marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

2017-01-01から1年間の記事一覧

『記憶の書』ジェフリー・フォード

表題に惹かれて手に取ったら表紙の絵がまた魅力的だった。それで読みはじめたのだが、冒頭に何の説明もなく書きつけられた「理想形態都市(ウェルヴィルトシティ)」という言葉につまづいた。どうやら、かつてあった都市で、今は廃墟と化しているらしいのだ…

『イングランド・イングランド』ジュリアン・バーンズ

大金持ちが島を買って、金にあかせて島を好き勝手に作り変えてしまうという話が主題の一つになっている。ポオの『アルンハイムの地所』や『ランダーの別荘』に想を得たと思われる江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を思い出させる趣向である。しかし、中身はま…

『大いなる眠り』註解 第十三章(2)

《カーメンは声を上げて私の横を通り、ドアから駆けだした。坂を下る彼女の足音が急速に消えていった。車は見なかった。多分下の方に停めたのだろう。私は言いかけた。「一体全体どうなってるんだ――」 「放っておけよ」エディ・マーズはため息をついた。「こ…

『街への鍵』ルース・レンデル

便利になったものだ。机上のモニターにグーグル・マップでリージェンツ・パーク界隈を開いておいて、作中に現れる場所を打ち込んでいくと、人物たちの移動ルートが手に取るように分かる。特に主人公が住んでいるパーク・ヴィレッジ・ウェストなどの高級住宅…

『大いなる眠り』註解 第十三章(1)

《彼は灰色の男だった。全身灰色。よく磨かれた黒い靴と灰色のサテンのタイに留めたルーレットテーブル・レイアウトのそれを思わせる二つの緋色のダイヤモンドを除いて。シャツは灰色で、柔らかなフランネルのダブル・ブレストのスーツは美しい仕立てだった…

『神秘大通り』上・下 ジョン・アーヴィング

<上下巻併せての評です>誰にでも人生の転機となった日というものがある。フワン・ディエゴにとって、それは十四歳のとき、父親代わりのリベラが運転していたトラックに過って足を轢かれた日だ。後輪に挟まっていた鶏の羽をとろうとしたところへ、サイドブ…

『大いなる眠り』註解 第十二章(3)

《利口ぶるのはやめてくれ。お願いだ」私は彼女に強く言った。「ここは、ちょっと古臭いが率直さの出番だ。ブロディが彼を殺したのか?」 「殺したって、誰を?」 「くそっ」私は言った。 彼女は傷ついたようだった。彼女の顎が一インチほど下がった。「そう…

『大いなる眠り』註解 第十二章(2)

《娘と私は立ったまま互いを見かわした。彼女は可愛いらしい微笑みを保とうとしていたが、それには彼女の顔は疲れすぎていた。彼女の顔から表情が消えつつあった。砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく。彼女のぼうっと麻痺したように空…

『大いなる眠り』註解 第十二章(1)

《雨が上がって、ラヴァーン・テラスの山手の樹々は緑の葉が生き生きしていた。ひんやりした午後の陽射しを浴びて、切り立った丘陵と下へ続く階段が見えた。暗闇の中で三発の銃声を響かせたあと、殺人者が駆けおりた階段だ。崖下の通りに面して二軒の小さな…

『大いなる眠り』註解 第十一章(4)

《私はドアが閉まるにまかせ、そこに添えた手を見つめながら立っていた。顔が少し火照っていた。私は机に戻り、ウィスキーをしまい、二つのリキュールグラスを水ですすぎ、それもしまった。 電話にかぶせていた帽子をとり、地方検事局にかけ、バーニー・オー…

『大いなる眠り』註解 第十一章(3)

《「オーウェンは昨夜あなたの家の車で何をしていたんだろう?」 「誰にも分からないでしょうね。許可なしにしたことだから。私たちはいつも仕事のない夜には彼に自由に車を使わせていたの。でも、昨夜は彼は休みじゃなかった」彼女は口を歪めた。「もしかし…

『大いなる眠り』註解 第十一章(2)

《彼女は黙って煙草の煙を吐き、落ち着いた黒い瞳で私をじっと見つめた。「もしかすると、その思いつきも悪くはなかったかも」彼女は静かに言った。「彼は妹を愛していた。私たちの仲間うちではあまりないことよ」 「彼には逮捕歴があった」 彼女は肩をすく…

『大いなる眠り』註解 第十一章(1)

《彼女は茶色がかった斑入りのツイードを着て、男っぽいシャツの上にタイを絞め、職人の手になるウォーキング・シューズを履いていた。透き通るようなストッキングは前日同様だったが、脚の露出は多くなかった。黒い髪は帽子の下で輝いていた。五十ドルはす…

『大いなる眠り』註解 第十章(3)

《しばらくして私は言った。「重さに気をつけてくれよ。そいつは半トンまでしか試してないんだ。その代物、どこに運ぶんだ?」 「ブロディ。405号室だ」彼はうなった。「あんた管理人か?」 「そうだ。戦利品の山みたいだな」 彼は白目がちの薄青い眼で私…

『夜に生きる』デニス・ルヘイン

メキシコ湾に浮かぶタグ・ボートの上。セメントの桶に両足を浸けた男が、こう回想する。「いいことであれ悪いことであれ、自分の人生で起きた大事なことはほぼすべて、エマ・グールドと偶然出会った朝から動きはじめたのだ」と。シェルシェ・ラ・ファム(女…

