるやり方に自分で嫌気がさしてきているのだ。清水訳ではそれが伝わってこない。<under one’s hand>は「手もとにある、(すぐに)役に立つ」の意味。「どんなことだって平気でやってのけられる」というと、法に背いたり、人の道を踏み外したりしても、というような意味合いが感じられるが、そこまでは言っていない。

「顔は得手ではない」は<I'm not that good at faces>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「写真の顔からそこまでは読み取れない」と訳している。<(be) good at>は「~が得意である」という意味。しかも、<faces>と複数になっているところから見て、この顔写真一枚のことではないことがわかる。顔一般について、その美醜を論じることが得意ではない、と言っているのだ。

「人受けのする顔で、業界向きでもある」は<People had been nice to that face, or nice enough for their circle.>。清水氏は「たしかに、男たちに騒がれたであろう」とあっさり片づけている。村上氏はといえば「人々はそのような顔に対して優しく振る舞ってきただろう。少なくとも彼らの小社会(サークル)の基準からすれば、十分優しく接してきたはずだ」と訳している。<nice to>を「優しく接する」と書いている辞書はある。しかし、これでは英文和訳といわれても仕方がない。村上訳に対する批判はこういう訳に向けられているのだろう。

「とはいえ、よくある顔で、厳密にいえば工場の組立ライン並みの可愛らしさだ」は<Yet it was a very ordinary face and its prettiness was strictly assembly line>。清水氏は「ただ、その美しさは平凡な美しさで」と、後半をカットしている。村上氏は「とはいえそこにある美しさは飛び抜けたものではない。大量生産のラインから生み出される類のものだ」と訳している。

「親愛なる──ヴェルマ・ヴァレント」は<Always yours‐Velma Valento>。清水氏は文字通り「いつもあなたのもの──ヴェルマ・ヴァレント」と訳しているが、<Always yours>は、手紙にそえる定型句で、日本でいえば「敬具」のようなもの。特別な意味合いはこもっていないと思われる。村上氏は「心を込めて」と訳しているが、これでも感情が入り過ぎている気がする。

「黄褐色の見るかげもない眉毛が落ち着かなく動いた」は<The tawny mangled brows worked up and down>。清水氏はここをカット。村上氏は「黄褐色のくしゃくしゃの眉毛が上下した」と訳している。<mangle>は「めった切りにする、切りさいなむ」の意味。手入れされず放置されて、無残な様をいうのだろう。

「幅木に当たってゴツンという音を立てて止まった」は<bringing up with a thud against the baseboard>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「壁の腰板に当たってごつんという音を立てた」と訳している。<baseboard>は「幅木、すそ板」と辞書には出ている。村上氏も別の本では「幅木」と訳しているのだが、ここでは「腰板」と訳している。

「突然、私はこの醜態にうんざりした。ひどすぎる。もうたくさんだ」は<Suddenly I had enough of the scene, too much of it, far too much of it>。清水氏は「私はこれ以上、ここにいる必要はないのだった」と訳している。村上氏は「突然この場の光景に嫌気が差した。私はつくづくうんざりしていた。もうごめんだ」と訳している。<enough of >は「もうたくさん」という意味で、<scene>には「光景」だけでなく「(見苦しい振る舞いの)大騒ぎ」という意味がある。胸につかえていたものが限度を超えたということだろう。

「臭いの染みついた戸棚みたいに小さなナルティのオフィス」は<Nulty’s smelly little cubbyhole of an office>。清水氏はここを「ナルティの部屋」とばっさりとカットして訳している。村上氏は「嫌な匂いのしみついたナルティーの汚らしく狭いオフィス」だ。<cubbyhole>は「小部屋、小空間」の意味だが「こぢんまりして気持のいい部屋」という意味もある。「汚らしく」は訳者の主観が入り過ぎてはいまいか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第五章(3)

