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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第二十一章(2)

拳は握りしめられたのか、それとも解かれたのか?

【訳文】

 私は言った。「私はロスアンジェルスのある実業家のために働いている。自分が噂の種になりたくなくて、私を雇ったわけだ。ひと月ほど前、彼の妻が家出した。そのあと、レイヴァリーと駆け落ちしたという電報が届いた。しかし、依頼人は二日前に街で偶然レイヴァリーと出くわし、彼は駆け落ちを否認した。依頼人は彼の話を信じ、妻の身を案じた。かなり見境のない女らしい。悪い連中と掛かり合いになって面倒に巻き込まれているんじゃないか。私はレイヴァリーに会いに行ったが、彼は駆け落ちを否定した。私も半ば信じかけたが、あとになって彼がサン・バーナディーノのホテルで彼女と一緒にいたという確かな証拠をつかんだ。彼女がそれまで滞在していた山小屋を出たと思われる夜のことだ。証拠が手に入ったので、今度こそレイヴァリーを締め上げてやろうとここにやってきた。ところが、呼鈴に返事がない。ドアが少し開いていた。で、私は中に入り、あちこち見て回るうちに銃を見つけ、家の中を捜索した。私が発見したとき、彼は今と同じ状態だった」
「君には家を捜索する権限などない」ウェバーは冷ややかに言った。
「もちろんない」私は同意した。「が、こんな機会を見逃すという手もない」
「君を雇った人物の名前は?」
「キングズリー」私は彼のベヴァリ・ヒルズの住所を教えた。「彼はオリーヴ・ストリートのトレロア・ビルディングにある化粧品会社を経営している。ギラ―レイン社だ」
 ウェバーはデガーモを見た。デガーモは気怠そうに封筒の上に書きとめた。ウェバーは私の方を振り返って言った。
「ほかには?」
「私は夫人が滞在していた山小屋に行った。リトル・フォーン湖といって、ピューマ・ポイントの近くにある。サン・バーナディーノから四十六マイルほど山の中に入ったところだ」
 私はデガーモを見た。彼はゆっくりと書いていた。その手が一瞬止まり、ぎごちなく宙に浮き、それから封筒の上に落ち、また書き出した。私は続けた。
「ひと月ほど前、キングズリーの山荘の管理人の女房が亭主と喧嘩をして家を出て行った。みんながそう思っていた。昨日、その女が湖で溺死しているのが見つかった」
 ウェバーはほとんど目を瞑り、踵に体重をかけて体を揺すっていた。彼は穏やかといってもいいような声で訊いた。「なぜ、そんな話をする?  この件と関係があるとでも?」
「時間的にはつながりがある。当時、レイヴァリーもそこにいた。他の関係については知らないが、一応耳に入れておこうと思ってね」
 デガーモは身じろぎもせず椅子に座って、目の前の床を見ていた。表情は硬く、いつも以上に獰猛な印象を受けた。ウェバーは言った。
「その溺れたとかいう女だが 自殺だったのか?」
「自殺か他殺か。彼女は遺書がわりのメモを残していた。だが、女の亭主が容疑者として逮捕された。名前はチェスだ。ビル・チェス。妻はミュリエル・チェス」
「そんなことはどうでもいい」ウェバーはつっけんどんに言った。「ここで起きたことだけに話を絞ろう」
「ここでは何も起きちゃいない」私は、デガーモを見やりながら言った。「ここへ来るのはこれで二度になる。一度目はレイヴァリーと話をしたが、尻尾をつかめなかった。二度目は話すこともできず、骨折り損だった」
 ウェバーがゆっくり言った。「ひとつ君に質問しようと思うが、正直に答えてほしい。話したくはないだろうが、後で話すより今話しておいた方がいい。知っての通り、結局は私に話すことになるんだからな。質問というのはこうだ。君は家の中を徹底的に調べたと思うが、そのキングズリーの妻がここにいたと思わせるものを何か見たか?」
「それは公正な質問とは言えない」私は言った。「証人に推論を求めている」
「質問に答えるんだ」彼はむっつりと言った。「ここは法廷ではない」
「答えはイエスだ」私は言った。「階下のクローゼットに、女物の服がぶら下がってる。ミセス・キングズリーがレイヴァリーと会った夜にサン・バーナディーノで着ていた、と私が聞いた証言と特徴が一致する。ざっくりとした説明だった。白黒のスーツ、白が主だ。それに白黒のバンドが巻かれたパナマ帽」
 デガーモは手にしていた封筒を指でパチンとはじいた。
「差し詰め、依頼人に取っちゃ、あんたは大当たりってとこだ」彼は言った。「なんと、殺人が行われた家に女がいて、それが被害者と駆け落ちしたはずの女だったとは。遠くまで犯人捜しに行かずにすみますね、チーフ?」
 ウェバーはほとんど、あるいはまったく表情を変えず、ただ注意深くじっと私を見ていた。そして、デガーモの言ったことにぼんやりとうなずいた。
 私は言った。「君らも馬鹿の集まりってわけじゃない。服は注文仕立てで、すぐに調べがつく。私が話したことで、君らは一時間を節約した。もしかしたら、電話一本で済むかもしれない」
「ほかに何か?」ウェバーは静かに訊いた。
 私が答える前に家の外に車が止まった。続いてまた一台。ウェバーは弾かれたように玄関に行き、ドアを開けた。三人の男が入ってきた。縮れ毛の小男と牡牛みたいな大男だ。二人とも重そうな黒い革鞄を提げていた。その後ろにダークグレイのスーツに黒いネクタイを締めた、長身瘦躯の男がいた。ポーカーフェイスで、目だけ輝かせていた。
 ウェバーは縮れ毛の男に指を突きつけて言った。「階下の浴室だ、ブゾーニ。家じゅうの指紋がありったけほしい。特に女がつけたらしい指紋を。時間のかかる仕事になりそうだ」
「それを全部私がやるわけだ」ブゾーニはぶつぶつ言った。彼と牡牛みたいな男は部屋の奥に行き、階段を降りた。
「死体がお待ちかねだ、ガーランド」ウェバーが三人目の男に言った。「下に降りて、拝んで来よう。ワゴンは呼んだのか?」
 やる気満々の男は軽くうなずき、男とウェバーは二人の男の後を追った。
 デガーモは封筒と鉛筆をうっちゃった。彼は無表情に私を見つめた。
 私は言った。「昨日の我々の会話について、話したものだろうか――それとも、あれは個人的な取引なのか?」
「好きなだけ話しゃいい」彼は言った。「市民を守るのが我々の仕事だ」
「そのことなんだが」私は言った。「アルモアの件についてもっと知りたいんだ」
 彼の顔がじわじわ赤くなり、意地の悪そうな目になった。「アルモアのことは知らないと言ったよな」
「昨日はそうだった。彼について何も知っちゃいなかった。そのあと知ったんだ。レイヴァリーはミセス・アルモアの知り合いで、彼女が自殺したこと、その死体をレイヴァリーが発見したこと、そして、レイヴァリーが少なくとも彼を脅迫したか、あるいは脅迫するネタを握っていたと疑われていたことを。それに、パトロール警官は、二人ともアルモアの家がここから通りを隔てた真向いにあるという事実に興味を持っているようだった。そのうちの一人は、この事件はすっかりもみ消されたと言った、あるいは、そう匂わせた」
 デガーモはゆっくり凄みを利かせて言った。「あのろくでなしめら、胸からバッジを剥ぎとってやる。つまらぬことばかりしゃべりたがる。能なしの口たたきどもめ」
「それじゃ、根も葉もない噂だというんだな」私は言った。
 彼は煙草に目をやった。「根も葉もない噂とは何だ?」
「アルモアが妻を殺し、それを揉み消すだけのコネを持っていた、という噂さ」
 デガーモは立ち上がり、歩いてきて、私の方に身を屈めた。「もう一度言ってみろ」彼は小声で言った。
 私は繰り返した。彼は平手で私の顔を引っぱたいた。頭が大きくぐらついた。顔が熱くなり、腫れ上がるのを感じた。
「もう一度言ってみろ」彼は小声で言った。
 私は繰り返した。彼の手が飛んできて、また私の横っ面を張り倒した。
「もう一度言ってみろ」
「やめとけ。三度目の正直だ。失敗するかもしれない」私は手を上げて頬をこすった。
 彼は私の上に身を乗り出すように立ち、歯を剥き出し、真っ青な眼を獣のようにぎらぎら輝かせた。
「警官にそんなことを言えば、どうなるかわかっただろう。もう一回やってみろ、今度は平手打ちくらいじゃすまないからな」
 私は唇を固く噛んで、頬をさすった。
「俺たちのやることに、そのでかい鼻を突っ込んでみろ、目を覚ますと、どこかの路地で猫が手前の顔を覗き込んでる、なんてことになるぜ」
 私は何も言わなかった。彼は自分の椅子に戻り、肩で息をした。私は顔をさするのをやめて、片手を差し出し、指をゆっくりと動かした。固く握り締めた拳の緊張を解くためだ。
「覚えておくよ」私は言った。「どっちもな」

【解説】

「証拠が手に入ったので」は<With that in my pocket>。村上訳は「その証拠をポケットに」と、文字通りポケットに入れたように訳しているが、この証拠というのは、人から聞いた話であって、ポケットに入れられるような「物的証拠」ではない。ちなみに、<in one's pocket>は「所有して」という意味。清水訳は「私はその証拠を懐にして」、田中訳は「そのことがわかつたので」と、そういう意味合いになるように訳している。

「昨日、その女が湖で溺死しているのが見つかった」は、<Yesterday she was found drowned in the lake>。清水訳は「きのう、その女が湖で溺れて死んでるのが発見された」。田中訳は「ところが、昨日、湖のなかにしずんでいるのがわかつたんです」。村上訳は「ところが昨日、彼女が湖の底に沈んでいたのが発見された」。大差ないように思えるかもしれない。だが、死体は、村上訳のように「湖の底に沈んで」はいなかった。ダムができたせいで湖中に沈んだ、古い桟橋にひっかかっていたのだ。

旧訳はふたつとも『湖中の女』という表題になっている。すでに書いたように、原題はウォルター・スコットの<The Lady of the Lake>をひねったものと考えられる。その邦訳の表題は『湖上の美人』とするものが多い。旧訳の表題はそれを踏襲したのだろう。村上氏の新訳が『水底の女』になっているのが、はじめから気になっていたのだが、もしかしたら、村上氏の頭の中では、死体は湖底に沈んでいるのかもしれない。そういう思い込みがあって、この表題になったのではないだろうか。

「証人に推論を求めている」は<It calls for a conclusion of the witness>。清水訳は「証人の終結証言になる」。<conclusion>は「終わり、結論」のことだから、こう訳したのだろうが、これでは意味が分からない。田中訳は「証人の考えをきいてるようなものだから」と噛みくだいている。村上訳は「それが求めているのは証人の推断だ」。

殺人事件の犯行現場に最初に足を踏み入れたマーロウは、裁判所に呼ばれたら証人になる。しかし、ここはウェバーの言うように法廷ではない。現場で何を見たか目撃供述を聴取されているのだ。ただ、ウェバーはこう訊いている。<Have you seen anything that suggests to you that this Kingsley woman has been here?>。この<suggest>(暗示する)をマーロウは問題にしている。何がキングズリーの妻を「それとなく示す」のか、の判断は目撃者一人に任されている。法廷では当然そこが追及されることになる。マーロウは、かつて検事局にいたことを、それとなくウェバーに示しているのだ。

「私が話したことで、君らは一時間を節約した。もしかしたら、電話一本で済むかもしれない」は<I've saved you an hour by telling you, perhaps even no more than a phone call>。清水訳は「私が話をしたので、君たちは一時間はとくをしたわけだ。おそらく電話一本ですむだろう」。田中訳は「一時間ぐらい、時間を節約してあげただけだ。いや、電話を一つしないですんだぐらいかな」。村上訳は「私はそちらの手間を一時間ほど省いてあげただけだ。せいぜい一回の電話程度の手間だろうが」。

田中、村上両氏の訳では、一通話程度の時間しか節約していないことになる。果たしてそうだろうか。たしかに、注文服から持ち主の身元を割り出すのは容易だ。しかし、マーロウの話がなかったら、キングズリー夫人と被害者との関係を探り当てるまで、時間がかかるだろう。到底一時間では済まない。マーロウが前もって捜索しておいたおかげで、警察としては格段に手間が省けたわけだ。原文のカンマで切られている二つの節の間に(あなた方に必要とされる時間は)という文句を挿むと、話が通じやすくなる。

「それを全部私がやるわけだ」は<I do all the work>。清水訳は「時間がかかるのはなれてますよ」。田中訳は「そいつは、ありがたい」。村上訳は「仰せの通りに」。台詞を受ける<grunted>をどう訳すかで、前の台詞の訳し方が変わってくる。清水氏は「無愛想な口調でいった」。田中氏は「皮肉をいい」。村上氏は「あきらめたように言った」と訳している。<grunt>は「ぶうぶう言う、不平を言う」という意味。辞書によっては「無関心だったり、うるさがったりしているときに漏らす低いうなり声」というのもあるから、文意のとらえ方で変わってくるのだろう。

「ワゴンは呼んだのか?」は<You've ordered the wagon?>。清水訳は「ワゴンを頼んだかい」。前のところで、清水氏の訳文に突然「ワゴン」が出てきたのは、これのことを言っていたのだな、と分かる。田中訳は「霊柩車をよんどいたかね?」。村上訳は「搬送車は呼んだかな?」。正式な検死官がいないベイ・シティでは葬儀屋が週替わりで検死官を兼ねている。この<wagon>は当然「霊柩車」のことだろう。英語では<hearse>だが、<meat wagon>という呼び名もある。「霊柩車」ではぶしつけだし、「搬送車」という語も耳慣れない。<meat>抜きの「ワゴン」でいいのでは?

