marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

2018-01-01から1年間の記事一覧

『レ・コスミコミケ』イタロ・カルヴィーノ

石ノ森章太郎が「COM」に連載していた『ジュン』をはじめとして、画面上に異様に大きな月を掲げる映像表現は多々ある。ルナティックとは狂気のことで、月の大きさはファンタジー色の濃さに比例する。だが、これはその比ではない。なにしろ、比喩でなく手を伸…

『大いなる眠り』註解 第二十五章(3)

《 私は言った。「その通りだ。最近よくない連中とばかりつきあってたんでね。無駄口はやめて本題に入ろう。何か金になるものを持ってるのか?」 「払ってくれるのか?」 「そいつが何をするかだな」 「そいつがラスティ・リーガンを見つける助けになるとし…

『曇天記』堀江敏幸

どうということのない街歩きの中で出くわした小さな異変をたんねんに拾い集めて、体と心の感じた違和をことばで書き連ねていく。印象としては実に冴えない風景と事件の集積である。歩道橋の上を歩くときに感じる足もとが沈む感じであるとか、ビニール袋の持…

『大いなる眠り』註解 第二十五章(2)

《「俺のことは知ってるだろう」彼は言った。「ハリー・ジョーンズだ」 私は知らないと言った。私は錫製の平たい煙草入れを押しやった。小さく端正な指が鱒が蠅を捕るように動いて一本抜いた。卓上ライターで火をつけると手を振った。 「このあたりじゃ」彼…

『そしてミランダを殺す』ピーター・スワンソン

空港のバーで出会った男女が意気投合する。男はテッド。ネット・ビジネスの成功者で大金持ち。女はリリーといい、ウィンズロー大学の文書保管員。ビジネスクラスで隣り合った席に座るうち酒の酔いもあって、テッドは妻のミランダが出入り業者と浮気する現場…

『大いなる眠り』註解 第二十五章(1)

《翌朝も雨が降っていた。斜めに降る灰色の雨は、まるで揺れるクリスタル・ビーズのカーテンだ。私はけだるく疲れた気分で起き、窓の外を見て立っていた。口の中に苦々しいスターンウッド姉妹の後味がした。人生は案山子のポケットのように空っぽだった。キ…

『どこにもない国』柴田元幸編訳

翻訳家柴田元幸編訳による現代アメリカ幻想短篇小説アンソロジーである。アンソロジーのいいところは、今まで読んだこともない作家の味見ができるところにある。一方で問題点は、ハマる作品もあれば、そうでもない作品も集められていることだ。おそらく編者…

『最後に鴉がやってくる』イタロ・カルヴィーノ

巻頭の一篇。もしこの世界がリセットできるものなら、こういうふうに始まるのかもしれない。そんなふうに思わされるほど、天上的で祝祭的な多幸感あふれる一幕劇。タイトルからして「ある日の午後、アダムが」なのだ。でも登場するのはアダムとイブではない…

『大いなる眠り』註解 第二十四章(2)

《私は煙草を床に投げ捨てて足で踏みつけた。ハンカチを取り出して掌を拭った。私はもう一度試みた。 「ご近所の手前言うのではない」私は言った。「彼らはたいして気にしちゃいない。どのアパートメント・ハウスにも素性の知れない女がいくらでもいる。今さ…

『最後の注文』グレアム・スウィフト

ロンドンのバーモンジーにあるパブ、馬車亭のカウンターに男が三人座っている。黒いネクタイをした小男がレイ。赤ら顔の男がレニー。やはり黒いネクタイをしてボール箱を抱えているのがヴィックだ。そこにロイヤル・ブルーのベンツで乗りつけてきたのがヴィ…

『大いなる眠り』註解 第二十四章(1)

《アパートメント・ハウスのロビーは、この時間空っぽだった。私にあれこれ指図するガンマンも鉢植えの椰子の下で待ち受けてはいなかった。私は自動エレベーターで自分のフロアに上がり、ドアの後ろから微かに漏れるラジオの音楽に乗って廊下を歩いた。私は…

『動く標的』ロス・マクドナルド

ハメット、チャンドラーの後継者と呼ばれたロス・マクドナルドの手になるロスアンジェルスの私立探偵リュー・アーチャーが活躍するシリーズ物の第一作。何十年も前に訳されたハードボイルド小説の新訳である。どうして今頃になってと思うのだが、村上春樹の…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(4)

《我々はラス・オリンダスを離れ、潮騒が聞こえる砂上の掘っ立て小屋みたいな家や、それより大きな家々が背後にある斜面を背に建ち並ぶ、湿っぽい海沿いの小さな町を走り抜けた。ところどころに黄色く光る窓が見えたが、大半の家は灯が消えていた。海からや…

『昏い水』マーガレット・ドラブル

老人施設の調査研究を仕事にするフランチェスカ、とその息子で今はカナリア諸島に滞在中のクリストファーという二人の人物を軸にして、二人をめぐる家族、友人、知人が多彩に出入り、交錯する。短い章ごとに視点人物が入れ替わり、それぞれの視点で語られる…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(3)

《彼女は私の腕につかまって震えはじめた。車に着くまでずっとしがみついていた。車に着くころには彼女の震えはとまっていた。私は建物の裏側の樹間を抜けるカーブの続く道を運転した。道はドゥ・カザン大通りに面していた。ラス・オリンダスの中心街だ。パ…