《そのとき、家の裏側からいろいろな種類のものがぶつかる音がした。椅子が後ろに倒れたような音、勢いあまって引き抜かれた机の抽斗が床に落ちる音。何かを手探りし、物と物がぶつかり合い、何事かぼそぼそと呟くだみ声がした。やがて、鍵の開く鈍い音がし、トランクの蓋が持ち上がる軋み音が聞こえた。さらに何かを探し回る音とどすんばたんという音。トレイが床に落ちた。私はダヴェンポートから身を起こし、食堂に忍び込み、短い廊下に出た。そして開いたドアの隙間から中を見回した。
 女はふらつきながらトランクの前にいた。中に入っていた何かをひっつかもうとして、額にかかった髪を煩わしそうに後ろへかき上げた。自分で思った以上に酔っていた。身をかがめ、トランクの上で体を支え、咳払いをしてため息をついた。そして太い膝を折り、両手をトランクの中に突っ込んで手探りした。
 おぼつかない手つきで上げられた両手には何か握られていた。色褪せたピンクのテープで括られた分厚い紙の束だ。女はのろのろと不器用な手つきでテープを解いた。束の中から一通の封筒を抜き出すと、もう一度前にかがみ込み、トランクの右手の見えないところに封筒を突っこんだ。そして、ぎこちない手つきでテープを縛り直した。
 私はこっそりと引き返し、ダヴェンポートに腰をおろした。ぜいぜいと荒い息をして、居間に戻った女は、ふらつきながら出入り口に立った。手にはテープで括られた束があった。
 女は勝ち誇ったように私に白い歯を見せると、束を投げてよこした。それは私の足下近くに落ちた。女はよたよたと揺り椅子に戻って腰をおろし、ウィスキーに手を伸ばした。
 私は床の上から束をつまみ上げ、色褪せたピンクのテープを解いた。
「それに目を通すことだね」女はうなるように言った。「写真、新聞用のスティル写真さ。あの手の渡り者は警察の厄介にでもならなけりゃ、写真は載らないけどね。そこにいるのが酒場にいた連中だよ。あの厄介者が残していったのはそれだけ。後は古着くらいのものさ」
 私は光沢のある写真の束をぱらぱらとめくった。男と女が職業的なポーズを決めている。男たちは鋭く抜け目のない顔をして競馬場用の服装か、さもなければ風変わりな道化めいた扮装をしていた。ドサ回りのタップ・ダンサーやコメディアンだ。メイン・ストリートの西側で稼いだ者は少ないだろう。この連中を見物できるのは、しがない町のミュージック・ホールが通り相場、でなきゃ場末の安っぽいストリップ小屋の取り締まりすれすれの卑猥なショーだ。時にやり過ぎて警察の手入れを受け、派手な裁判沙汰になることもあるが、すぐにショーに戻って来る。薄ら笑いを浮かべ、怖気を震わせるほど不潔で、ひどく饐えた汗の臭いをさせながら。美しい脚を持つ女たちは、映画では許されないほど大胆に内股の曲線美を見せびらかしていた。しかし、顔ときたら簿記係の事務服同様くたびれている。金髪、黒髪、その中には、田舎の鈍い雌牛のような大きな眼、食い意地の張ったハリネズミのような小さな鋭い眼もいる。ひとつふたつの顔は明らかに性悪だった。赤毛のように見えるのも多少あったが、白黒写真でははっきりしたことは言えない。私はとくに興味も持たずにひととおり目を通すと、もとのようにテープで括った。
「どれも知らない顔ばかりだ」私は言った。「どうして、私にこんな物を見せるんだ?」
 女は右手で揺れる瓶と格闘しながら、私に横目をくれた。「ヴェルマを探してるんじゃないのかい?」
「この中にいるのか?」
女の顔に色濃く出ていた狡猾さが、興味を失ったのか、どこかへ行ってしまった。「あの娘の写真をもらわなかったのかい?──親戚から」
 女が引っかかっていたのはそれだった。どんな娘でも家のどこかに写真の一枚くらい残しているものだ。たとえそれが短いドレスを着て、髪にリボンを結んだものであっても。私としたことが、それに思い及ばなかったとは。
「あんたのことが、また好きでなくなってきたよ」女はほとんど静かな口調で言った。
 私はグラスを手に立ち上がり、女の傍に行き、テーブルの端に置いた。
「瓶を空にする前に、私にも一杯注いでくれ」
 女がグラスを手に取るや、私は身をひるがえし、速足で方形のアーチを抜けて台所に入った。廊下を通り、散らかった寝室に入ると、トランクの蓋が開けっ放しになり、トレイが放り出されていた。私の後ろで声がした。私はトランクの右側に手を突っ込むと、封筒を探し出し、素早く引っ張り出した。
 私が居間に戻ったとき、女は椅子から立ち上がっていたが、二、三歩しか足を進めていなかった。狂人のように虚ろな目つきだった。人を殺しかねない虚ろさだった。》

「女はふらつきながらトランクの前にいた」は<She was in there swaying in front of the trunk,>。どこにも座ったとは書いていない。ところが、清水氏は「彼女はトランクの前に坐って」と、女を座らせてしまっている。後になって膝をつくところで「坐り込むと」と、描き分けているが、ちと苦しい。村上氏は「彼女はトランクの前で身体をゆすりながら」と訳している。

「色褪せたピンクのテープで括られた分厚い紙の束だ」は<A thick package tied with faded pink tape.>。この<package>を清水氏は「写真の束」、村上氏は「分厚い包み」と訳している。この時点で、清水氏のように「写真」とバラしてしまうのは、やりすぎではないだろうか。また、<package>には、確かに「包み」という訳語が辞書にあるが、紐で括られただけのものを「包み」と呼ぶのは、少し抵抗がある。

「この連中を見物できるのは、しがない町のミュージック・ホールが通り相場、でなきゃ場末の安っぽいストリップ小屋の取り締まりすれすれの卑猥なショーだ」は、少し長いが<You would find them in tanktown vaudeville acts, cleaned up, or down in the cheap burlesque houses, as dirty as the law allowed>。

清水氏は「場末の寄席やストリップ劇場に出ている連中ばかりで、そのストリップ劇場も、おそらく、取締りにぎりぎり(傍点四字)のショウで」と訳している。村上氏は「彼らの仕事の場は、しょぼくれた町のヴォードヴィル・ショーや、露天の市や、あるいは場末のストリップ小屋だ。法律が許すすれすれにいかがわしい小屋で」と訳している。気になるのは「露天の市」と訳した<cleaned up>だ。

辞書をいくら引いても<cleaned up>にそういう意味は出てこない。<clean up>を使ったイディオムに「行いを改める」という意味の<clean up one's act>というのがある。カンマの前にある<act>(舞台、ショー)に引っ掛けて、後に出てくる「法律が許すすれすれにいかがわしい小屋」と対比して、<clean up one's act>(行いを改める)を使ったのではないだろうか、と考えたが自信はない。

「映画では許されないほど大胆に」は<more than Will Hays would have liked.>。清水氏は「映画だったら許可にならないほど」。村上氏は「風紀委員会がいきりたちそうなほど」といずれも意訳している。この<Will Hays>という人物が分からないと訳し様がないからだ。このヘイズ氏が、アメリカ映画における検閲制度でいうところの、あのヘイズ・コードの名の由来になった人物である。当時ならまだしも、今の時代に「ウィル・ヘイズが好むであろう以上に」と訳しても多分意味が通じない。

「食い意地の張ったハリネズミのような小さな鋭い眼もいる」は<Small sharp eyes with urchin greed in them.>。清水氏は「雉の眼のようなにぶい瞳」と訳している。<urchin>は「ハリネズミ、ウニ」ではあっても「雉」ではない。村上氏は「小さな鋭い目には、ハリネズミ顔負けの強欲さが宿っている」と訳しているが、いったいどこからハリネズミ強欲説を引っ張り出してきたのだろう。そんな言い伝えでもあるのだろうか。