「やる気満々の男は軽くうなずき」は<The bright-eyed man nodded briefly>。清水訳は「目が輝いている男はかるくうなずき」。田中訳は「目がよくひかる男は、みじかくううなずき」。村上訳は「明るい目の男は短く肯いた」。どうしてそんなに目の明るさにこだわるひつようがあるのか。実は、その前にも<bright eye>が出てくる。「ポーカーフェイスで、目だけ輝かせていた」<He had very bright eyes and a poker face>がそれだ。

<bright-eyed>は「元気はつらつとして、やる気十分で」という意味のイディオム。例によってチャンドラーは<bright eyes>「きらきら輝く目、生き生きとした目」と、ダブルミーニングをねらったのだろう。黒っぽい服に黒ネクタイという葬儀屋の服装で身を固めた男は持ち前のポーカーフェイスの陰で、商売繁盛を喜んでいる。ここは単に明るい目の持ち主というのではなく、やる気が目に出ている、ということを表現しているのだ。

「指をゆっくりと動かした。固く握り締めた拳の緊張を解くためだ」は<worked the fingers slowly, to get the hard clench out of them>。清水訳は「指をゆっくり動かして、かたく握りしめた」。村上訳は「ゆっくりと指を動かした。そしてぎゅっと堅く握りしめた」。両氏とも、「握りしめた」説だ。田中訳は「ついかたくゲンコツのかたちになりそうになる指を、ゆつくりうごかした」。拳骨の形になろうとするのを意志が食い止めている、という解釈だ。

<clench>には「拳を固める」という意味の動詞もあるが、ここは<the hard clench>とあるように「固い握りしめ」を表す名詞扱い。<out of ~>は「~から外へ、~から抜け出して」という意味。では、その<them>とは何か。当然、すぐ前にある<fingers>に決まっている。この後マーロウが口にしたのは「覚えておくよ」という捨て台詞だ。つまり、今は何もしないでおくが、そのうちに決着をつける時が来る、という気持である。とすれば、ここは握りしめていた拳をゆるめた、と考えるのが妥当だろう。

「どっちもな」と訳したのは<Both ways>。清水訳では「(考えておくよ)どっちにするかをね」になっている。<both>なので、どっちか片方ではおかしい。田中訳、村上訳はどちらも「いろんな意味で」という訳になっている。<both ways>は「往復、両方、左右」のように、二つセットで用いるのが普通。「いろんな」では選択肢が多すぎる。マーロウは何と何を「覚えておく」と言ったのか? おそらく、デガーモの「平手打ちじゃすまない」と「路地に転がす」という二つの警告を指すのだろう。そんな脅しに怯んだりするものか、という、マーロウの精一杯の強がりである。

『湖中の女』を訳す 第二十一章(1)

「大いなる熱意を込めて命令通りに行動した」とは何のことやら?

【訳文】

 最初に入って来たのは、警官にしては小柄な、頬のこけた中年男で、いつも疲れているような表情をしていた。とがった鼻は少し片方に曲がっている。まるで何かを嗅ぎまわっているとき、誰かの肘鉄をくらったかのように。青いポークパイハットを頭の上にきちんとかぶり、その下にはチョークのように白い髪がのぞいていた。さえない茶色のスーツを着て、親指だけ縫い目の外に出し、両手は上着の脇ポケットに突っ込んでいた。

 その後ろにいるのがデガーモだった。くすんだ金髪にメタリック・ブルーの瞳、皺の刻まれた酷薄な顔をした大柄な警官で、私がアルモア医師の家の前にいることを嫌っていた。
 二人の制服警官は小さな男を見て帽子に手をやった。
「死体は地下です、ウェバー警部。何発か外れた後で二発撃たれているようです。死んでからかなり時間が経っています。この男はマーロウという名で、ロサンジェルスから来た私立探偵です。彼にはまだ何も訊いていません」
「わかった」ウェバーが鋭く言った。他人を信用しない声だ。疑り深い目で私を見て軽くうなずいた。「ウェバー警部だ」彼は言った。「こちらはデガーモ警部補。まずは死体を見るとしよう」
 彼は部屋の奥の方に行った。デガーモは、初めて見るような目でこちらを見て、彼に従った。二人は階下に降りていった。二人の制服警官の年上の方が一緒に行った。エディと呼ばれる警官と私はしばらく顔と顔を突き合わせていた。
 私が言った。「ここは、アルモア医師の家から通りを挟んで真向かいにあたるよな?」
 彼の顔からすべての感情が消えていた。もともと多くはなかったけれども。「ああ、それがどうした?」
「何でもない」私は言った。
 彼は何も言わなかった。下から上がってきた声は、ぼやけてはっきりしない。警官は耳をそばだて、ずっとくだけた口調で言った。「あの一件を覚えているか?」
「ほんの少し」
 彼は笑った。「やつら、きれいに握りつぶしちまった」彼は言った。「包み紙にくるんで棚の上に隠したんだ。浴室のクローゼットのいちばん上。椅子の上にでも立たなきゃ見つからないところさ」
「そのようだな」私は言った。「なぜなんだ」
 警官は厳しい目で私を見た。「そうする理由があったからさ。そうとしか考えられない。レイヴァリーのことはよく知ってたのか?」
「よくは知らない」
「彼とはどんなつきあいだ?」
「彼のことを少しばかり調べてた」私は言った。「君は彼を知ってたのか?」
 エディと呼ばれる男はかぶりを振った。「いや。覚えてるのは、あの晩、アルモアの奥さんを発見したのがこの家の男だったってことだけだ」
「レイヴァリーはそのとき、ここにいなかったのかもしれない」私は言った。
「彼はどれぐらいここに住んでいたんだ?」
「知らないな」私は言った。
「一年半かそこらだろう」彼は考え込んで言った。「L.A.の新聞には載らないのか?」
「郡部ページの記事欄にほんの少し」私はただ機械的に口を合わせていた。
 彼は耳を掻きながら耳を澄ましていた。階段を昇ってくる足音がした。警官の顔はうつろになり、私から離れて突っ立った。
 ウェバー警部は急いで電話まで行き、番号をダイアルして何か言い、受話器を耳から離して肩越しに振り返った。
「アル、今週の検死官代理は誰だった?」
エド・ガーランド」大男の警部補は無表情に言った。
エド・ガーランドを呼んでくれ」ウェバーは電話に向かって言った。「すぐ来るように。それから鑑識班に急ぐように言ってくれ」
 彼は受話器を置き、怒鳴りつけた。「誰だ? この銃に触ったのは」
 私が言った「私がやった」
 彼はやってきて、私の前で踵を踏ん張って上体を揺らし、小さな尖った顎を突き出した。手にはハンカチの上にそっと載せられた銃があった。
「犯行現場で発見された凶器に触れてはいけないということくらい知らんのか?」
「先刻承知だ」私は言った。「しかし、私が手にしたときには、犯罪が行われていたことを知らなかったのでね。銃が撃たれていることも知らなかった。それは階段の上に転がっていた。誰かが落としたと思ったんだ」
「ありそうな話だ」ウェバーは苦々しく言った。「君の仕事じゃ、ちょくちょくそういうことがあるのか?」
「何がちょくちょくあるって?」
 彼は私を睨んだまま何も答えなかった。
 私は言った。「どうだろう、私の話をありのままに聞いてもらうというのは?」
 彼は喧嘩っ早い若造みたいに顎を引き、頭を後ろにそらせた。「質問は私がする。君は正確に答えさえすればいいんだ」
 私は何も口を挟まなかった。ウェバーはくるっと向きを変え、二人の制服警官に言った。「君らは車に戻り、通信指令室に連絡を入れろ」
 彼らは敬礼して出て行き、ドアが閉まるところまで気をつけて閉じ、案の定、閉まりの悪さに腹を立てた。ウェバーは車が行ってしまうまで待っていた。それから、その暗く冷たい視線をもう一度私に注いだ。
「身分証明書を見せてもらおう」
 私は札入れを出して渡し、彼はそれに目を通した。デガーモは椅子に脚を組んで腰掛け、天井をぼんやりと見上げていた。ポケットからマッチ棒を取り出してその端を噛んだ。ウェバーは札入れを返し、私はそれをしまった。
「君のような稼業の人間には何かと手を焼かされる」
「皆が皆同じという訳でもない」私は言った。
 彼は声を張り上げた。それまでも充分大きな声だったのだ。「私は何かと手を焼いた、と言ったんだ。大いに迷惑したという意味だ。だが、はっきり言っておく。このベイ・シティでは勝手な真似はさせない」
 私は何も答えなかった。彼は人差し指を私に突き出した。「君は大きな街からやってきた」彼は言った。「自分ではタフで頭が切れるつもりだろう。心配はいらん。我々にも君くらい取り扱える。ここは小さな町だが、その分無駄がない。政治的な駆け引きのようなものはない。左見右見することなく迅速に仕事ができる。我々のことなら心配はいらない」
「心配などしていない」私は言った。「心配しなきゃならんことなど何もないのでね。私はただ気持ちよくきれいな金を稼ごうと心がけているだけだ」
「軽々しい物言いはよしてもらおう」ウェバーは言った。「私はそういうのが嫌いでね」
 デガーモは天井から目をおろし、人差し指を曲げて爪を見つめた。彼はひどく退屈そうな声で話した。
「ねえ、チーフ。階段の下にいるのはレイヴァリーって野郎です。死んじまった。ちょっと知ってたんです。あいつは女たらしだった」
「それがどうした?」ウェバーは、私から眼を離さず、咬みつくように言った。
「お膳立て全体が女を指している」デガーモは言った。「私立探偵が何で食ってるか知ってるでしょう。離婚案件です。ただ脅すんじゃなく、こいつの話を聞いてみちゃどうです」
「私が脅してるというのか」ウェバーは言った。「物も言いようだ。私には怯えてるようには見えんがな」
 彼は正面の窓に向かって歩き、ベネシアンブラインドを引っ張り上げた。長い間薄暗かった部屋に、まばゆいばかりの光が差しこんだ。彼は踵を弾ませて戻ってくるなり、細く筋張った指を私に突きつけて、言った。
「話すんだ」

【解説】

「とがった鼻は少し片方に曲がっている。まるで何かを嗅ぎまわっているとき、誰かの肘鉄をくらったかのように」は<His nose was sharp and bent a little to one side, as if somebody had given it the elbow one time when it was into something>。清水訳は「とがった鼻が何かのときに誰かに肘でぐっと押されたように一方に少々まがっていた」。田中訳は「鼻はほそくとがり、すこしまがつている。なにかにその鼻をつつこんでいたとき、だれかから肘でつかれ、まがつてしまつたのか」。村上訳は「鼻は尖って、少しばかり一方に傾いていた。まるで誰かが、その鼻が何かの活動をしているときに肘鉄(ひじてつ)を一発くわせたかのように」。

小柄な男は刑事だ。 <when it was into something>の< it>は<nose>を指しており、<into>との間に距離はあるが<nose into>(詮索する、干渉する)が響いているのはまちがいない。「何かの活動」などとぼかすのでなく、まちがいなく何かの事件に「鼻を突っ込んでいるとき」だ。ここはそう訳さないと、せっかくの表現が生きてこない。

「さえない茶色のスーツを着て、親指だけ縫い目の外に出し、両手は上着の脇ポケットに突っ込んでいたは<He wore a dull brown suit and his hands were in the side pockets of the jacket, with the thumbs outside the seam>。分かりにくいところだが、<side pockets>、<seam>とあるから、このポケットは縫い目の部分にとりつけられた「脇ポケット(シームポケット)」のことだ。肘は直角に曲げられ、手は水平方向にポケットに収まっている格好になる。

清水訳は「服はにぶい茶色で、両手を上着のサイド・ポケットにつっこみ、親指をすじ(傍点二字)目のところに出していた」。「すじ目」という訳語はいただけないが、「サイド・ポケット」と書いたことで、その様子は分かる。田中訳は「ぱつとしない茶の背広をきて、両手を上着のポケットにつつこんでいたが、親指だけはふちにひつかけていた」。村上訳は「くすんだ茶色のスーツを着て、両手は上着のポケットに突っ込まれていた。両方の親指だけが縫い目の上に出ていた」。

