marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば、シェヘラザード』ドナルド・E・ウェストレイク

さらば、シェヘラザード (ドーキー・アーカイヴ)
帯の惹句に「半自伝的実験小説」だとか「私小説にしてメタメタフィクション!」だとかいう文句が躍っているが、スランプに陥った小説家が何とかしてページ数をかせぐための苦肉の策じゃないか。しかも、ネタは自分の旧作からの引き写しだし。これが新作だったらかなりの批判が予想されるが、原作が刊行されたのが一九七〇年であることを考えると帯の惹句も満更、盛り過ぎというわけでもない。

エドはけっこうなハイペースで、ここまでは書いて来た。しかし、締め切りが近いのに突然書けなくなってしまう。スランプだ。しかし、エドにはスランプなどという言い訳は使えない。エドはゴースト・ライターなのだ。書けなければ代わりはいくらでもいる。妻子のいる今、実入りのいい仕事を失うわけにはいかない。

この仕事は大学時代のルーム・メイトのロンからの話だ。ロンはポルノに嫌気がさして、スパイ小説を書きはじめたら、これが売れて映画化もされた。この路線で行きたいが、ポルノの需要は絶えずあり、出版社としては人気作家の作品がほしい。そこで、大学時代の同期で売れていないエドにゴースト・ライターにならないか、と持ちかけたわけだ。

タイプライターに用紙を挟み、いざ書こうとするのだが、何も出てこない。スランプを克服するいい方法は、何でもいいから書くことだ。そのうちに調子が戻ってくる。そう聞いたので、エドはとにかく書き出すのだが、タイプ用紙に打ち出されるのはエドの現在の心境やら、ポルノ小説のセオリーやら、最近うまくいっていない妻ベッツィーとの関係といったポルノ小説とは関係のないことばかり。

この小説には上と下に二つのノンブルが打たれている。タイプ用紙二十五枚が完成原稿二十五ページに相当する。一章が二十五枚で十章書けば完成だ。しかし、二十五枚書けたところで原稿を破り捨て、はじめからやり直したりするから、下に打たれているこの小説のページ数は増えていくのに、上に打たれたノンブルはいっこうに数が増えていかない、という面白い仕掛け。いや、面白いのは読者にとってであって、主人公にとっては厄介のたねだ。

そんなこんなで七転八倒の挙句、どうにか第一章は書き上げるのだが、そのネタというのが、エド自身と妻ベッツィーをモデルにした身辺小説。実はエド、ポルノ小説は書いていても、妻以外の女性とセックスしたことがない。しかし、その分、頭ではいろいろ妄想している。一応作家なので妄想したことは書いて残している。ベビーシッターの十七歳のアンジーとのことも。実名なので日記みたいなものだ。しかし、すべては妄想であり、真実ではない。

ところが、エドの留守中にベッツィーがそれを読み、エドの帰りも待たずに子どもを連れて実家に帰ってしまう。実家には恐ろしい義兄二人がいて、話を聞いてエドの家に押しかけてくる。エドは這う這うの体で家を逃げ出し、ロンの部屋で原稿の続きを書く破目に。しかし、第二章が書けない。ポルノ小説でよく使う手に、章ごとに夫と妻の視点が入れ替わる、というのがある。それで行くと第二章はベッツィーが他の男とセックスをする番だ。今の状態でとてものことにそれは想像すらしたくない。

そこで、第二章を飛ばして第三章を書きはじめることにする。別の男女を次々とリレー式に登場させるロンド形式で行くわけだ。しかし、エドの家に探りを入れに行ったロンからの電話では、兄弟がこちらに向かっているらしい。慌ててロンの家を出たエドにはタイプがない。エドは百貨店のタイプ売り場で試し打ちをする客を装い、原稿の続きを書く。しかし、店員に見咎められ別の百貨店へ。

いつの間にか、エドが書いている話より、エドが置かれている状況の深刻さの方が数倍も興味深くなってきている。未成年のアンジーとのセックスは、ただの妄想なのだが、エド以外の人間にとっては犯罪である。警察がエドを追いかけ出す。追いつめられたエドは逃げ回りながら、タイプライターが使える場所を探しては、原稿の続きを書く。ここらあたりからの展開はジェットコースタームービーを観ているよう。

唯々、決められた枚数のタイプ用紙を埋めるために書き続けること、それが作家というものの至上命題であることが痛いほど伝わってくる。どうやら、元ネタになっているのは、ウェストレイク本人の実生活らしい。「半自伝的実験小説」、「私小説にしてメタメタフィクション!」の看板に偽りはないようだ。多作で知られる「ウェストレイク全作品の中でも大傑作に属する私小説にしてメタメタフィクション!」と若島正氏が絶賛するのも頷ける。

というのも、ネタに困ったエドがついつい持ち出す自身の逸話がいちいち思い当たる。大学に行ったのも、結婚せざるを得ない破目に陥ったのも、そこいらじゅうに転がっている、誰にでもある話だからだ。ゴーストだってライターであることにちがいはない。読者は面白がっているのだ。しかし、書いている本人は知っている。真の作家とそうでない者との差を。妄想日記で窮地に陥るところは、本当に面白い。それでいて、当人の心情を語る部分を読んでいると身につまされる。このギャップが凄い。

キスマークの中に、サイケデリック調(死語?)のレタリングで記されたタイトルといい、表紙の色調といい、七〇年代を知る者には懐かしい限りだが、意気阻喪したホールデン・コールフィールドばりのモノローグで押し通す語り口調に今の読者はついてきてくれるのだろうか。「メタメタフィクション」といえば、そうにちがいはないが、ついてない男の駄目っぷりをユーモラスかつシリアスに描いた、遅れてきた青春小説といいたいような出来映え。ファンは勿論、その実力を知るという意味で、初ウェストレイクという人こそ手にとるべき本かもしれない。