「女の顔に色濃く出ていた狡猾さが、興味を失ったのか、どこかへ行ってしまった」は<Thick cunning played on her face, had no fun there and went somewhere else.>。清水氏はここを「彼女の瞳がずるそうに光った」と訳している。それでは意味が変わってしまうだろうに。村上氏は「食いつくような狡猾さが彼女の顔に浮かんだ。しかし食い応えがなかったのか、そのままどこかに去っていった」と訳している。

マーロウがヴェルマの顔を知っているのかどうかを、女はずっと計りかねていたのだろう。それが、マーロウの不用意な質問で腑に落ちた、ということではないのか。問題はこの後の「写真はもらっていないのか」という女の問いに、マーロウが「もらってない」と答える場面だ。両氏の訳にはそれがあるのだが、私の参照しているテクストに、マーロウの返事はない。両氏の参照しているテクストと私のそれが異なるのだろうか。

<That troubled her.>を清水氏は、その前の「もらって来ない」に続けて「この答えは彼女の気に入らなかった」と訳している。村上氏は「もらわなかった」に続けて「その答えは彼女の気に入らなかったようだ」と、ほぼ旧訳に忠実な訳になっている。私の場合、マーロウは無言なので「女が引っかかっていたのはそれだった」と訳している。<that>をマーロウの答えと取るのではなく、マーロウが「写真」を持っていないこと、と取ったのだ。これで十分意味は通じる。マーロウは本当に女に答えたのだろうか?

「トランクの蓋が開けっ放しになり、トレイが放り出されていた」は<the open trunk and the spilled tray.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「トランクが開けっ放しになり、トレイに載っていたものが飛び散っていた」と訳しているが、<the spilled tray>を「
トレイに載っていたものが飛び散っていた」と訳すのは無理がある。

「狂人のように虚ろな目つきだった。人を殺しかねない虚ろさだった」は<Her eyes had a peculiar glassiness. A murderous glassiness.>。清水氏は「ガラスのような気味の悪い眼で、私を見つめていた」と訳している。村上氏は「目には妙にどろんとしたよどみがあった。人を殺しかねないようなよどみだ」と訳している。<glassiness>には「ガラスのような」も「どんよりしている(こと)」も「生気のない(こと)」も辞書にあるので、どれを採るかということだが、「人を殺しかねないようなよどみ」というのが、どういうものなのか、よく分からない。

橋本屋再訪

 

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十月の末に訪れたときはあいにくの休業日で、お目当ての山菜定食をいただくことができなかった。妻の車も新しくなり、せっかくの休みということでリベンジすることにした。三連休の最終日、好天に恵まれて人の出は予想通りの大賑わい。それでも、名張までは渋滞もなくこぎつけた。それにしても、名張という町はどうしてこんなに信号が多いのだろう。

それも、必ず赤信号につかまる。たいていの幹線道路では信号は系統化されていて、うまく行けば、スムーズに通過できるようになっている。しかし、名張の道路は道幅はさほど狭くもないのに、妙な造りで片側一車線で通行するようになっているから、信号が青に変わっても最後尾の車が通りきるまでに再び赤に変わってしまう。こうして、どんどん車の列が長くなり渋滞が起きるという仕組みだ。

予想通りここで時間を食って、室生寺に到着したのは二時を回っていた。電話で何時までにはいればいいか前もって聞いたあったからあわてはしなかったが、腹はすいていた。ところが、それまではすいていた道に急に車が溢れ出した。それもロードスターや、高級外車が次々と坂道を下りてくる。きっとツーリングの帰りなのだろう。そう話しながら店に向かうと室生寺参道の細道が人と車で溢れかえっていた。

ツーリングの参加者が山を下りてくる車列とこれから室生寺に向かう車が細い道で対向しようとするが、参拝客がその間を抜けようとするので二進も三進もいかなくなっていた。特に橋本屋の前が細くなっていて、店の人が交通整理をしていた。青のロードスターがリアをはみ出す形で停まっていた。どうやらこちらを通すために待っていてくれるらしいが、まだ車両感覚がつかみきれていない妻はハンドル操作に手間取っていた。

助手席の窓を開けて道路際を確認していると、半纏を着た女の人が「ハンドルはまだ切らない。左に回す」と指示を出してくれた。内輪差を見たのだろう。妻が左に切ると、前輪はぎりぎりのところを通って対向車をかわすことができた。そのまま奥に進むと、ツーリングの最後尾の車がまだ列を作っていた。その中には一時は購入を考えたアルファロメオのジュリアもいた。思ったより小さく見えた。四日市にあったら試乗していたのに、とちらっと思った。別館の駐車場に車を停めて歩いて戻った。

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先客は昼食をすませたのだろう、店はがらんとしていた。先ほどの女性に交通整理の礼を言って、勧められた席に着いた。窓際から川を挟んで室生寺の紅葉が臨める絶好の席だ。妻は山芋の揚げたのが食べたいと、女性限定の山菜ランチ、当方はとろろが食べられる「あじさい定食」。すいているからか、すぐに出てきた。妻が、山菜料理は冷めていても構わない。温かいのは揚げ物だけだから早いのだろう、と言った。なるほどそういうものか。(写真は山菜ランチ)

 

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相変わらず、ここの白和えは美味しい。大和芋のとろろは粘りがすごくて御飯の上で丸まって、なかなか混じらない。お好みにより醤油をかけて、と言われたので、少し垂らした。出汁でのばしたのとはちがう、もちもちした食感が半端ではない。これだけで箸が進むので、後の料理の出番がない。以前は妻の車で来たときはお酒を頂いたものだが、近頃はやめている。いつでも運転を替わる気でいるからだ。

お金を払いながら、妻が店の主人らしき人と話をしている。前回来たときは休みだったという話だ。「十一月は休まないんですが、一日は法事だったので」とのことだった。紅葉見物の客が多い十一月はかき入れ時なのだろう。「室生寺はこれからですか?」と聞かれた妻が「室生寺には行きません。ここに来たかったんです」と答えていた。前の川にかかる赤い橋に足を向ける私に「室生寺には行きません、と言ってしまったのに」と妻。「橋だけ」と私。「いつ撮っても同じ写真になる」と、妻が笑って言った。