ふつう男性のスーツの上着のポケットは水平に切られ、それを隠すように、上にフラップがついている。だから、上着のポケットに手を突っ込むには、上から垂直方向に入れることになり、肩をすぼめたみっともない格好になる。それでは刑事として示しがつかない。ここは、サイド・ポケットであることを分かるように訳す必要がある。清水訳は<サイドポケット>で分かるが、田中、村上両氏の訳では、それが分からない。小柄な男が大男を従えているわけで、ポケットに手を突っ込んでいるのは、わざとラフに振る舞うことで、自分が上であることを意思表示しているのだ。

オーソドックスなハードボイルド小説の語り手は、探偵本人である。つまり、新たな登場人物の紹介は、主人公である探偵の目から見た情報ということになる。チャンドラーはそれをよく知っている。平たく言えば、はじめから地の文に色がついているのだ。何でも自分でやりたがる小柄なウェバー警部と仕方なくそれに従っている大男のデガーモ警部補という凸凹コンビ二人の書き描き分けも、その辺を知ったうえで訳さないと折角の表現が訳に反映されないで終わってしまう。

「それから鑑識班に急ぐように言ってくれ」は<And tell the flash squad to step on it>。清水訳は「それから、写真屋に急いでくれといってくれ」。<squad>は「(警察の)班」と辞書にある。「写真屋」というのはどうか。村上訳は「写真班にも来てもらう」だが、<step on it>は「急いで仕事(行動)する」ことを命じるイディオムだ。略さない方がいい。田中訳は「それから、鑑識の連中も、はやくよこしてくれ」。田中訳だけが<the flash squad>を「鑑識の連中」としている。小さな町の警察だ。鑑識と別に「写真班」があるとも思えない。「鑑識班」でいいのでは。

「私の前で踵を踏ん張って上体を揺らし」は<teetered on his heels in front of me>。<teeter>には「動揺する、ぐらつく、ためらう」という意味があるので、村上訳は「私の前で身体をゆらゆらとさせ」になっているが、ウェバーという警官の個性を考えると「ゆらゆらとさせ」には首をひねる。因みに清水訳は「踵に重心を乗せてからだを上下に動かし」、田中訳は「靴の踵に重心をかけて、からだをうしろにそらし」となっている。精一杯虚勢を張っている人間の身体表現であることが分かる訳だ。

「彼は喧嘩っ早い若造みたいに顎を引き、頭を後ろにそらせた」は<He bridled at me like a cockerel>。清水訳は「彼は喧嘩っぱやい雄鶏のように私に咬みついた」。田中訳は「ウェバー警部は、若い雄鶏みたいに、ツンと顔をあげた」。村上訳は「彼はまるで雄鶏のように、ぐいと頭を立てた」。<cockerel>には、「若い雄鶏」の他に「喧嘩早い若者」の意味がある。<bridle>は「(軽蔑や怒りを表すために)頭を上げてつんとする」ことをいう。

「君らは車に戻り、通信指令室に連絡を入れろ」は<You boys can get back to your car and check in with the despatcher>。清水訳は「君たちは署にもどり、ワゴンを手配するんだ」。<despatcher(dispatcher)>は「緊急車両派遣担当者」のこと、平たくいえば発車係だ。<check in with ~>は「~に自分の所在を知らせる、連絡する」という意味。<get back to your car>だから「署にもどり」はおかしい。「ワゴン」がどこから出てくるかも不明だ。田中訳は「きみたちは車に戻り、本部のパトカー係に連絡したまえ」。村上訳は「君らは車に戻り、本部の指示を仰げ」。

「ドアが閉まるところまで気をつけて閉じ、案の定、閉まりの悪さに腹を立てた」は「
(They)closing the door softly until it stuck, then getting as mad at it as anybody else>。清水訳は「ドアがぐあいがわるいので、なかなかきちんと閉まらなかった」。田中訳は「そして、ドアがきつちりしまるまで、ソッとおしつけ、それから、まるで狂つたように、大きな音をたてた」。村上訳は「とても静かに最後まできっちりドアを閉め、それから他のみんなと同じように、大いなる熱意を込めて命令通りに行動した」。

<get mad at>は「怒る」という意味だが、彼らは何に腹を立てたかというと、ドアの建付けの悪いことに、だ。それについては何度も言及されているので、話者は説明を省略している。長編小説を読んでいるのだ。それくらいは覚えておけ、と作者から言われているのだろう。田中訳の「まるで狂つたように、大きな音をたてた」は、腹を立てたことが分かるが、村上訳の「大いなる熱意を込めて命令通りに行動した」というのは、何のことをいっているのかさっぱり要領を得ない。

「ただ脅すんじゃなく、こいつの話を聞いてみちゃどうです」は<Suppose we'd let him tie into it, instead of just trying to scare him dumb>。清水訳は「この男に話をさせてごらんなさい。おどかしたってむだですよ」。田中訳は「ただ、この男をおどかすだけでなく、そういったところからしらべてみたら――」。村上訳は「こいつをみっちり締め上げてやりましょうや。ただ口で脅すだけじゃなく」。

<tie into>は「(仕事に)進んで取り組む」ことをいう。<let him tie into it>とあるからには、マーロウに彼が調べたことを話させようということだ。村上訳のように「みっちり締め上げ」たところで、反骨精神旺盛なマーロウが素直に話すわけがない。清水訳の「話をさせてごらんなさい」という穏当な物言いの方が、この場にふさわしい。

『湖中の女』を訳す 第二十章

<be+being+形容詞>は「いつもはちがうが、今は~している」

【訳文】

レイヴァリーの家の前に警察車両は停まっていなかった。歩道をうろつく者もなく、玄関扉を押し開けても、葉巻や煙草の煙の匂いはしなかった。窓に差していた陽が消え、蠅が一匹、片一方のグラスの上で鈍い羽音を立てていた。私は奥まで行き、階下に通じる階段の手すりから身を乗り出した。レイヴァリー氏の家に動きはなかった。下の浴室で死んだ男の肩に落ちる、ほんの微かな水の滴りを除けば、物音ひとつしなかった。
 私は電話のところに行き、電話帳で警察署の番号を調べた。ダイアルを回して相手が出るのを待つ間、ポケットから小型の自動拳銃を取り出し、電話の脇にある小卓の上に置いた。
 男の声が言った。「ベイ・シティ警察、スムートだ」私は言った。「銃撃があった。アルテア・ストリート六二三番地だ。レイヴァリーという男が住んでいる。彼は死んだ」
「アルテア、六、二、三だな。あんたは誰だ?」
「名前はマーロウ」
「今、その家にいるんだな?」
「そうだ」
「何も触るんじゃないぞ」
 電話を切って、ダヴェンポートに腰を下ろし、待った。
 長くはかからなかった。遠くで唸っていたサイレンが、次第に大きくうねるように押し寄せた。コーナーでタイヤが悲鳴をあげ、サイレンの音が金属のうなり声に変わり、やがて消えて、タイヤが家の前で再び悲鳴をあげた。ベイ・シティ警察はゴムの節約中らしい。歩道に足音が響き、私はドアを開けた。
 二人の制服警官が部屋に踏み込んできた。大柄で日に灼けた顔と疑ぐり深そうな目をしたよくいるタイプだ。一人は帽子の下、右耳の後ろにカーネーションを挿んでいた。もう一人の方は年上で、白髪混じりの難しい顔をしていた。二人はそこに立ち、用心して私を見た。それから年上の方が、手短に言った。
「それで、死体はどこだ?」
「階下の浴室。シャワーカーテンの後ろだ」
「あんたはこいつとここにいろ、エディ」
 彼は足早に部屋を横切り、姿を消した。もう一人は私をじっと見つめ、口の端から吐き出すように言った。
「おい、妙なまねをするんじゃないぞ」
 私はまたダヴェンポートに座った。警官は何かを探すように部屋中を見回した。階下では歩き回る足音がしていた。一緒にいた警官が、ふと電話台の上に置かれた銃を見つけた。そして、ダウンフィールド・ブロッカーみたいに勢い込んで、銃めがけて突進した。
「これが凶器の銃か?」ほとんど怒鳴るように言った。
「そう考えて然るべきだ。そいつは発射されてる」
「ハ!」彼は銃を覗き込んで、私に歯を剥き出すと、ホルスターに手をやり、指で弾いてフラップのボタンを外し、黒いリヴォルヴァーの銃把を握った。
「どうするべきだと?」彼は吠えた。
「そう考えて然るべきだ」
「そいつはいいや」彼は鼻で笑った。
「そいつは実にいい」
「少しもよくない」私は言った。
 彼は少したじろいだ。目に警戒の色が浮かんだ。「何だって、撃ったりしたんだ?」彼はなじるように言った。
「それが分からないから問い続けている」
「おやおや、一端の口をきくじゃないか」
「腰をおろして、殺人課の連中を待とうや」私は言った。「お楽しみはそれからだ」
「俺なんかに教える気はないってか」彼は言った。
「教えてやれることがないからだよ。もし私が撃ったのなら、ここにいないだろう。電話もしなかったろうし、君が銃を目にすることもなかったはずだ。あまりこの事件に入れ込むな。どうせ関わっていられるのは十分くらいなんだから」
 傷ついたような目だった。帽子をとったはずみでカーネーションが床に落ちた。彼は屈んで拾い上げ、指の間でくるくる回し、それから炉格子の向こうに放り捨てた。
「それはよした方がいい」私は彼に教えた。「手がかりと勘違いして余計な手間を取る」
「くそっ」彼は炉格子の向こうに身を屈めてカーネーションを取り戻し、ポケットに差した。「すべてお見通し、というわけか?」
 もう一人の警官が深刻な顔をして階段を上がって来た。部屋の中央に立ち、腕時計を見て手帳に何か書きつけ、それからベネシアンブラインドを片側に寄せて正面の窓の外を見た。
 私と一緒にいた男が言った。「ちょっと見てきていいですか?」
「放っておけ、エディ。俺たちに出番はない。検死官を呼んだか?」
「殺人課の仕事じゃないんですか?」
「ああ、そうだな。ウェバー警部が担当だが、あの人は何でも自分でやりたがる」彼は私を見て言った。「あんたがマーロウという名前のお人かな?」
 私が、マーロウという名前の人だ、と言った。
「小賢しいやつで、何でもお見通しです」エディが言った。
 年上の方がぼんやりと私を見て、ぼんやりとエディを見て、電話台の上に置かれた銃に目を留め、少しもぼんやりすることなくそれを見ていた。
「それが殺しに使われた銃です」エディが言った。「触ってません」
 もう一人がうなずいた。「連中、今日は遅いな。あんた、何をやってる人だね? 彼の友だちか?」彼は親指で床を指した。
「彼に会ったのは昨日が初めてだ。私はL.A.から来た私立探偵だ」
「ほう」彼は私をきっと睨んだ。もう一人の警官は胡散臭そうに私を見た。
「まいったな、それですべてが台無しにされちまう」彼は言った。
 それは彼が初めて口にした真っ当な意見だった。私は親愛の情をこめてにやりと笑った。
 年上の警官がまた正面の窓から外を見た。「通りの向かいはアルモアの家だぞ、エディ」彼は言った。
 エディはそこに行って、一緒に見た。「確かに」彼は言った。「表札が読める。ということは、階下の男というのはひょっとして――」
「黙ってろ」もう一人が言ってベネシアンブラインドを下ろした。二人とも振り返ってこちらを無表情に眺めた。
 一台の車がブロックをやってきて停まり、ドアがバタンと閉まった。多くの足音が小径を下ってきた。年上のパトロール警官が、二人の私服刑事のためにドアを開けた。そのうちの一人には面識があった。

【解説】

「蠅が一匹、片一方のグラスの上で鈍い羽音を立てていた」は<a fly buzzed softly over one of the liquor glasses>。清水訳は「一匹のハエがリカー・グラスの一つの上を飛びまわっていた」。田中訳は「片つぽうのグラスの上で蠅が一匹、ブンブンやつている」。村上訳は「一匹の蠅が酒のグラスの上で、柔らかな羽音を立てていた」。

グラスが二つあったのは、第十五章で既出。二つのうちの一つなら「片方」と訳す方がよく分かる。また、酒の種類についてもVAT69というスコッチだったことが分かっている。あえて、「リカー・グラス、酒のグラス」とする必要があるだろうか。もう一つ、<softly>は「柔らかな」でまちがいないが、蠅がブンブン飛び回る音を「柔らか」だと感じる神経が、よく理解できない。経験からは耳障りな音にしか聞こえないのだが。

百歩譲って、蠅の羽音が「柔らか」だと聞こえる時があるとしよう。それはおそらく、その時の本人の感情が、よほど落ち着いていて、平穏すぎるほどの状況にある時だろう。一方、この時のマーロウは、無断で他人の家に侵入しているわけで、しかも、階下に死体があることも知っている。警察を警戒していることも分かっている。そういう状況下で、蠅の羽音を「柔らか」だと感じるほど、マーロウの感覚は麻痺しているだろうか? むしろ、早くも死体の匂いを嗅ぎつけて、蠅がやってきたことを仄めかしているのではないだろうか。