『大いなる眠り』註解 第二十九章(1)

《隣の修理工場は暗かった。私は砂利敷きの車寄せと水浸しの芝生を渡った。道には小川のように水が流れていた。向こう側の溝に水が音を立てて流れ込んでいる。帽子はかぶっていなかった。きっと修理工場で落としたのだ。カニーノはわざわざ返す手間はかけなかった。私が必要としているとは思わなかったんだろう。痩せて不機嫌なアートと盗難車らしきセダンを安全な場所に残し、雨中、ひとり颯爽と引き返すカニーノのことを思い描いた。女は愛するエディ・マーズを守るために身を潜めている。従ってカニーノが帰って来たとき、女はおとなしくスタンドのそばにグラスに入った酒といて、私はダヴェンポートの上に縛られているはずだ。それから女の身の回りの物を車に運び、罪になるような証拠が残っていないか家の中を念入りに調べるだろう。女には外の車で待つように言う。女は銃声を聞かない。至近距離ならブラックジャックが効果的だ。縛って残してきたから、しばらくしたら解いて逃げるだろうと言い聞かせる。女は気がつかないと思ってるのだろう。さすが、カニーノ氏。
 コートの前が開いているが、手錠のせいでボタンが掛けられない。裾が足の所で大きな疲れた鳥の翼のようにはためいた。ハイウェイに出た。大きな水飛沫の渦をヘッドライトで照らしながら車が通り過ぎた。引き裂くようなタイヤの悲鳴はすぐに消えた。私のコンバーチブルはもとの場所にあった。二本のタイヤは修理され、装着済みだった。必要とあればいつでも走れるようになっている。すべて考えられていた。私は中に入り、ハンドルの下に横向きに潜りこみ、物入れの革の蓋を手探りで外した。もう一挺の銃をコートの下に突っ込み、引き返した。世界は狭く、閉ざされ、暗かった。カニーノと私のためだけにある世界だ。
 半分ほど行ったところで危うくヘッドライトが私をとらえそうになった。車がハイウェイから素早く脇道に入った。私は斜面を滑り降り、水で溢れる溝の中に飛び込み、水の中に息を吐いた。車は減速せず音立てて通り過ぎた。私は頭を上げ、耳を澄ませた。車が道路を離れ、車寄せの砂利を軋ませるタイヤの音が聞こえた。エンジンが止まり、ライトが消え、ドアがバタンと閉まった。家のドアが閉まる音は聞こえなかったが、縁に漏れる光が木の間隠れに見えた。窓のブラインドを動かすか、玄関ホールに明かりをつけでもしたかのように。
 私は水浸しの芝生に戻り、泥水を跳ね飛ばしながら歩いた。車は私と家の間にあった。銃は脇の下に左腕が付け根から抜けない程度に体に引きつけていた。車は暗く、空っぽで、まだ暖かかった。ラジエターの中で水が楽しそうにごぼごぼ鳴った。ドアからのぞき込むとダッシュボードにキーがついていた。カニーノはたいへんな自信家だ。私は車を回って注意深く砂利道を横切り窓まで歩き耳を澄ませた。ひっきりなしに落ちる雨粒が雨樋の底の金属継ぎ手に当たるボンボンという音のほかに、誰の声も物音も聞こえなかった。
 私は耳を澄ませて待った。大きな声は聞こえず、静かで落ち着き払っていた。カニーノはあの唸るような声で話し、女は私を逃がし、逃亡の邪魔はしないと私に約束させたことを話しているだろう。カニーノは私を信じないだろう、私がカニーノを信じないように。長居はしないはずだ。女を連れてどこかへ行くにちがいない。やるべきことは出てくるのを待つことだった。
 それができなかった。私は銃を左手に持ち替え、しゃがんで砂利をひとつかみすくい取り、窓の網戸に向かって投げた。弱弱しい努力だった。ほんの少し網戸の上のガラスに届いただけだったが、それがダムが決壊するときのような音を立てた。
 私は車まで駆け戻り、裏側のステップに乗った。家の灯りはとっくに消えていた。それっきりだった。私はステップの上で待った。無駄だった。カニーノは慎重すぎる。
 私は立ちあがり、後ろ向きに車に乗り込むと、手探りでイグニッション・キーを探り当て、それを回した。足を伸ばしたが、スターター・ボタンはダッシュボードの上にあるにちがいない。ようやく見つけ、それを引くと、スターターが軋み音を立てた。まだ暖かかったエンジンはすぐにかかった。満足そうに柔らかなエンジン音を奏でた。私は車から出てもう一度後輪のところにかがみ込んだ。
 私は今では震えていた。が、今の音がカニーノの気に入らないことを知っていた。車がなくては困るからだ。明りの消えた窓がじりじりと下がるのが、ガラスに映るわずかな光の動きで分かった。不意に炎が噴き出し、間を置かず三発の銃声が混じりあった。コンバーチブルのガラスが割れた。私は苦悶の叫びをあげた。その叫びはうめき声に、うめき声は血が塞き上げた喉の咽ぶ音に代わった。私はうんざりするほどむせぶ音を弱らせ、最後に喉を喘がせた。いい仕事だった。私は気に入った。カニーノはたいそう気に入ったようだ。大きな笑い声がした。大きな轟くような笑いだった。いつもの喉を鳴らすような話し声とは少しも似ていなかった。》

「道には小川のように水が流れていた」は<The road ran with small rivulets of water.>。双葉氏は「道は雨で小川みたいになっていた」。村上氏は「道路に沿って小川のような流れができていた。(道路の反対側の溝を、それは盛大に音を立てながら流れていた)」と訳している。括弧の部分は<It gurgled down a ditch on the far side.>。続けて読めば、村上氏が道路の反対側の側溝に水が流れていると考えていることが分かる。