帰りは運転させてもらった。前よりは運転に慣れてカーブも怖くなくなった。それでも、シートの高さは他車の比ではない。すれ違う車を上から目線で見下ろす感じだ。小さい車なので高くすることで室内を広く感じさせようということなのだろうか。信号で止まった後、アクセルペダルを踏むと背中がシートに押しつけられる感じがする。排気音と、この圧迫感が心地よい。ほぼ二時間の運転だったが、全く疲れなかった。いい車だ。

 

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第5章(2)

《「そのヴェルマっていう娘は芸人でね、歌手だった。あんたは知らないだろう? あの店に通い詰めてたとも思えないし」
 海藻色の眼は瓶から離れなかった。苔が生えたように白い舌が唇に纏わりついていた。
「なんとね、酒のご登場だよ」女はため息をついた。「あんたが誰だって構やしない。いいから後生大事に抱えてるんだ、ミスタ。一滴でもこぼしたりするんじゃないよ」
 女は立ち上がって、よたよたと部屋を出て行き、汚れた厚手のグラスを二つ持って帰ってきた。
「つまみはなし。あんたが持ってきたこれさえあればいい」彼女は言った。
 自分だったら壁の上にふわふわ浮かび上がりそうなくらい、私は女に酒を注いだ。女はがつがつと手を伸ばし、アスピリンの錠剤のように嚥み下すと、瓶を見た。私は女にもう一杯注ぎ、自分には少なめに注いだ。女は自分の揺り椅子に酒を持って行った。眼はすでに褐色の度合いを二度ほど増していた。
「この酒はあっという間に消えちまう」彼女はそう言って腰を下ろした。「何が起きたかも知っちゃいないね。何の話をしてたんだっけ?」
赤毛の娘だ。名前はヴェルマ。昔セントラル・アヴェニューのあんたの店で働いていた」
「そうだった」彼女は二杯目を飲み干した。私は傍に行って女の脇にあるテーブルの端に瓶を置いた。女はそれをとろうと手を伸ばした。「あんた誰だと言ったっけ?」
私は名刺を取り出して女に渡した。女は舌と唇を使って読むと、脇のテーブルに落とし、その上に空のグラスを置いた。
「ほう、私立探偵かい。あんたさっきそうは言わなかったね、ミスタ」女は人差し指を振り動かして愉し気に私を責めた。「けど、あんたの酒があんたは正直者だと言ってる。犯罪に乾杯」女は三杯目の酒を自分で注ぎ、飲み干した。
 私は腰を下ろし、指の周りで煙草を回しながら待っていた。女は何かを知っているか、知らないかのどちらかだった。もし、何かを知っているなら、私にしゃべるかもしれないし、しゃべらないかもしれない。実にシンプルだ。
「可愛い赤毛の娘だった」彼女はゆっくりと低い声で言った。「ああ、あの娘のことは覚えてるよ。歌って踊って、きれいな足を惜しげもなく見せていた。どこかへ行ってしまった。あの手のはぐれ者のことだから誰に分かるもんかね?」
「いや、あんたが知ってるだろうと考えたわけじゃない」私は言った。「ただ、関係者を訪ねて質問するのが決まりなんだ、ミセス・フロリアン。ウィスキーは好きにやってくれ。もっと要るようなら買ってくる」
「あんたは飲んでないね」彼女は藪から棒に言った。
 私はグラスを手で包み込み、時間をかけて飲み、実際以上飲んでいるように見せかけた。
「あの娘の親戚はどこにいるんだい?」彼女は出し抜けに尋ねた。
「それがどうかしたか?」
「わかったよ」彼女は鼻で笑った。「警官はみな同じさ。いいんだよ、ハンサムさん。酒を買ってくれるやつは友達さ」女は瓶を手にとって四杯目の酒を注いだ。「口は災いの元っていうことぐらい知ってる。でもね、私は気に入った男には、限度ってものがなくなっちまうのさ」彼女は作り笑いをした。洗濯桶と同じくらいキュートだった。「落ち着いて待ってるんだよ。蛇を踏んだりしないようにね」彼女は言った。「思いついたことがあるのさ」
 女は揺り椅子から立ち上がり、くしゃみをした。もう少しでバスローブがはだけそうになった。胸元を掻き合わせると冷たい目で私を見た。
「覗くんじゃないよ」彼女は言った。そして、また部屋を出て行った。肩をドアの枠にぶつけながら。
 私の耳に探り足で家の裏側に入っていく女の足音が聞こえてきた。
 ポインセチアの新芽が玄関の壁をぱたぱた叩いていた。洗濯物を干した針金が家の横手で軋むような音を立てていた。アイスクリーム売りがベルを鳴らしながら通り過ぎた。新品の大型ラジオが部屋の隅でダンスと愛を囁いていた。トーチ・シンガーの咽び声に似た、低く静かに心動かされる音色で。》

女は酒を目にすると突然しゃべり出した。「なんとね、酒のご登場だよ」と訳したところは<Man, that's liquor>。清水訳では「ウィスキーは、久しぶりだよ」。村上訳だと「そういうのが本物の酒だ」だ。御両所とも<man>をカットしている。間投詞としての<man>には、男性への呼びかけをはじめ、いくつかの働きがあるが、ここでは、驚きを表す言葉と見るのが妥当だろう。

「つまみはなし。あんたが持ってきたこれさえあればいい」は<No fixin's. Just what you brought is all>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「割るものはなし。生(き)のままでいこう」と訳す。<fixin’s>は<fixings>のことで、主となる食材に追加する食べ物のこと。「付け合わせ」のことである。どう見ても依存症と思われる女が品質は保証つきのバーボンを何かで割ろうなどとは考えないに決まっている。同様につまみも必要としない。ピーナッツ程度の買い置きもないということだろう。

