2018-01-01から1年間の記事一覧
《執事が私の帽子を持って出てきた。私はそれを被りながら言った。 「将軍のことをどう思うね?」 「見かけより弱っておられません」 「もし見かけ通りなら、もう埋められる覚悟ができていそうだ。リーガンという男の何があんなに将軍の気を引いたのだろう?…
家の外にある便所でローザがビニール袋に自分の大便を落とす。ローザは袋の口を閉じて廊下の冷凍庫にそれをしまう。スカトロジー? いや違う。これには訳がある。ローザの夫は従弟の妻ジョアナと浮気をしているという噂がある。ローザは溜めておいた自分の大…
《「ところで、私に何の落ち度があるというんです? 一切を任されているノリスはガイガーが殺されてこの件は終わった、と考えたらしい。私はそう思わない。ガイガーの接触の仕方には首をひねったし、今でも考えている。私はシャーロック・ホームズでもファイ…
中島敦に『文字禍』という短篇がある。よくもまあ同名の小説を出すものだ、とあきれていたが、よく見てみると偏が違っていた。『文字禍』は紀元前七世紀アッシリアのニネヴェで文字の霊の有無を研究する老博士ナブ・アヘ・エリバの話だ。同じ名の博士が本作…
《髭を剃り、服を着替え、ドアに向かった。それから引き返してカーメンの真珠貝の銃把ががついた小さなリヴォルヴァーをつかんでポケットに滑り込ませた。陽光は踊っているみたいに明るかった。二十分でスターンウッド邸に着き、通用門のアーチの下に車をと…
《グレゴリー警部はため息をついてねずみ色の髪をくしゃくしゃにした。 「もう一つ言っておきたいことがある」彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った。 「君はいい男のようだ。だが、やり方が荒っぽ過ぎる。もし本当にスターンウッド家を助けたいと思ってい…
《次の日はまた太陽が輝いていた。 失踪人課のグレゴリー警部はオフィスの窓から裁判所の縞になった最上階を物憂げに眺めていた。雨のあとで裁判所は白く清潔だった。それからのっそりと回転椅子を回し、火傷痕のある親指でパイプに煙草を詰めながら浮かぬ顔…
《しばらく沈黙が下りた。聞こえるのは雨と静かに響くエンジン音だけだった。それから家のドアがゆっくり開き、闇夜の中により深い闇ができた。人影が用心深く現れた。首の周りが白い。服の襟だ。女がポーチに出てきた。体を強張らせて、木彫りの女のようだ…
帯の惹句に「半自伝的実験小説」だとか「私小説にしてメタメタフィクション!」だとかいう文句が躍っているが、スランプに陥った小説家が何とかしてページ数をかせぐための苦肉の策じゃないか。しかも、ネタは自分の旧作からの引き写しだし。これが新作だっ…
《隣の修理工場は暗かった。私は砂利敷きの車寄せと水浸しの芝生を渡った。道には小川のように水が流れていた。向こう側の溝に水が音を立てて流れ込んでいる。帽子はかぶっていなかった。きっと修理工場で落としたのだ。カニーノはわざわざ返す手間はかけな…
《女はさっと身をひるがえし、スタンド脇の椅子に戻って座ると、両掌の上に顔を伏せた。私は勢いよく足を床につけて立ち上がった。ふらついた。足が固まっている。顔の左側面の神経が痙攣していた。一歩踏み出した。まだ歩けた。必要があれば走ることもでき…
三部構成で十八篇、第一部は、地方の町に暮らす市井の人の身辺小説めいた地味めな作品が並ぶ。第二部には一篇だけ外国を舞台にした作品がまじっているが、日本を舞台にしたものは一部とそう大きくは変わらない。ただ、少しずつ物語的な要素が強くなっている…
ごくごく短い掌篇から、かなり読み応えのある長さのものまでいろいろ取り揃えた十七篇の短篇集。ニュー・ヨークの高層ビルの一部屋に置かれたピアノから突然バッハ本人が出てくるという突拍子もない奇想から、旱魃の最中に死んでしまったサーカス団の象の死…
《女はさっと頭を振り、耳を澄ませた。ほんの一瞬、顔が青ざめた。聞こえるのは壁を叩く雨の音だけだった。彼女は部屋の向こう側へ戻って横を向き、ほんの少しかがんで床を見下ろした。 「どうしてここまでやって来て、わざわざ危ない橋を渡ろうとするの?」…
J・D・サリンジャーが雑誌に発表したままで、単行本化されていない九篇を一冊にまとめた中短篇集である。下に作品名を挙げる。「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」 「ぼくはちょっとおかしい」 「最後の休暇の最後の日」 「フランスにて」…