しかし、そうではない。水は道の上を流れているのだ。辞書にも「〔+with+(代)名詞〕〈場所に〉〔液体などが〕流れる」<The floor was running with blood. 床には血が流れていた>という例文もある。道路に収まりきらない「水は向こう側の溝へ音立てて流れ込んでいた」(双葉訳)のだ。

「従ってカニーノが帰って来たとき、女はおとなしくスタンドのそばにグラスに入った酒といて、私はダヴェンポートの上に縛られているはずだ」は<So he would find her there when he came back, calm beside the light and the untasted drink, and me tied up on the davenport.>。双葉氏は「キャニノは、帰って来て、電気スタンドのそばで静かに飲物を味わっている彼女と、長椅子にしばられている私を見る」と訳しているが、<untasted>なのだから「味わう」ことは不可能だ。

村上氏は「だから自分が戻ったときにも彼女は、手をつけていない酒のグラスと共に、まだおとなしくフロアスタンドの隣にいるはずだ、とカニーノは考える。そしてソファの上には私がしっかり縛り上げられている」と訳している。「とカニーノは考える」は原文にはない。村上氏は原文を噛みくだくことはあるが、基本的には原文をいじることはしない。ここは原文通りに訳すと日本語として不自然になると考えたのだろうか。

「いつもの喉を鳴らすような話し声とは少しも似ていなかった」は<not at all like the purr of his speaking voice.>。第二十九章ではここまでのところ、比較的に原文に忠実だった双葉氏だが、この部分はカットしている。村上氏は「喉の奥で鳴るようないつものもぐもぐしたしゃべり方とは似ても似つかない」と訳している。<speaking voice>が指している<purr >とは「もぐもぐしたしゃべり方」ではなく「喉の奥で鳴るような」声の方ではないのだろうか。

『大いなる眠り』註解 第二十八章(3)

《女はさっと身をひるがえし、スタンド脇の椅子に戻って座ると、両掌の上に顔を伏せた。私は勢いよく足を床につけて立ち上がった。ふらついた。足が固まっている。顔の左側面の神経が痙攣していた。一歩踏み出した。まだ歩けた。必要があれば走ることもできそうだ。
「逃げろという意味か」私は言った。
 女は顔を上げずに頷いた。
「君も一緒に行った方がいい──もし生きていたいなら」
「ぐずぐずしないで。今すぐにでも帰ってくるから」
「煙草に火をつけてくれないか」
 私は隣に立って、その膝を触った。急に立ち上がった女はぐらついた。目と目が合った。
「やあ、シルバー・ウィグ」私は優しく言った。
 女は後退りして椅子を回り込み、煙草の箱をテーブルの上からすくい取った。一本振り出して私の口に乱暴に突っ込んだ。手が震えていた。小さな緑色の革張りのライターに火をつけ、煙草に近づけた。私は煙を吸い込み、湖のような碧い目に見入った。女がまだ傍にいるうちに私は言った。
「ハリー・ジョーンズという名の誰かさん(リトル・バード)がここを教えてくれたんだ。そいつはあちこちのカクテル・バーに出入りしては屑どもに代わって競馬の掛け金集めに飛び回っていた。ついでに情報も。その小鳥がカニーノについてあることを思いついた。そんなこんなでそいつと連れが君の居所をつかんだのさ。そいつは私に情報を売りに来た──どうやって知ったかについては長い話になるが──私がスターンウッド将軍に雇われていることを知ってたんだ。私は情報を手に入れたが、カニーノは小鳥を手に入れた。今となっては死んだ小鳥だ。羽は逆立ち、頸はうなだれ、嘴には血の滴がついている。カニーノが殺したんだ。しかし、エディ・マーズはそんなことはしない。そうだろう、シルバー・ウィグ? あいつは決して誰も殺さない。誰かを雇ってやらせるだけだ」
「出て行って」女は荒々しく言った。「早くここから出て行って」
 手は中空で緑色のライターを握っていた。指に力が入って、拳は雪のように白かった。
「しかし、カニーノは私が知ってるとは思ってもいない」私は言った。「小鳥殺しのことさ。私がただ嗅ぎまわってると思い込んでいる」
 女は笑った。身もだえするような笑いだった。風に揺さぶられる木のように体が揺れていた。必ずしも驚きだけではなく、中に困惑が入っているように思われた。まるで新しい考えが、前から知ってたことに付け加わえられたが、おさまりが悪いとでもいうような。それから、一度きりの笑いから抜き出す意味にしては、多すぎると思った。
「とてもおかしい」女は息を切らして言った。「とてもおかしい。だって──私はまだあの人を愛してるんだから。女というものは──」女はまた笑い始めた。
 私は耳を澄ませた。頭がずきずきした。まだ雨の音がしているだけだった。
「行こう」私は言った。「早く」
 女は二歩後ろに下がり、険しい顔になった。「出て行って! 早く出て行って! リアリトまでなら歩いていける。上手くやって──口はきかないこと──少なくとも一、二時間は。それくらいのことはしてもいいでしょう」
「行こう」私は言った「銃は持ってるのか、シルバー・ウィグ?」
「私が行かないことは知ってるでしょう。お願いだから早くここから出て行って」
 私は彼女に近づいた。ほとんど体を押しつけるところまで。
「私を逃がした後もここに残ろうというのか? 殺し屋が帰ってくるのを待って、ごめんなさいと言えるのか? 蠅を叩くみたいに人を殺すやつだぞ。たくさんだ。私と一緒に行こう、シルバー・ウィグ」
「いいえ」
「もしもだ」私は力なく言った。「君のハンサムな旦那がリーガンを殺したとしよう。あるいは、エディの知らないうちにカニーノがやったとしよう。考えてもみろ。私を逃がした後、君がどれだけ生きられると思う?」
カニーノなんか怖くない。私はまだあの男のボスの妻」
「エディなんか一握りのおかゆさ」私は怒鳴った。「カニーノならティースプーンで平らげる。猫がカナリアを襲うみたいにやつを片付ける。一握りのかゆだ。君みたいな娘が悪い男に夢中になるとき、きまって相手は一握りのおかゆなんだ」
「出て行って!」彼女はほとんど吐き出すように言った。
「いいだろう」私は女から顔を背け半開きのドアを抜け暗い廊下に出た。それから女は急いで追いかけてきて私を押しのけ、玄関扉を開けた。外の濡れた暗闇をじっと見つめ、耳を澄ませ、身ぶりで私に出てくるように合図した。
「さようなら」彼女は小声で言った。「いろいろと頑張って。でも一つだけ言っておく。エディはラスティ・リーガンを殺していない。噂に反して元気な姿をあなたはどこかで見つけることになる。あの人が姿を見せたいと思ったときに」
 私は体を前に傾け、女を壁に押しつけた。女の顔に口をつけ、そのまま話しかけた。
「急ぐことはないさ。すべて前もって手配されてたことだ。細部に至るまでリハーサル済みさ。ラジオ番組のように秒刻みでね。急ぐことはない。キスしてくれ、シルバー・ウィグ」
 女の顔は私の口の下で氷のようだった。女は両手で私の頭を持ち、唇に強くキスした。唇も氷のようだった。
 私がドアを通って外に出ると、それは私の背後で音もなく閉じた。雨がポーチの下に吹き込んできたが、彼女の唇よりは冷たくなかった。》