『ブッチャーズ・クロッシング』ジョン・ウィリアムズ

ジョン・フォード監督に『シャイアン』という映画がある。いつもの白人の視点ではなく、不毛な居留地に閉じ込められたインディアン側に寄り添った一味違う西部劇だ。約束を守らない白人に業を煮やしたシャイアンの部族全員が故郷に帰る決断をする。苦労を重…

『マザリング・サンデー』グレアム・スウィフト

一九二四年のマザリング・サンデー、三月三十日は六月のような陽気だった。マザリング・サンデー(母を訪う日曜)は、日本でいう藪入り。この日、住み込みの奉公人は実家に帰ることを許される。そのために雇い主の家では昼食をどこかでとることが必要となる…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(2)

《「お見事な手並みね、マーロウ。今は私のボディガードなの?」彼女の声にはとげとげしい響きがあった。 「そのようだ。ほら、バッグだ」 彼女は受け取った。私は言った。「車はあるのかな?」 彼女は笑った。「男と一緒に来たの。あなたはここで何をしてた…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(1)

《軽やかな足音、女の足音が見えない小径をやってくると、私の前にいた男が霧によりかかるように前に出た。女は見えなかったが、やがてぼんやりと見えてきた。尊大に構えた頭に見覚えがあった。男が素早く行動に出た。二つの影が霧の中で混ぜ合わされ、霧の…

『大いなる眠り』註解 第二十二章(3)

《エディ・マーズはかすかに微笑み、それから頷いて胸の内ポケットに手を伸ばした。隅を金で飾った仔海豹の鞣革製の大きな財布を抜き出し、無造作にクルピエのテーブルに投げた。「かっきり千ドル単位で賭けを受けろ」彼は言った。「ご異存がなければ、今回…

『雪の階』奥泉光

武田泰淳の『貴族と階段』、松本清張の『点と線』を足して二で割ったような小説。二・二六事件前夜の緊迫した政治的状況を背景に、伯爵家の令嬢が友人の死の謎を解く、ミステリ仕立ての一篇である。特筆すべき点は、元ネタとして、上に記した二作品をフルに…

『大いなる眠り』註解 第二十二章(2)

《人ごみが二つに分かれ、夜会服を着た二人の男がそれを押し分けたので、彼女のうなじと剥き出しの肩が見えた。鈍いグリーンのヴェルベット地のローカット・ドレスはこういう場にはドレッシー過ぎるように見えた。人込みが再び閉じ、黒い頭しか見えなくなっ…

『それまでの明日』原籙

愛煙家必読の書。今どきこれだけ煙草を吸うシーンが描かれる小説は世界中どこを探してもないだろう。出てくる男も女もひっきりなしに煙草を吸っている。禁煙になっていてもだ。まあ、自分は吸わないが、最近の煙草に対する世間の冷たさには首をかしげたくな…

『大いなる眠り』註解 第二十二章(1)

《黄色い飾帯を巻いた小編成のメキシコ人楽団が、誰も踊らない当世風なルンバを控えめに演奏するのに飽きたのが十時半ごろだった。シェケレ奏者はさも痛そうに指先をこすり合わせると、ほとんど同じ動きで煙草を口に運んだ。他の四人は申し合わせたように屈…

『日本人の恋びと』イサベル・アジェンデ

舞台はアメリカ西海岸、主人公の名はアルマ・べラスコ。慈善事業に熱心なべラスコ財団の代表である。自身のブランドを所有するデザイナーでもあるが、何を思ったか家を出て民主党支持者やヒッピーの生き残りやアーティストが入居待ちリストに名を連ねるラー…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(4)

《彼はグラス越しに火を眺め、机の端に置くと、薄手の綿ローンのハンカチで唇を拭った。 「口はたいそう達者なようだ」彼は言った。「が、たぶん腕の方はそれほどでもない。リーガンに特に興味はないんだろう?」 「仕事の上では。それを頼まれてはいない。…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(3)

《私がそこに着いたのは九時ごろだった。高目の速球のように決まるはずの十月の月は海辺の霧の最上層で惚けていた。サイプレス・クラブは町外れにあった。だだっ広い木造の大邸宅でドゥ・カザンという名の金持ちが夏の別荘として建てたものだが、後にホテル…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(2)

《私は指を折って数えあげた。ラスティ・リーガンは大金と美人の妻から逃げて、エディ・マーズという名前のギャングと事実上結婚していた正体の知れない金髪女とさまよい歩いている。彼が別れの挨拶も告げずに突然消えたのにはいろいろ訳があったのかもしれ…

『マイタの物語』マリオ・バルガス・ジョサ

訳者は一般に流布する「リョサ」ではなく、原語の発音に近い「ジョサ」と記すが、著者はあのノーベル賞作家である。実際にあった事件に基づいて書かれた小説である。新聞に載った数行程度の記事から小説を書くのは、スタンダールに限らず、多くの小説家がや…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(1)

《私はスターンウッド家には近寄らなかった。オフィスに引き返して回転椅子に座り、脚をぶらぶらさせる運動の遅れを取り戻そうとした。突然風が窓に吹きつけ、隣のホテルのオイル・バーナーから出る煤が部屋の中に吹き下ろされて、空き地を転々とするタンブ…