「自分だったら壁の上にふわふわ浮かび上がりそうなくらい」は<that would have made me float over a wall>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「私なら意識朦朧としてしまいそうなほどの量だ」と訳している。どんなに大きいグラスか知らないが、マーロウもかなりの酒好きだ。生のバーボンをグラス一杯飲み干したくらいで意識朦朧になったりするはずがない。少し気分がよくなる程度だろう。村上氏にしてはめずらしい意訳だが、少しオーバーではないか。

「この酒はあっという間に消えちまう」は<Man, this stuff dies painless with me>。清水氏はここを、さっきカットした<No fixin's. Just what you brought is all>を使って「これさえあれば、何も要らないんだよ」と訳している。村上氏は「あんた、この酒は私の中で安らかに成仏したよ」だ。ほぼ直訳だが<dies>についている三単現の<s>を無視して「成仏した」と訳すのはどうか。

「何が起きたかも知っちゃいないね」は<It never knows what hit it.>。清水氏はここもカットしている。村上氏は「自分が何にぶつかったのかもわからないままね」と訳している。酒が体の中に入っていくとき、何かに「ぶつかった」りするだろうか? <not know what hit you>は、突然のできごとに困惑した様子を表すイディオム。<hit>を文字通り何かに「ぶつかる」と訳す必要はない。

「私の耳に探り足で家の裏側に入っていく女の足音が聞こえてきた」は<I heard her fumbling steps going into the back part of the house.>。清水氏は「私は家の裏がわに行く彼女のよろめく足音を聞いた」と訳している。不思議なことに村上氏はこの一行を訳していない。カットしたというより、訳から抜け落ちてしまったのだろう。次の段落で、章冒頭に詳しく描写されたポインセチアや洗濯物などが今度は物音として描写される。耳を澄ませるマーロウにつながる大事な一文である。

「新品の大型ラジオが部屋の隅でダンスと愛を囁いていた。トーチ・シンガーの咽び声に似た、低く静かに心動かされる音色で」は<The big new handsome radio in the corner whispered of dancing and love with a deep soft throbbing note like the catch in a torch singer's voice.>。清水氏はあっさりと「部屋の大きな新しいラジオがダンス音楽を低く奏でていた」と訳している。これですめば苦労はない。村上氏は「美しい新品の大型ラジオが部屋の片隅で、ダンスと愛について囁いていた。トーチ・シンガーの、声がつっかえているような深くソフトな疼きを聴き取ることができた」と訳している。英語としては特に難しくはないが、こなれた訳文にするのにてこずった。村上訳の「声がつっかえているような深くソフトな疼きを聴き取ることができた」と比べてみてほしい。

トゥインゴGTがやってきた。

 

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前日納車されたばかりのルノー・トゥインゴGT。はじめは四日市まで取りに来いと言われたのだが、近くの日産まで運んでもらえたので、そこでレクチャーを受けた。ボディカラーはオランジュブレイズ。0.9L、ターボ付き3気筒、リアエンジン・リアドライブ方式という今どき珍しい車である。小さい車がいい。可愛いだけではダメ。カッコよくなくては、という妻がやっと気に入った一台である。猫バスのような外観とダッシュボード周りの渋さが最後の決め手だった。

とびっきりの晴天なので、ちょっとそこまで走りに行こうということに。行き先はパール・ロードの展望台。元は有料道路だったパール・ロードは鳥羽・的矢の間をリアス式海岸特有の入り組んだ海岸線に沿ってうねうねと伸びる観光道路で、展望台にあるレストランからの景観が最高でドライブがてらの食事にはうってつけだ。的矢から鵜方に出て第二伊勢道路で帰るのがいつものコースだが、午後、用事が待っているのでこの日はUターン。

とは言っても、これは妻の愛車。運転するのは妻で、私は助手席。妻が前に乗っていたコペンに比べシート位置が高く、ヘッド・クリアランスも握り拳二つ分はあるので余裕。高速道路から続く(高速道路ではない)道を鳥羽まで快適に走り、安楽島からパール・ロードに至る一車線の道は、土曜日ということで他府県ナンバーの車が多く、のろのろ運転が続く。

ところが、カーブの連続するパール・ロードに入ると、何台も連なっての低速運転に
「私、今日はこの方が安心」と言いだした。わけを聞くと何だかカーブでこけそうな気がして怖いんだとか。たしかに、低重心のコペンと比べると車高が高いので、そんな気がするのかもしれない。「そのうちに慣れると思うよ」と言ったのだったが。

お目当てのレストランは団体の予約が入っていて、少し待たなくてはならなかった。午後の予定があったので、軽食のとれるフード・コートに入った。ネバトロ系好きの妻は「めひびうどん」。自分は「焼きそば」を注文。さっさと食べ終わって、展望台から海を眺めた。海はきれいだったが、対岸は霞んでいて富士山は見えなかった。

帰り道はハンドルを握らせてもらうことになった。ところが、いざハンドルを握ると、慣れた路なのに、たしかに怖い。いつもならブレーキなんか踏まずに曲がるカーブでついブレーキを踏んでいる。
「ほんとに怖いなあ」とつぶやくと
「ね、ほんとでしょう」と、妻。ついつい上体をカーブの内側に曲げてしまう。何だろう、このゴーカートのような感覚は?