「ハリー・ジョーンズという名の誰かさん(リトル・バード)がここを教えてくれたんだ」は<A littlr bird named Harry Jones led me to you.>。この<a littlr bird>はニュースの出所を示す「誰かさん、ある筋」の意味で使う言葉。くり返して<littlr bird>を使うことで、ハリーが小鳥のように動いて死んだように表現している。「誰かさん」だけでは訳がついていけなくなる。

双葉氏は「ハリー・ジョーンズという奴がここを教えてくれたんだ」と、小鳥を使わずに訳しているが、後の方では「キャニノがこのかも(傍点二字)をつかまえた。もうしんじまったかも(傍点二字)だがね」と訳している。鴨を小鳥というのはちょっと苦しい。そのせいか「羽は逆立ち、頸はうなだれ、嘴には血の滴がついている」の部分はカットしている。

村上氏は「ハリー・ジョーンズという小鳥くん(リトル・バード)がここに導いてくれたんだ」と訳している。もしかしたら、村上氏は<littlr bird>に、前述の意味があることを知らなかったのではないだろうか。すべてを「小鳥くん」で通しているのは、マーロウがハリーにつけた愛称と勘違いしているのかもしれない。でなければ「彼は今では死んだ小鳥くんになっている」などという訳にはならないだろう。

「それくらいのことはしてもいいでしょう」は<You owe me that much.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「それくらいの頼みはきっと聞いてくれるわよね」と訳している。

「それから女は急いで追いかけてきて私を押しのけ、玄関扉を開けた」は<Then she rushed after me and pushed past to the front door and opened it.>。双葉氏は「と、彼女が背後から追って来て私のそばを走りぬけ、表玄関のドアをあけた」と訳している。村上氏は「彼女が背後から駆けてきて、玄関まで私を押すように導き、ドアを開けた」と訳している。

お分かりだろうか。村上氏の訳だけ、マーロウと女の位置関係がちがうことに。これは<push past>が「押しのける」という意味を持つことが分かっていないからだろう。マーロウが自らドアを開けるのは危険だと思ったから自分が先に立ったのだ。「押すように導き」では、女がどこでマーロウを追い抜いたのかが分からない。

「噂に反して元気な姿をあなたはどこかで見つけることになる。あの人が姿を見せたいと思ったときに」は<You’ll find him alive and well somewhere, when he wants to be found. >。双葉氏は「そのうちきっとどこかで生きているのがみつかるわ」と、後半部分をカットしている。村上氏は「あなたは五体満足な彼をどこかで見つけることになる。見つけられてもいいと、彼が自ら思ったときにね」と訳している。

ところで、<alive and well >には「(現存しなくなったはずのものが)生き残っていて、健在で」という意味があるのだが、両氏の訳からはそれが伝わってこない。たぶん成句だとは考えなかったのだろう。そういえば、西部劇のお尋ね者のポスターに<Dead or alive>という決まり文句があったのを思い出した。

『オールドレンズの神のもとで』堀江敏幸

オールドレンズの神のもとで
三部構成で十八篇、第一部は、地方の町に暮らす市井の人の身辺小説めいた地味めな作品が並ぶ。第二部には一篇だけ外国を舞台にした作品がまじっているが、日本を舞台にしたものは一部とそう大きくは変わらない。ただ、少しずつ物語的な要素が強くなっている。そして第三部になると一気にその気配が強くなり、掉尾を飾る表題作はSF的設定の濃いディストピア小説となっている。

全篇から一つ選ぶなら第一部に入っている「果樹園」だろう。二匹の犬を連れて散歩中の私が出会う景色や人々をスケッチしているだけの作品だが、滋味にあふれ、生きることに対する前向きな姿勢が読む者にじわじわ効いてくる、そんな作品である。事故で頭痛と脚に痺れが残る「私」は、心ならずも実家に帰っている。そんなとき姉がリハビリにいい、とアルバイトを見つけてくる。犬の散歩係だ。