《どうやら女がいるらしい。電気スタンドの傍に坐り明かりを浴びている。別の灯りが私の顔にまともに当たっていたので、一度目を閉じて睫の間から女を見ようとした。プラチナ・ブロンドの髪が銀でできた果物籠のように輝いていた。緑のニットに幅の広い白い…
ミルハウザーらしさに溢れた短篇集。<オープニング漫画><消滅芸><ありえない建築><異端の歴史>の四部構成になっており、<オープニング漫画>は「猫と鼠」一篇だけ。後の三部は各四篇で構成されている。「トムとジェリー」を想像させる猫と鼠の、本…
《外で砂利を踏む足音がして扉が押し開けられた。光が篠突く雨を銀の針金に見せた。アートがむっつりと泥まみれのタイヤを二本ごろごろ転がし、扉を足で蹴って閉め、一本をその脇に転がした。荒々しく私を見た。 「ジャッキをかますところによくもまあ、あん…
一枚の絵がある。十七世紀初頭のオランダ絵画だが、フェルメールでもレンブラントでもない。画家の名前はサラ・デ・フォス。当時としてはめずらしい女性の画家である。個人蔵で持ち主はマーティ・デ・グルート。アッパー・イーストに建つ十四階建てのビルの…
《「分かった、分かった。つなぎの男は不満たらたらだった。ポケットの垂れぶた越しに服に銃をねじ込むと、拳を噛みながら不機嫌そうにこちらを見つめた。ラッカーの匂いはエーテルと同じくらい胸が悪くなる。隅の吊り電灯の下に新品に近い大型セダンがあり…
主人公はドリゴ・エヴァンス。七十七歳、職業医師、オーストラリア人。第二次世界大戦に軍医として出征し、捕虜となるも生還して英雄となり、テレビその他で顔が売れ、今は地元の名士である。既婚、子ども二人。医師仲間の妻と不倫中。他人はどうあれ、ある…
《広いメイン・ストリートからずっと後ろに木造家屋が何軒か、互いに距離を置いて建っていた。それから急に商店が軒を連ね、曇ったガラス窓の向こうにドラッグ・ストアの明かりが点り、映画館の前には車が蠅のように群がり、街角の明かりが消えた銀行は歩道…
《「お金をちょうだい」 声の下でグレイのプリムスのエンジンが震え、上では雨が車の屋根を叩いた。頭上遥か、ブロック百貨店の緑がかった塔の頂では菫色の灯りが、雨の滴る暗い街からひとり静かに身を引いていた。女は身を屈めダッシュボードのかすかな光で…
《電話を切り、もう一度電話帳を取り上げてグレンダウアー・アパートメントを探した。管理人の番号を回した。もうひとつ死の約束の取りつけに、雨をついて車を疾走させているカニーノ氏の像がぼんやりと頭に浮かんだ。「グレンダウアー・アパートメント。シ…
これまでの幻想小説色の濃い作品とは、少し毛色が変わってきたのではないか。精緻に作りこまれた世界であることは共通しているのだが、いかにも無国籍な場所ではなく、間違いなくこの国のどこかの町を舞台にしている。作者が学生時代を過ごした京都や生地で…
《「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一。俺は根っからの意気地なしさ。あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」 「その通り。いい料簡だ。いっしょにご挨拶に出かけようぜ。俺はただ、女がお前に話し…
どんでん返しもなし、視点人物の交代もなし、二つの時間軸の行ったり来たりもなし。おまけに、時効が成立しているので犯人を見つけても逮捕することができない。今どきこんな小説を書いて、読む人がどこかにいるのだろうか、と思うのだが大勢いるらしい。本…
《喉を鳴らすような唸り声が今は楽し気に話していた。「その通り、自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる。それで、お前はあの探偵に会いに行った。まあ、それがおまえの失敗だ。エディはご機嫌斜めだ。探偵は、誰かが灰色のプリムス…
《雨は七時には一息ついたが、側溝には水が溢れていた。サンタモニカ通りでは歩道の高さまで水位が上がり、薄い水の幕が縁石を洗っていた。長靴から帽子まで黒光りするゴム引きに身を包んだ交通巡査が、ばしゃばしゃと水を掻き分け、雨宿りしていたびしょ濡…
《「そのカニーノの見てくれは?」 「背は低く、がっしりした体格で茶色の髪、茶色の目、いつも茶色の服を着て茶色の帽子をかぶっている。それどころかコートまで茶色のスエードだ。茶色のクーペに乗っている。ミスタ・カニーノの何もかもが茶色なんだ」 「…