「レイヴァリー氏の家に動きはなかった。下の浴室で死んだ男の肩に落ちる、ほんの微かな水の滴りを除けば、物音ひとつしなかった」は<Nothing moved in Mr. Lavery's house. Nothing made sound except very faintly down below in the bathroom the quiet trickle of water dripping on a dead man's shoulder>。チャンドラーが好きな対句表現だ。これを訳に生かさない手はない。

清水訳は「レイバリー氏の家には動いているものは何もなかった。聞こえている音といえば、階下の浴室で死んでいる男の肩に水がしたたっている音だけだった」。田中訳は「ミスター・レヴリイの家はシンとしている。したの浴室で、シャワーの口からたれるしずくが、死体の胸(ママ)の上におちて、ほんとに、かすかな音をたてているだけだ」。村上訳は「レイヴァリー氏の家の中では、何一つ動くものはなかった。微かに耳に届くのは、階下の浴室で水滴の垂れる音だけだ。死人の肩に静かに落ちかかる水滴だ」。

少し前のところで、「蠅が飛びまわってい」る、と書いたばかりなのだから、「動いているものは何もなかった」、「何一つ動くものはなかった」と書くのは無理がある。この場合の<move>は「人の動き」を意味している。後で出てくるが、階下を人が歩くと上の部屋で足音が聞こえるのだ。マーロウは自分以外の誰かの気配を気にかけている。それで、<Nothing>を強調した対句表現になっているのだ。

「彼は少したじろいだ」は<He reeled back a little>。清水訳は「彼はからだを少々うしろにそらせた」。田中訳は「お巡りは、すこしうしろにさがった」。<reel back>は「後ろによろめく」ことだが、何かに(精神的な)反撃を受けて、「動揺する、たじろぐ」という意味もある。村上訳は「彼は少しひるんだ」となっている。

「目に警戒の色が浮かんだ」は<His eyes were being careful of me>。清水訳は「目はずっと私を警戒していた」。田中訳は「その目は、じつとおれを警戒している」。村上訳は「その目は用心深く私を見ていた」。<be+being+形容詞>の文だが、<being>が現在進行形であることに注目。これは「今やっていること」という意味を持つ。これが入ることによって「(いつもはそうではないのに、今は)一時的に~している」の意味になる。つまり、「じっと」でも「ずっと」でもなく、「今ようやっと」警戒すべき相手だと気づいた、ということになる。若い警官の経験不足、未熟さを表す大事な一文だったのだ。

「お楽しみはそれからだ」と訳した部分は<I'm reserving my defense>。清水訳は「わたしは何もしゃべらないよ」。田中訳は「その時の弁解のために、ぼくは英気をやしなってるんだ」。村上訳は「説明はそのときにする」。<defense>は「答弁、抗弁」のこと。それを<reseving>(取っておく、使わずにいる)ということは、殺人課による尋問までは何も言わない、ということを意味している。

「俺なんかに教える気はないってか」は<Don't give me none of that>。清水訳は「きいたふう(傍点二字)なことをいうな」。田中訳は「弁解なんかききたくない」。村上訳は「おれを馬鹿にしているのか」。<Don't give me that.>は、相手が明らかに嘘だとわかることを言っている場合によく使われる「そんな嘘、言い訳をしないでくれ」という意味だ。

「教えてやれることがないからだよ」は<I'm not giving you any of anything>。マーロウがこの若い警官のことをどう思っているかによって、訳し方が変わってくる。清水訳の「君には何も話をしない」や、田中訳の「あんたに弁解したつてはじまらん」は、若輩者を軽んじる気味が強い。それに比べると、村上訳の「馬鹿になんかしちゃいないさ」は相手に対する心遣いが感じられる。

チャンドラーの小説が、凡百のハードボイルド探偵小説と違うのは、主人公の探偵が他の登場人物と行う言葉のやりとりを通して浮かび上がる心理戦の妙味にある。マーロウは、言葉のやりとりを通して相手を値踏みしている。それは、どんな相手に対しても変わらない。ここでも、見張り役を押しつけられた新米のお巡りに対して、それなりに真面目に対応している。決して居丈高にならず、またからかったりもしていない。皮肉屋のマーロウにしては珍しいことだ。辛口の対応は殺人課のために<reserve>しているのだろう。

 

『湖中の女を訳す』第十九章

<thumb in one's eye>は「悩み(頭痛)の種」

【訳文】

 彼女はハンカチに目を止め、私を見て、鉛筆を手に取り、端に付いている消しゴムで小さな麻の布をいじった。
「何がついてるの?」彼女は訊いた。「蠅捕りスプレー?」
「サンダルウッドの一種、だと思う」
「安っぽい合成品。胸が悪くなる、と言っても言い足りない。ミスタ・マーロウ、どうしてこのハンカチを私に見せたかったの?」彼女はもう一度椅子の背にもたれ、平然としたクールな眼差しで私を見つめた。
「クリス・レイヴァリーの家で見つけた。彼のベッドの枕の下だ。イニシャルがついてる」
 彼女はハンカチには手を触れず、鉛筆の消しゴムを使って広げた。顔が少し厭そうにこわばった。
「二文字刺繍してある」彼女は冷やかに声を尖らせた。
「たまたま私のイニシャルと同じだけど、それがあなたの言いたいことなの?」
「そうだ」私は言った。「おそらく彼は同じイニシャルの女を半ダースは知ってるだろう」
「結局、意地悪になるのね」彼女は静かに言った。
「それは君のハンカチだろう――そうじゃないのか?」
 彼女は躊躇した。机からそっと手を伸ばして自分でもう一本煙草をとり、マッチで火をつけた。そして、軸木の上を這い伝う小さな炎を眺めながら、マッチをゆっくりと振った。
「そうよ。私のもの」彼女は言った。「きっとあそこで落としたのね。ずいぶん前になる。言っておくけど、彼のベッドの枕の下に押し込んだのは私じゃない。それがあなたの知りたいことなら?」
 私は何も言わなかった。彼女がつけ足した。「きっと彼がどこかの女に貸したにちがいない――その手の香水が好きな女に」
「女の姿は思い浮かぶ」私は言った。「が、彼女はレイヴァリーとそぐわない」
 彼女の上唇が少しまくれ上がった。長い上唇だった。私は長い上唇が好きだ。
「思うんだけど」彼女は言った。「あなたの思い描くクリス・レイヴァリー像に少し手を入れるべきね。洗練されてると感じたのかもしれないけど、あれは完全に偶然の産物よ」
「それはまた、ひどい物言いだな。死んだ人間に向かって」私は言った。
 しばらくの間、彼女はただそこに座って、あたかも私が何も言わなかったかのように私を見て、私が何か言うのを待っていた。そして、ゆっくりとした震えが、喉元から彼女の全身に伝わってきた。両手に力が入り、煙草がひん曲がった。彼女はそれを見下ろし、さっと腕を一振りして灰皿に投げ捨てた。
「彼はシャワーの最中に撃たれた」私は言った。「そこで一夜を過ごした女がやったように見える。彼は髭を剃っているところだった。その女は銃を階段に、このハンカチをベッドに残していった」
 彼女は椅子の上でほんの僅か身動きした。今や両眼はまったく虚ろだった。顔は彫刻のように冷やかだった。
「私に訊いたら何か情報が貰える、とでも期待したわけ?」彼女は苦々しそうに訊いた。
「なあ、ミス・フロムセット。私だってこういうことは角を立てず、他人行儀に、さりげなくやりたい。たまには君のような人が望むやり方で、この手のゲームをやりたい。しかし、誰もそれを許さない――依頼人も、警官も、対戦相手も。どんなに穏便に事を進めようと努めても、いつもスキャンダルに鼻を突っ込んで、他人の頭痛の種を探り当てる破目になる」
 彼女はうなずいた。やっと私の言うことが聞こえたとでもいうように。「彼はいつ撃たれたの?」彼女は訊いた。それからまた微かに身震いした。
「今朝だと思う。起きてまもなく。言っただろう、彼は髭を剃って、シャワーを浴びようとしていたと」
「だったら」彼女は言った。「おそらくかなり遅くなってからのことね。私は八時半からここにいるのよ」
「君が撃ったとは思っていない」
「たいへんご親切なこと」彼女は言った。
「でも、それは私のハンカチなんでしょう? 香水は私のではないにしても。警官が敏感だとは思えない。香水の品質にせよ――何にせよ」
「まあね――私立探偵も似たり寄ったりだ」私は言った。「こういう話は楽しいかい?」
「よして」と彼女は言って、手の甲を強く口に押しあてた。
「五発か六発、撃たれてる」私は言った。「当たったのは二発だけで、後は外れた。彼はシャワー室の隅に追いつめられていた。かなり陰惨な場面だったと思う。一方はかなりの憎しみを抱いていた、あるいは酷薄な心を」
「彼を憎むのはいとも簡単」彼女はこともなげに言った。「そして、恋に落ちるのも憎らしいほど簡単なの。女たちは――どんなにまともな女でも――男のことでひどい間違いを犯すものよ」
「かつては彼を愛してると思ったこともあるが、今はそうではない。そして、自分は撃っていない、と言ってるように聞こえるが」
「そのとおり」彼女の声は今では軽く、乾いていた。彼女がオフィスでつけることを好まない香水のように。「あなたならきっと誰にもしゃべらない」彼女は短く堰を切ったように笑った。「死んじゃった」彼女は言った。「あわれで、わがままで、安っぽくて、卑劣で、ハンサムで、あてにならない男。死んでけりをつけたのね。いいえ、ミスタ・マーロウ、私は彼を撃っていない」
 私は、彼女を好きなようにさせておいた。しばらくして、彼女は小さな声で言った。「ミスタ・キングズリーは、このことを知ってるの?」
 私はうなずいた。
「それに警察もでしょ、もちろん」
「それはまだだ。少なくとも私からは。私が彼を見つけたんだ。家のドアがきちんと閉まっていなかった。私は中に入った。そして、彼を見つけた」
 彼女は鉛筆をつまんで、またハンカチを突っついた。「ミスタ・キングズリーはこの香水つきのハンカチのことも知ってるの?」
「誰も知らない。君と私、それと、そこに置いた者を除いて」
「ご親切に」彼女はそっけなく言った。「お気遣い、ありがとう」
「君の、そのツンと澄まして、お高くとまったところは嫌いじゃない」私は言った。「だが、やり過ぎないことだ。いったいどうしたらお気に召すんだ? 枕の下からハンカチを引っ張り出し、くんくん匂いを嗅いで、目の前にぶら下げて言うのか。『おやおや、ミス・エイドリアン・フロムセットのイニシャル付き、ときたぞ。ミス・フロムセットとレイヴァリーは知り合いだったにちがいない。きっとご昵懇の仲だ。とりあえず、私のケチでいやらしい頭が思い描ける限り親密だったと言っておこう。それは熱々の関係だということになる。でも、この安っぽい合成品のサンダルウッドはミス・フロムセットが使うには安っぽすぎる。それに、これはレイヴァリーの枕の下にあった。ミス・フロムセットは男の枕の下にハンカチを忍ばせるような真似はしない。それ故にこれは絶対にミス・フロムセットのものではない。単なる目の錯覚に過ぎない』とでも」
「いいかげんにして」彼女は言った。
 私はニヤついた。
「私をどんな女だと思ってるの?」彼女はかみつくように言った。
「今さら言っても手遅れというものだ」
 彼女は頬を赤くした。ほんのりとだったが、今回はそれが顔全体に広がった。それから、訊いた。「誰の仕業か、目星はついてるの?」
「いくつか考えはあるが、それだけのことだ。警察が簡単に見つけることになりそうだ。レイヴァリーのクローゼットの中にはミセス・キングズリーの服が何着かぶら下がっていた。話の全体像をつかんだとき――昨日リトル・フォーン湖で起きたことも含めて――彼らが直ぐに手錠に手を伸ばすんじゃないかと心配だ。まず彼女を見つけなければいけないが、警察にとってそれほど難しいことじゃないだろう」
「クリスタル・キングズリー」彼女は心ここにあらずというように言った。「なら、彼のところまで迷惑が及ぶわね」
 私は言った。「そうと決まったものでもない。我々には想像もつかない、全く別の動機かもしれない。アルモア博士のような人物ということもあり得る」
 彼女は素早く顔を上げ、それから頭を振った。「あり得ることだ」私は言い張った。「彼でないとする証拠は何もない。昨日の彼は、何も恐れることのない男にしては、かなり神経質になっていた。もちろん、罪を犯した人間だけがびくびくしているわけじゃないが」
 私は立ったまま彼女を見下ろし、机の端をコツコツ叩いた。美しい頸筋だった。彼女はハンカチを指差した。
「これについては?」彼女はぼんやりと訊いた。
「もし私の持ち物だったら、洗濯して安物の匂いを洗い落とすだろう」
「何か意味があるんじゃない? きっとたくさんの意味が」
 私は笑った。「たいした意味はないと思うよ。女というのはハンカチをその辺に置き忘れるものだ。レイヴァリーのような連中はそれを集めてサンダルウッドの匂い袋と一緒に抽斗の中にしまっておく。たくさんあるのを見つけた誰かが取り出して使う。あるいは他の女のイニシャルに対する反応を楽しみに、彼が貸したのかもしれない。そういうことをしそうな奴だった。さようなら、ミス・フロムセット。話を聞かせてくれてありがとう」
 私は行きかけて、それから足をとめ、彼女に訊いた。「ブラウンウェルに情報をもらしていたベイ・シティの記者の名前は聞いているか?」
 彼女はかぶりを振った。
「ミセス・アルモアの両親の名前は?」
「どっちも知らない。でも、知りたいなら見つけることはできる。やらせて」
「どうやって?」
「そういうことは普通、新聞の死亡欄に出るんじゃない? ロサンジェルスの新聞に死亡広告が出ていたことは確か」
「そいつはありがたい」私は言った。机の端に指を滑らせて彼女の横顔を見た。青白い象牙色の肌、愛らしい黒い瞳、髪はこの上なく華奢で、夜のように限りなく黒い。
 私は歩いて部屋の外に出た。交換台の小柄な金髪娘は期待を込めてこちらを見て、小さな唇を開きかけ、更なる楽しみを待っていた。
 しかし、私にはもう持ち合わせがなかった。私は外に出た。