飼い主が足を痛めて散歩ができない。健康が回復するまで犬の散歩をお願いできないか、というチラシにはオクラとレタスという名の二匹の犬の画が添えられていた。委細面談というので、出かけた飼い主の安水夫妻にというより、オクラのことを気遣うレタスに認められたようで「私」は採用される。二匹の個性の異なる犬と散歩するうちに「私」は少しずつ犬と会話ができるようになる。

動物と暮らしている人になら分かってもらえると思うが、毎日いっしょにいると会話ができるようになる(気がする)。人との会話には本心はあまり出さず、当たり障りのないことを話す。動物相手には本音で話す。すると相手も本音でつきあってくれる。本心を偽ることのない会話は心地いい。「私」は安水氏と話すうち、それまで少し距離を置いていた父との関係が修正されていくようになる。

他郷で手がけた仕事がうまくいきかけていた時に思わぬ事故に遭い、実家の厄介になり日を送らざるを得なかった「私」は、頭痛や足に力が入らないこと、自立できないでいることに焦りや蟠りを感じていた。二匹との散歩の途中で出会う人々や安水氏との会話を通して、鬱屈して閉じていた「私」の心と体はゆっくり解きほぐされ、新しい事態を受け入れてゆく心構えのようなものが芽生えてきている。恢復の予感のようなものが仄見える終わり方だ。

二部なら「徳さんのこと」か。地元にはない進学校に通うため、子どものいない叔父夫婦の家に下宿している佐知は、日曜の朝になると原付でやってくる徳さんの話を聞かされる。足を挫いているので、二階の自分の部屋に帰るのが難しいからだ。徳さんは地域のあれこれに顔を出し、冠婚葬祭にはまめに金を出す。そうしておけば見返りがあるというのだ。

近頃頻繁に顔を出すのは、叔父夫婦と誰かとの間に立ってまとめたい話あるようなのは「判をついたっていい」という口癖から察しが付くが、詳しい話は知らない。その回りくどい話が、夫妻に子どものいないこと、と自分に関わりがあることが次第に明らかになるという、まあ日本の田舎にならどこにでも転がっていそうな話。がさつだが憎めない徳さんと、柄本明の顔が重なるともういけない。話し声まであの声に聞こえてくる。

第三部から一篇となると普通なら表題作は外せない。この国の近未来には、色というものが存在しない。誰かが失くしてしまったらしい。ある一族の少年の頭には四角い穴が開いていてふだんは蓋をかぶせている。一生に一度頭蓋内圧が高まると蓋を外すのだが、ピンホールカメラの原理で内壁に倒立画像が浮かぶ。この話はそのとき目にしたものの記録である。次々と繰り出される画像が珍しく落ち着きがなく、そのくせ終末観が色濃い。この作家にこのような預言的な物語を書かせる今の時代の在り様が気になる。

個人的には堀江敏幸版「遠野物語」のような「あの辺り」の方を推したい。新聞記者の「私」は古刹での取材を済ませて帰る彦治郎さんを車に乗せている。その彦次郎さんが汽車から漏れる明りの方を指さして「あの辺りに、よく出る」と言う。隧道工事に雇われていた工夫が寝泊まりしていた小屋が土砂崩れに呑まれたのだという。「使ってはいけない人たちを使っていたから、表沙汰にはできなかった」。埋められた無縁仏が迷っているのだと。

八十二歳の彦治郎さんは郷土史家で、このあたりのことに詳しい。昔は狐がよく出たので、悪さをされないように油揚げをお供えした。ここらあたりで油揚げの入った糟汁を作るのは、その余りなのだ。幽霊列車も走るが、運転手はどうも狐らしい、とか、少し前までは、日本中のどこにでもあったような話ばかりだ。

以前『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本を面白く読んだ。実は祖母から、祖父が狐に化かされて、竹藪のあたりを一晩中歩き回って夜が明けたという話を聴かされたことがある。竹藪を通る道は丘の上に新設された中学への近道に当たるので、帰りが遅くなって、おまけに小雨の降る晩など、ひとりで歩くのは心細かった。ただ、あの当時でさえ狐に化かされた話はもう誰もしていなかった。「使ってはいけない人たち」というのがどういう人たちだったのか、一つ一つの話に心を揺さぶられるものがある。

『戦時の音楽』レベッカ・マカーイ

戦時の音楽 (新潮クレスト・ブックス)
ごくごく短い掌篇から、かなり読み応えのある長さのものまでいろいろ取り揃えた十七篇の短篇集。ニュー・ヨークの高層ビルの一部屋に置かれたピアノから突然バッハ本人が出てくるという突拍子もない奇想から、旱魃の最中に死んでしまったサーカス団の象の死体の処理に村中が知恵を絞るフォークロア調の話、自分の身代わりに連行された教授に成りすまし、教授の友人や教え子に手紙を書いて送ってもらった金で暮らす料理人の話等々。

時代も舞台もいろいろだし、現代に生きる女性の一人称限定視点だったり、三人称客観視点だったり、断章形式だったり、一篇まるごとテープ起こしだったり、と語り方も千差万別。それではばらばらで統一が取れていないのではと思われるかもしれないが、不思議なことに、一篇一篇は異なっているのに、こうやって一冊にまとまると、どこかで何かが響きあっているような奥底に流れる基調音がある。

原題が<Music for Wartime>。その訳が『戦時の音楽』というのだからほぼ直訳だ。たしかに、多くの作品に音楽や音楽家、絵画や画家、役者に作家といった芸術家が配されている。正面から戦時を描いているわけではない。戦争が我が身に迫ったとき、ユダヤ人のように迫害される側の人々がどうなったのか、ということを突き詰めようとしている。運よく逃れた者もいれば、殺された者、投獄された者がいる。その責めは誰が負うのか。