路肩に停めて、シートの高さを確かめた。やはり高めに設定してあった。ステアリングを下げたり、シートを上げたりする機能はコペンについていなかった。それでハンドルの位置とシートの高さを合わせるのに、シートの方を上げたのだろう。もともと座面の高い車なのに、それを上げたものだから、アップ・ダウンの続く道で下りカーブになると、フロントガラスの視界が開けているのと相まって、ジェット・コースターに乗っているような感じで怖気が走るのだ。

いちばん下まで下げると、やっと落ち着いた。シートの高さに合わせ、ステアリングをチルトして、再出発。やっと恐怖感から逃れられた。しかし、それでもシートの高さはかなりのものだ。車から降りるとき、身長173センチの私でも、足の裏が地面につかないくらいだ。今まで乗ってきた車が、みな沈み込むようなシートだったからか、この見下ろすような視点になかなか慣れない。

やや小径と思われるステアリングのせいもあって、ハンドルの切れはいい。慣れてきたらカーブの連続する道も、小気味よく運転することもできるだろう。時々は運転を交代してもらって早くこの車に慣れたいものだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第五章(1)

《西54番街1644番地は、前にひからびた褐色の芝生のある、ひからびた褐色の家だった。こわもての椰子の木の周りの地面は広い裸地になっていた。ポーチには木製の揺り椅子がぽつんと置かれ、昼下がりの微風を受けて、刈らずに捨て置かれた去年のポインセチアの新芽がひびの入ったスタッコ壁をぱたぱた叩いていた。汚れが落ちきっていない黄ばんだ衣類がごわごわになって、横手の庭に張った錆びた針金の上で列を作って震えていた。
 私は四分の一ブロックほど車をそのまま走らせ、通りの反対側に駐車し、歩いて戻った。
 呼鈴が鳴らないので、網戸の縁を叩くと、ゆっくりと足を引きずる音がしてドアが開いた。暗がりの中から、いかにもだらしない女が現れて、鼻をかみながらドアを開けた。顔は青白くむくんでいた。ぼさぼさの髪は茶色でも金髪でもない曖昧な色で、赤毛というには活気がなく、白髪というには清潔さが足りなかった。ずんぐりした体に不格好な毛足の短いフランネルのバスローブをまとっているが、色も形も歳月を経ており、ただ何かを羽織っているというだけだった。すり減った茶色の革の男物のスリッパから目に見えて大きな足の指がのぞいていた。
「ミセス・フロリアンですね? ミセス・ジェシー・フロリアン?」私は言った。
「ああ」病人が寝床から出てきたような声が喉から引きずり出された。
「ミセス・フロリアン。ご主人は以前セントラル・アヴェニューで店を経営されていたマイク・フロリアンですね?」
 女は親指でほつれ毛を大きな耳の後ろにかきあげた。眼が驚きできらりと光った。彼女は喉に何か詰まったような聞きづらい声で言った。
「な、何なの? 頼むから驚かさないで。マイクなら五年も前に死んでる。あんた誰って言ったっけ?」
 網戸は閉じられたままで掛け金がかかっていた。
「捜査員です」私は言った。「ちょっとお伺いしたいことがありまして」
 彼女はしばらくの間おもしろくもなさそうに私を見つめた。それからやっとのことで掛け金をあけ、顔をそむけた。
「さっさと入っとくれ、まだ掃除もしていなというのに」彼女は哀れっぽい鼻声で言った。「おまわり、ねえ?」
 私は中に入り、網戸の掛け金をかけ直した。大きくて高そうなキャビネット・ラジオが戸口の左手の部屋の隅で物憂げに鳴っていた。そこにある物の中でまともな家具はそれだけだった。買ったばかりのようだった。あとは薄汚れたがらくたでいっぱいだった。ポーチにあったのと揃いの木の揺り椅子が一つ、方形のアーチをくぐった向こうが、染みのついたテーブルの置かれたダイニング・ルーム。キッチンに通じるスウィング・ドアは一面指の痕だらけだった。シェイドの擦り切れた一対のスタンドは、かつてはけばけばしかったろうが、今は歳とった街娼の陽気さにまで落ちぶれていた。
 女は揺り椅子に座り、スリッパをぱたぱたさせながら私を見ていた。私はラジオの方を見てダヴェンポートの端に腰を下ろした。女は私の見ている方を見た。中国人の飲む茶のように薄っぺらな偽りの陽気さが彼女の顔と声の中で動いた。「それだけが私の連れさ」彼女は言った。それからくすくす笑った。「マイクがまた何かしでかしたっていうんじゃないよね? おまわりの訪問には、とんとご無沙汰していてね」
 彼女のくすくす笑いにはアルコールによるしどけなさが含まれていた。私は背中に何か硬いものを感じ、引っ張り出すと空のジンの一クオート瓶だった。女はまたくすくす笑った。
「冗談はさておき」彼女は言った。「今いるところに安っぽい金髪がわんさといるといいのに。あの人そういうのに目がなかったから」
「私としてはどちらかといえば赤毛を考えていたんだが」私は言った。
赤毛の子も何人かはほしいだろうけど」女の眼は今ではそうぼんやりとはしていないように見えた。「思い当たらないねえ。何か特別な赤毛?」
「その通り。名前はヴェルマ。上の名前は名のらなかったので知らない。どうせ本名じゃないだろう。親戚の依頼でその女を捜してるところだ。セントラル・アヴェニューにあったあんたの店は、名前はそのままだが、今では黒人専用になっている。もちろん誰も女のことを知らなかった。それであんたのことを思いついたんだ」
「その親戚はあの娘を捜すのにえらく手間取ったもんだね」女は思うところがあるように言った。
「少しばかり金の問題がからんでるんだ。大金じゃない。親戚はそれに手をつけるために女を見つける必要があるんだろう。金が記憶をはっきりさせるのさ」
「酒も同じさ」女は言った。「何だか今日は暑いね? けど、あんた警察だと言ったしね」狡猾な眼に、落ち着いた抜かりのない顔。男物のスリッパを履いた足は動かなかった。
 私は空っぽの酒瓶を持ち上げて振った。それから空き瓶を脇に投げ捨て、尻ポケットの保証付きバーボンの一パイント瓶に手を伸ばした。黒人の受付係と私が口をつけたばかりのやつだ。私はそれを膝の上に置いた。女の両眼が疑り深そうにじっと見つめた。やがて疑惑が仔猫のように顔中を這い上がっていったが、仔猫のように楽しげではなかった。
「あんたはおまわりじゃないね」彼女はおとなしく言った。「警官はそんな酒、買いはしない。何の冗談だい、ミスタ?」
 彼女はまた鼻をかんだ。今まで見たことがないほど汚れたハンカチの一つで。その両眼は瓶の上に据えられていた。疑惑が渇きと闘っていた。渇きが勝利した。勝負は端から決まっている。》