【解説】

「結局、意地悪になるのね」は<So you're going to be nasty after all>。前の章の<You're not going to be insolent, are you>を受けているのはまちがいない。三氏もそれを受け、「私にいやがらせをしてるわけね」(清水)、「やはり、わたしをからかうつもりなのね」(田中)、「結局は失礼なことを口にしたわけね」(村上)と訳している。しかし、<nasty>(卑劣、意地悪)と<insolent>(傲慢、無礼)は同じ意味ではない。その意味では、「図に乗る」を「いやがらせをする」に変化させた清水訳が原義に近い。

「そして、軸木の上を這い伝う小さな炎を眺めながら、マッチをゆっくりと振ったは<She shook the match slowly, watching the small flame creep along the wood>。清水訳は「マッチをゆっくり振って、小さな炎が軸を伝わってゆくのを見つめた」。田中訳は「そしてマッチをゆつくりふりながら、軸木がもえていくのを見ていた」。だが、いくらゆっくりでも、振られているマッチの軸を火が這ってゆくのを見るのは難しかろう。書かれた順に訳すというのが主流なので、こうなるのだろうが、やはりここは村上訳のように「軸を燃やしていく小さな炎を眺めながら、ゆっくりマッチを振って火を消した」の順に訳す方が穏当だ。

「そこで一夜を過ごした女がやったように見える」は<And it looks as if it was done by some woman who spent the night there>。清水訳は「あそこで夜を過ごした女に撃たれたようだった」。田中訳は「昨日の晩いつしよに寝た女がやつたらしい」。村上訳は「撃ったのはどうやら、そこで一夜を過ごした女性のようだ」。三氏とも「女」の仕業と決めてかかっているようだが、<looks as if>は「~のように見える(思える)」という意味で、「実際はそうではないのに」というニュアンスが入っている。犯人は女だと決めつけるような表現は避けるべきではないか。

「いつもスキャンダルに鼻を突っ込んで、他人の頭痛の種を探り当てる破目になる」は<I always end up with my nose in the dirt and my thumb feeling for somebody's eye>。清水訳は「いつもこっちが鼻っぱしらを泥につっこみ、親指で誰かの目をねらうってことになる」。田中訳は「しまいには、泥のなかに鼻をつつこみ、そして相手の目の玉のなかにグリグリ指をつつこんでるんだよ」。村上訳は「結局は泥の中に鼻を突っ込み、親指で誰かの目を探っていることになる」。

こういうわけの分からない訳は、たいてい俗語表現を文字通りに解釈していることから来る。<one’s nose in ~>は「~に鼻を突っ込む、(他人の私事など)について余計な詮索をする」という意味。<dirt>は「汚物、排泄物」の意から転じて「(悪意に満ちた)ゴシップ、噂話、醜聞」を表す。<thumb in one's eye>は「悩み(頭痛)の種」を表す俗語だ。また<feel for>は「他人の苦しみを共有する、探る、~を触診する」こと。これらをつなぎ合わせて考えれば、「スキャンダルに鼻を突っ込んで、他人の頭痛の種を探り当てる」という、マーロウが常々やってることにたどりつく。

「髪はこの上なく華奢で、夜のように限りなく黒い」は<hair as light as hair can be and as dark as night can be>。清水訳は「髪はあくまでも黒々として、瞳は闇の夜のように黒かった」。田中訳は「髪の色はあくまであかるく、瞳は夜の闇ように黒い」。<light>を清水氏のように「黒々として」と訳すのは無理がある。しかし、「あかるく」と訳せば、次の<dark>と齟齬をきたす。そこで、黒いのは先に出てきた「瞳」だと考えたのだろう。

村上訳は「髪は限りなく明るい色でありながら、深い夜のようにどこまでも暗かった」と、どちらも髪として訳されている。それはいいのだが、髪については第一章で<dark-haired>と書かれている。「限りなく明るい色」と評するには無理がある。ここの<light>だが、髪の色ではなく、髪質ではないだろうか。<hair as light as hair can be>は「髪は髪がこれ以上は有り得ないくらいきゃしゃだ」という意味になる。

『湖中の女を訳す』第十八章(2)

<touch>は、「殺し」の合言葉

【訳文】

 彼女は少しばかり考えていた。途中で一度ちらっと私の方を見て、また目をそらした。
「ミセス・アルモアに会ったのは二度だけ」彼女はゆっくり言った。「でも、あなたの質問には答えられると思う――すべてね。最後に会ったのは、さっきも言ったように、レイヴァリーの家、かなり大勢の人がいたわ。しこたまお酒を飲んで、大きな声で話をしていた。女たちは夫連れでなく、男たちも妻と一緒じゃなかった、たとえいたとしてもね。そのなかにひどく酔っぱらった男がいた。名前はブラウンウェル。聞いたところじゃ、今は海軍にいるそうよ。ミセス・アルモアをからかっていたの、連れ合いの仕事のことでね。何でも、地元のパーティー好きの仲間が、朝食にピンクの象を食べたりしないように、注射針を詰めた鞄を抱えて一晩中つきあってる医者の一人だ、といったような話だった。フローレンス・アルモアは言ったわ。夫がしっかり金を稼いで、自分はそれを使うことがさえできれば、金の稼ぎ方は気にしないって。彼女も酔ってたし、素面の時だって、とても感じのいい人だとは思えない。よくいるでしょう。体にぴったり合った服を着た、目もあやな女たち。あたりを憚らず大笑いして、椅子にしどけなく寝そべり、脚を見せびらかしている、そういう女のひとり。とっても明るいブロンドで血色もよく、淫らなくらい大きな薄い青い瞳をしてた。ブラウンウェルは言った。なるほど、それなら心配はいらない、なにしろ濡れ手に粟の商売だ。患者の家に十五分かそこら出入りして、一回の往診で十ドルから五十ドルの稼ぎになる。ただ、一つ気になることがある、と彼は言った。一介の医者が、裏社会のコネなしにどうやったらこれほど多くの麻薬を手に入れることができるんだ。彼はミセス・アルモアに訊いたの。あんたの家じゃ晩飯に行儀のいいギャング連中を招いているのかって。彼女はグラスの酒を彼の顔にかけた」
 私はにやりとしたが、ミス・フロムセットは笑わなかった。彼女はキングズリーの大きな銅とガラスでできた灰皿で煙草をもみ消し、まじめな顔で私を見た。
「わかるよ」私は言った。「誰だってそうするさ。でかくて硬い拳骨を持ってりゃ別だが」
「そうね。その数週間後、フローレンス・アルモアは死体で発見された。夜遅くガレージで。ガレージの扉は閉まっていて、車のエンジンはかかったままだった」彼女は言葉を切り、ちょっと唇を湿らせた。「彼女を見つけたのが、クリス・レイヴァリー。帰宅したのが朝の何時だったかは知らない。彼女はパジャマ姿でコンクリートの床に横たわり、毛布をかぶせた車のエグゾースト・パイプの下に頭を突っ込んでいた。アルモア医師は外出中。突然の死だったこと以外、新聞には何も載らなかった。上手にもみ消されてた」
 彼女は組んでいた両手を少し持ち上げ、それからまた膝の上にゆっくり下ろした。私は言った。
「それで、何か問題でもあったのか?」
「世間はそう考えた。でも、世間というのはいつだってそう。少したってから私は真相とされていることを聞かされた。ヴァイン・ストリートでブラウンウェルにばったり会ったら、どこかで一杯やらないかと誘われた。彼のことは好きじゃなかったけど、ちょうど半時間ばかり時間を潰さなきゃならなかった。で、レヴィ―のバーの奥の席に座った。そうしたら、俺の顔に酒をかけた女を覚えてるか、と訊くの。だから、覚えていると言った。その後会話はこう続いた。よく覚えてるの」
「ブラウンウェルはこう言った。『我らが仲間、クリス・レイヴァリーは安泰だ。ガールフレンドは切らしても、金づるは切らさない』」
「私は言った。『何のことだか、さっぱり分からない』」
「彼は言った。『知りたくないからだろう。アルモアの女は死んだ晩、ルウ・コンディの店のルーレットで身ぐるみ剥がされてしまったんだ。彼女は癇癪を起こし、イカサマだと言って大騒ぎした。コンディは彼女を自分のオフィスに引きずり込まなきゃならなかった。彼は医師専用の電話交換局を使ってアルモア医師と連絡を取り、しばらくして先生がやってきた。彼は例の多忙な注射を一本打つと、妻のことはコンディに任せて行ってしまった。急患か何かで急いでたんだ。コンディは彼女を家に連れていった。電話で呼ばれた先生の診療所の看護婦も顔を見せ、コンディが彼女を二階に運び上げ、看護婦がベッドに寝かせた。コンディは仕事に戻っていった。ところが、人の手を借りなきゃベッドにも行けなかった女が、その夜のうちに起き出して、ガレージに降りていって一酸化炭素中毒で自ら命を絶った。あんた、これについてどう思うね?』ブラウンウェルは私に訊いた」
「私は言った。『何のことだかさっぱりよ。あなたはどうなの?』」
「彼は言った。『三流紙の記者を知ってるんだ。一応あの辺りじゃ新聞と呼ばれてる。検死審問も解剖もなかったそうだ。何か検査があったとしても、一切発表されていない。ベイ・シティ署には正規の検死官がいない。葬儀屋が一週間交代で検死官の代わりを務めているような有様だ。連中は当然のことながら政治ゴロの言いなりだ。小さな町では、買収するのは簡単だ。コネを持った誰かがやろうと思えばな。そして、コンディはそのときかなりのコネを持っていた。彼は捜査が公開されることを望まなかった。それは医師も同じだ』」
 ミス・フロムセットはそこで話をやめ、私が何か言うのを待った。私が黙っていたので、そのまま話し続けた。「ブラウンウェルにとって、これがどういう意味を持つか、あなたなら分かるでしょう?」
「まあね。アルモアは彼女を殺し、それからコンディと二人で金を使ってもみ消した。ベイ・シティみたいに汚れていない、ちっぽけな町でもやられてきたことだ。だが、話はそれで終りじゃないんだろう?」
「その通り。ミセス・アルモアの両親が私立探偵を雇ったらしいの。ベイ・シティで夜警の会社をやってて、クリスの次に現場に現れた二人目の男。ブラウンウェルの話だと、その人は情報を握ってるにちがいないの。でも、それを活かすチャンスがなかった。飲酒運転で捕まって、実刑をくらったから」
 私は言った。「それだけ?」
 彼女はうなずいた。「もし、私の記憶がよすぎると思ったなら言うけど、会話を記憶することは、私の仕事の一部なの」
「私が考えていたのは、結局、その話は何の役にも立たないってことだ。レイヴァリーを殺す必要がどこにあったのかが分からない。たとえ彼が死体を見つけたのだとしてもだ。君の噂好きの友人ブラウンウェルは、この一件が誰かに医師を脅迫するチャンスを与えた、と考えたようだ。しかし何か証拠が必要だろう。特に、すでに法的に潔白が証明された人間を強請ろうとするなら」
 ミス・フロムセットは言った。「私もそう思う。それに、強請りのようなひどいことはクリス・レイヴァリーにはちょっとできそうにない、と思いたい。私がお話しできるのはそれだけ、ミスタ・マーロウ。それに、もうそろそろ出なきゃ」
 彼女は立ち上がろうとした。私は言った。「話はまだ終わっちゃいない。君に見せなきゃならないものがある」
 私は、レイヴァリーの枕の下から引っ張り出した香水の滲みた布切れをポケットから取り出し、机の上に身を乗り出して、彼女の前に落とした。