『大いなる眠り』註解 第十章(2)

《私は店を出て、大通りを西に向かい、角を北に折れ、店の裏側を走る小路に出た。黒い小型トラックがガイガーの店の裏をふさいでいた。荷台の側板は金網で、字は書いてない。新品のオーバーオールを着た男が尾板の上に箱を持ち上げていた。私は大通りへ引き…

『木に登る王』スティーヴン・ミルハウザー

いつも同工異曲。似たような素材を相も変らぬ調理法で俎上に載せているのだ。飽きられても仕方がない。それなのに、新作が出るとついつい手に取ってしまう。それがまた期待を裏切らない出来映えになっているところが驚異だった。ところが、ここのところミル…

『大いなる眠り』註解 第十章(1)

《長身で黒い眼をした掛売りの宝石商は、入口の同じ位置に昨日の午後のように立っていた。中に入ろうとする私に同じように訳知り顔をしてみせた。店は昨日と同じだった。同じランプが角の小さな机の上に点り、同じ黒いスウェードに似たドレスを着た、同じア…

『オリーヴ・キタリッジの生活』エリザベス・ストラウト

作家デビューが遅く、作品数が限られている。これは第三作目の短篇集だが、すでに自分の世界というものを持っていることが分かる。そして、その世界には確固としたリアリティがある。合衆国最北東端メイン州にある海辺の小さな町クロズビーが主な舞台。小さ…

『大いなる眠り』註解 第九章(6)

《オールズは顎を私の方に向けて言った。「彼を知ってるのか?」 「ああ。スターンウッド家の運転手だ。昨日まさにあの車を磨いてるところを見かけた」 「せっつく気はないんだがな、マーロウ。教えてくれ。仕事は彼に何か関係があったのか?」 「いや、彼の…

『大いなる眠り』註解 第九章(5)

《眼鏡をかけて疲れた顔をした小男が黒い鞄を下げ、桟橋を降りてきた。彼は甲板のまずまず清潔な場所を探し当て、そこに鞄を置いた。それから帽子を脱ぎ、首の後ろをこすりながら海を眺めた。まるで何をするためにここに来たのかを知らないかのように。 オー…

『大いなる眠り』註解 第九章(4)

《「あそこから落ちたんですよ。かなりの衝撃だったにちがいない。雨はこの辺では早いうちにやんでます。午後九時頃でしょう。壊れた木の内側は乾いている。これは雨がやんだ後を示しています。水位のある時に落ちたので、ひどく壊れてはいません。潮が半分…

『大いなる眠り』註解 第九章(3)

《彼はドアに鍵をかけ、職員用駐車場に降りると、小さなブルーのセダンに乗り込んだ。我々はサイレンを鳴らして信号を無視し、サンセット・ブルバードを駆け抜けた。爽やかな朝だった。人生をシンプルで甘美なものに思わせるに足る活気が漂っていた。もし胸…

『騎士団長殺し』村上春樹

主人公は三十六歳の画家。今は復縁しているが、五年前に突然妻から離婚を切り出されたことがある。あなたとはもう暮らせない、と言われたのだ。家を出るという妻に、自分の方が出ていくと告げ、愛車のプジョー205に当座の荷物だけを積みこむと、そのまま…

『大いなる眠り』註解 第九章(2)

《ひげを剃り、服を着、軽い朝食をとり、一時間も経たないうちに、私は裁判所にいた。エレベーターで七階まで上がり、地方検事局員の使っている小さなオフィスの並びに沿って進んだ。オールズの部屋も同じくらい狭かったが彼の専用だった。机の上は吸取器と…

『大いなる眠り』註解 第九章(1)

《翌朝はからりと晴れて明るかった。目を覚ますと、口の中に路面電車運転士の手袋が詰まっていた。私はコーヒーを二杯飲み、二社の朝刊に目を通した。アーサー・グイン・ガイガー氏に関する記事はどちらにも見つからなかった。しわをとろうと湿ったスーツを…

『私の名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト

くせになりそうな作家だと思う。自室に独りでいる自分の傍らに来て、低い声でぼつぼつと語りかけられているような、よほど親密な仲なら構わないが、そうでもない場合にはちょっと距離を置いた方がいいのではないか、と思わせるような、内心に秘かに隠されて…

『大いなる眠り』註解 第八章(4)

《それは警官ではなかった。警官なら今頃まだここで、死体の場所を示す紐やチョーク、カメラ、指紋採取用粉末、安葉巻などを手に動き回っている最中だ。人っ子一人いないではないか。殺人犯でもない。彼の逃げ足は速かった。彼は娘を見たにちがいないが、自…

『大いなる眠り』註解 第八章(3)

《急いで歩いたので半時間をいくらか過ぎたくらいでガイガーの家に到着した。そこには誰もいなかった。隣の家の前に停めた私の車以外、通りに一台の車もなかった。車はまるで迷子の犬のようにしょんぼりしていた。私はライ・ウィスキーの瓶を引っ張り出して…

『大いなる眠り』註解 第八章(2)

《雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった。樹々から小止みなく滴り落ちるしずくの下を抜け、薄気味悪いほど広大な敷地に建ついくつかの豪壮な邸宅の窓に灯りが差す前を通り過ぎた。軒やら破風やら窓灯りやらのぼんやりとした…