marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

2017-01-01から1年間の記事一覧

『運命の日』上・下 デニス・ルヘイン

(上下巻併せての評) 1910年代末のアメリカは揺れていた。1917年に起きたロシア革命を受けて、東海岸では社会主義者、共産主義者、アナーキストたちが盛んに活動し、テロ活動も頻繁に起きていた。同じころ、第一次世界大戦の帰還兵が持ち込んだスペ…

『大いなる眠り』註解 第八章(1)

《スターンウッド邸の通用口には鉛枠のついた細い窓があり、その向こうに薄暗い灯りが見えた。パッカードを車寄せの屋根の下に停め、ポケットの中の物をすべてシートの上に出した。娘は隅でいびきをかいていた。帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり、両手は…

『大いなる眠り』註解 第七章(8)

《私は部屋の裏にある廊下に入って家の中を調べた。右側に浴室が、背面に鍵のかかったドアと台所があった。台所の窓はこじ開けられていた。網戸はどこかに消えており、留め金が引き抜かれた痕が見えていた。裏口のドアは鍵が掛かっていなかった。それは放っ…

『あなたはひとりぼっちじゃない』アダム・ヘイズリット

原題は<You Are Not a Stranger Here>。「異邦人」や「よそ者」を意味するストレンジャーよりも、「ここで」を意味する<here>が気になる。その「ここ」とはどこだろう。それは、この短篇集の中なのではないだろうか。ここには、現代アメリカやイギリスだ…

『大いなる眠り』註解 第七章(7)

《我々は少し歩いた。時には彼女のイヤリングが私の胸にぶつかったり、時にはアダージョを踊るダンサーたちのように息が合った開脚を見せたりしながら。我々はガイガーの死体のところまで行って戻ってきた。私は彼女に彼を見せた。彼女は彼が格好つけてると…

『ときどき旅に出るカフェ』近藤史恵

カフェ・ルーズは毎月一日から八日が休み。営業は九日から月末まで。店主はその間旅に出る。そして買ってきたものや見つけたおいしいものをカフェで出す。オーストリアの炭酸飲料だとかハンガリーのロシア風チーズケーキとかだ。もちろん毎月海外という訳で…

『大いなる眠り』註解 第七章(6)

《私は雨が屋根と北側の窓を打つ音を聞いていた。その外に何の音もなかった。車の音も、サイレンもなく、ただ雨音のみ。私は長椅子のところへ行き、トレンチコートを脱ぎ、娘の服をかき集めた。淡緑色のざっくりとしたウールのドレスがあった。半袖で上から…

『ザ・ドロップ』デニス・ルヘイン

はじまりは犬だった。映画『ティファニーで朝食を』のように、ごみ箱から助け出されるのが猫だったらもっとよかったのにと思ったけど、頭のイカレた男に殴られても死ななかったのは、ピットブルだったからで、猫だったら死んでいただろう。そう考えると、犬…

『大いなる眠り』第七章(5)

《閃光電球が私の見た稲光の正体だった。狂ったような叫び声は麻薬中毒の裸娘がそれに反応したものだ。三発の銃声は事の成り行きに新しい捻りを加えようとして誰かが思いついたのだろう。裏階段を降り、乱暴に車に乗り込み、大急ぎで走り去った男の思いつき…

『中動態の世界』國分功一郎

この本は、ハイデッガーやアレントはもとより、デリダにラカン、フーコーにドゥルーズ、と有名どころを次々と繰り出しては、能動と受動という二つの対立以前に在った「中動態」という態の存在をあぶりだすことを目的として書かれている。聞きなれない名前だ…

『大いなる眠り』第七章(4)

《私は彼女を見るのをやめてガイガーを見た。彼は中国緞通の縁の向こうに、仰向けに倒れていた。トーテムポールのような物の前だ。鷲のような横顔の、大きな丸い眼がカメラのレンズになっていた。レンズは椅子の上の裸の娘に向けられていた。トーテムポール…

『大いなる眠り』第七章(3)

《彼女は美しい体をしていた。小さくしなやかで、硬く引き締まり、丸みをおびていた。肌はランプの光を浴び、かすかに真珠色の光沢を浮かべていた。脚はミセス・リーガンのようなけばけばしい優美さにはあと一歩及ばないが、とても素敵だった。私は後ろめた…

『大いなる眠り』第七章(2)

《部屋の片端の低い壇のような物の上に、高い背凭れのチーク材の椅子があり、そこにミス・カーメン・スタンウッドが、房飾りのついたオレンジ色のショールを敷いて座っていた。やけに真っ直ぐに座り、両手は椅子の肘掛けに置き、両膝を閉じていた。背筋をピ…

『五月の雪』クセニヤ・メルニク

作者の生まれたマガダンという町。ロシア北東部といっても、広大なロシア連邦のことだ。どこだろうと思って地図を開くと、意外に日本に近い。オホーツク海に面した港湾都市。カムチャッカやアラスカという地名がよく出てくるはずだ。マガダンにはソ連時代に…

『大いなる眠り』第七章(1)

《横長の部屋だった。家の間口全部を使っている。低い天井は梁を見せ、茶色の漆喰壁は、鏤められた中国の刺繡や木目を浮かせた額に入れた中国と日本の版画で飾り立てられていた。低い書棚が並び、その中でならホリネズミが鼻も出さずに一週間過ごせそうなく…