【解説】

「何でも、地元のパーティー好きの仲間が、朝食にピンクの象を食べたりしないように、注射針を詰めた鞄を抱えて一晩中つきあってる医者の一人だ、といったような話だった」は<The idea seemed to be that he was one of those doctors who run around all night with a case of loaded hypodermic needles, keeping the local fast set from having pink elephants for breakfast.>。

清水訳は「社交界を遊びまわってる連中をおとくい(傍点四字)にしていて、一晩中いかがわしい皮下注射をしてまわってる医師の一人だというようなことだったわ」。田中訳は「ドクター・アルモアはベイ・シティの社交界の連中の家に出入りして、二日酔いや神経過敏をなおすためかなにかしらないが、チョコチョコ注射をうつて一晩中はしりまわつてるというのよ」。村上訳は「アルモア医師が鞄に注射針をいっぱい詰めて、近隣の遊び好きの人々が朝食の席でピンク色の象を見たりしなくていいように、一晩中あちこち駆け回っているような類いの医者であることを、ブラウンウェルは匂わせているらしかった」。

<run around with>は、「(好ましくない人物と)つき合う、(異性と)浮気する」という意味のイディオム。「一晩中走り回っている」わけではない。<fast set>だが、「社交界の連中」という意味ではなく、トラブルを起こしがちなほど「激しいパーティーをすることが好きな人々」を表す口語英語。おそらく、酒だけでなくドラッグも頻繁にやりとりされるのだろう。「ピンクの象」云々は、薬物の過剰摂取から起きる幻覚症状のことを言っているものと思われる。そういうパーティーに診療鞄を抱えた医者がいるのは、たしかに都合がよかろう。

「彼女はグラスの酒を彼の顔にかけた」は<She threw a glass of liquor in his face>。田中訳は「ミセズ・アルモアは、グラスにはいつた水を、ブラウンウェルにぶつつけたわ」と、理由は分からないが<liquor>が「水」に代わっている。村上訳は「彼女はグラスの酒を彼にかけた」。こちらは<his face>が「彼」になっている。清水訳は「夫人は彼の顔にグラスのウィスキーをぶっかけたわ」。彼女が何を飲んでいたのか、ミス・フロムセットは知らなかったはず。<liquor>は「蒸留酒などの強い酒」のこと。ウィスキーはその代表だ。

「誰だってそうするさ。でかくて硬い拳骨を持ってりゃ別だが」は<Who wouldn't, unless he had a large hard fist to throw?>。清水訳は「彼が腕が立ちそうな男だったらべつだけどね」。この場合の「彼」が問題だ。村上訳は「相手の男が大きなごつい拳(こぶし)さえ持っていなければね」と、「彼」を「相手の男」と取っている。そうじゃないだろう。この<throw>は、その前の<She threw a glass of liquor in his face>を受けている。

<throw>は「(体・物を)さっと動かす」ことだ。その人に強い拳があれば、相手にパンチを食らわす<throw>ところだが、それがない(女性だ)から、手にしていたグラスの酒を<throw>したわけだ。つまり、この場合の「彼」は、指している男女の性別に関わりのない「その人」の意味だ。田中訳は「水をぶつかけるぐらいあたりまえだ。男で、パンチが自慢だつたら、ガンとやつてただろう」。ふつう、こうだろう。

「レイヴァリーを殺す必要がどこにあったのかが分からない。たとえ彼が死体を見つけたのだとしてもだ」は<I don't see where it has to touch Lavery, even if he was the one who found her>。清水訳は「あの女を見つけたのがレイバリーだったとしても、とやかくいわれることはないだろう」。村上訳は「その話がレイヴァリーとどこで結びつくか、それがわからない。彼がただ第一発見者だったというだけじゃ、話は繋がらない」。田中訳は「それが、どういうふうに、レヴリイが殺されたことにからまつてるか……わからん。たとえ、ミセズ・アルモアが死んでるのを、いちばんさきに見つけたのがレヴリイだとしても……」。田中訳だけが<touch>を「殺す」と訳している。

マーロウは、クリス・レイヴァリーが誰の手によって殺されたのかが知りたい。しかし、ミス・フロムセットの話はマーロウの知らない事実をいくつか含んではいるが、それについては、結局、何も得るところはない。この場合の<touch>は「手を下す」という意味での「殺し」の意味だ。<has to touch Lavery>を「レイヴァリーを殺す必要がある」と読まないで、ハードボイルドは訳せないだろう。

「それに、強請りのようなひどいことはクリス・レイヴァリーにはちょっとできそうにない、と思いたい」は<And I'd like to think blackmail was one of the nasty little tricks Chris Lavery didn't quite run to.>。清水訳は「そして、私は恐喝はクリス・レイバリーにはとてもできそうもない汚いことの一つだと思いたいのよ」。田中訳は「それに、クリス・レヴリイはほんとにロクでもないことばかりやつてたけど、まさか、恐喝なんかはしなかつたでしよう」。村上訳は「また私としては、強請りのような危ない芸当はクリス・レイヴァリー向きじゃないと思いたいところね」。

<(nasty)trick>は「卑劣な(ばかげた、恥ずべき)行為、ひどいこと」という意味で、「危ない芸当」というのとはちょっと意味がちがう。また<not quite>は「~とまでは行かない、完全には~でない」という意味で、それに<run to>(~に達する、~の状態になる)がくっつくと「(いくら悪いやつでも)そこまで腐っちゃいない」というような意味になる。「向き、不向き」というのとは少しちがうのではないか。

『湖中の女を訳す』第十八章(1)

<Come and see my etchings>は「ちょっと家に寄らないか」という誘い文句

【訳文】

 アスレティック・クラブは、通りをはさんだ四つ辻の角にあった。トレロア・ビルディングから半ブロックほど行ったところだ。私は通りを北に横切って入口に向かった。以前ゴム敷きだった歩道はすっかり薔薇色のコンクリートに敷き替えられていた。周りにはフェンスが張られ、建物に出入りするために狭い渡り板が通してある。そこはランチ帰りの勤め人でごった返していた。
 ギラ―レイン社の応接室は昨日よりもさらにがらんとしていた。例のふわっとした金髪の小柄な娘が隅の交換台の後ろに押し込まれていた。彼女がちらっと微笑んだので、ガンマンの敬礼を返した。人差し指をピンと彼女に向け、三本の指をその下にたくし込み、西部劇のガンマンが撃鉄をはじくみたいに親指を素早く上下に動かした。彼女は、声を立てずに大笑いした。この一週間で一番楽しい時間だったにちがいない。
 私がミス・フロムセットの空き机を指差すと、小柄な金髪娘はうなずいてプラグを挿し込み、何か言った。ドアが開き、ミス・フロムセットが優雅な腰つきで机に向かって腰を下ろし、私の出方を待つようにクールな視線を向けた。
「ご用件は、ミスタ・マーロウ? あいにくミスタ・キングズリーはただ今不在ですが」
「今、会ってきたところだ。どこかで、話せるかな?」
「話す?」
「ちょっと見せたいものがあるんだ」
「ほんとに?」彼女は思うところがあるように私をじろじろ見た。多くの男が彼女に物を見せようとしてきたにちがいない。その中には、エッチングを見に来ないか、という誘いもあったはず。場合が場合なら、私だってそれに賭けてみる誘惑に逆らえなかっただろう。
「仕事の話だ」私は言った。「ミスタ・キングズリーの用でね」
 彼女は立ち上がって手すりのゲートを開けた。「そういうことなら、彼のオフィスでお話した方がよさそうね」
 我々は部屋に入った。彼女は私のためにドアを押さえてくれた。すれ違うときに匂いを嗅いだ。サンダルウッド。私は言った。
「ギラ―レイン・リーガル。香水のシャンパン?」
 彼女はドアを押さえながら、かすかに微笑んだ。「私のサラリーで?」
「サラリーの話などしちゃいない。君は自分で香水を買わなきゃならない娘には見えない」
「まあ、それはそうね」彼女は言った。「正直に言うと、私はオフィスで香水をつけるのは大嫌い。彼の考えよ」
 奥行きのある仄暗いオフィスの中を通り、彼女は机の端の椅子に腰かけた。私は昨日の椅子に座った。互いに見つめ合った。今日の彼女は、頸周りにレースのひだ飾りがついたタン・カラーの服だ。昨日より温かみを感じたが、燎原の火とまではいかない。
 私はキングズリーの煙草を一本取って彼女に勧めた。彼女はそれを手に取り、彼のライターで火をつけ、椅子の背に凭れた。
「腹の探り合いは時間の無駄だ」私は言った。「もう、私が誰で何をしてるか知ってるだろう。もし君が、昨日の朝知らなかったとしたら、それはただ彼が大物ぶって見せるのが好きだからだ」
 彼女は膝に置いた手を見下ろし、それから目を上げて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「彼はすごい人よ」彼女は言った。「大物振りたがるところが玉に瑕だけど。それもつまるところは、自分相手の一人芝居。あの性悪女のことをどれだけ我慢してきたか知ってたら」――彼女は煙草を持った手を振った。「まあ、これは言わぬが花。で、私に何の御用かしら?」
「キングズリ―の話では、アルモア家と懇意だったとか?」
「知ってたのはミセス・アルモアのほう。二度ばかり会ったかな」
「どこで?」
「友だちの家よ。どうして?」
「レイヴァリーの家でかい?」
「不躾な質問、だとは思わないの? ミスタ・マーロウ」
「どうしてそう取るのか分からない。こっちはこれが仕事でね、いかにも仕事らしく話してるつもりだ。国際外交ってわけじゃない」
「わかったわ」彼女はかすかにうなずいた。「クリス・レイヴァリーの家よ。時々行ってたの。彼がカクテルパーティーを開いた時に」
「それじゃ、レイヴァリーはアルモア夫妻と親しかったわけだ――それともミセス・アルモアとかな?」
 彼女はほんのわずか、頬を赤らめた。「そう、とても親しかった」
「そして、他の多くの女――もまた、とても親しくしていた。それは疑いようがない。ミセス・キングズリーも彼女を知っていた?」
「ええ、私なんかよりずっと。二人はファースト・ネームで呼び合う仲だった。ミセス・アルモアは死んだわ。ほらあの、自殺したの。かれこれ一年半前になる」
「そこに疑わしい点はなかったのかな?」
 彼女は眉をひそめたが、わざとらしかった。まるで私の質問に合わせてやったみたいに。
 彼女は言った。「わざわざそんな質問をするのは特別な理由があるの? ていうか、あなたのやってることと何か関わりがあるわけ?」
「関わりがあると思っていなかった。今でも思っていない。しかし昨日、私が家を見ただけでアルモア医師は警察を呼んだ。車のナンバーから私が誰か調べた後でね。その場に居合わせただけなのに、警官はかなり手厳しかった。警官は私が何をしているのか知らなかったし、レイヴァリーの家を訪ねたことも話していない。だが、アルモア医師は知っていたにちがいない。彼はレイヴァリーの家の前にいる私を見ている。なぜ警官を呼ぶ必要があると考えたのだろう? また、なぜ警官は、この前アルモアを強請ろうとした奴は今じゃ鎖に繋がれて道路を掘る毎日だ、などといわくありげに言おうと思ったんだろう? さらに、なぜ警官は、女の身内に――ミセス・アルモアの家族のことだと思うが――雇われたのか、と尋ねたりしたのだろう? もし、君がこれらの質問の幾つかに答えられるなら、関わりがあるかどうか、私にも分かるかもしれない」

【解説】

「例のふわっとした金髪の小柄な娘」は<The same fluffy little blonde>。清水訳は「昨日とおなじ小柄のかわいい金髪娘」。田中訳は「れいの、お茶目の金髪(ブロンド)の娘(こ)」。村上訳は「昨日と同じ身の軽そうな小柄なブロンド娘」。この<fluffy>だが、第一章でも、<smiled a small fluffy smile>(小さくふわりとした微笑を浮かべた)と使われている。つまり、この<fluffy>は、彼女の微笑についての印象だ。

第一章では同じ語を三氏はどう訳しているか。清水訳は「薄笑いを浮かべた」。田中訳は「かすかにほほえんでいる」。村上訳は「小さく軽やかな微笑を見せてくれた」だ。<the same fluffy>とあるからには、その第一印象を大事に訳す必要があるのではないだろうか。<fluffy>は「けば、綿毛(に覆われた)、ふわふわした」という意味の形容詞。村上訳の「身の軽そうな」は、そこからの類推だろうが、<fluffy>は<smile>を指しているのであって、彼女自身ではない。

「多くの男が彼女に物を見せようとしてきたにちがいない。その中には、エッチングを見に来ないか、という誘いもあったはず」は<A lot of guys had probably tried to show her things, including etchings>。<etchings>は「ちょっと家に寄らないか(Come (and) see my etchings)」と、女性を家に誘うときによく使われる。別の作品でも使われている、作家のお気に入りの小道具だが、旧訳は三つとも「エッチング」を使っていない。

清水訳は「多くの男がさまざまな物を彼女に見せようとしたにちがいない」と、<etchings>をスルーしている。田中訳は「きつと、あちこちの男が、いろんなものを見せたがつたことがあるにちがいない。画を見にきませんか、なんて家にさそつたやつも――」。村上訳は「きっとたくさんの男たちが彼女にいろんなものを見せようとしたのだろう。そこには多くの下心があったに違いない」。