 第五章は、未亡人宅を訪れたマーロウと夫人とのやり取りが描かれる。ジェシーという女性の描写が強烈だ。訳者の訳し方によってその個性に若干温度差が垣間見える。

「こわもての椰子の木」は<a tough-looking palm tree>。<tough-looking>は読んで字のごとく「こわもて」だ。ふつうは<tough-looking gangster>のように使われる。清水氏は「みすぼらしい棕櫚の木」と訳している。どうして<tough-looking>を「みすぼらしい」と訳したのかは分からない。村上氏は「強情そうな椰子の木」だ。「強情そうな」というのは椰子のどの部分を指しているのかよく分からない。はじめは「よく繁った」と訳すことも考えたが、わざと擬人化していると考え「こわもて」とした。

「汚れが落ちきっていない黄ばんだ衣類がごわごわになって」は<stiff yellowish half-washed clothes>。清水氏は「まだ乾ききっていない黄いろい服」と<half-washed>を「生乾き」と解釈しているが「生乾き」の状態なら、<stiff>(曲がらなくて硬い)という表現にはならないだろう。<half>には「不十分な、不完全な」という意味がある。村上氏は「洗われたのか洗われていないのかよくわからないくらい黄ばんだごわごわとした衣服」と訳しているが、少しくどい気がする。

「四分の一ブロック」は<a quarter block>。清水氏は「私はその家の前を通りすぎ」とここをカットしている。また「顔は青白くむくんでいた」の原文は<Her face was gray and puffy>だが、ここを清水氏は「元気のない顔色だった」と訳している。<gray>は顔の色として使われると「青白い、土気色、蒼白」の意味になるから「元気のない」と訳したのだろうが<puffy>が抜け落ちている。村上訳だと「顔は灰色にむくんでいた」だ。「灰色」の顔というのも想像しにくい。

髪の色について述べているところで「赤毛というには活気がなく、白髪というには清潔さが足りなかった」としたのは原文では<that hasn't enough life in it to be ginger, and isn't clean enough to be gray.>。村上氏は「ショウガ色というには活気に欠け、白髪というには清潔さに欠けている」と訳しているが、<ginger>は髪の色として使うときは「赤毛」のことを指す。また、<ginger>には「元気、活力」の意味があるので、こう言ったのだろう。清水氏はこの部分を完全にカットしていて言及がない。

「女は親指でほつれ毛を大きな耳の後ろにかきあげた」は<She thumbed a wick of hair past her large ear.>。清水氏は「彼女は大きな耳のうしろの髪をかきあげた」と訳している。<wick>は「(ろうそくの)芯」のことなので「ほつれ毛」をかきあげたのだろう。清水訳だと髪の量が多すぎる。村上氏は「女は髪を一筋つまんで、大きな耳の後ろにやった」と訳している。

「捜査員です」は<I’m a detective.>。便利な呼称を使っている。前に<police>がつけば「刑事」、<private>がつけば「私立探偵」となる。相手が勝手に警察の者だと思うことを意図しているのだろう。清水氏は「探偵ですよ」と訳しているが、」村上氏は「私は捜査をしているものです」と、ぼかしている。案の定、女は<cops>(警官)と誤解している。

「あとは薄汚れたがらくたでいっぱいだった」は<Everything was junk-dirty overstuffed pieces>。清水氏は「そのほかのものは、ことごとくガラクタ同様だった」と訳している。村上氏は「あとはあれもこれも、ほとんどがらくたみたいなものだ。やたら詰め物の多い汚らしい家具」と<dirty overstuffed pieces>を他の家具の一つに数えあげている。たしかに<overstuffed>は布や皮などで「張りぐるみ」にされた椅子を指すことがある。しかし<pieces>と複数形になっているところからみて、部屋にあるその他の家具を指すと考えるのが普通だ。村上氏の頭には後に出てくるダヴェンポートのことがあったのではないか。

「女は揺り椅子に座り」は<The woman sat down in the rocker>。清水氏はここに限らず<rocker>をすべて「安楽椅子」と訳しているが、これは変だ。木製の安楽椅子というのは考え難い。特にポーチに置いているところから見て、これはロッキング・チェアのことだろう。

「今いるところに安っぽい金髪がわんさといるといいのに。あの人そういうのに目がなかったから」は<But I hope to Christ they's enough cheap blondes where he is. He never got enough of them here.>。清水氏は「ずいぶん、女がいたから、何かあったかもしれないけど……」とぼかしている。村上氏は「でもさ、あたしとしてはあいつの送り込まれたところに、安っぽい金髪女がうようよいることを祈っているよ。なにしろこの世にいるあいだは、そういうのにからきし目のない男だったからねえ」と念入りに訳している。

「あんたはおまわりじゃないね」は<You ain't no copper>。清水氏は「あんたは警察の人間じゃないわね」と訳しているが、それまでにも清水訳では女はマーロウのことを何度も「探偵」と呼んでいる。ここで、この台詞を言わせるためには、それまでのところを警察の人間と思っていたように訳す必要がある。はじめに「探偵ですよ」とマーロウに名のらせたのがまちがいだったのだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(2)