戦争が終われば本当の意味で平和がやって来るのかどうか。「これ以上ひどい思い」のアーロンの父は若い頃ジュリアード音楽院に招かれ、アメリカに渡る。その後ルーマニアに残った家族全員が殺される。恩師のラデレスクは捕らえられ右手の中指を切り落とされるが、チャウシェスク政権が崩壊して放免される。アーロンはラデレスクの弾くヴァイオリンの音に耳を澄ませ、それらの物語を聴いている。

父には仲間や恩師、家族を捨てて一人生き残ったことについての罪悪感があったことにアーロンは気づく。アメリカ生まれのアーロンは無辜であり、無垢のはずだ。しかし、感受性の強いアーロンは経緯について何も知らないまま、人々の不幸に反応してしまう。ユダヤ人の虐殺のあった公園を通りかかった時には寒気を感じる。そんなとき父はアーロンの頭に手を置きながら「これ以上ひどい思いをせずにすみますように」という言葉をまじないのようにつぶやく。

この「無垢」と「罪悪感」というのが短篇集を貫く主題。主人公たちは何もしていないのに、夫とうまくいかなくなったり、次々と不運に見舞われたりする。9.11以来、信仰が揺らいだという夫と離婚した「私」は、ある日ピアノの中から現れたバッハと暮らすうちに、高層ビルの窓から下を見たバッハの恐怖を知る。そして夫の不安に思い至る。無意識がバッハを呼び出し「葛藤」が発展的に解消されてゆく過程をユーモラスに描く「赤を背景とした恋人たち」。マカーイは絵と音楽を競演させるのが好きだ。ここではバッハの音楽にシャガールを併せている。

「絵の海、絵の船」は、雁と間違えてアホウドリを撃ち殺してしまう話から始まる。アレックスはカレッジの英文学科の教師。ラファエル前派のミューズ、ジェーン・モリスに似ているのが自慢なのだが、婚約者のマルコムは容姿を誉めてくれない。そんなある日、レポートでは優秀なのに授業ではしゃべらないエデン・スーを呼び出し、このままでは成績にひびくと注意する。その際「韓国では」と口に出したのが問題となる。スーはミネソタ生まれの中国系アメリカ人だった。人種による偏見だと委員会に訴えたのだ。

苦慮するあまり、ついつい酒を飲みすぎて、授業にも出られなくなり、なお悪いことに再度エデン・スーとぶつかってしまう。任期なしの専任教授になることも難しくなったアレックスだが、それを婚約者に相談することができない。ついには酔った勢いで婚約解消まで申し出る羽目に。心配してくれる詩人のトスマンにも冷たい態度をとる。事態が収まるところに収まってから彼女は振り返る。

「年下の同僚たちにその話をするときは、アホウドリから始まり、エデン・スーが中心となり、誰もが知っているトスマンの死で終わった。要点、つまり話の教訓は、人はいかに先入観を持ってしまうのか、犯した間違いがどれほど致命的になりうるかということだった。何かを見極めそこねると、それを傷つけたり、殺してしまいかねないし、そうでなくても救えなくなってしまうのだと」

チェロ奏者のセリーンは新しい絵に引っ越したばかりだ。その家の前には十字架が立っていた。交通事故の犠牲者を悼むものらしい。それだけでなく、月命日ごとに家族が二人やって来ては、ぬいぐるみと造花の花壇を拡張させてゆく。死を悼む行為に反感を抱きたくはないが、はっきり言って醜いもので芝生を奪われるのは嫌だ。四重奏団の練習にやって来るメンバーもいろいろ案を出すが、どれも功を奏しそうにない。石碑か何かに替えてもらえるなら協力するというメモを貼り付けたが、二人はせせら笑って破り捨てる。

ここへやってきたのは逃げるためだった。セリーンは一度結婚に失敗している。強迫症という持病もある。頑丈な家を買ってそこに籠れば誰にも孤独を邪魔されない。そう思ってやって来たところに十字架が突き刺さった。そんな月命日の夜、扉を叩く音がする。遺族の顔が思い浮かぶ。思い切って扉を開けると第一ヴァイオリンのグレゴリーだった。解決策を持ってきたという。セリーンはどうやってこの苦境を乗り切るのか、というのが「十字架」だ。

罪悪感という主題を奥深く沈めていながら、どれも読後に癒されるような思いが残る。音楽と美術がいつも寄り添っていることも救いになっているようだ。カメオ出演のようにスチュアート・ダイベックが登場人物の一人として作中に紛れこんでいるのも楽しい。これが第一短篇集という、信じられないレベルの達成を見せる短篇小説の新しい名手の誕生である。

『大いなる眠り』註解 第二十八章(2)