ミス・フロムセットは「見せたいものがある」というマーロウの言葉に<Oh, yes?>と応じている。これは、今風に言えば「マジで?」だ。それを受けて、マーロウの心の中で独り言が始まる。ここは、なかなか手強い。特に、前に書いた部分の後を受ける<At another time I wouldn't have been above taking a flutter at it myself>が厄介だ。

清水訳は「私もいつか、いまこれから見せるものと違うものを見せてもいいと思った」。田中訳は「ほかの場合だつたら、おれも、そんなふうにしたかつたところだ」。村上訳は「状況さえ異なれば、私だって同様の野心を抱いたかもしれないが」となっている。

<wouldn’t have been>は「~しなかっただろう」。<take a flutter>は「小さな賭けをする」ことだが、その前に<above>がある。<above doing>は「(自尊心のせいで)そんなことはしない」という表現になる。つまり、「賭けに出るような真似をしないことはしなかった」という二重否定になる。そこで「場合が場合なら、私だってそれに賭けてみる誘惑に逆らえなかっただろう」と訳してみた。この場合の「それ」とは、いうまでもなく<Come and see my etchings>という誘い文句をかけることだ。

「仕事の話だ」は<Business>。「ミスタ・キングズリーの用でね」は<Mr. Kingsley's business>。清水訳はそれぞれ「仕事だ」、「キングズリーさんのことだ」。田中訳は「ぼく個人の用じゃない。キングズリイさんの用で――」。村上訳は「ビジネスのことだ」、「ミスタ・キングズリーのビジネスに関することだよ」となっている。

<business>は、たしかに「仕事、商売」のことだが、いろいろな使い方をされる。その前にマーロウが<What do we talk?>と訊き、ミス・フロムセットが<Talk?>と問い返している。<talk business>は「まじめな話をする」という意味。それに、マーロウが<Mr. Kingsley's business>と答えていることから見て、ここは村上訳のような商売の意味のビジネスではない。「するべき仕事(用事、用件)のことだ。マーロウはキングズリー氏のビジネスではなく、キングズリー氏の「用事をする」(do one’s business)のだ。

「不躾な質問、だとは思わないの?」は<You're not going to be insolent, are you>。<insolent>は「横柄、傲慢、無礼」等の意味。清水訳は「図に乗らないで欲しいわね」。田中訳は「また、わたしをからかうつもりなの」。村上訳は「何か失礼なことを言い出すつもりじゃないんでしょうね」。ミス・フロムセットは、話が私的な範囲に入ることをやんわりと拒否して、こう言っているのだろう。

「こっちはこれが仕事でね、いかにも仕事らしく話してるつもりだ。国際外交ってわけじゃない」は<I'm going to talk business as if it were business, not international diplomacy>。清水訳は「私は仕事を仕事として話をする。国際外交の話をするつもりはない」。田中訳は「ぼくは、ビジネスをビジネスらしく話そうとしているだけだ。外交官みたいな口のききかたをするつもりはない」。村上訳は「私はビジネスを、あくまでもビジネスとして進めているだけだ。国際外交みたいにはいかない」。村上訳からは<talk>が完全に脱落している。

<as if it were>は「まるで~のように」という意味。否定が加わると「あるまいし」という意味になる。つまり、マーロウは自分が踏み込もうとしているのは、相手にとっては触れてほしくない部分だ、ということを知っている。しかし、探偵にとってはそれを探ることが「仕事」だ。当然、勿体ぶった言い方ではなく、突っ込んだ物言いにならざるを得ない。<business>をただ「仕事(ビジネス)」と訳してしまうと、その辺の話が見えなくなる。

「ミセス・アルモアは死んだわ。ほらあの、自殺したの。かれこれ一年半前になる」は<Mrs. Almore is dead, you know. She committed suicide, about a year and a half ago>。清水訳は「アルモア夫人は死んでるのよ。一年ほど前に自殺したのよ」と<you know>を訳していない。田中訳は「ごぞんじでしようけど、ミセス・アルモアはなくなつたわ。自殺したの。一年半ばかり前に」。村上訳は「ご存じのように、ミセス・アルモアは亡くなってしまった。一年ほど前に自殺したの」。

この<you know>だが、文頭や文末に置かれていないので、「ご存じのように」という意味ではない。文章と文章の間にはさまれる<you know>には、二通りある。一つは、次に言うことが思い出せずに会話の間を埋める場合。もう一つは、次に言う内容が、相手を嫌な気持ちにさせる自覚があって、ストレートに続けず、緩衝材として間に言葉をはさむ場合。この場合は、知人が自殺した事実を告げているので、二つ目と考えるのが妥当だろう。

「また、なぜ警官は、この前アルモアを強請ろうとした奴は今じゃ鎖に繋がれて道路を掘る毎日だ、などといわくありげに言おうと思ったんだろう?」は<And why would the cop think it smart to say that the last fellow who tried to put the bite on Almore ended up on the road gang?>。<the cop think it smart to say that>は直訳すれば「警官はなぜthat以下のように言うことが賢明だと思ったんだろう」。<road gang>は、映画でおなじみの足を鎖でつながれて集団で道路工事をする囚人たちのこと。

清水訳は「そして、なぜ警官はアルモアに噛みつこうとした男が闇から闇に葬られたと私に話したのだろう」。「闇から闇に葬られ」たら消息が知れないので、これは誤り。田中訳は「それに、この前、アルモアから甘い汁をすおうとしたある男は、とうとう刑務所にほうりこまれ、道路工事をやらされているなんて、どうしてわざわざ、そのお巡りはぼくをおどかしたんだろう?」。<road gang>については田中訳が一番詳しい。

村上訳は「そしてなぜその警官は、以前アルモアを脅迫しようとした人間は、今じゃムショ暮らしをしているというようなことを、わざわざ私に告げたのだろう」。その警官はマーロウのことを、以前からちょくちょくアルモアのところにやってきていた強請り屋の一人と勘違いして、ちょっと脅してやろうと思って、こう言ったにちがいない。単なる「ムショ暮らし」では、鎖で自由を奪われながら、つるはしをふるう辛さがもう一つ伝わってこない。

『湖中の女を訳す』第十七章(2)

香水についても詳しくないと、私立探偵はつとまらない。

【訳文】

「ろくでなしめ」彼は声を低くした。「あいつはあれを見限ったんだろう」
「そいつはどうかな」私は言った。「あなたにとっては動機が不充分だったんじゃ、文明人だからという理由でね。でも、彼女にとってはそれが充分な動機になるんですか」
「同じ動機という訳じゃない」彼は噛みつくように言った。「それに、女は男より衝動的だ」
「猫が犬より衝動的なのと同じようにね」
「どういう意味だ?」
「ある種の女は、ある種の男より衝動的である。ただそれだけのことです。もし奥さんの仕業にしたいのなら、もっとしっかりした動機がなくちゃいけない」
 彼は私をじっと見つめられるところまで顔を振り向けたが、そこに面白がっている様子はなかった。白い三日月形が口の両端に刻み込まれていた。
「どうやら、手際よく済ませるという訳にはいかんようだな」彼は言った。「警察に銃を渡すわけにはいかん。クリスタルは許可証を持っていて、銃は登録されている。私が番号を知らなくても、警察にはすぐに知れる。彼らに銃を渡すことはできん」
「私が銃を持ってることはミセス・フローリアンが知ってますよ」
 彼は頑なにかぶりを振った。「チャンスに賭けようじゃないか。君が危険を冒しているのはよく分かっている。それ相当の対価を払うつもりだ。もし自殺したように見せかけられるなら、銃を返してもいいが、君の話じゃ難しそうだな?」
「無理ですね。自分自身を撃とうとする者が最初の三発を外すなんてあり得ない。たとえボーナスを十ドルもらっても、殺人を誤魔化すことなどできない相談だ。銃は戻すべきだ」
「もっと高額を考えていたんだが」彼は静かに言った。「五百ドルならどうだ」
「いったい何を買うつもりですか?」
 彼は私に身をすり寄せた。その目は真剣で殺伐としていたが、非情ではなかった。「銃のことは別にして、レイヴァリーの家には、クリスタルが最近そこにいたことを示すものがあるのか?」
「黒と白のドレスと、バーナディーノのベルボーイが彼女がかぶってたと言った帽子が。他にも私の知らないものがいくつもあるでしょう。指紋はほぼ確実に残っている。おっしゃる通り、彼女が指紋をとられていなくても、警察が指紋を手に入れるすべはいくらでもある。お宅の彼女の寝室は指紋だらけだ。リトル・フォーン湖の山小屋や彼女の車にも」
「車を取って来なくては――」彼がそう言いかけたが、私が止めた。
「無駄です。他にも山ほどあります。 彼女はどんな香水を使っていますか?」
 彼は一瞬ぽかんとした。「ああ――ギラ―レイン・リーガル、香水のシャンパン」彼は木で鼻をくくったように言った。「たまにはシャネル・ナンバーを使うこともある」
「あなたのそれは例えばどういう代物なんです?」
「シプレーに近い。サンダルウッドを効かせたシプレーだ」
「寝室にはそいつがぷんぷん臭っていた」私は言った。「いかにも安物臭かった。まあ、私は鑑定士じゃないが」
「安物だと?」彼は聞きとがめた。「なんてことを。安物だ? 一オンス三十ドルもするんだぞ」
「どっちかといえば、一ガロンあたり三ドルがやっと、という代物でした」
 彼は両手を膝に叩きつけるように置き、首を振った。「金の話をしてるんだ」彼は言った。「五百ドル。今すぐ小切手を書く」
 私はその言葉を汚れた羽が渦を巻いて落ちるように地に落ちるに任せた。我々の後ろにいた年寄りの一人がよろめきながら立ち上がって、部屋から出て行った。
 キングズリーは重々しく言った。「私はスキャンダルから身を守るために君を雇った。いうまでもないことだが、必要があれば妻を守るためでもある。君のせいではないが、スキャンダルを避けるチャンスはかなり失われている。今では妻の生死に関わる問題になっている。妻がレイヴァリーを撃ったとは信じられない。私にはそう信じる理由がない。全くないのだ。彼女が仮に昨夜そこにいて、この銃が彼女のものだったとしても。彼女が彼を撃った証しにはならない。彼女は他の物と同じように、銃についても無頓着だった。誰にでも持ち出せただろう」
「ここらあたりの警官はそんなことを信じるほど暇じゃありません」私は言った。「私が出会ったのがまずまずの代物だとしたら、彼らは最初に見た頭を選び、ブラックジャックを振り回し始める。そして、状況を見渡したとき、まず最初に見た頭になるのは彼女でしょう」
 彼は両手のつけ根をこすりあわせた。彼の不幸は、現実の不幸がそうであるように、芝居がかった味わいがあった。
「ある程度まではあなたの意見に賛成です」私は言った。「一目見て、お膳立てが整いすぎている。彼女は着ているところを見られた服を残しているが、たいていそこから身元が割れる。銃は階段に置いたままだ。彼女がそこまで馬鹿だとは考えにくい」
「少し生きた心地がしてきたよ」キングズリーは疲れた様子で言った。
「しかし、そんなことに何の意味もない」私は言った。「なぜなら、私たちはそれを計画的犯行という観点で見ているからです。一時的にかっとなったり、むかついたりして犯罪を行う者は、 ただそれをやって出て行くだけです。これまで聞いてきたすべてが、彼女が向こう見ずで分別を欠いた女であることを示している。あの現場には、計画性が全く感じられない。計画性が全くないことを示すあらゆる兆候がある。たとえ、奥さんを指さすものがなくても、警察は奥さんをレイヴァリーに結び付けるでしょう。警察は彼の前歴を調べる。友人、女出入り等。彼女の名前はきっとどこかで出てくる。もし出てきたら、彼女がひと月の間、姿を消しているという事実は、彼らを身構えさせ、喜びのあまりむらむらして揉み手をさせることになる。もちろん、銃についても調べる。そして、もしその銃が彼女の――」
 彼の手が椅子の横にある銃に飛びついた。
「いけません」私は言った。「銃は警察に渡すしかない。マーロウは気の利く男で、個人的にはあなたのことが大好きかも知れない、それでも、人を殺した銃のような重要な証拠を隠蔽する危険を冒すことはできません。私が何をするにせよ、奥さんが明白な容疑者であるということを前提にする必要があります。ただ、その明白さが誤っていることもあり得ます」
 彼は唸り声を上げ、銃を持ったまま、大きな手を差し出した。私は銃をとって仕舞った。それからもう一度取り出して言った。「あなたのハンカチを貸してください。自分のを使いたくない。調べられるかもしれないんでね」
 彼は糊のきいた白いハンカチを取り出し、私はそれで銃全体を注意深く拭い、ポケットに落とし込んだ。私はハンカチを彼に返した。
「私の指紋はどうでもいい」私は言った。「が、あなたのはいらない。これが私にできる精一杯です。現場に戻って銃をもとの位置に置き、それから警察に電話する。後は相手の出方次第で成り行き任せです。遅かれ早かれ、そこで私は何をしていたのか、そしてその理由は、という話が出てくるはずです。一番まずいのは、警察が彼女を見つけ、彼を殺したことを立証することです。一番いいのは、警察が私よりずっと早く彼女を見つけ、私が全力を挙げて彼女が彼を殺していないこと、つまり、他の誰かの犯行であることを立証できるようにしてくれることです。あなたは、その話に乗りますか?」
 彼はゆっくりうなずいた。彼は言った。「それで行こう――それと、五百ドルはまだ生きてる。クリスタルが彼を殺していないことを証明してくれ」
「その報酬はあてにしてません」私は言った。「あなたも、それくらいお分かりのはずだ。ところで、ミス・フロムセットは、レイヴァリーとどれくらい親しかったんです? 勤務時間外で」
 彼の顔は痙攣でもしたかのようにこわばった。両の拳は太腿の横で固く握りしめられた。彼は何も言わなかった。
「昨日の朝、レイヴァリーの住所を尋ねた時、彼女の様子が妙だった」私は言った。
 彼はゆっくり息を吐いた。
「後口が悪そうな」私は言った。「不首尾に終わったロマンスのような。あからさまに過ぎますか?」
 彼の鼻孔が少し震え、その中で息が少しのあいだ音を立てた。やがて、力を抜いて静かに言った。
「彼女は、彼とかなり親しかった――いっときのことだ。 彼女はそんなふうに自分の好きなことをする女の子だ。 レイヴァリーは魅力的なやつだったのだろう――女には」
「彼女と話す必要がありそうだ」私は言った。
「なぜだ?」彼は短く言った。頬に赤みが差した。
「気にしないことです。いろんな人にいろんな質問をするのが私の仕事です」
「じゃあ、話したらよかろう」彼はきっぱり言った。「実は、彼女はアルモア家と心やすい。自殺した奥さんを知っている。レイヴァリーも懇意だった。この件に何か関係があるだろうか?」
「分かりません。あなたは彼女と恋愛中なんじゃないですか?」
「できれば明日にでも一緒になりたいところだ」彼は鯱張って言った。
 私はうなずいて立ち上がった。部屋を振り返ると、今ではほとんど空っぽだった。一番奥では一組の古強者が、まだ鼻提灯を膨らませていた。残りの安楽椅子の常連客は、何であれ、意識がある時していたことに、よろめきながら戻っていた。
「もう一つだけ」私はキングズリーを見下ろしながら言った。「殺人事件の後、警察に電話するのが遅れると、警察は非常に敵対的になる。すでに遅れが出ていますが、まだしばらくかかります。私がそこに行くのは今日が初めてといった顔をしたい。フォールブルックという女のことさえ無視すれば、うまくやれるでしょう」
「フォールブルック?」彼は私が何のことを言っているのか分からないようだった。「誰のことだ?――待てよ、思い出した」
「いやいや、思い出さないでください。おそらく警察は彼女の声を耳にすることはないでしょう。自分から進んで警察に何かを話すような女じゃない」
「よく分かったよ」彼は言った。
「うまくやってください。尋問は、レイヴァリーが死んだと聞かされる前に行われます。私があなたと連絡を取ることを許可される前に――警察が私たちが連絡を取り合っていることを知らない限りね。どんな罠にもひっかからないでください。もし、そうなったら、何も見つけられないうちに、私は豚箱行きです」
「警察を呼ぶ前に、その家から電話することもできるだろう」彼は当然のように言った。
「分かってます。でも、そうしないことが私には有利に働く。彼らが最初にやることは電話をチェックすることです。もし他の場所から電話したりしたら、あなたに会うためにここに来たと認めたも同然です」
「よく分かった」彼はまた言った。「心配いらない。うまくやってみせる」
 我々は握手し、私は立ったままの彼を残して出て行った。