《私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した。彼はまじめな顔で私を見つめ、禿げ頭を振った。
「サムの店も愉快で静かなところだったんだが」彼は言った。「ここ一月ほどは誰もナイフ沙汰など起こさなかったし」
「八年か少なくとも六年前、<フロリアンズ>が白人専用の店だった頃、何という名前だったんだ?」
「ネオンサインを変えるのは高い金がかかるんだよ、ブラザー」
 私はうなずいた。「同じ名前かも知れないと思ってた。もし名前が変わってたら、マロイが何か言っただろうし。誰がやってたんだ?」
「あんたにはちょっと驚かされるね、ブラザー。その気の毒な罪びとの名前はフロリアンさ。マイク・フロリアン──」
「それで、そのマイク・フロリアンに何が起きたんだ?」
 黒人はおだやかな褐色の手を広げた。よく通る声は悲しげだった。「死んだよ、ブラザー。主に召されたんだ。一九三四年のことだ。もしかしたら三五年かもしれない。はっきりしたことは分からない。荒んだ人生だったよ、ブラザー。聞いたところじゃ、大酒飲みで腎臓をやられたらしい。神を畏れぬ男は角を落とされた雄牛のようにばったり倒れるんだ、ブラザー。けれども、遥か高みでは神の慈悲が待っている」彼の声は事務的な高さに落とされた。「なぜかは知らないが」
「誰か家族はいないのか? もう一杯どうだ」
 彼はコルク栓を閉めた瓶をカウンター越しにきっぱりと押してよこした。「二杯で充分だよ、ブラザー。陽が沈む前はね。礼を言うよ。あんたの取り入り方には人の心の鎧を脱がせるところがある…かみさんがいたな。名前はジェシー
「その女はどうなったんだ?」
「知識の追求というのはな、ブラザー、多くの質問をすることだ。私は聞いていない。電話帳を試すんだな」
 ロビーの暗がりの隅に電話ブースがあった。私はそこに行き、灯りがつくところまでドアを閉めた。そして、使い古されてぼろぼろになった鎖つきの電話帳を調べた。フロリアンという名前は見つからなかった。私は机まで戻った。
「駄目だったよ」
 黒人はやれやれというように身をかがめ、市民名簿を持ち上げると机の上に置き、私のほうへ押した。そして両眼を閉じた。飽き飽きしたのだ。名簿にはジェシー・フロリアン寡婦、が載っていた。住所は西54番街1644。私は今までの人生で脳の代わりに何を使ってきたのだろう、といぶかった。
 私は紙切れに住所を書き写すと名簿を机の向こうに押しやった。黒人はあったところにそれを戻し、私に握手を求め、入ってきた時とまったく同じように机の上で両手を組み合わせた。その眼はゆっくり塞がれ、彼は眠りに落ちたように見えた。
 彼にとってこの一件は終わったのだ。半分ほど行ったところで私はちらりと振り返った。彼の両眼は閉じられ、呼吸はおだやかで規則正しかった。吐いたり吸ったりするたびに、最後の小さな息が唇から漏れた。禿げ頭が光っていた。
 私はホテル・サンスーシを出て、車に乗るため通りを横切った。簡単すぎるように思えた。あまりに簡単すぎるように思った。》

「私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した」は<I told him what had happened at Florian's and why.>。清水氏は「私はフロリアンのできごとを話して聞かせた」とあっさり訳し、<and why>を省略している。村上氏は「私は彼にフロリアンの店で起こったことを話し、その理由についても話した」と訳している。しかし、この時点ではまだ、店の主人の名が、フロリアンだということは知らされていないのに、何故ここだけ「フロリアンの店」としたのだろう。

「その気の毒な罪びとの名前はフロリアンさ」は< The name of that pore sinner was Florian.>。清水氏は「フロリアンという男さ」と<pore sinner>をカットしている。<pore>は<poor>。村上氏は「その哀れな罪人の名前はフロリアンっていうんだ」と訳している。

「聞いたところじゃ、大酒飲みで腎臓をやられたらしい。神を畏れぬ男は角を落とされた雄牛のようにばったり倒れるんだ」は<a case of pickled kidneys, I heard say. The ungodly man drops like a polled steer>。清水氏は「何でも肝臓がやられたということだったよ。神様を怖れない人間は、角を切られた鹿のように、ばったり往(い)っちまうもんだからね」と訳している。「腎臓」が「肝臓」に、「雄牛」が「鹿」に替わっている。その方がよく分かると考えたのだろうか。

村上氏は「腎臓がピックルス漬けみたいになっていたということだった。その神を敬わぬ男は、角を切られた雄牛のごとくがっくりと膝をついたんだよ」と訳している。腎臓がピクルスのようになるというのは、今一つ状態が想像できない。<pickled>には「塩(酢)漬け」のほかにもう一つ俗語で「酔っぱらって」という意味がある。<a case of>と前にあるので、「腎臓病で(死んだ)」という意味ではないのか。

「あんたの取り入り方には人の心の鎧を脱がせるところがある…」は<Your method of approach is soothin' to a man's dignity…>。清水氏は「あんたのように話がわかる人間は少ないね」と意訳している。<soothin'>は<soothing>。「なだめる、慰める、やわらげる」といった意味だ。村上氏は「人を尊重しつつ心を開かせる方法を、あんたは心得ておる」と訳している。

「知識の追求というのはな、ブラザー、多くの質問をすることだ」は<The pursuit of knowledge, brother, is the askin' of many questions.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「知識を追求するということはだな、ブラザー、たくさんの質問をするってことだ」と訳している。男の言いたいことは何なのか、今一つよく分からない。あまりにも多く質問し過ぎだ、と言いたいのだろうか?

「灯りがつくところまでドアを閉めた」は<shut the door far enough to put the light on.>。清水氏はここもカット。村上氏は「照明がつくところまでドアを閉めた」と訳している、暗い場所であることは分かっている。電話ブースはドアを閉めると照明がつく仕組みになっているのかもしれない。

「黒人はやれやれというように身をかがめ」は<The Negro bent regretfully>。清水氏は「黒人は無言のまま」と訳している。<regretfully>は「残念そうに」の意味。「やれやれ」という訳語は村上氏が流行らせたということが翻訳について書かれた本に載っていた。もちろん、ここも村上氏は「その黒人はやれやれというように身をかがめ」と訳している。