《女はさっと頭を振り、耳を澄ませた。ほんの一瞬、顔が青ざめた。聞こえるのは壁を叩く雨の音だけだった。彼女は部屋の向こう側へ戻って横を向き、ほんの少しかがんで床を見下ろした。
「どうしてここまでやって来て、わざわざ危ない橋を渡ろうとするの?」女は静かにきいた。「エディはあなたに何の危害も与えていない。あなたもよく分かっているはず。私がここに隠れなければ、警察はエディがラスティ・リーガンを殺したと考えるに決まってた」
「エディがやったんだ」私は言った。
 女は動かず、一インチも姿勢を変えなかった。息遣いが荒く、速くなった。私は部屋を見渡した。二枚のドアが同じ壁についていて、一方は半開きになっている。赤と褐色の格子柄の敷物、窓に青いカーテン、壁紙には明るい緑の松の木が描かれていた。家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある。
 女はものやわらかに言った。「エディはそんなことはしない。私はもう何か月もラスティと会っていない。エディはそんなことをする人じゃない」
「君はエディと別居中でひとり暮らしだ。そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」
「そんなの嘘」女は冷たく言い放った。
 私はグレゴリー警部がそんなことを言ってたかどうかを思い出そうとした。頭がぼうっとし過ぎていて、確かめられなかった。
「それにあなたに関係ない」女は付け足した。
「あらゆることが私の仕事なんだ。私は事実を知るために雇われている」
「エディはそんな人じゃない」
「おや、君はギャングが好きなんだ」
「人が賭け事をする限り、賭ける場所がいるでしょう」
「それこそ身びいきが過ぎるというものだ。一度法の外に出たらずっと外側だ。君はあいつを一介のギャンブラーだと思っているんだろうが、私に言わせれば、猥本業者、恐喝犯、盗難車ブローカー、遠隔操作の殺し屋、腐れ警官の後ろ盾だ。自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す。高潔なギャングなんて売り文句は私には通用しない。やつらはそんな柄じゃない」
「あの人は殺し屋じゃない」彼女は鼻の孔をふくらませた。
「本人はね。だがカニーノがいる。カニーノは今夜一人殺した。誰かを助け出そうとした害のない小男を。私は彼が殺すところを見たと言ってもいいくらいだ」
 女はうんざりしたように笑った。
「いいだろう」私は怒鳴った。「信じなくていい。もしエディがそんなにいい男なら、カニーノがいないところで話がしたいものだ。君はカニーノがどんなことをするやつか知っている──私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」
 彼女は頭を後ろに戻して思慮深げにそこに立っていたが、何か思いついたとでもいうように身を引いた。
「プラチナ・ブロンドの髪は廃れたと思ってた」私は話し続けた。部屋の中に音が満ちて、別の音を聞かずにいられるように。
「ばかばかしい。これは鬘。自前の髪が伸びるまでの」手を伸ばしてそれをぐいと引いた。髪は少年のように短く刈り上げられていた。それから鬘を戻した。
「誰がそんなまねをした」
驚いたようだった。「私がしたんだけど、どうして?」
「そうさ、どうしてだ?」
「どうしてって、見せるため。エディの期待通りに私は身を潜める気があるし、こうすれば見張りはいらない、と。彼の期待に背きたくない。愛しているから」
「やれやれ」私はうめいた。「で、君の方はこの部屋に私と一緒にいるわけだ」
 女は片手を裏返してじっと見つめた。それから不意に部屋を出て行った。戻ってきた手にはキッチン・ナイフが握られていた。かがみこんで私を縛っているロープを切った。
「手錠の鍵はカニーノが持ってる」息をついだ。「私にはどうすることもできない」
 女は後退りして、息を喘がせた。すべての結び目が切れていた。
「面白い人ね」女は言った。「こんな目にあってるのに一息ごとに冗談を言ってる」
「エディは人殺しじゃないと思ってたんだ」》

「一インチも姿勢を変えなかった」は<didn’t change position an inch.>双葉氏は「一インチも位置を変えなかった」と訳しているが、村上氏は「ほんの数センチも姿勢を変えなかった」とメートル法を使っている。村上氏は単位についてはメートルとキログラムを使うことにしているから、こういうふうに書かなければならないだろうが、「一歩も動かない」という言い方と同じで、実際の長さより「一」という最小の単位が大事なんじゃないだろうか。

「家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある」は<The funiture looked as if it had come from one of those place that advertise on bus benches. Gay, but full of resistance.>双葉氏は「家具は、バスの停車場に広告を出している店から買って来たようなしろものだった」と後の文をカットしている。

村上氏は「バスの待合所に広告が出ているような店で買い集められたものみたいだ。はなやかで、しかも頑丈」と訳している。両氏とも<bus benches>を「停車場」「待合所」と訳しているが、<bus bench>で検索をかけると背凭れ部分に広告のあるベンチの画像ばかりがひっかかる。ここは待合所でも停車場でもなく、ベンチそのものについた広告ではないだろうか。

「そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」は<People at the place where you lived identified Regan’s photo.>。双葉氏は「君が住んでたところにはリーガンの写真があったというぜ」と訳しているが、これはまちがいだ。村上氏は「そこの住人たちはリーガンの写真を見せられて、見覚えがあるといった」と訳している。いずれにせよ、マーロウの記憶ちがいで、グレゴリー警部は、リーガンに似ていなくもない人物が夫人と一緒にいたところを見られている、と言っただけだ。

「自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す」は<He’s whatever looks good to him, whatever has the cabbage pinned to it.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「彼は見栄えを整えるためなら何にだってなるし、金になるものなら何だって取り込む人間だ」と訳している。<cabbage>は「キャベツ」だが、俗語で「紙幣」の意味がある。「やつらはそんな柄じゃない」は<They don’t come in that pattern.>。双葉氏はここもカットだ。村上氏は「そんなものは通用しない」と訳している。

「私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」は<beat my theeth out and then kick me in the stomach for mumbling.>。双葉氏はここを「僕の歯をへし折ったうえ、腹までけっとばしたんだ」と過去形で訳している。ここは、カニーノがどんな人物かを説明しているところで、あくまでも喩え話だ。村上氏は「まず私の歯を叩き折って、それからもぞもぞとしかしゃべれないといって、私の腹を蹴り上げるようなやつだ」と相変わらず丁寧に訳している。

『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』J ・D・サリンジャー

このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年 (新潮モダン・クラシックス)
J・D・サリンジャーが雑誌に発表したままで、単行本化されていない九篇を一冊にまとめた中短篇集である。下に作品名を挙げる。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」
「ぼくはちょっとおかしい」
「最後の休暇の最後の日」
「フランスにて」
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」
「他人」
「若者たち」
「ロイス・タゲットのロングデビュー」
「ハプワース16、1924年」