【解説】

「彼は私をじっと見つめられるところまで顔を振り向けたが、そこに面白がっている様子はなかった」は<He turned his head enough to give me a level stare in which there was no amusement>。清水訳は「彼は私に顔を向けてじっと見つめた。眉にしわ(傍点二字)をよせていた」。田中訳は「キングズリイは、おれをまともににらみつけることができる程度に、顔をまわした」。村上訳は「彼はぐいとこちらに顔を向け、我々はまっすぐ互いに睨み合うことになった。そこには冗談ごとの入り込む余地はなかった」。

清水氏は<in which there was no amusement>を「眉にしわを寄せる」という不機嫌さを表す表現に置き換えている。田中氏はそこをカットしている。村上訳では両者は対等に睨み合っている。しかし、ここはキングズリーの顔に、どんな感情が浮かんでいるのかをマーロウが判断している場面だ。両者の関係は対等ではない。マーロウの感情などは雇用者であるキングズリーにとって何の意味もない。

「白い三日月形が口の両端に刻み込まれていた」は<White crescents were bitten into the corners of his mouth>。清水訳は「固く結ばれた口の端がかすかに震えた」。田中訳は「きつくかみしめた口のはしが、三日月形に白くなつている」。村上訳は「歯をぎゅっと噛みしめた口の両端は、白い半月形になっていた」。

歯をきつく噛みしめると、本当に口の端に白い半月形ができるのだろうか。試しに自分でもやってみたが何もできなかった。<bite into>は「かじる、(物の表面に)食い込む」という意味で、三氏の訳のように「歯を食いしばる」という意味ではない。キングズリーは、形ばかり口角にしわを寄せることで一応笑顔を作って見せたつもりではないのか。どうしてそれが白く見えたのかは分からないが、

「その目は真剣で殺伐としていたが、非情ではなかった」は<His eyes were serious and bleak, but not hard>。清水訳は「目が真剣で、きびしかったが、険(けわ)しくはなかった」。田中訳は「その目は必死で、なにかわびしかった。けつしてけわしいめつきではない」。村上訳は「彼の目はどこまでも殺伐として真剣だった。しかし厳しくはなかった」。

<serious><bleak><hard>と形容詞が三つ並んでいる。前二つはキングズリーが現状の深刻さを真剣に受け止め、事態が容易でないことを理解していることを示している。<but>と逆接の接続詞で結ばれているのは、マーロウがそれと矛盾する心情を認めたということだろう。事態は差し迫っていて、抜き差しならないが、妻を放ってはおけない。キングズリーは老獪な人物だ。妻の引き起こした醜聞に参ってはいるが、まだ妻を救うチャンスをうかがっている。そういう目をしていたにちがいない。

単語の一つ一つは極めてシンプルなものだが、文章にはコンテクストというものがある。英語の単語を日本語の単語に逐語的に置き換えていけば済むというものではない。この場合なら、キングズリーという男がどんな男で、マーロウは相手にどんな感情を抱いているのかを押さえたうえで、文脈に沿った訳語を選択しなければならない。<hard>だから、「厳しい」と訳しておけば、それでよし、というものではない。

「たまにはシャネル・ナンバーを使うこともある」は<A Chanel number once in a while>。清水訳は「シャネルをときどき」。田中訳は「時々、シャネルの香水もつけてた」。<once in a while>は「時たま、時々」の意味だから、普通はこうなる。ところが、村上氏は「シャネルにも負けない逸品」と訳している。いつも原文に忠実な氏にしては、珍しく逸脱した訳になっている。

「あなたのそれは例えばどういう代物なんです?」は<What's this stuff of yours like?>。.清水訳は「あなたのこれは何です」。まさに直訳。田中訳は「おたくの社のは、どんな香水なんです?」。村上訳は「あなたの会社のそれは、どんな匂いがしますか?」。<one’s like>は「同様の物・人」を意味している。つまり、マーロウは、ギラ―レイン・リーガルが、具体的に何の匂いに似ているのか、自分の分かる言葉で聞きたいのだ。

「シプレーに近い。サンダルウッドを効かせたシプレーだ」は<A kind of chypre. Sandalwood chypre>。清水訳は「チプレの一種だ。白檀(びゃくだん)のチプレだ」。田中訳は「香木からとつたものだよ。びやくだん(傍点五字)の木のものだ」。村上訳は「白檀の一種だ。サンダルウッド種」。「シプレー」はコティ社の発売した香水の名だが、そこから「シプレー」系と呼ばれる香水のタイプを代表する名前になった。

香水には揮発する段階で、最初に匂うトップ・ノート、次いでミドル・ノート、最後に二時間から半日くらい匂う、ラスト・ノートと呼ばれる香りがある。「サンダルウッド」は白檀のことで、ラスト・ノートとして配合されることが多い。つまり、キングズリーの香水はサンダルウッドを使ったシプレー系、ということだ。田中、村上両氏の訳は大事な「シプレー」を抜かしている。清水訳は「シプレー」が「チプレ」になっているのが惜しい。因みに「シプレー」とはフランス語で「キプロス島」のことである。

「彼らを身構えさせ、喜びのあまりむらむらして揉み手をさせることになる」は<will make them sit up and rub their horny palms with glee>。清水訳は「彼らを座り直させ、奮い立たせます」。田中訳は「お巡りたちが手をすりあわせて大よろこびする材料になるだろう」。村上訳は「警官たちはよしこれだ(傍点五字)と膝を叩き、喜びのあまりそのがさつな手をごしごしこすりあわせることでしょう」。

<sit up>は、「はっとする、注目する」という意味。<horny>には「(皮膚が)こわばってざらざらした」という意味の他に「性的に興奮した」という俗語表現がある。マーロウが警察に対してわざわざこう言っているところを考えると、その意味合いを無視することもできない。日本語では、喜んだり、悔しがったりする時、両手をこすりあわせることを「揉み手をする」と言う。逮捕という本番を前にしての感情の高ぶりが「揉み手」という身体行動に出ているのだろう。

「一番いいのは、警察が私よりずっと早く彼女を見つけ、私が全力を挙げて彼女が彼を殺していないこと、つまり、他の誰かの犯行であることを立証できるようにしてくれることです」は<At the best they'll find her a lot quicker than I can and let me use my energies proving she didn't kill him, which means, in effect, proving that somebody else did>。

清水訳は「もっともうまくいった場合でも彼らは私よりずっと早く奥さんを見つけて、奥さんが彼を殺したのではないことを私に証明させるでしょう。つまり、誰かほかの人間が殺したことを私が証明するわけです」。<at the best>には「せいぜい」という意味があるので、こう訳したのだろうが、この訳だと、警察が「私」より早く女を見つけると、なぜ「私」が彼女の無罪を証明されられるのか、よく分からない。

田中訳は「反対に、うまくいけば、ぼくよりもうんとはやく、警察が奥さんを見つけ、そして、奥さんがレヴリイを殺したのでないことを、ぼくが納得させることができるかもしれん。つまり、真犯人はほかにいることを立証するのです」。次に、村上訳を見てみよう。「最良のケース、彼らは私なんかより素早く彼女を見つけ出し、彼女がレイヴァリーを殺していないことを、私が力をふるって証明できる機会を与えてくれます。それは言い換えれば、他の誰かが彼を殺したのだと、証明することに他ならないわけですが」。

「機会を与えてくれる」という言葉を補うことにより、女を探す手間が省けるという意味が明らかになる。ただ、惜しむらくは「彼女がレイヴァリーを殺していないこと(proving she didn't kill him)」と「他の誰かが彼を殺したのだと、証明すること( proving that somebody else did)」の間に「を、私が力をふるって証明できる機会を与えてくれます」が入ることで、語の言い換えが分かりにくくなっているのが難点だ。

「彼は鯱張(しゃっちょこば)って言った」は<he said stiffly>。<stiffly>は「ぎこちない態度で、体をこわばらせて」という意味の副詞。キングズリーが柄にもなく緊張して固くなっている様子を表している。清水訳は「と、彼はきっぱりいった」、田中訳は「キングズリイは、やはりかたい調子でいった」と両氏とも「硬い態度」を強調している。ところが、村上訳は「と彼は憮然とした声で言った」としている。

「憮然」は本来「失望や落胆、驚きのために、ぼんやりしたり、呆然としたりする様子」のこと。しかし、最近では「腹を立てている様子」を表す言葉として使われることが多いという。妻の疑惑を晴らそうとしている男が、一方で、明日にでも別の女性と結婚したいと言うのだ。少々ぎこちなくもなろう。この場のキングズリーに、失望や落胆、驚愕という感情は似つかわしくない。村上氏もやはり、彼がマーロウに腹を立てていると思ったのだろうか。

チャンドラーの書く探偵小説の良さは、マーロウの目を通して、他の登場人物の人となりを的確に描写してみせるところにある。ムース・マロイ然り、パットン保安官然り、脇役にせよ、敵役にせよ、他の作家が描くそれとはちがって、格段にキャラクターが立っている。マーロウと副主人公ともいえる男たちの絡み合い、感情のやりとり、それは、時には両者の立場の違いをこえた人間同士の信頼関係にまで至る。そこが一つの読みどころでもあるのだ。そういう意味では、たかが一つの単語でも、あだやおろそかに扱うことはできない。