『人みな眠りて』カート・ヴォネガット

2014年に出た『はい、チーズ』の訳者あとがきに、もう一冊未発表作品集があると紹介されていて、首を長くして待っていたのがやっと出た。カート・ヴォネガットの短篇集である。『スローターハウス5』で有名になる前、1950年代にスリック雑誌(光沢…

『大いなる眠り』第六章(7)

《私は橋の横についている柵を跨ぎ、フレンチ・ウィンドウの方に身を乗り出した。厚手のカーテンが引かれていたが網戸はついていない。カーテンの合わせ目から中を覗いてみた。壁のランプの明かりと書棚の片隅が見えた。私は橋に戻り、垣根のところまで行く…

『大いなる眠り』第六章(6)

《ドアの前には細い溝があり、家の壁と崖の縁の間に歩道橋のようなものが架かっていた。ポーチも堅い地面もなく、背後に回る道もなかった。裏口は下の小路めいた通りに通じる木製の階段を上ったところにあった。裏口があることは知っていた。階段を踏んで降…

『黒い犬』イアン・マキューアン

互いに愛し合っているのに結婚してすぐに別居してしまった妻の両親。小さい頃に両親を亡くし、親というものに飢餓感を覚えていたジェレミーは、両親の不仲に苦しんできた妻の不興を買いながらも、フランスとイギリスに別れて暮らす二人を事あるごとに訪ね、…

『大いなる眠り』第六章(5)

《私はドアポケットから懐中電灯を取り出すと、坂を下って車を見に行った。パッカードのコンバーティブルで、色はえび茶か、こげ茶色。左側の窓が開いていた。免許証ホルダーを探って、明かりをつけた。登録証は、ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・ク…

『クライム・マシン』ジャック・リッチー

あと一冊になってしまったので、すぐには読まずに置いておこうと思っていた未読のジャック・リッチー本。病院で待たされる間何を読もうかと考えて、手に取ってしまったのがまずかった。どれだけ周りが騒がしくても、点けっぱなしのテレビから音が流れて来て…

『大いなる眠り』第六章(4)

《ガイガーは車のライトを点けていた。私は消していた。曲がり角のところで速度を上げて追い越すとき、家の番号を頭に入れた。ブロックの終点まで行って引き返した。彼はすでに車を停めていた。下向きにされた車のライトが小さな家の車庫を照らしていた。四…

『大いなる眠り』第六章(3)

《クーペは大通りを西へ向かった。私は急な左折を強いられて、多くの車を敵に回した。一人の運転手など雨の中に頭を突き出し、私を怒鳴りつけた。やっと追いついたときには、クーペから二ブロックばかり遅れていた。私はガイガーが家に帰ると信じていた。二…

『10ドルだって大金だ』ジャック・リッチー

洒落た会話、シャープな文体、ひねりを効かせた展開、あっと驚くようなオチ、というのがジャック・リッチーの持ち味。2016年に早川書房から出た『ジャック・リッチーのびっくりパレード』を初めて読んで以来、すっかりはまってしまった。2013年には同じポケ…

『大いなる眠り』第六章(2)

《また一時間が過ぎた。暗くなり、雨にけぶった店の灯が街路の暗がりに吸い込まれていった。路面電車の鐘が不機嫌な音を響かせた。五時十五分頃、革の胴着を着た長身の若者が、傘を手にガイガーの店から出てきて、クリーム色のクーペを取りに行った。彼が店…

『サーベル警視庁』今野敏

明治三十八年というから、時代は日露戦争の真っ最中、警視庁第一部第一課巡査の岡崎を狂言回しに連続殺人事件を追う警察小説である。今野敏といえば『隠蔽捜査』などの警察小説が専門だが、時代を明治時代に取るのはめずらしい。新シリーズを目したものか、…

『大いなる眠り』第六章(1)

《雨は排水溝を溢れ、歩道の外れでは膝の高さまではねていた。雨合羽を銃身のように黒光りさせた長身の警官たちが、笑い声をあげる少女たちを抱いて水たまりを渡らせるのを楽しんでいた。雨は激しく車の幌をたたき、バーバンク革の屋根が漏れはじめた。車の…

『その雪と血を』ジョー・ネスボ

あと数日後にクリスマスが迫るオスロ。王のローブを思わせる真っ白な雪に点々と残る血痕。男は、今一人の男を殺したところだ。死んだのは《漁師》と呼ばれる男の部下だ。電話で仕事が済んだことを告げると、ボスに次の仕事を依頼された。今のところ信用され…

『古書の来歴』ジェラルディン・ブルックス

謎につつまれた一冊の本がある。実在の本で、発見された地の名を取ってサラエボ・ハガダーと呼ばれている。ハガダーというのは、ユダヤ教信者が過越しの祭りで読む、説話や詩篇を綴った本のことだ。謎というのは、教会で使用するものではなく、家族の間で用…

『大いなる眠り』第五章(2)

《私は財布を開き、裏蓋に留めたバッジがよく見えるように女の机の上に置いた。彼女はそれを見て、眼鏡をはずすと椅子の背にもたれた。私は財布を元に戻した。彼女は知的なユダヤ人らしい洗練された顔をしていた。私をじっと見つめ、何も言わなかった。 私は…