「他人」までの六篇が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に関連する短篇。中篇「ハプワース16、1924年」は「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公で、グラース家兄弟の長男にあたるシーモアが七歳の時にキャンプ地で足を怪我して動けない時に家族に書いた手紙の体裁をとっている。「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」は単独の話である。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールドが主人公。クリスマス休暇で家に帰ってきたホールデンはサリーとデートするが、ささいなことで諍いになる。「ぼくはちょっとおかしい」は学校を追われたホールデンが歴史教師の家を訪ねるごく短い話。二篇とも『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に同様の挿話が入っているが、別の短篇として読んでもおかしくない。もっと読みたいと感じたら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみるといい。

ジョン・F・グラッドウォラー二等軍曹、愛称ベイブは家に帰ってきている。その家を訪れるのが軍隊仲間のヴィンセント・コールフィールド。ヴィンセントは陸軍に入る前は小説家でラジオもやっていた。この日は、二人にとって出征前の「最後の休暇の最後の日」なのだ。ヴィンセントの弟のホールデンは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以降に学校を退学して、陸軍に入ったものの、今は行方が分からなくなっているようだ。

第二次世界大戦中のアメリカの若者の戦争に対するナイーブな気持ちがストレートにぶつけられている。ベイブが父に話すことはホールデンに似てイノセントなものだが、自分の中にあるイノセンスをどう扱っていいか分からないホールデンとちがって、ベイブはそれを少し恥ずかしく感じながら、自分の意見として人に話すことができる。自分は戦争に行くが、それを全的に肯定しないし、帰還したら口を閉ざす。父親のように戦争で地獄を見て来たくせに「先の大戦では」などとは決して口にしない、と。

そのベイブは「フランスにて」で、ドイツ兵と戦っている。くたくたに疲れた今夜は塹壕を掘る力が出ない。死んだドイツ兵が使っていた塹壕は狭くて血で汚れていたが、毛布を敷いてそこで寝ることにする。その前に妹のマティルダからの手紙を読む。国に残したてきた恋人の様子や町の人々のあれこれが書かれている。「お願い、早く帰ってきて」と口に出し、そのまま眠りに落ちる。短いスケッチだが、戦場の夜を必要十分に描いている。

「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」の主人公はヴィンセント。ジョージアの雨の中、トラックに兵隊を三十三人のせて、ダンスに向かうところ。ホールデンはヨーロッパ戦線から無事帰国した後、今度は太平洋で戦闘中行方不明になっている。ビンセントはダンスの相手をする女性が四人分足りないことを気にしている。誰を下ろすか、どうやって決める?命のやり取りはないが、滅多にない楽しみの機会を奪うのは上官である自分だ。命令を下す者の孤独が胸に迫る。兵たちとの会話の間もホールデンのことが頭から離れない。タイトルは除隊したら書こうと考えている作品名のリストの一つ。

「他人」は除隊したベイブが妹を連れてランチをとりマチネを見るつもりで街に出たのに、ヴィンセントの恋人の家を訪ねる話。ヴィンセントはヒュルトゲンの森で戦死していた。ベイブは友人の恋人にその最期を、嘘偽りなく語る責任があった。迫撃砲にやられる死とはどういうものか。迫撃砲は音がしない。突然落ちる。最期の一言などない。サリンジャー自身がヒュルトゲンの森で実際に目にした事実だ。酷い死を語るベイブに花粉症のくしゃみをさせ、マティにヴィンセントの思い出を語らせることで、明暗のバランスをとっている。

「ハプワース16、1924年」はサリンジャーにとって最後の作品。雑誌発表時に酷評され、それ以降筆を執っていない。しかし、ある出版社からオファーを受けて単行本化寸前まで行ったというから、結局実現することはなかったが、作家自身は愛着を持っていたのだろう。訳者あとがきによれば「難解」な作品だそうだが、そうは思えなかった。七歳の子どもが書く手紙か、という批判は当たらない。グラース家の子どもはみな「神童」と呼ばれたのだから。なかでもシーモアは特別だ。

キャンプの中で浮いている自分とバディが、どれだけ不快な目にあっているかを訴える手紙なのだから、内容的に楽しいものではない。ユーモアは塗されているが、かなり苦味がある。性的関心の芽生えについてもけっこう触れているので、こういうところがお気に召さなかった人がいるのではないだろうか。ヴェーダンタ哲学が作家を壊したなどというのはいちゃもんのようなものだ。『ナイン・ストーリーズ』の「テディ」はシーモアの前身と考えられているが、そのテディの方が余程ヴェーダンタ哲学について詳しく語っている。

兄弟たちによって、伝説的存在にまで高められてしまっているシーモア。その神童のありのままの姿を見せたい、と考えたのは兄の手紙をタイプ原稿に打った次兄のバディだ。作家であることからバディはサリンジャー自身と重ねられることが多いが、おそらく作家自身も、複雑にして猥雑なシーモア像を描きたかったのだろう。家族に対する愛にあふれ、自分の好きな作家、作品について誰はばかることなく目いっぱい書きまくっている。それまでの作品にあった抑制を欠いていることが批評家たちの受けを悪くしてしまったのだろう。しかし、これも間違いなくサリンジャーだ。読めてよかった。

後の二篇にふれる余裕がなくなってしまったが、どちらも短篇として他の作品に引けを取らない。最後に訳だが、みずみずしい文章で、サリンジャーの訳として申し分ない。ただ、一つだけ注文をつけたいのが、原文で「ベシー」と「レス」とされている二人の呼称を「母さん」と「父さん」に変えてしまっていることだ。グラース家の兄妹は母親をベシーと呼ぶ。それは前からそうだったし、別にいけないわけでもない。訳者が気になって仕方がないからと言って勝手に変えるのはどうかと思う。訳自体はとてもいいので残念だ。